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クーベルタン市編Ⅰ 転生の章

4 襲撃

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 夜は暗い。
 何を当たり前のことを、と思うかも知れないが、実際のところ、現代人の中で人工的な灯りが一切見えない、本当の意味において夜の暗さを知る者がどれくらいいるだろうか。
 かく言う俺もまったく知らなかった。
 周囲を照らすのは仄かな焚き火の炎以外は、満天の星空とそこに浮かぶ大小二つの月明かりだけ(そう、この世界には月が二個存在するのだ。それだけで元居た場所とは違うと実感せざるを得なかった)。
 周囲の森は、そこに木々があることさえ悟らせない完璧な暗闇。
 キャンプ場で何度も一人きりの夜を過ごしたことはあるけど、ここまで心細さを感じたことはなかったよ。
 おかげで一時の間は、空腹を忘れることができたくらい。
 しかし、それも長くは続かなかった。
 ふと辺りに気配を感じたのは、既に獲物を逃さない万全の布陣を終えた証であることを後になって気付く。
 そして何の先触れもなく、真正面の暗闇から一頭の獣が現れた。狼に似た体躯ではあるが、俺の知るそれより二回りは大きい。口角は首の根元近くまで広がり、鋭い牙が覗く。額から背中に掛けて一直線に並ぶ長い鬣が目を惹く。
 何よりも怖れも迷いも感じさせないその登場振りが、狩るものと狩られるものとの立場の違いを明確にしていた。
〈やはり、こうくるのか〉
 まったく予期していなかったわけではないが、いざ現実になってみると、本気で怖れていたかと疑問に思う。それほど真に迫る死の予感だった。
〈それに一頭だけってことはないよな〉
 その問いかけに答えるように、いつの間にか周囲の暗闇では幾つもの双眸が浮かび上がっていた。
 俺は念のため用意しておいた手製の槍──と言っても手頃な長さで頑丈そうな枝の先端を河原の石で削っただけの粗末なもの──を右手にし、左手には火の点いた薪の中から最も太い枝を選んで掴む。炎の先端を獣に向かって振るってみるが、奴は小バカにするように、もう一歩前に歩み出た。そして──。
 地の底から響き渡るような咆哮を上げる。それに応えるように、周囲からも雄叫びが次々と後に続く。
 覚悟していなければとても平静を保っていられないような、まさに死の宣告に等しい響きだった。
 必死に気力を振り絞り、思考をフル回転させる。
〈火は怖れないか。ならば──〉
「棲み家に帰れ」
 頼む、通用してくれ、と祈るような気持ちで俺はそう口にした。
 もしも俺の言葉に聞いた相手を操る力があるなら、人間以外にも効果を発揮するのではないかと一縷の望みを託して。
 だが、希望は一瞬で打ち砕かれた。
 獣は引き返すどころか、さらに進んでその距離はもう十メートルと離れていない。奴の一足一刀の間合いがどの程度かは不明だが、既にその範疇に入っていてもおかしくない近さだ。
〈ダメか。そう都合良くはいかせてくれないってことね〉
 俺は胸の裡でこんな目に遭わせた何者かに毒吐きながら、ゆっくりと後ずさる。奴には怯えた獲物が追い詰められていくように見えたことだろう。
 一歩、また一歩。
 それで愉悦に浸ってくれれば占めたものだ。
 そうして最後の一歩を後退すると、ついに後が無くなった。背後には樹高が二十メートルほどになる大木がそびえ立つ。
 奴は狩りの終焉を確信したかのように、今度は短くひと声鳴いた。
 すると、暗がりから続々と同族とみられる獣達が現れる。その数約二十頭。
 体格的には最初の一頭がひと際大きいことから、奴が群れのボスってことで間違いなさそうだ。
〈せいぜい勝ち誇れ。だが──〉
 只で殺られてやるものか。うんと嫌がらせしてやる。
 そう思った次の瞬間、手にしていた薪をボス目がけて投げつける。軽くステップして奴は悠々と避けるが、注意が逸れた一瞬の隙を見計らって、俺は背後の縄梯子に飛び付いた。
 近くに生えていたつる草を手でしごいて葉を落とし、何本かに裂いたものを拠り合わせた即席のロープと、小枝を使って作った簡易的な縄梯子だ。二メートルほどの長さのそれを大木の枝から垂らしてあった。もちろん、樹上に避難するためだ。おかげで掌はボロボロになったけど。
 急いで梯子を伝い、木の上に登る。
 奴は俺の狙いに気付いて襲いかかるが、もう遅い。
 樹上の枝に跨ると、急いで縄梯子を手繰り寄せた。さらに上へと向かい、地上から五メートルほどの場所に腰を下ろす。
 もっとも襲撃相手が木登りできない奴かは賭けだった。
 もし違っていたら、その時は諦めて餌食になるしかない。土台何もかも用意万端にしようというのが無理なのである。
 できる限りのことを全力で行う以外、どうしようもないのが現実だ。
 それだって自分一人の身体なら、ここまで手を尽くすことはなかったかも知れない。
〈だから失敗したら勘弁してくれ〉
 俺は元の身体の持ち主に心の中でそう詫びる。
 幸いにも賭けには勝ったみたいだ。
 奴は木の根元で俺を見上げて唸り声を上げるだけで、一向に登ってこようとはしない。系統から察するに木登りは苦手なのだろう。
 これで当面の安全は保たれたはずだ。が、これ以上はどうしようもない。
 このまま樹上にいて、奴が諦めてくれるなら最善だ。
 しかし、それは難しいとも思う。
 何しろ複数の群れだから、全員で見張る必要はない。
 何頭かを残しておいて、交替すれば済む。
 そこまで知恵の回る獣だった場合の話ではあるが。
 対してこちらは助けが来る当てもない。水も食糧も用意していない。
 根比べになったら、とても勝ち目はなさそうだ。
〈だけど、お前らに喰われてだけはやらねえからな〉
 いざとなったら、縄梯子に使った蔦のロープで身体を幹に固定して落ちないようにするつもりだ。
 それで死んだ後もここで朽ちていく。
 ざまあみろ、と言いたいところだが、それくらいが現状では精一杯の反抗。絶望的なことには変わりない。
 こんなことなら盗賊達に手籠めにされていた方が良かったかと一瞬心に過るが、瞬時にそれを否定する。
〈そうだよな。あんな連中の慰みものになるくらいなら獣の腹に収まった方がまだマシだ〉
 俺は、まるで誰かと会話するように胸の裡で呟いた。
 その時だ。足許に屯していた獣達が突然、周囲に向かって警戒するような唸り声を上げた。
 しばらくして森の中からがさがさとした足音と金属の擦れるような微かな響きが聞こえてくる。それに続いて、
「そこにいるのは何者だ?」
 と、鋭い誰何の声が投げかけられた。
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