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68.学園の騒ぎ
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学園内はざわざわと落ち着かない空気が満ちていた。アシェルに関する騒動の時のような刺々しさはなく、むしろ祭の時のような興奮が感じられる。
ノアは首を傾げながら、いつも通りに講義室の窓際の席に向かった。その途中で向けられる視線にはだいぶ慣れた気がする。でも、みんながこのように落ち着かない雰囲気である理由は全く分からない。
「――ランドロフ侯爵令息と……」
「ああ、間違いない。というか、あのお二方を見間違えるわけが……」
ぼそぼそと話している声が聞こえる。確かにノアの名が呼ばれた。ドキッと跳ねた心臓を宥めながら本を開き、密かにその話し声に意識を向ける。
「街デートかぁ。王城でお二人の姿があったとは聞いたけど、本当だったのか」
「婚約はもう結んでいるんだろうな」
「なんで公表しないんだ?」
「そりゃ、ライアン殿下への気遣いだろう。ただでさえ、臣籍降下することで騒がしくなっているのに、元婚約者がランドロフ侯爵令息と婚約を結んだって公表されたら、対応が大変なことになるぞ」
「そうだな……。俺たちとは一年違うからそこまでじゃないけど、殿下の学年は酷い騒ぎらしいからな……」
どうやらノアとサミュエルの婚約が噂されているらしい。しかも、街でデートしていたことさえ知られているとは。
サミュエルも街歩きをすると言っていたし、ノアが思っていた以上に、街を出歩いている貴族は多いのかもしれない。
王城でのことが噂になっているのは予想していたし、婚約を公表しない理由も分かってもらえていて安心したけれど――。
「……恥ずかしい……」
小さく呟いて本で顔を隠す。あからさまに無作法な真似はできないけれど、今は顔を見られたくなかった。
サミュエルとのデートを目撃されたこと自体が気恥ずかしい。でも、なによりも口づけの場面も目撃された可能性があることを考えると、どういう顔をしたらいいか分からなかった。
「ランドロフ侯爵令息にお話を伺ってみるか?」
不意に飛び込んできた声に、身体がビクッと震えた。同時に周囲の喧騒が静まる。やけに空気が張り詰めている気がして、ノアは恐る恐る視線を上げて周囲を見渡した。
ノアとサミュエルの婚約について話していただろう二人に、多くの視線が向けられている。二人は引き攣った顔で愛想笑いを浮かべ、ぎこちなく首を横に振っていた。
「や、やめておこう……俺たちが不躾に尋ねていいことじゃない……」
「そ、そうだな。ランドロフ侯爵令息のお心を煩わせるのはよくない……」
ノアが危惧した事態にはならないらしい。少しずつ周囲に喧騒が戻ってきた。
とはいっても、皆密かにノアたちのことを話しているようだ。噂話が悪い方に向かず、誰かを傷つけることがないなら、それは許容するしかない。だいぶ気まずいけれど。貴族ならば噂の的になることは度々あることなのだ。
「おはよう。今日は皆落ち着かない雰囲気だね」
「っ、おはようございます、サミュエル様!」
サミュエルが講義室に入ってきた途端、空気がパッと明るくなった気がした。やはりサミュエルの影響力は凄い。ノアは思わず感心しながら、サミュエルの姿を見つめた。
よくサミュエルの周囲にいる者たちが挨拶をする中、不意にサミュエルの視線がノアを捉える。ノアの心臓が高鳴った。先ほどまでの緊張と不安とは違う、幸せな気分になる高揚感。それは、サミュエルの目が愛しげに細められた瞬間に最高潮に達した。
(――ああ……好きだなぁ)
脈絡もなく、そんな想いが心に満ちる。こんな風に、周囲の目を気にせずに講義室で視線を合わせるなんてこれまでなかった。それができるようになったことが嬉しくて幸せで、ノアは思わずふわりと微笑みかける。
ザワッと空気が揺れて、すぐに静まり返った。サミュエルが笑顔を削ぎ落し、真顔になってしまっている。ノアは何かいけないことをしてしまったらしい。でも、それがなんなのか、全く分からない。
「おはよう、ノア。今日も麗しい様子で何よりだよ。でも、君の笑顔を皆に見せるのは少し気に入らないな」
近寄ってきたサミュエルが笑顔を取り繕いながら、冗談めかして咎めるので、ノアはポカンと小さく口を開けてしまう。
その間の抜けた表情を隠すように、サミュエルの手が頬に添えられた。感じる温もりに、じわじわと体温が上がっていく心地がする。
「……サミュエル様、おはようございます。あの、僕の笑顔に、何か問題がありますか……?」
人付き合いが苦手なノアが唯一得意なのは、笑顔で話を躱すことなのだけれど、ノアの笑顔は人を不快にさせてしまっていたのだろうか。不安になって、立ったままのサミュエルを見上げると、再び一瞬表情が消えた。
「……いや、ノアの笑顔が駄目だというわけじゃないよ。むしろ、私と二人きりの時なら、いくらだって微笑んでほしいくらいだけど。私の心が狭いから、ノアの笑顔を他の人に見られたくないだけなんだ。それと――」
サミュエルの親指が、ノアの目尻を撫でる。
「前にも言った気がするけど、そんなに潤んだ目で見られたら、我慢できなくなるよ。……いいのかい?」
「だめ、ですっ……」
サミュエルの雰囲気がなんだか色っぽく見えて、正直何を言われているか理解する余裕がなかったけれど、直感がここは拒否しなければならないと告げていた。
焦った様子のノアを見て、サミュエルは微笑みながら「残念……」と呟く。その妖しい眼差しから、ノアは目を逸らせなかった。
周囲から、悲鳴のような歓声のような、よく分からない声が聞こえる。小声で騒ぐ皆は器用だな、とノアは現実逃避気味に思った。
ノアは首を傾げながら、いつも通りに講義室の窓際の席に向かった。その途中で向けられる視線にはだいぶ慣れた気がする。でも、みんながこのように落ち着かない雰囲気である理由は全く分からない。
「――ランドロフ侯爵令息と……」
「ああ、間違いない。というか、あのお二方を見間違えるわけが……」
ぼそぼそと話している声が聞こえる。確かにノアの名が呼ばれた。ドキッと跳ねた心臓を宥めながら本を開き、密かにその話し声に意識を向ける。
「街デートかぁ。王城でお二人の姿があったとは聞いたけど、本当だったのか」
「婚約はもう結んでいるんだろうな」
「なんで公表しないんだ?」
「そりゃ、ライアン殿下への気遣いだろう。ただでさえ、臣籍降下することで騒がしくなっているのに、元婚約者がランドロフ侯爵令息と婚約を結んだって公表されたら、対応が大変なことになるぞ」
「そうだな……。俺たちとは一年違うからそこまでじゃないけど、殿下の学年は酷い騒ぎらしいからな……」
どうやらノアとサミュエルの婚約が噂されているらしい。しかも、街でデートしていたことさえ知られているとは。
サミュエルも街歩きをすると言っていたし、ノアが思っていた以上に、街を出歩いている貴族は多いのかもしれない。
王城でのことが噂になっているのは予想していたし、婚約を公表しない理由も分かってもらえていて安心したけれど――。
「……恥ずかしい……」
小さく呟いて本で顔を隠す。あからさまに無作法な真似はできないけれど、今は顔を見られたくなかった。
サミュエルとのデートを目撃されたこと自体が気恥ずかしい。でも、なによりも口づけの場面も目撃された可能性があることを考えると、どういう顔をしたらいいか分からなかった。
「ランドロフ侯爵令息にお話を伺ってみるか?」
不意に飛び込んできた声に、身体がビクッと震えた。同時に周囲の喧騒が静まる。やけに空気が張り詰めている気がして、ノアは恐る恐る視線を上げて周囲を見渡した。
ノアとサミュエルの婚約について話していただろう二人に、多くの視線が向けられている。二人は引き攣った顔で愛想笑いを浮かべ、ぎこちなく首を横に振っていた。
「や、やめておこう……俺たちが不躾に尋ねていいことじゃない……」
「そ、そうだな。ランドロフ侯爵令息のお心を煩わせるのはよくない……」
ノアが危惧した事態にはならないらしい。少しずつ周囲に喧騒が戻ってきた。
とはいっても、皆密かにノアたちのことを話しているようだ。噂話が悪い方に向かず、誰かを傷つけることがないなら、それは許容するしかない。だいぶ気まずいけれど。貴族ならば噂の的になることは度々あることなのだ。
「おはよう。今日は皆落ち着かない雰囲気だね」
「っ、おはようございます、サミュエル様!」
サミュエルが講義室に入ってきた途端、空気がパッと明るくなった気がした。やはりサミュエルの影響力は凄い。ノアは思わず感心しながら、サミュエルの姿を見つめた。
よくサミュエルの周囲にいる者たちが挨拶をする中、不意にサミュエルの視線がノアを捉える。ノアの心臓が高鳴った。先ほどまでの緊張と不安とは違う、幸せな気分になる高揚感。それは、サミュエルの目が愛しげに細められた瞬間に最高潮に達した。
(――ああ……好きだなぁ)
脈絡もなく、そんな想いが心に満ちる。こんな風に、周囲の目を気にせずに講義室で視線を合わせるなんてこれまでなかった。それができるようになったことが嬉しくて幸せで、ノアは思わずふわりと微笑みかける。
ザワッと空気が揺れて、すぐに静まり返った。サミュエルが笑顔を削ぎ落し、真顔になってしまっている。ノアは何かいけないことをしてしまったらしい。でも、それがなんなのか、全く分からない。
「おはよう、ノア。今日も麗しい様子で何よりだよ。でも、君の笑顔を皆に見せるのは少し気に入らないな」
近寄ってきたサミュエルが笑顔を取り繕いながら、冗談めかして咎めるので、ノアはポカンと小さく口を開けてしまう。
その間の抜けた表情を隠すように、サミュエルの手が頬に添えられた。感じる温もりに、じわじわと体温が上がっていく心地がする。
「……サミュエル様、おはようございます。あの、僕の笑顔に、何か問題がありますか……?」
人付き合いが苦手なノアが唯一得意なのは、笑顔で話を躱すことなのだけれど、ノアの笑顔は人を不快にさせてしまっていたのだろうか。不安になって、立ったままのサミュエルを見上げると、再び一瞬表情が消えた。
「……いや、ノアの笑顔が駄目だというわけじゃないよ。むしろ、私と二人きりの時なら、いくらだって微笑んでほしいくらいだけど。私の心が狭いから、ノアの笑顔を他の人に見られたくないだけなんだ。それと――」
サミュエルの親指が、ノアの目尻を撫でる。
「前にも言った気がするけど、そんなに潤んだ目で見られたら、我慢できなくなるよ。……いいのかい?」
「だめ、ですっ……」
サミュエルの雰囲気がなんだか色っぽく見えて、正直何を言われているか理解する余裕がなかったけれど、直感がここは拒否しなければならないと告げていた。
焦った様子のノアを見て、サミュエルは微笑みながら「残念……」と呟く。その妖しい眼差しから、ノアは目を逸らせなかった。
周囲から、悲鳴のような歓声のような、よく分からない声が聞こえる。小声で騒ぐ皆は器用だな、とノアは現実逃避気味に思った。
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