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51.近づく距離
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サミュエルから婚約を申し込まれて二日後には、サミュエルとノアの両親を交えての話し合いが行われた。
「――こちらが、婚約誓約書です。ライアン殿下との婚約解消から、まだ日が経っていませんので、公表には時間をいただきたいのですが」
サミュエルがテーブルに紙を滑らせる。既にグレイ公爵の署名がされた誓約書だった。それを確認して、父が署名をする。
これを貴族院に提出したら、正式に婚約が成立するのだ。公表を先送りする以上、大々的に知られることはないとは言え、噂話程度は出回るだろう。
「公表の時期については後ほど調整しよう。殿下が卒業した辺りで、と考えているが」
「グレイ公爵家でも同じ考えです」
父とサミュエルが穏やかに微笑みながら頷き合っている。その二人の様子を見て、ノアは誓約書に視線を落とした。
ノアとサミュエルの名前と婚約の成立を証する文言。それを見て、じわじわと現実感が湧いてくる。婚約者といっても、これまでとさほど関係性は変わらないだろうけれど。
「――では、後はノアと好きに過ごしてくれ。私たちがいるのも邪魔だろう」
「え……」
サミュエルとの話がひと段落したところで、父がいそいそと立ち上がる。母も「うふふ……」なんて含み笑いをして、その後に続いた。
予想外の展開に、ノアは戸惑ってしまう。なんだか、二人が誤解しているような気がする。
「……ありがとうございます。――できたら、ノアの部屋を見てみたいな」
「僕の、部屋、ですか……?」
輝かしい笑顔のサミュエルに提案され、躊躇いながらも頷く。
二人きりで過ごすのは、裏庭で慣れているとはいえ、場所が自分の部屋となると違和感がある。それでも、サミュエルが望むならば断わることではないのだけれど。
それに、部屋ならアシェルにも同席してもらえるはずだ。よく分からない気まずさも、少しは解消されるだろう。
私室へと廊下を歩く間も、サミュエルはなんとなく楽しげな雰囲気だった。廊下の壁に掛かる絵や、飾られている芸術品などに興味を示し、ノアたち家族が描かれた肖像画の前では足を止めた。
「――ランドロフ侯爵家に来たのは二度目だけど、趣味がいいよね。この肖像画も、温かな雰囲気で素敵だ。ノアが愛されているのがよく分かる」
「ありがとうございます」
ノアは口元を綻ばせて礼を告げた。社交辞令であったとしても、家や家族のことを褒められるのは嬉しい。ノアも誇りに思っているから。
サミュエルは微笑み、不意にノアとの距離を詰めてきた。軽く背に腕が回され、ノアは目を見開く。ドクッと心臓が大きく鼓動を打った。
「部屋はこっちでいいんだよね?」
「っ、は、はい……」
腰を抱かれて軽く押され、固まっていた足を動かす。転びそうになったところでサミュエルが助けてくれるだろうけれど、そんな情けない姿を見られたくない。
緊張のあまり歩き方がおかしくなっていないかとひやひやした。それ以上に、顔に熱がこもり、逃げたい気分になっていたけれど。
なぜ突然こんなエスコートを始めたのか分からない。いつもより近くにあるサミュエルの顔をちらりと見上げると、サミュエルも見下ろしてきた。目で微笑まれて、ノアも反射的に微笑みを返す。
エスコートの理由なんて聞ける気がしなかった。サミュエルがしたいのならそれでいいかと、諦念にも似た思いで、必死に感じる体温から意識を逸らす。
いつの間にかノアの部屋の近くまで来ていて、お茶の準備をしてくれていたらしいアシェルの姿が見えた。ワゴンから手を離し、驚愕の表情でノアたちを凝視している。
「――やっぱり、手が早ぃーっ!」
アシェルが器用に控えめな音量で叫びながら、サミュエルを指さす。人を指さすのはマナー違反だ。貴族どうこうではなく、人として。
「こんなに素晴らしいノアの傍付きになっているのに、君の行儀の悪さはなかなか直らないようだね? うちから、礼儀作法の教師をおくろうか」
「それ絶対鬼教師! 僕には可愛くて美しいご主人様と、優しいロウ先輩がいるので、ご遠慮いたしますー! 羨ましいからって意地悪したら、ノア様に嫌われますよ!」
サミュエルとアシェルの間に冷気が漂っている気がして、ノアは首を傾げた。
「――こちらが、婚約誓約書です。ライアン殿下との婚約解消から、まだ日が経っていませんので、公表には時間をいただきたいのですが」
サミュエルがテーブルに紙を滑らせる。既にグレイ公爵の署名がされた誓約書だった。それを確認して、父が署名をする。
これを貴族院に提出したら、正式に婚約が成立するのだ。公表を先送りする以上、大々的に知られることはないとは言え、噂話程度は出回るだろう。
「公表の時期については後ほど調整しよう。殿下が卒業した辺りで、と考えているが」
「グレイ公爵家でも同じ考えです」
父とサミュエルが穏やかに微笑みながら頷き合っている。その二人の様子を見て、ノアは誓約書に視線を落とした。
ノアとサミュエルの名前と婚約の成立を証する文言。それを見て、じわじわと現実感が湧いてくる。婚約者といっても、これまでとさほど関係性は変わらないだろうけれど。
「――では、後はノアと好きに過ごしてくれ。私たちがいるのも邪魔だろう」
「え……」
サミュエルとの話がひと段落したところで、父がいそいそと立ち上がる。母も「うふふ……」なんて含み笑いをして、その後に続いた。
予想外の展開に、ノアは戸惑ってしまう。なんだか、二人が誤解しているような気がする。
「……ありがとうございます。――できたら、ノアの部屋を見てみたいな」
「僕の、部屋、ですか……?」
輝かしい笑顔のサミュエルに提案され、躊躇いながらも頷く。
二人きりで過ごすのは、裏庭で慣れているとはいえ、場所が自分の部屋となると違和感がある。それでも、サミュエルが望むならば断わることではないのだけれど。
それに、部屋ならアシェルにも同席してもらえるはずだ。よく分からない気まずさも、少しは解消されるだろう。
私室へと廊下を歩く間も、サミュエルはなんとなく楽しげな雰囲気だった。廊下の壁に掛かる絵や、飾られている芸術品などに興味を示し、ノアたち家族が描かれた肖像画の前では足を止めた。
「――ランドロフ侯爵家に来たのは二度目だけど、趣味がいいよね。この肖像画も、温かな雰囲気で素敵だ。ノアが愛されているのがよく分かる」
「ありがとうございます」
ノアは口元を綻ばせて礼を告げた。社交辞令であったとしても、家や家族のことを褒められるのは嬉しい。ノアも誇りに思っているから。
サミュエルは微笑み、不意にノアとの距離を詰めてきた。軽く背に腕が回され、ノアは目を見開く。ドクッと心臓が大きく鼓動を打った。
「部屋はこっちでいいんだよね?」
「っ、は、はい……」
腰を抱かれて軽く押され、固まっていた足を動かす。転びそうになったところでサミュエルが助けてくれるだろうけれど、そんな情けない姿を見られたくない。
緊張のあまり歩き方がおかしくなっていないかとひやひやした。それ以上に、顔に熱がこもり、逃げたい気分になっていたけれど。
なぜ突然こんなエスコートを始めたのか分からない。いつもより近くにあるサミュエルの顔をちらりと見上げると、サミュエルも見下ろしてきた。目で微笑まれて、ノアも反射的に微笑みを返す。
エスコートの理由なんて聞ける気がしなかった。サミュエルがしたいのならそれでいいかと、諦念にも似た思いで、必死に感じる体温から意識を逸らす。
いつの間にかノアの部屋の近くまで来ていて、お茶の準備をしてくれていたらしいアシェルの姿が見えた。ワゴンから手を離し、驚愕の表情でノアたちを凝視している。
「――やっぱり、手が早ぃーっ!」
アシェルが器用に控えめな音量で叫びながら、サミュエルを指さす。人を指さすのはマナー違反だ。貴族どうこうではなく、人として。
「こんなに素晴らしいノアの傍付きになっているのに、君の行儀の悪さはなかなか直らないようだね? うちから、礼儀作法の教師をおくろうか」
「それ絶対鬼教師! 僕には可愛くて美しいご主人様と、優しいロウ先輩がいるので、ご遠慮いたしますー! 羨ましいからって意地悪したら、ノア様に嫌われますよ!」
サミュエルとアシェルの間に冷気が漂っている気がして、ノアは首を傾げた。
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