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194.サミュエルの嘆息

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 グレイ公爵邸。
 夜も更けた頃になって屋敷に帰ってきたサミュエルを、使用人たちは静かに迎えた。

「はぁ……」

 私室に入ったサミュエルは、普段より少し乱暴な仕草で胸元を緩め、ソファに身を預ける。ザクがなんとも言えない表情をしながらサミュエルの上着を片づけているのを、ぼんやりと眺めた。

「……執務の補佐でお疲れというわけではないですよね?」
「君がそう思ったなら、私の侍従失格だね」
「思っていませんけど。……ただ、サミュエル様がお疲れの理由はいまいち理解できません」

 誰よりも主人を理解し、その心に寄り添えることが、侍従としての優秀さを示す。
 そんな常識を知りながら、ザクはどうでもよさそうに「理解できない」と正直に告げた。そんなところが、とてもザクらしい。

 サミュエルはドライな関係性のザクを眺めながらため息をついた。視線を向けられているザクは、居心地が悪そうで、遠慮なく顔を顰めている。

「そもそも、疲れているわけじゃない……はずだ」
「はず? 珍しく曖昧なお言葉ですね」

 言葉通り意外そうに見つめ返されて、サミュエルは視線を逸らした。

 正直、サミュエル自身が自分を理解できなくて、持て余している。こんなに思い通りにいかないことは、そうそうない。だから、戸惑いが声に滲んでしまったのだ。

「――ライアン様とのご関係をつつがなく清算されて、カールトン国の王女への長い間凝らせていた恨みも晴らし、もっと明るい表情をされてもいいはずですのに。いや、一時はとても喜んでいましたね」

 ザクが語る言葉を聞きながら、サミュエルは窓の外の闇をぼんやりと眺める。

 長い間、ノアの苦しみの元になった王女への制裁を企て、ついに成し遂げた。そして、もう少しすれば、正式にノアと婚姻を結べる。大変喜ばしいことである。

 そこかしこで、拙い謀を企てている者はいるようだけれど、サミュエルは現在のところ静観するのみ。あまりに拙く愚かなので、自身が手を下す必要性すら感じていない。

 おそらく、サミュエルがこれまでにしてきたことにより、大部分が勝手に淘汰されていくことだろう。そこを潜り抜ける者がいようと、ノアに近づく前に排除することは容易い。

「――ああ、つまり、サミュエル様は現在、大変お暇でいらっしゃるのですね」

 納得したように呟くザクを、サミュエルは静かに見つめた。
 ザクがどうしてそのような結論に至ったのかは分からないけれど、確かにザクの言う通りだと、サミュエル自身腑に落ちた気分だ。

 普段侍従らしからぬ振る舞いでも、ザクも一流の侍従だということか。よくサミュエルのことを理解しているようだ。

「暇……暇ね……。確かにそうだね。つまらないことばかりあって、時間をとられるだけだから」

 ルーカスの補佐をすることに、常日頃文句を言うけれど、実のところサミュエルはさほど不満を持っていない。ノアとの時間を邪魔されるのが許しがたいだけで。

 サミュエルは常に穏やかな笑みを浮かべているから、多くの者は見た目通りに平穏を好むと思っているようだ。でも、サミュエルは刺激的なことを好むタイプだ。頭を働かせるのも、嫌ではない。

 国政に関わるというのは、サミュエルにとって刺激的で楽しいことだ。馬鹿なことを仕出かそうとする老人たちを密かに蹴落として回るのも、それなりにやりがいがある。

 ルーカスのためにと始めた、国政の膿を出し切る作業も既に大詰めで、風通しは良くなったけれど、その分サミュエルの楽しみが減ってしまった。

 カールトン国への報復もほとんど終わったので、正直次の標的さえ見つからない。みんな、片手間で消えてしまうし、やりすぎるとルーカスに怒られる。

 正直、ルーカスの怒りなんて、道端に落ちている石ころくらいどうでもいいことだ。でも、ルーカスは何かあれば容赦なくノアに告げる。ノアが悲しんだり、苦しんだりすることもお構いなく。

 その辺がルーカスの嫌な所だった。サミュエルを制御するためには、ノアを使うのが一番効果的だと、ルーカスは冷静に判断して、必要なら躊躇いなく行使する。

 マーティンやカールトン国の王女の話もそうだ。サミュエルはノアに伝えるつもりはなかった。でも、ルーカスはノアを呼び出し、告げてしまった。

 これ以上の報復は許さないと、無言で伝えてきたわけだ。
 そのせいで、仕掛けていたことの半分を、放棄することになった。さっさと実行しておけば良かったなんて、後から悔やんでも遅い。

「――あぁ……つまらない……。ルーカス殿下が原因なのだから、殿下で少しくらい遊んでもいいだろうか」

 ルーカスが聞いたら、白目を向いて倒れてしまいそうだなと、それなりに王の器として認めている年下の青年の姿を思い浮かべて軽く笑う。
 その笑みは、すぐに消えることになったけれど。

「ノア様に叱られますよ」
「……本当に、みんな嫌なくらい、私のノアをいいように使おうとするよね」

 僅かな憤懣を込めてサミュエルが呟くも、ザクはシラッとした表情でお茶を淹れていた。

「サミュエル様は、ノア様のこと以外で感情を揺らさないのですから、当然でしょう」
「悪感情を煽るのは、愚か者のすることだと思うけど」
「ノア様がサミュエル様の制御役であると知らしめることは、サミュエル様にとっても望ましいことでしょう? その分、ノア様を尊重する者が増えて、ノア様の助けになるのですから」

 本当に、憎らしいくらいサミュエルの考えをよく理解している。

 嘆息一つで憤懣を消し去り、サミュエルは再びぼんやりと外に視線を向けた。
 サミュエルにとって、ノアに対して以外の感情は、作り物のようなものだ。理性ですぐに切り替えられる。捨て去れる。

「――なるほど……サミュエル様がお困りなのは、暇だからというだけではありませんね」

 もう話は終わりだと思ったのに、ザクが言葉を続けた。
 サミュエルは意外な言葉に、視線戻す。なんとも言えない表情で、ザクがサミュエルを見つめていた。

「なんだというんだい?」
「……いえ。サミュエル様も、感情に振り回されることがあるのだと、改めて気づいて驚いただけです」

 意味の分からない言葉に、サミュエルはきつく眉を寄せた。

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