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66.夢心地からの帰還

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 ――キスを、してしまった……。

 ふわふわと雲を踏むような陶然とした気分で帰宅したノアは、私室のソファに座り、ぼんやりと宙を見つめて今日を振り返っていた。

 トラウマを少し克服できたと思ったら、それに気づいたサミュエルに想いを告げられて、ノアも自分の想いに気づかされた。
 両想いになったと分かった途端、まさか街中でサミュエルと唇を重ねることになるなんて、今朝の自分に聞かせたとしても信じなかっただろう。それくらい怒涛の展開だった。

「……楽しいデートだったようですね?」
「アシェルさん……もしかして、見ていましたか?」

 ニヤニヤと揶揄まじりの笑みを浮かべているアシェルを見て、一気に現実に戻される。頬が燃えるように熱かった。
 今日はサミュエルと二人で歩いていたけれど、貴族の子息であるノアたちが供を連れずに街中を歩くわけがない。少し距離を置いて見守っていたはずの護衛やアシェルにキスシーンを見られたと思うと、泣きたくなるほど恥ずかしい。

 サミュエルと唇を重ねた後は、ノアは呆然としてサミュエルに手を引かれるままに歩き、馬車に乗せられて家に帰ることになった。
 サミュエル曰く「今のノアを連れ回したら、身の程知らずな虫が湧いてきてしまうからね」とのこと。

 馬車で移動している間、同乗していたアシェルは訳知り顔で頷き、微笑み、サミュエルを睨みつけて、忙しない反応をしていたけれど、何も言わなかったし、ノアも尋ねる余裕はなかった。

 でも、やはりキスしているところを見られていたのだ。それでなくとも、家にノアを送り届けたサミュエルは、これまで以上に近い距離感でノアの頬にキスをしていたから、アシェルが察していてもおかしくはない。

「うっふっふっ……いやぁ、きゅんきゅんしました! ノア様が物陰に連れ込まれた時は、『サミュエル、コノヤロー!』って怒りが湧きましたけど、結果オーライ? ノア様が悩んで疲れて悲しむことなく、想いを自覚されたようでなにより。サミュエル様はノア様の心を読むのが早すぎでは? ノア様にちょっと受け入れられる余裕が出てきたと察した途端、怒涛の勢いで攻め込むんですから……。囲い込み速度から分かってましたけど、サミュエル様半端ねぇっ!」

 興奮しすぎて早口になっているアシェルの言葉を上手く聞き取れない。でも、祝福してくれている気持ちが伝わってきて、ノアは頬を緩めた。

「しかも、別れ際のあれ、最高に恋人してましたね! 『愛してるよ』でチュッとするとか、サミュエル様じゃなきゃ、遊び人かよって突っ込んでましたけど!」

 思わず手で顔を覆った。恥ずかしくてたまらない。
 サミュエルが別れ際に頬にキスしてくることは、最近ではよくあった。でも、今日は少し違っていて……。もちろん『愛してるよ』という言葉が一番の変化だけれど、なんというか……雰囲気が甘いのだ。

 思い返してみると、サミュエルは婚約を結んだ頃から、暗に恋心をアピールしていた気がする。でも、それはノアが気づかず受け流してしまうくらいのもの。
 もちろん、トラウマのせいで、ノアが無意識に気づかなようにしていたというのも理由だろう。でも、やはり今日ほどの甘さは感じていなかったと思う。

 ノアがトラウマを自覚して、心に余裕ができたことで、それを察したサミュエルが態度を変化させたのだ。

 甘い対応が嬉しくなるのは、自覚したばかりの恋心ゆえだろうか。
 ただ少し気になるのは、口づけを交わすなんてはしたなくないかということ。街中では雰囲気に流されるままに受け入れていたけれど、本来いけないことなのでは……?

「……婚約者としての節度……マナーを習ってない」

 ふと気づいた事実に呆然とする。
 基本的な人付き合いについては学んでいても、婚約者とどう過ごすべきかなんて知らない。おそらく知るべき作法があるはずだけれど、両親からは一切そのような話をされたことがなかった。

「――そういえば、以前、お父様から何か本をいただいて……そのまましまい込んでしまったような」
「本ですか?」

 ふと思い当たったことを呟くと、アシェルが反応する。ノアが本棚横のキャビネットを指すと、すぐに動いて探しに行ってくれた。

 本が好きなノアにしては珍しく、一切読むことなくしまい込み、むしろ本の外観さえ記憶に残っていない。
 この感じはなんだか覚えがあった。トラウマに関連して記憶を封じたのかもしれない。
 そうとなれば、本の内容は現時点でノアが求めているものの可能性が高い。

「……うわっ……貴族って、こういうので勉強するんだ……」
「アシェルさん?」

 顰めっ面に似た複雑な表情で、アシェルが本を持ってくる。
 表紙に書かれたタイトルは『婚約から婚姻まで。男女、男男別の性作法教本』というもので――。

「これ、あからさますぎませんか?」
「……ちょっと、読む勇気がないんですけど……アシェルさん、一緒に読んでくれませんか?」
「一緒に読む方が恥ずかしくないですかっ!?」

 アシェルが何かを誤魔化すように喚く。顔は赤くなっているものの、瞳に僅かに好奇心が滲んでいるのをノアは見逃さなかった。おそらくノアも同じような顔をしているだろう。
 知るのは怖い気もするけれど、まだ見たことがない世界が本に描かれているようで気になる。

 いそいそと隣に座るアシェルと共に、ノアは深呼吸をしてから表紙を開き、内容に目を走らせた。
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