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198.心を塞ぐもの
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奇妙な沈黙が続く。
ノアは精神的な衝撃を受けて、何を言えばいいか分からない状態だった。母親の方も、少し後悔した表情で、口を閉ざしている。
膠着した状況を動かしたのは、ロウだ。紅茶を淹れ直し、飲むようにさりげなく促す。
手に取ったティーカップはほのかに温かくて、ノアの心を緩やかに癒してくれる気がした。
「……えぇっと、その――」
とりあえず口を開いてはみたものの、何を言えばいいか考えはまとまっていなかった。
その混乱具合を察していた母親が、ノアの手に手を重ね、穏やかに微笑み掛ける。
「突然の話で、ノアが戸惑っているのは分かっているわ。それが当然だと思うし」
ノアの心に寄り添うように励ましながら、母親は言葉を続ける。
「本当は、こんなに急に話すようなことでもないもの。――あんなことがなければ……」
「お母様……?」
優しく語り掛けていた声が、不意に翳ったように聞こえて、ノアは視線を上げて顔を覗き込む。
母親の目はノアを捉えることなく、庭へと向けられていた。茫洋とした眼差しであることを考えると、庭というより自身の中の記憶に意識を奪われているのかもしれない。
「……奥様」
ロウが控えめに呼びかけると、ハッとした表情で、母親がノアを見つめる。その目には悲しみと慈しみが滲み、ノアは胸がきゅっと掴まれた気がした。
母親が何を思ってそんな目をしているのか、ノアには心当たりがある。そのことについて、これまで両親ときちんと話をしたことがなかったけれど――。
「お母様。……僕は、大丈夫です」
「え……」
重ねられていた手をノアの方から握り返し、微笑み掛ける。母親は目を丸くして固まった。
「たくさん、ご心配をおかけしました。ずっと、僕を守ってくださいました。だから、僕はもう、過去の出来事に苦しむことはないのです」
明言することはない。でも、ノアと母親が考えていることは同じだろう。
かつて、カールトン国の王女がノアにもたらした災厄。
そのことに一番傷ついたのはノアだけれど、ノアは忘却という手段で自分の心を守り、逃げることができた。
では、その姿を近くで見守り続けた母親は、どういう気持ちだっただろうか。
ノアは忘れてしまっているから、言葉にして励ますわけにはいかない。侯爵夫人として、感情を荒げて王女を糾弾することもできない。
王家から、王女への罰は幽閉であると聞かされた時、母親は心の底から納得できただろうか。
――そんなはずはない。ノアをこれほど慈しみ愛してくれているのだから、その程度の罰しか与えられないのかと、嘆き激怒していてもおかしくなかった。
ずっと、母親として、貴族の妻として、冷静に穏やかに振る舞っているけれど、心の奥では何もできない自分を憎み、ノアを守るために苦心してきたはず。
「――お母様が僕の婚約の話をしてきた時、僕は正直途方に暮れました」
それほど時間は経っていないのに、その頃の自分のことを思い出すと、ノアはなんだか懐かしくなってしまう。
静かに語るノアを、母親もまた、静かな眼差しで見つめた。その全てを受け止めるような表情に背中を押され、ノアは自分の思いを語ることにする。
おそらく、こんな話をするのは最初で最後だ。ノアにとっても、母親にとっても、苦い記憶が想起されてしまうから。
「……僕は、人と話すのが苦手でしたし……それは今でもあまり変わりませんけど」
「いえ、ノアはとても成長したわ」
「ありがとうございます」
ノアは微笑み、言葉を続ける。
「……人と話すのが苦手な僕が、婚約者なんて作れるのかと、不安でいっぱいで。でも、貴族として生まれたからには、務めを果たす必要があることは、きちんと分かっていたんです。どうして、女性と接することを忌避してしまうのかは、分かっていませんでしたけど」
母親が目を伏せる。固く引き結んだ唇は、明言されるのを恐れているようだった。
ノアは母親の手を軽く握り、あやすように揺らす。
「今はもう、分かっています。お母様が、せめて男性の婚約者にするよう、勧めたわけも。ずっと、僕を守ってくださっていたのですよね。僕が過去を受け入れられるほど強くなるまで、待っていてくださった。婚約者を選定する期限ぎりぎりまで、お母様は僕を自由にさせてくださっていた」
「……そんなに、言われるほどのことはしていないわ」
感謝の思いを込めた言葉に、母親が自嘲気味に口元を歪ませる。
ノアは、なぜそんな顔をするのだろうかと疑問に思って、首を傾げた。
「――私は、見守ることしかできなかったのよ。あの女を引っ叩くことも、事件を軽く見做す王を蹴飛ばすことも……何もできなかった。ノアが忘れたことに気づいて、ホッとして口を噤んだの。ノアがこれ以上傷つかないならばそれでいいと、目を逸らしたのよ」
なんとも過激な言葉が出てきて、ノアは目を丸くした。母親ならばそう考えても不思議ではないけれど、実際に行動することがなくて良かったと、心の底から安堵する。
もし母親が王女を叩き、王を蹴飛ばしていたなら、母親も幽閉されることになっただろう。
「それで良かったんです。僕が記憶をなくして逃げたように、お母様も逃げてくれたから、僕は過去を思い出すことなく、穏やかに過ごせたんです」
「……そうかしら。あなたが、そう言ってくれるなら、少し救われる気がするわね」
ノアの言葉に、母親の表情が僅かに緩んだ。合わさった視線に、互いを思いやる気持ちが滲む。
双方ともが、ようやく過去の苦い思いと決別できた気がして、ノアは心から微笑んで頷いた。
ノアは精神的な衝撃を受けて、何を言えばいいか分からない状態だった。母親の方も、少し後悔した表情で、口を閉ざしている。
膠着した状況を動かしたのは、ロウだ。紅茶を淹れ直し、飲むようにさりげなく促す。
手に取ったティーカップはほのかに温かくて、ノアの心を緩やかに癒してくれる気がした。
「……えぇっと、その――」
とりあえず口を開いてはみたものの、何を言えばいいか考えはまとまっていなかった。
その混乱具合を察していた母親が、ノアの手に手を重ね、穏やかに微笑み掛ける。
「突然の話で、ノアが戸惑っているのは分かっているわ。それが当然だと思うし」
ノアの心に寄り添うように励ましながら、母親は言葉を続ける。
「本当は、こんなに急に話すようなことでもないもの。――あんなことがなければ……」
「お母様……?」
優しく語り掛けていた声が、不意に翳ったように聞こえて、ノアは視線を上げて顔を覗き込む。
母親の目はノアを捉えることなく、庭へと向けられていた。茫洋とした眼差しであることを考えると、庭というより自身の中の記憶に意識を奪われているのかもしれない。
「……奥様」
ロウが控えめに呼びかけると、ハッとした表情で、母親がノアを見つめる。その目には悲しみと慈しみが滲み、ノアは胸がきゅっと掴まれた気がした。
母親が何を思ってそんな目をしているのか、ノアには心当たりがある。そのことについて、これまで両親ときちんと話をしたことがなかったけれど――。
「お母様。……僕は、大丈夫です」
「え……」
重ねられていた手をノアの方から握り返し、微笑み掛ける。母親は目を丸くして固まった。
「たくさん、ご心配をおかけしました。ずっと、僕を守ってくださいました。だから、僕はもう、過去の出来事に苦しむことはないのです」
明言することはない。でも、ノアと母親が考えていることは同じだろう。
かつて、カールトン国の王女がノアにもたらした災厄。
そのことに一番傷ついたのはノアだけれど、ノアは忘却という手段で自分の心を守り、逃げることができた。
では、その姿を近くで見守り続けた母親は、どういう気持ちだっただろうか。
ノアは忘れてしまっているから、言葉にして励ますわけにはいかない。侯爵夫人として、感情を荒げて王女を糾弾することもできない。
王家から、王女への罰は幽閉であると聞かされた時、母親は心の底から納得できただろうか。
――そんなはずはない。ノアをこれほど慈しみ愛してくれているのだから、その程度の罰しか与えられないのかと、嘆き激怒していてもおかしくなかった。
ずっと、母親として、貴族の妻として、冷静に穏やかに振る舞っているけれど、心の奥では何もできない自分を憎み、ノアを守るために苦心してきたはず。
「――お母様が僕の婚約の話をしてきた時、僕は正直途方に暮れました」
それほど時間は経っていないのに、その頃の自分のことを思い出すと、ノアはなんだか懐かしくなってしまう。
静かに語るノアを、母親もまた、静かな眼差しで見つめた。その全てを受け止めるような表情に背中を押され、ノアは自分の思いを語ることにする。
おそらく、こんな話をするのは最初で最後だ。ノアにとっても、母親にとっても、苦い記憶が想起されてしまうから。
「……僕は、人と話すのが苦手でしたし……それは今でもあまり変わりませんけど」
「いえ、ノアはとても成長したわ」
「ありがとうございます」
ノアは微笑み、言葉を続ける。
「……人と話すのが苦手な僕が、婚約者なんて作れるのかと、不安でいっぱいで。でも、貴族として生まれたからには、務めを果たす必要があることは、きちんと分かっていたんです。どうして、女性と接することを忌避してしまうのかは、分かっていませんでしたけど」
母親が目を伏せる。固く引き結んだ唇は、明言されるのを恐れているようだった。
ノアは母親の手を軽く握り、あやすように揺らす。
「今はもう、分かっています。お母様が、せめて男性の婚約者にするよう、勧めたわけも。ずっと、僕を守ってくださっていたのですよね。僕が過去を受け入れられるほど強くなるまで、待っていてくださった。婚約者を選定する期限ぎりぎりまで、お母様は僕を自由にさせてくださっていた」
「……そんなに、言われるほどのことはしていないわ」
感謝の思いを込めた言葉に、母親が自嘲気味に口元を歪ませる。
ノアは、なぜそんな顔をするのだろうかと疑問に思って、首を傾げた。
「――私は、見守ることしかできなかったのよ。あの女を引っ叩くことも、事件を軽く見做す王を蹴飛ばすことも……何もできなかった。ノアが忘れたことに気づいて、ホッとして口を噤んだの。ノアがこれ以上傷つかないならばそれでいいと、目を逸らしたのよ」
なんとも過激な言葉が出てきて、ノアは目を丸くした。母親ならばそう考えても不思議ではないけれど、実際に行動することがなくて良かったと、心の底から安堵する。
もし母親が王女を叩き、王を蹴飛ばしていたなら、母親も幽閉されることになっただろう。
「それで良かったんです。僕が記憶をなくして逃げたように、お母様も逃げてくれたから、僕は過去を思い出すことなく、穏やかに過ごせたんです」
「……そうかしら。あなたが、そう言ってくれるなら、少し救われる気がするわね」
ノアの言葉に、母親の表情が僅かに緩んだ。合わさった視線に、互いを思いやる気持ちが滲む。
双方ともが、ようやく過去の苦い思いと決別できた気がして、ノアは心から微笑んで頷いた。
84
◇長編◇
本編完結
『貧乏子爵令息のオメガは王弟殿下に溺愛されているようです』
本編・続編完結
『雪豹くんは魔王さまに溺愛される』書籍化☆
完結『天翔ける獣の願いごと』
◇短編◇
本編完結『悪役令息になる前に自由に生きることにしました』
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