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80.見送りの日
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春の温かな日差しの下。ランドロフ侯爵邸の前庭では、出立の準備が最終段階になっていた。今日、アシェルはライアンが治めることになる領地へと赴くのだ。
数台の馬車に次々と詰め込まれる荷物。それを眺めながら、ノアはアシェルとの別れが刻一刻と近づいてきていることに、寂しさを感じる。アシェルの方は、荷物の確認で忙しく、まだノアの方を気に掛ける余裕はないようだが。
出会った頃と比べると、アシェルは随分と成長した。男爵家から早々に抜け出せたことで、精神的な余裕ができたことは理由だけれど、それ以上に影響を与えたのは当然、ライアンへの想いだろう。
玄関で支度を見守るノアの前に、見慣れた家紋が掲げられた馬車が近づいて来た。
「――サミュエル様、ようこそお越しくださいました。ですが、アシェルさんはまだ忙しくて、ご挨拶できないようです。お許しください」
「ああ、分かっているよ。忙しい時に割り込む失礼をしているのは私の方だからね」
ノアが微笑みと共に僅かに頭を下げると、サミュエルがスッと身を寄せて頬にキスをしてくる。挨拶だと分かっているけれど、人目が多いところではやはり気恥ずかしい。
ノアはサミュエルの頬にキスを返しながらはにかんだ。
事前に連絡はあったものの、サミュエルがアシェルの見送りに来たのは正直意外だった。アシェルと仲良くしていたとはいえ、一使用人の立場にある者のために時間を割くほど、サミュエルは暇ではないはずだ。
でも、その理由はサミュエルの後に馬車から降りてきた存在を目にしてすぐに理解した。
目深にフードを被り、顔をさらさないようにしていても、その存在感は忘れられない。
「……サミュエル様、お客様を中に――」
「いや、ここで構わないよ。彼も忙しいからね」
「ああ。気遣い感謝する。俺は……アシェルに、本当に俺についてきてもいいのか、最後の確認をしに来ただけだから」
「殿下……」
ライアンだった。フードの陰からノアにだけ分かるように顔を覗かせている。
つい数日前に、ライアンは大公位を賜った。明日にも領地に赴く予定のはずだ。サミュエルが「忙しい」と言ったのも当然だろう。
そんな中で、サミュエルに隠れる形でランドロフ侯爵邸までやって来た理由が、アシェルの意思を確かめるためとは。慎重だとか気遣いだとか言うと聞こえはいいが、アシェルの決意がきちんと理解されていない印象があり、ノアはつい眉を寄せてしまう。
「もう、殿下ではない。……臆病と言われても否定できないが、やはりアシェルは貴殿の傍にいるのが一番幸せになれるのではないかと思ってな。俺のところでは、つらい思いばかりさせるだろう」
「弱気ですね。そこは『俺が幸せにしてみせる』くらい言ったらどうです?」
「俺はサミュエルと違って、自信家ではない」
呆れたように言うサミュエルに、ライアンの雰囲気が尖った。
ライアンがここに来られるよう協力しているところを見て、多少仲が良くなったのかと思っていたけれど、この二人の間にある長年のしこりは早々簡単に解消できないようだ。
でも、そんな今更のことよりも気になることが一つ。
ノアはアシェルの方に歩を進めようとするライアンの前に立った。
サミュエルとライアンから驚いた様子が伝わってくる。貴族の礼儀を熟知しているノアが、例え王家から外れたとしても大公位を持つ者の前に立ちふさがることは、普段ならあり得ないことだった。
「大公閣下。先ほどの発言でアシェルさんを傷つけるつもりなのでしたら、今彼と話すのはおやめください」
「……俺の言葉がアシェルを傷つける、ということか? なぜそのように思われたのか、理由を聞かせてもらえるか」
ライアンは戸惑いながらも、真摯な目でノアを見つめてくる。
アシェルの決意を軽んじて、ここで再び問おうとするくらいだ。理解していないだろうと察してはいたけれど、ノアの不満がさらに高まる。
「アシェルさんは男爵家から解放されて、自由になりました。選べる将来は無数にあります。大公閣下がおっしゃられたように、僕の傍で侍従として務めることが、一番楽な生き方でしょう。それなのに、なぜアシェルさんが大公閣下の傍に行くことを選んだか。……それを一番ご存知なのは、大公閣下ではないのですか?」
ライアンが黙り込む。
ノアは人を責めるなんて慣れないことで、しかも相手は自分より高位の者である。心臓は飛び出そうなほど強く主張しているけれど、ここは引くことのできない場面だった。
アシェルは友人だ。その友人の決意を無為にされて、見過ごすような恥知らずにはなりたくない。
サミュエルが口を開こうとした気配を察して、ノアは視線を向けた。サミュエルはそれだけですぐにノアの意を汲み、事態の静観に戻る。
ノアはライアンの意思を知りたいのだ。友人を託すに足るか否か。
「――大公閣下はアシェルさんの想いを拒否しなかったのだと聞きました。それならば、逃げずに向き合ってあげてください。口先だけでアシェルさんの決意を理解した振りをしないでください。……幸せかどうかは、彼自身が決めます。彼が、これからのことを不幸だと感じているように見えますか? 問いかけなければ分かりませんか?」
動き回るアシェルの方を示す。忙しそうだけれど生き生きとしていて、これからの先行きへの不安は微塵も感じられない。眩しいほどにやる気に満ちていた。
「……そうだな。アシェルの決意を無為にするつもりはなかったんだが……。いや、これは言い訳だ。忠告感謝する。傷つけずに済んで良かった。これからは気をつける」
真摯に告げるライアンに、ノアはホッと息をついた。どうやらノアの行動は無駄にはならなかったようだ。
「――貴殿の友人を悲しませるつもりはない。幸せにするとは誓えないが、共に歩んでいこうと思う」
「それだけで、アシェルさんは十分だと言うでしょう」
もう、ライアンの歩みを止める理由はなかった。
準備がひと段落して、落ち着いたアシェルにライアンが話しかける姿を見守る。
アシェルは驚き、喜び、嬉しそうにはにかんでいた。ライアンが「領地での仕事は忙しいぞ。覚悟はいいな」と声を掛け、アシェルは「もちろん、準備万端だよ! ぁ、ですよ」と返す。
二人ならきっと大丈夫。かすかに残る不安に蓋をして、ノアは二人を見つめる。サミュエルがそっと腰を抱いてくるのに逆らわず、少し身体を預けて寄り添った。
数台の馬車に次々と詰め込まれる荷物。それを眺めながら、ノアはアシェルとの別れが刻一刻と近づいてきていることに、寂しさを感じる。アシェルの方は、荷物の確認で忙しく、まだノアの方を気に掛ける余裕はないようだが。
出会った頃と比べると、アシェルは随分と成長した。男爵家から早々に抜け出せたことで、精神的な余裕ができたことは理由だけれど、それ以上に影響を与えたのは当然、ライアンへの想いだろう。
玄関で支度を見守るノアの前に、見慣れた家紋が掲げられた馬車が近づいて来た。
「――サミュエル様、ようこそお越しくださいました。ですが、アシェルさんはまだ忙しくて、ご挨拶できないようです。お許しください」
「ああ、分かっているよ。忙しい時に割り込む失礼をしているのは私の方だからね」
ノアが微笑みと共に僅かに頭を下げると、サミュエルがスッと身を寄せて頬にキスをしてくる。挨拶だと分かっているけれど、人目が多いところではやはり気恥ずかしい。
ノアはサミュエルの頬にキスを返しながらはにかんだ。
事前に連絡はあったものの、サミュエルがアシェルの見送りに来たのは正直意外だった。アシェルと仲良くしていたとはいえ、一使用人の立場にある者のために時間を割くほど、サミュエルは暇ではないはずだ。
でも、その理由はサミュエルの後に馬車から降りてきた存在を目にしてすぐに理解した。
目深にフードを被り、顔をさらさないようにしていても、その存在感は忘れられない。
「……サミュエル様、お客様を中に――」
「いや、ここで構わないよ。彼も忙しいからね」
「ああ。気遣い感謝する。俺は……アシェルに、本当に俺についてきてもいいのか、最後の確認をしに来ただけだから」
「殿下……」
ライアンだった。フードの陰からノアにだけ分かるように顔を覗かせている。
つい数日前に、ライアンは大公位を賜った。明日にも領地に赴く予定のはずだ。サミュエルが「忙しい」と言ったのも当然だろう。
そんな中で、サミュエルに隠れる形でランドロフ侯爵邸までやって来た理由が、アシェルの意思を確かめるためとは。慎重だとか気遣いだとか言うと聞こえはいいが、アシェルの決意がきちんと理解されていない印象があり、ノアはつい眉を寄せてしまう。
「もう、殿下ではない。……臆病と言われても否定できないが、やはりアシェルは貴殿の傍にいるのが一番幸せになれるのではないかと思ってな。俺のところでは、つらい思いばかりさせるだろう」
「弱気ですね。そこは『俺が幸せにしてみせる』くらい言ったらどうです?」
「俺はサミュエルと違って、自信家ではない」
呆れたように言うサミュエルに、ライアンの雰囲気が尖った。
ライアンがここに来られるよう協力しているところを見て、多少仲が良くなったのかと思っていたけれど、この二人の間にある長年のしこりは早々簡単に解消できないようだ。
でも、そんな今更のことよりも気になることが一つ。
ノアはアシェルの方に歩を進めようとするライアンの前に立った。
サミュエルとライアンから驚いた様子が伝わってくる。貴族の礼儀を熟知しているノアが、例え王家から外れたとしても大公位を持つ者の前に立ちふさがることは、普段ならあり得ないことだった。
「大公閣下。先ほどの発言でアシェルさんを傷つけるつもりなのでしたら、今彼と話すのはおやめください」
「……俺の言葉がアシェルを傷つける、ということか? なぜそのように思われたのか、理由を聞かせてもらえるか」
ライアンは戸惑いながらも、真摯な目でノアを見つめてくる。
アシェルの決意を軽んじて、ここで再び問おうとするくらいだ。理解していないだろうと察してはいたけれど、ノアの不満がさらに高まる。
「アシェルさんは男爵家から解放されて、自由になりました。選べる将来は無数にあります。大公閣下がおっしゃられたように、僕の傍で侍従として務めることが、一番楽な生き方でしょう。それなのに、なぜアシェルさんが大公閣下の傍に行くことを選んだか。……それを一番ご存知なのは、大公閣下ではないのですか?」
ライアンが黙り込む。
ノアは人を責めるなんて慣れないことで、しかも相手は自分より高位の者である。心臓は飛び出そうなほど強く主張しているけれど、ここは引くことのできない場面だった。
アシェルは友人だ。その友人の決意を無為にされて、見過ごすような恥知らずにはなりたくない。
サミュエルが口を開こうとした気配を察して、ノアは視線を向けた。サミュエルはそれだけですぐにノアの意を汲み、事態の静観に戻る。
ノアはライアンの意思を知りたいのだ。友人を託すに足るか否か。
「――大公閣下はアシェルさんの想いを拒否しなかったのだと聞きました。それならば、逃げずに向き合ってあげてください。口先だけでアシェルさんの決意を理解した振りをしないでください。……幸せかどうかは、彼自身が決めます。彼が、これからのことを不幸だと感じているように見えますか? 問いかけなければ分かりませんか?」
動き回るアシェルの方を示す。忙しそうだけれど生き生きとしていて、これからの先行きへの不安は微塵も感じられない。眩しいほどにやる気に満ちていた。
「……そうだな。アシェルの決意を無為にするつもりはなかったんだが……。いや、これは言い訳だ。忠告感謝する。傷つけずに済んで良かった。これからは気をつける」
真摯に告げるライアンに、ノアはホッと息をついた。どうやらノアの行動は無駄にはならなかったようだ。
「――貴殿の友人を悲しませるつもりはない。幸せにするとは誓えないが、共に歩んでいこうと思う」
「それだけで、アシェルさんは十分だと言うでしょう」
もう、ライアンの歩みを止める理由はなかった。
準備がひと段落して、落ち着いたアシェルにライアンが話しかける姿を見守る。
アシェルは驚き、喜び、嬉しそうにはにかんでいた。ライアンが「領地での仕事は忙しいぞ。覚悟はいいな」と声を掛け、アシェルは「もちろん、準備万端だよ! ぁ、ですよ」と返す。
二人ならきっと大丈夫。かすかに残る不安に蓋をして、ノアは二人を見つめる。サミュエルがそっと腰を抱いてくるのに逆らわず、少し身体を預けて寄り添った。
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◇長編◇
本編完結
『貧乏子爵令息のオメガは王弟殿下に溺愛されているようです』
本編・続編完結
『雪豹くんは魔王さまに溺愛される』書籍化☆
完結『天翔ける獣の願いごと』
◇短編◇
本編完結『悪役令息になる前に自由に生きることにしました』
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