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196.ノアの悩み
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ランドロフ侯爵邸の中庭に面したサンルームで、ノアは温かな日差しを受けながら、ぼんやりとティーカップの中の紅茶に視線を落としていた。
学園が休みである本日、ノアは朝から領地運営の報告書に目を通し、忙しくしていたのだけれど、珍しく母親に午後のお茶に誘われたのだ。
誘った本人は、まだ来ていない。だから、ノアはぼんやりと物思いに耽っているわけである。
(お母様は、いったいどういう用なのだろう……)
誘われた時から、ノアの頭に浮かぶ疑問。少し緊張したような、あるいは気まずそうな表情の母親の姿は、ノアに僅かばかりの不安を齎していた。
「お茶のお代わりはいかがですか?」
「……あぁ……いや、お母様がいらっしゃってからでいいよ」
いつの間にか空になっていたティーカップをテーブルに戻す。傍らに立つロウを見上げると、軽く首を傾げられた。
「――ロウは、お母様の用件を知っている?」
尋ねた途端、ロウの表情が固まった。暫くして、ノアから目を逸らし、僅かに頬を染めて気まずそうにする。
お茶に誘ってきた母親と似た反応だ。明らかに用件を知っている。
ノアはとりあえずジッとロウを見つめて、返答を待った。性格上、相手が語りたがっていないことを、ノアの方から促すことはない。
ただ、ノアに見つめられるという行為そのものが、他者にとっては非常に心を落ち着かせなくするもののようで、ロウは目に見えて動揺していた。
「……わ、私の口からは、とても――」
絞り出すような声で言われて、ノアは首を傾げた。ロウの精一杯の返答のようだけれど、やはり話が見えない。
「何か悪いお話かな?」
「……いえ……まぁ、悪くはないのではないかと……。私にとっては、とてつもなく……気に食わな、いや、できる限り避けた、いや……仕方ない、ことなのですが……」
途中まで言いかけてはやめるロウが何を考えているかはよく分からないけれど、非常に複雑な気分であるのは、その表情や口調からよく分かった。
しどろもどろな様子のロウに、ノアは思わず苦笑をもらす。今日は珍しいものをよく見る日だと思った。
「悪いお話ではないのなら、いいけれど」
とりあえず追及をやめて庭に視線を転じるノアを、ロウがなんとも言えない表情で見下ろす。
言葉はなくとも、ロウが何か言いたげであるのは分かっていたけれど、長い付き合いのノアであっても、表情だけで思いを読み取るのは無理である。
(お母様のお話は、すぐに分かるだろうからいいとして……後は、サミュエル様か……)
ノアは膠着した状況から意識を逸らし、昨日のサミュエルの様子を思い浮かべた。
最近はサミュエルもノア同様のんびりと過ごしているはずである。相変わらず、ルーカスの補佐として忙しくしているようだけれど、サミュエルにとっては片手間でこなすような仕事であるのは間違いない。
だからなのか、なんとなくサミュエルが鬱々としているように見えて、ノアはとても気になっていた。
サミュエルが見かけの穏やかさとは違い、非常に活動的で、ある種の攻撃性を持っていることを、ノアはこれまでの付き合いの中で感じ取っている。
それは、サミュエルの才能が飛びぬけて優秀で、周囲の人と者たちとの間で感覚的な齟齬が生じるからなのだろうと思う。齟齬は鬱憤を生み、それを解消するために、サミュエルは精力的な活動をするのだ。
とはいえ、サミュエルは誰彼となく喧嘩を売るような愚かしさなんて持っていない。サミュエルが攻撃の対象にするのは、自身あるいはノアにとって不利益のある行動をする者のみ。
これまでは、きっと、鬱憤を解消する相手はいくらでもいた。ノアは、苦笑した父親から「最近は随分と王城の風通しが良くなったようだ。ノアの婚約者はとんでもない人だよ」と言われたことがある。ノアが知らないところで、サミュエルは才能を存分に発揮していたようだ。
それ自体は、サミュエルが楽しいならば喜ばしいことだと、被害からは目を背けて言えるけれど――。
(――サミュエル様は今とてもお暇なんだろうな。そして、鬱屈していらっしゃる……)
ノアに対して少々性急な振る舞いを見せるのは、そのせいだろうとなんとなく理解している。サミュエルの鬱憤をノアが上手く受け止めるか、流すかができれば、サミュエルも存分にノアに感情を露わにできるようになるのだろう。
(そう……サミュエル様は、まだ、僕に全てをさらけ出してはいない……)
ノアは心が僅かに翳るのを感じた。寂しいのか、悲しいのか、あるいは不満なのか。どれともつかない感情を持て余し、でも仕方ないことだと呑み込む。
サミュエルがノアに時折偽りを見せるのは、ノアを守るためである。穏やかさの奥にあるひどく重い感情の籠った眼差しを、ノアはしっかりと認識していた。それから目を逸らしてしまう自分がいることを、自覚している。
「……僕にはまだ、覚悟が足りない……」
ぽつりと呟く。ロウの視線を感じても、ノアは目を伏せて答えなかった。
どうすれば、覚悟ができるのか。今はまだ分からない。サミュエルに問い掛けるようなことでもない。ノアが自分の心と向き合って、見つけ出さなければならないのだ。
「――あと、二か月か……」
ノアたちの学園卒業、そして結婚式までのカウントダウンが、もう始まっていた。
学園が休みである本日、ノアは朝から領地運営の報告書に目を通し、忙しくしていたのだけれど、珍しく母親に午後のお茶に誘われたのだ。
誘った本人は、まだ来ていない。だから、ノアはぼんやりと物思いに耽っているわけである。
(お母様は、いったいどういう用なのだろう……)
誘われた時から、ノアの頭に浮かぶ疑問。少し緊張したような、あるいは気まずそうな表情の母親の姿は、ノアに僅かばかりの不安を齎していた。
「お茶のお代わりはいかがですか?」
「……あぁ……いや、お母様がいらっしゃってからでいいよ」
いつの間にか空になっていたティーカップをテーブルに戻す。傍らに立つロウを見上げると、軽く首を傾げられた。
「――ロウは、お母様の用件を知っている?」
尋ねた途端、ロウの表情が固まった。暫くして、ノアから目を逸らし、僅かに頬を染めて気まずそうにする。
お茶に誘ってきた母親と似た反応だ。明らかに用件を知っている。
ノアはとりあえずジッとロウを見つめて、返答を待った。性格上、相手が語りたがっていないことを、ノアの方から促すことはない。
ただ、ノアに見つめられるという行為そのものが、他者にとっては非常に心を落ち着かせなくするもののようで、ロウは目に見えて動揺していた。
「……わ、私の口からは、とても――」
絞り出すような声で言われて、ノアは首を傾げた。ロウの精一杯の返答のようだけれど、やはり話が見えない。
「何か悪いお話かな?」
「……いえ……まぁ、悪くはないのではないかと……。私にとっては、とてつもなく……気に食わな、いや、できる限り避けた、いや……仕方ない、ことなのですが……」
途中まで言いかけてはやめるロウが何を考えているかはよく分からないけれど、非常に複雑な気分であるのは、その表情や口調からよく分かった。
しどろもどろな様子のロウに、ノアは思わず苦笑をもらす。今日は珍しいものをよく見る日だと思った。
「悪いお話ではないのなら、いいけれど」
とりあえず追及をやめて庭に視線を転じるノアを、ロウがなんとも言えない表情で見下ろす。
言葉はなくとも、ロウが何か言いたげであるのは分かっていたけれど、長い付き合いのノアであっても、表情だけで思いを読み取るのは無理である。
(お母様のお話は、すぐに分かるだろうからいいとして……後は、サミュエル様か……)
ノアは膠着した状況から意識を逸らし、昨日のサミュエルの様子を思い浮かべた。
最近はサミュエルもノア同様のんびりと過ごしているはずである。相変わらず、ルーカスの補佐として忙しくしているようだけれど、サミュエルにとっては片手間でこなすような仕事であるのは間違いない。
だからなのか、なんとなくサミュエルが鬱々としているように見えて、ノアはとても気になっていた。
サミュエルが見かけの穏やかさとは違い、非常に活動的で、ある種の攻撃性を持っていることを、ノアはこれまでの付き合いの中で感じ取っている。
それは、サミュエルの才能が飛びぬけて優秀で、周囲の人と者たちとの間で感覚的な齟齬が生じるからなのだろうと思う。齟齬は鬱憤を生み、それを解消するために、サミュエルは精力的な活動をするのだ。
とはいえ、サミュエルは誰彼となく喧嘩を売るような愚かしさなんて持っていない。サミュエルが攻撃の対象にするのは、自身あるいはノアにとって不利益のある行動をする者のみ。
これまでは、きっと、鬱憤を解消する相手はいくらでもいた。ノアは、苦笑した父親から「最近は随分と王城の風通しが良くなったようだ。ノアの婚約者はとんでもない人だよ」と言われたことがある。ノアが知らないところで、サミュエルは才能を存分に発揮していたようだ。
それ自体は、サミュエルが楽しいならば喜ばしいことだと、被害からは目を背けて言えるけれど――。
(――サミュエル様は今とてもお暇なんだろうな。そして、鬱屈していらっしゃる……)
ノアに対して少々性急な振る舞いを見せるのは、そのせいだろうとなんとなく理解している。サミュエルの鬱憤をノアが上手く受け止めるか、流すかができれば、サミュエルも存分にノアに感情を露わにできるようになるのだろう。
(そう……サミュエル様は、まだ、僕に全てをさらけ出してはいない……)
ノアは心が僅かに翳るのを感じた。寂しいのか、悲しいのか、あるいは不満なのか。どれともつかない感情を持て余し、でも仕方ないことだと呑み込む。
サミュエルがノアに時折偽りを見せるのは、ノアを守るためである。穏やかさの奥にあるひどく重い感情の籠った眼差しを、ノアはしっかりと認識していた。それから目を逸らしてしまう自分がいることを、自覚している。
「……僕にはまだ、覚悟が足りない……」
ぽつりと呟く。ロウの視線を感じても、ノアは目を伏せて答えなかった。
どうすれば、覚悟ができるのか。今はまだ分からない。サミュエルに問い掛けるようなことでもない。ノアが自分の心と向き合って、見つけ出さなければならないのだ。
「――あと、二か月か……」
ノアたちの学園卒業、そして結婚式までのカウントダウンが、もう始まっていた。
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