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176.愛ゆえ

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 怒ることに慣れていないノアは、その感情を持続させることも苦手だった。そんな自分にそうそうに気づき、思わずため息が零れる。

 横に座るサミュエルをちらりと窺うと、ばっちりと目が合った。その瞬間に嬉しそうに細められた目を見て、怒っている自分が馬鹿らしくなってくる。

 サミュエルがノアを揶揄うのは、愛情ゆえである。様々なノアの表情を見て、慈しんでいるのだ。
 それが分かっているから、ノアはもう諦めるしかない。自分が過剰な反応を示してしまっただけのようにも思えてきた。

(世の中の恋人は、日頃からこんなやりとりをしているのだろうか……。もしかして、僕が奥手すぎるだけ? ……みんな、心臓が強いんだなぁ)

 世の多くの恋人たちの精神的な強さに思いを馳せていたノアの頬に、何かが触れる。そっと優しく撫でる仕草は、もう見なくても分かるくらい慣れたものだ。慣れたからと言って、緊張しないわけではないけれど。

「二人きりでいる時は、ずっと私の方を見ていてほしいな」
「……歩くときは前を見ますよ?」
「どうして。私がノアを転ばせることなんてありえないよ?」
「いや、どう考えても、恋人を凝視し続けているのは不自然でしょう」
「ノアなら可愛らしいと思うけど」
「それは、サミュエル様の感覚がおかしいですね」

 話しながら、再び目が合う。今度は頬に添えられた手で引き寄せられ、顔ごとサミュエルに向き合っていた。
 唐突に鼻先に触れたキスで、一瞬焦点が合わなくなる。ぼやけた翠の目が綺麗だな、とぼんやりと考えた。

「機嫌は直ったかい?」
「ちょっとだけ」
「分かった。……揶揄うのは、ほどほどにすると、約束しよう」

 苦渋が滲む声音で告げるサミュエルを、ノアはまじまじと見上げた。サミュエルの方こそ拗ねているように見える。それがなんだか可愛らしく思えて、ノアは肩の力が抜けた。
 ノアが苦笑混じりに微笑むと、サミュエルは不思議そうに目を瞬かせて、首を傾げる。

「……いいんですよ」

 そう言いながら、ノアはサミュエルの頬に手を伸ばした。ノアの方からサミュエルに触れることはあまりない。
 目を丸くしたサミュエルに微笑みかけて、頬を指先で軽く叩いた。

「――行き過ぎなときは、遠慮なく怒りますから。それで嫌わないでくださいね」

 ぱちり、ぱちりと瞬きをしたサミュエルが、ノアの手に手を重ねて、頬をすり寄せる。甘い眼差しでノアを見つめると、ふわりと微笑んだ。

「……怒っているノアも可愛すぎるから、嫌いになるわけがないよ。でも、無視されてしまうのは、とんでもなく悲しくなるから、やめてほしいな」

 今度は、ノアの方が目を丸くしてしまった。
 ノアが拗ねて、サミュエルを置き去りにしようとしたことが、思いの外サミュエルにとっては衝撃的なことだったらしい。

「気をつけます」
「私も、気をつけるよ。ノアに嫌われたら、生きていけないから」
「……冗談ですよね?」
「そう思う?」

 じっとサミュエルの顔を見つめるも、泰然と微笑む表情からは何も読み取れない。
 これはサミュエルをよく知る人に答えを聞こうと、ノアは向かい側の席に座るザクに視線を向けた。
 ちなみに、ロウは何故か御者の横に乗り込み、同じ空間にはいない。乗り込む前に、ザクが恨めしげにロウを見つめていたのが、昨日とは反対の反応だった。

「……私を、巻き込まないで、ください……」

 嫌がっている感情を全面的に出して、ザクがノアの視線を避けるように、車窓へと目を向ける。
 ノアが嫌われているわけではなく、この空間の雰囲気に耐えかねている様子が伝わってきた。ロウもそうだけれど、ザクも、ノアとサミュエルのやり取りに、辟易しているようだ。

 とはいえ、いまだ婚約者という関係では、ノアたちを密室空間で二人きりにするわけにもいかないので、ロウもザクも、ただひたすらに耐えているわけだけれど。

 もしかしたら、この二人が誰よりも『さっさと結婚してくれ!』と思っているのかもしれない。少なくとも、結婚してしまえば、ノアたちの雰囲気に従者が巻き込まれることは減るはずなので。

「……あ、そうだ。サミュエル様にご相談したいことがあったのでした」

 なんとなく不自然に流れた沈黙を感じて、ノアは思い出したことを口に出す。サミュエルの冗談を聞かなかったことにする意味もあった。

「相談? 衣装だけじゃなくて?」
「はい。結婚式の招待客のことなんですけど」
「あぁ……何か問題があった? アシェル殿のことかな」

 不思議そうにするサミュエルは、既に友人枠での招待客も決まっており、後は招待状を送付するだけの状態だ。友人枠の多くが、学園でよく話している人たちだけれど、プライベートで親しく交流している話は聞かない。今後の人脈として選んだようにも思える。

「アシェルさんのこともあります。……といいますか、アシェルさんには、参列を断られてしまいまして……」
「そうなんだ? まぁ、彼も、ノアのことが大好きな人だしね」

 サミュエルが苦笑する。どうやら断りの理由も、すぐに察したらしい。ノアはただ頷いて返し、本題に入った。

「それで、友人枠での招待をどうするか悩んでいまして。あまり少ないと、やっぱり駄目ですよね?」
「駄目ではないけど……苦笑されてしまいかねないね。ノアは気にしてしまうかも」
「やっぱり……」

 友人の数は、社交性を示す。ノアは自分が社交的ではないと十分に分かっているし、それを無理に隠すのもどうかと思っているけれど、貴族としてはそのような振る舞いは減点対象だろう。
 真剣に考え込むノアを見つめ、サミュエルが肩をすくめた。

「とりあえず、アダム殿とハミルトンを、私の親戚枠から君の友人枠に移せばいいだろう。その方が、二人にとっても利点になる。参列者の序列としては、上になるからね」
「え、いいんですか?」
「ああ。……後は、ノアに役立ちそうな面子を、学園の生徒の中からピックアップしておくよ」
「……それは、やっぱり……?」
「ノアの信者だね」
「信者……」

 分かっていたけれど、あっさりと言い切られると複雑な思いがある。ノアは信者を集ったことなんて一度もないのだから。
 でも、ノアを慕うが故だと聞くので、拒むことはしない。それに、サミュエルはノアが困るような人を傍に近づけることはないだろう。

「――では、お願いします」
「任されました」

 神妙に頭を下げたノアに、サミュエルはパチリとウインクして、おどけたような返事をした。

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