【完結】Z[zi:] END OF THE WORLD(エンド・オブ・ザ・ワールド)

るさんちまん

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第四部 復活篇

12 暁の攻防

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 自分の夜間シフトを終えて部屋に戻った美鈴は、日の出までの残り僅かな時間を少しでも寝て過ごそうと考えた。ここ数日の体調不良を考慮した上でのことだ。と言ってもそれほど大袈裟なものではない。隣で穏やかな寝息を立てている妹を起こさないよう注意しながら布団に潜り込み、ちょうど睡郷に踏み入りかけたところで、唐突に響いた建物全体を揺るがすほどの大音響に否応なく現実世界へと引き戻される。爆発は続けざまに都合三度あり、何が起きたかは考えるまでもなくわかった。一瞬でアドレナリンが沸騰したのを感じ、直ちに跳ね起きて枕元に置いてあった散弾銃を掴んで廊下に飛び出る。三階のその場からは日中なら大型バスで塞がれた敷地の出入口まで見通せはするが、今は月明かりが近くの地面を辛うじて照らすのみのはずだった。しかし、美鈴が窓の外に目をやると、夜空を焦がさんとする真っ赤な火柱が遠目からもはっきりと見て取れた。その傍らにはもはやバリケードの体を成していない大型バスの残骸が無残に横たわる。
 隣の客室のドアが開いて、同じく慌てて飛び起きたらしい七瀬が顔を覗かせる。反射的に見つめ合ってやや気まずい雰囲気が流れるが、そんな場合でないことを思い返し、すぐに気を取り直して言った。
「二階で絵梨香さんが監視に当たっています。私達もそちらに向かいましょう」
 絵梨香とはつい先刻交代したばかりなので、この爆発に気付いていないということはあり得まい。
「そうね。これだけの騒ぎなら他の人に知らせる必要もなさそうだし、そうした方が良いみたい」
 遅れて目を醒ました妹に、あんたは決められた手順に沿って行動するのよ、と言い残して七瀬と共に階下へ向かう。途中、裏手の監視に当たる孝和の下に応援に行くという英司とすれ違い、二言三言言葉を交わした。彼も相当に緊張しているようだ。
 二階に到着すると、既に絵梨香が臨戦態勢を取っていた。
「何があったんですか?」
 美鈴のその問いかけに窓から身を乗り出すようにして狙撃銃を構えていた絵梨香が一瞬だけスコープから顔を上げ、すぐに戻すと言った。
「ちょうど良かった。二人共、手を貸して。間もなく第二波が来るわ。一人じゃ心許ないところだったの」
 絵梨香から隣に立てかけてある暗視スコープ付きのライフルに持ち替えるよう指示されて、美鈴も七瀬もその通りにした。一応、全員が使い方の手解きは受けている。その中でも特に筋が良いと誉められたのがこの二人だ。だからこそ、絵梨香も即座に手を貸すよう求めたのだろう。それにしてもライフル銃を使う事態となると、敵はやはり遠方から攻めて来たんだろうか?
「手短に状況を話すわ。さっきバリケード付近で爆発があったのは見ての通りよ。でも弁解するつもりじゃなくて監視を疎かにしていたわけじゃない。暗視カメラや暗視スコープも使っていたからこの明るさでも誰かが近寄れば即わかったはずよ。もちろん、そんな怪しい者の姿なんてなかった。だから最初に疑ったのは私達も行ったロケット弾などによる遠距離からの砲撃だけど、音もなく月明かりだけとはいえ航跡もまったく見えないなんてあり得ない。そもそも一番警戒していたのがそれでしょ。射線が通りそうな箇所は全て調べ上げて念入りに監視していたのに見逃したとは思えないわ。それでもう一度、爆発があった付近をよく見返してみて気付いたのよ。二人共、出入口に続くスロープの辺りを見て何かおかしいと感じない?」
 絵梨香にそう言われ、早速、美鈴もスコープを覗いてみた。指摘された出入口からスロープ状に伸びた通路に沿って高台の下に続く大通りに向かい視線を走らせていくと、確かに普段の見慣れた景色とは若干の違和感を覚える。ただし、具体的に何が違うのかまで立ちどころに見抜くとはいかなかった。ここでのんびりと謎解きをやっている場合ではないだろうから正解を訊こうとして美鈴は、あっ、と短く声を上げた。元よりこの付近には常時数十体のゾンビが彷徨っている。斃してもまたどこからともなく集まって来る上、バリケードはどうせ越えられず建物とも距離があるので、現在ではほぼ放置された状態だ。そんな野良ゾンビの中に、よく見ると他とは違った動きをするものがいた。大半のゾンビが目標も定まらずにフラフラと歩き回るだけなのに対して、そいつはやけに行動が主体的というか、目的意識を感じさせなくもない。実際、他のゾンビの間を縫うようにして、こちらに向かって来ることからもそう思わせた。しかも、それは一体だけではなかった。ここからは死角となって先の方は見えないが、坂の下から次々と姿を現す。さらに美鈴はそれらが例外なく今からハイキングにでも出掛けるかのようなデイパックを背にしていることを目に留めた。
「あの背中のバッグの中身ってもしかして……」
「わかったみたいね。ええ、そうよ。たぶん爆発物で間違いないわ。ゾンビに爆弾を背負わせているのよ」
 そうか、ゾンビを操れるならそんなことも可能なのだ。しかも続々と現れる様子からして向こうにとっては造作もないことなのだろう。違和感とは言ってもそうと指摘されなければ見過ごすレベルで、他のゾンビに紛れ込んでいたなら爆発があるまで気付けなかったのは道理だ。
「お手軽よね。爆弾を設置するのにこれほど気軽な方法もないわ。何しろ、爆破したい場所まで行けと命じるだけなんだから。しかも安全性を考慮する必要もなければ恐怖に駆られて逃げ出す心配もないとなればまさにうってつけの運び役と言える。起爆させるのだって大学生程度の電気工学の知識があれば充分だしね。実際に確認するには次の爆発を待つしかないけど、どうやらそんな悠長なことも言っていられないわ」
 絵梨香がそう危惧するのも無理はない。バリケードは使い物にならなくなったとはいえ、今ならまだ敷地内にゾンビの侵入を許しただけで建物に籠っていれば一応の安全は保たれる。だが、この上旅館の外壁まで破られることになれば今の騒ぎを聞き付けてこの後押し寄せて来るであろうゾンビの流れを喰い止める術はない。犠牲が出るのは必定と言えた。それだけは何としてでも阻止しなければならない。
「近付く爆弾ゾンビは片っ端から撃ち倒していくしかないわ。一体でも撃ち洩らせば建物に穴が開くと覚悟して。一人じゃ間に合わない。二人にも協力して貰うわ」
「でも、あれだけの爆弾を一体どこから──」
 調達したのか、と七瀬が言い終える前に、絵梨香が淡々とした動作で引き金を絞った。そうと覚悟していても心臓が縮み上がるほどの轟音が響くと同時に、ちょうど美鈴が覗いていた辺りの、まだシルエットで辛うじてそれと視認できる程度でしかなかった人影が仰け反るように倒れて動かなくなった。さすがと言うべき腕前だ。幾ら射撃センスにお墨付きを貰ったとは言っても自分や七瀬ではこうはいかない。
「やっぱり爆発はしないか。目標に辿り着かなかったから放置しているだけかも知れないけど、全部が本物ではないようね。適当にダミーを織り交ぜて標的を絞らせないようにしているんでしょう。囮役のゾンビには事欠かないでしょうし、こちらの弾薬は無限じゃない。これをやられたら厄介だっていうのを熟知しているわね。かといって、見分けが付かない以上、全てを本物として対処していくしかない。私はできるだけ遠くの的を狙うから二人には近くに来た奴をお願いするわ。そうね……あの植え込みにある立て看板の辺りをFPL──最終防御線にするから突破されそうになったら知らせて頂戴。人間相手じゃないからきれいに決める必要はない。何発かかってもいいから確実に動きを止めるまで撃ち続けて」
 そう言われて美鈴が絵梨香の隣でポジションに着きかけると、躊躇いがちに七瀬が声をかけた。
「あの……岩永さんはどこに?」
 襲撃からこれだけ経っても智哉が姿を見せないということは恐らくもう外に向かっているに違いない、そう美鈴は捉えて敢えて訊かなかったが、七瀬は確かめずにいられなかったらしい。まさか美鈴の分まで代弁したつもりはないだろうが。
「あなた達が来る直前に連絡があった。既に外に向かっているってね。爆弾ゾンビのことは一応伝えてあるわ。こんなやり方で仕掛けて来られたらもう彼に頼るしかない。私達にできるのは時間を稼ぐことだけよ。悩んでいる暇はないわ。自分達の務めを果たしましょう」
 絵梨香の言う通りだった。今の自分達に智哉を直接手助けできることは何もない。彼を信じてその目的が達成されるまでひたすら耐え続けるだけだ。七瀬も似たようなことを悟ったらしく、無言で頷いて配置に着いた。
「前にも言ったけど、上半身だけで無理に反動を抑え込まないこと。肩や腰を痛める羽目になるわよ。身体全体を使って衝撃を吸収することを意識して。あとは練習で教えた通りにすれば大丈夫。撃つ直前まで引き金に指を掛けない点を忘れないで。外しても落ち着いて次を装填すれば良い」
 そうして三人で狙撃を開始すると、全員が同じ倍率のスコープを使っているにも関わらず、より遠くを狙う絵梨香が殆ど一発で仕留めていくのに対し、美鈴や七瀬は一体を斃すのに平均で三発から四発かかることになった。なので、五発しか入らない着脱式弾倉はあっという間に空になる。あとからやって来た日奈子と理沙が弾薬手として付きっ切りで補充してくれているので何とか途切れさせずに射撃を続けていられるが、標的との距離は徐々に縮まりつつある。
(一体、どれほどのゾンビが現れるんだろう……)
 かれこれ十五分近くの間に、七瀬と二人で二十体ほどのゾンビを仕留めたはずだ。絵梨香に至っては一人でそれ以上の成果を挙げているに違いない。大半は何事もなくその場に崩れ落ちるのみだが、時折本物が混じっていて実際に爆発するから片時も気が抜けない。それでも一向に勢いが衰える気配は感じなかった。
(もしかしたらこのまま弾切れを待つ気だろうか?)
 そんな不安が過りかけた頃、遂には絵梨香が設定した最終防衛線FPL近くまでゾンビが辿り着くようになり、彼女も遠方での対処を諦め、二人に倣って近場での防御に加わる。この時点で日奈子が数えたところによると残弾数は七十発を切っていた。だが、ここで射撃の手を緩めるわけにはいかない。絵梨香を含めた三人がかりで辛うじてFLP突破を阻止できているからだ。一人でも欠ければ瞬く間に破られることは想像に難くなかった。
「念のため、一階にいる人達は上の階に移って貰いましょう。階段の鉄扉もいつでも下せるように準備しておくよう言って」
 その指示を理沙が無線で各自に伝える。ついでに反対側を監視している孝和達とも連絡を取り合い、今のところ、包囲された形跡がないことを確認する。散弾銃しか装備していない彼らには引き続き裏手の警戒に当たって貰う。
 それらの通話を終えた直後、一体のゾンビがFPLの火線を擦り抜け、建物まで五十メートルほどに接近したのがわかった。この近さは狙撃用に調整されたライフルにとって難しい距離だが、絵梨香は、任せて、と声をかけると、他の銃に持ち替えることなく難なく頭部を撃ち抜いて見せる。ただ、ゾンビが倒れた次の瞬間、轟音と共に空気を切り裂く衝撃波が建物全体を襲う。窓ガラスが一斉に砕け散る中、熱風に晒されて美鈴は思わずしゃがみ込みそうになるが、視界の片隅で後続のゾンビを捉え、必死で体勢を立て直して狙撃を続けた。それを支えるのは自分は今ここで死ぬわけにはいかないという切実な思いだけだ。何故ならまだ誰にも話していない──そう、智哉にも打ち明けていないことが彼女にはあったからである。
(妊娠したかも知れない)
 ここ数日の体調不良にはそう思わせる懐胎の初期兆候があった。無論、こんな状況下では病院を受診して確かめるわけにもいかず、それ以前に妊娠は避けるべく充分に気を配ってきたはずなので間違いということも大いにあり得たが、百パーセント確実な避妊方法がないのは周知の事実だし、生理が予定日を一週間近く過ぎて来ていないのもまた確かだ。その程度の遅れは日常的という人ももちろんいるだろうが、美鈴の場合、本人が呆れるほど月経周期は正確で、これまでに三日と狂ったことはなく、それは世界がこうなってからも変わらなかった。だから思い過ごしと笑い飛ばすことができなかったのである。この上はせめて絵梨香にだけは打ち明けて、次回の物資調達の折にでも妊娠検査薬の入手を頼もうと思っていた矢先の今回の出来事だった。検査の結果如何では皆に迷惑を掛けることになる以上、ずっと内緒にしておくわけにもいくまい。当然、その前には智哉に伝えて然るべきだろう。
(さすがに困惑するよね。まさか父親であることを否定はしないと思うけど、弘樹との仲を疑ったりしないだろうか……)
 気掛かりはそれだけではなかったが、妊娠が本当なら受け容れざるを得ない。その場合でも堕胎という選択肢を自分は選ばないだろう、と美鈴は思った。智哉は別かも知れないが。設備や人員面で不安があるということではなかった。仮に整った医療施設や医者が見つかってもたぶん同じことだ。何故かは美鈴自身にもよくわからなかった。敢えて理由を挙げるとすれば、これまで奪われてばかりだった命を生み出すということが、自分なりのこの世界への抵抗に思えたからに他ならない。
 あるいは甘く見過ぎだろうか、そんな気がしなくもない。只でさえ普通に子供を育てる苦労すら知らないのだ。ましてや死と隣り合わせの世界で、この先どんな事態が待ち受けているかも不明なのに子供を産むなど向う見ずにもほどがあると自分でも思う。それでも賢い選択はできそうにない。
 智哉はこうした自分の考えをどう思うのだろうか? 反対するか、それとも受け容れてくれるだろうか? それもこれもこの戦いを生き延びてみなければわからない。
(だからそれまでは絶対に死ねない)
 何が何でも生き抜いてみせる、そう美鈴は決意を新たにした。

(旅館を飛び出す前に美鈴や七瀬には会って声をかけておくべきだったか)
 智哉にしては珍しくそうした後悔に囚われる。自分はいつからこんな感傷的な人間になったのだろうか? 無論、これが今生の別れになるとは微塵も考えていない。必ず無事に生還して元の安穏な暮らしを取り戻すと決意している。それでも普段の、智哉とすれば気楽な調達に出掛けるのとはわけが違う。この先は不測の事態が幾らでも起こり得た。不安がないと言えば嘘になる。一人なら戦うことなど端からせずにとっとと逃げ出していただろう。自分だけであれば幾らでも行方を眩ます自信はあった。わざわざ危険を冒してまで奴らと対峙する意味などないに等しい。だが、集団となればそうもいかなかった。新しく安全な居場所を確保するだけでも一大事だし、そこが再び見つからないという保証はどこにもない。ましてやいつ襲われるかと四六時中怯えながら暮らしていくなど願い下げである。やはり、ここでけりを着ける以外にないと思われた。ちなみに残り僅かなロケット弾は宿の防衛用に置いて来ているので、前回の地獄の苦しみは味わわずに済んでいる。武装は低倍率スコープ装着の八九式小銃と腿に吊るした九ミリ拳銃のみと身軽な構成。予備弾倉は三十発用を五本、多目的ベストのマガジンポーチに収納してある。敵の頭数を考えればこれでも多いくらいだ。この弾倉を全部使い切るほど撃ち合うようではどの途負けている。こうした装備で建物を出た智哉は、まずは宿の裏手に足を向けた。そこに用意してあった梯子を使い、旅館が建つ高台から一段低い外周の路地へと降り立つ。正面の出入口は当然奴らも警戒しているだろうから外に出たことを気取られないためだ。梯子を近くの草むらに隠し、側面を回り込むようにして移動を開始する。その最中も間断なく銃声が響き、それに混じって時折爆発音を耳にする。絵梨香から伝え聞いた爆弾ゾンビの仕業に相違ないだろう。状況を確認しようと無線に手が伸び掛けるがぐっと堪えた。今、連絡しても恐らく気を散らせるだけだ。退っ引きならない事態になれば向こうが連絡して来るだろうから、ここは専門家である絵梨香の采配を信じて自分の役割を全うすることに集中する。宿のことを頭から追い払いつつ、早足で茂みのある場所まで辿り着いた智哉は、迷うことなく道を外れてその中に分け入った。青々と生い茂るとまではいかないものの、腰ほどの高さの樹木に囲まれれば屈んで身を隠すには好都合だ。そのまま藪の中を低い姿勢を維持して前進し始めた。慣れない体勢に全身の筋肉が悲鳴を上げる中、体感で二、三十メートルほど進んでは立ち止まり、辺りに耳を澄ますを繰り返して、近くで話し声や怪しい物音がしないかを確かめる。そうやって一歩一歩地道にゾンビがやって来る方向を辿るしか連中を見つけ出す方法はあるまい。時々、道路が覗ける位置まで藪を出て方角が間違っていないかをチェックする。やがて出入口から真っ直ぐスロープ状の坂を下って突き当たる交差点の角に到達した。左右に伸びるのは中央に緑地帯のある片側二車線の幅広な県道で、当然のことながらどこを見回しても車は一台も走っていない。代わりに交差点のど真ん中で道を塞ぐようにして停められた見慣れない箱型トラックが目に付いた。数日前までは存在していなかったものだ。連中が用意したに違いなかった。何のために、という疑問はさほど時を置かずして氷解した。智哉の位置ではトラックの背後は死角になって見通すことができず荷台の中身まではわからなかったが、開け離れたリア扉の向こうにデイパックを背負ったゾンビが一体また一体と姿を現すのが見えたからだ。ゾンビは何かに取り憑かれたかのように振り返り、スロープの方へと順番に向かって行く。
(なるほど。あれに爆弾ゾンビを詰め込んでここまで運んで来たのか)
 それなら準備に手間取ることがなかったのも頷ける。そうなると近くに操っている人間──即ち千秋がいるはずだが、目の届く範疇においてそれらしき人物を確認することはできなかった。
(周辺の建物に潜んでいるとなると面倒だな)
 ザッと見渡したところ、交差点を視界に収める建物だけでも十件近くの民家やアパート、工場が建ち並んでいる。それらを虱潰しに当たるには圧倒的に手が足りていない。第一、待ち構えているかも知れない相手に、例え自由に行動できるという意表を突けたとしても返り討ちに遭う危険が高いことに変わりなかった。せめて潜んでいる建物だけでも特定しないことには近寄ることもままならない。交差点から距離を取って迂回したとしても同じことだろう。
 その上、目の前には別の問題が生じつつあった。
(ゾンビが集まり過ぎている)
 既に交差点に程近い路上の一部はゾンビで埋まりかけている。どこから来たのかは定かでないが、そいつらが最終的に向かう場所はスロープを上がり切った先、つまりは美鈴達が立て籠もる旅館で間違いなく、現状ではまだゆっくりとした足取りながら、いつ獲物に気付いて走り出してもおかしくはない。さっさと千秋を始末して、急ぎ宿に戻り対策を講じる必要がある。
 だが、一体どうすれば良いのか、考えはさっぱりだった。ゾンビの不自然な動きを当てにしようにも潜伏する建物内だけを寄り付かなくしていれば外から見分けは付かない。灯りを洩らすなど相手の不用意なミスに期待するのは都合が良過ぎよう。結局、これといって決め手がないまま時間だけが無情にも過ぎていく。焦れば焦るほど貴重な時を無為に費やしているとの苛立ちばかりが募る。いっそのこと、自身を囮にとも考えたが、一人でそれをやっても意味がないことに気付き思い留まった。支援する仲間がいてこそ、挺身も報われる。単独行動の智哉では良い的になるだけだ。そうしてあれやこれやと悩むうちに、智哉が交差点に辿り着いて早十五分ほどが過ぎた。遠くに聞こえる銃声は一層の激しさを増し、爆発の頻度も心なしか増えた気がする。そして何度目かの爆発音の後、無線機が呼び出しを告げた。絵梨香からであろうことは容易に予想が付いた。その内容についても。応じると案の定、切羽詰まった様子の彼女の声が耳許に届く。
「無事よね? 今の爆発音は聞こえた? とうとう外壁が破られたわ。辛うじて屋内への侵入は阻んでいるけど、それも保って時間の問題。これからみんなには一階を放棄して鉄扉を下ろすよう指示するつもり。だけど、それじゃ爆弾ゾンビは防げない。弾も残り僅かになっているわ。無理を承知でお願いするけど、急いで欲しい。もうあまり長くは耐えられそうにないの」
 絵梨香の悲痛とも言える訴えに、交差点内を一瞥した智哉が答える。
「爆弾ゾンビについてはたぶん大丈夫だ。さっきので打ち止めだろう。これ以上そっちに向かうことはないはずだ」
 智哉が見ている前でトラックから爆弾ゾンビが現れていたのは最初のうちだけだ。すぐに途切れてそれから十分近く経つが、新たに増えた様子はない。これは使い果たしたと見て差し支えなさそうだ。
「そう。それなら少しは保たせられそうだわ」
「いや、安心するのはまだ早い」
 そう言って智哉はスロープの下の大通りに多数のゾンビが集まって来ていることを知らせる。
「これだけのゾンビが一斉に向かえば用意した防衛策が役に立つかはわからない。前に建物の一部が倒壊させられるのを見たしな。それに俺の方も手詰まりだ。当分、助けには戻れそうにない」
 どういうことか、と訊ねる絵梨香に、智哉は掻い摘んで現状を説明した。
「ここまでは恐らく前哨戦に過ぎないだろう。連中が動くとしたらこれからだ。動いてくれるならだがな。奴らにしたら待っているだけで俺達は勝手に追い詰められていくんだ。無理に自分達が手を下す必要はない。何とかそうならないように策を講じたいんだが、今のところ、良い考えは浮かばないな。はっきり言ってお手上げだ」
 元々ゾンビがいる中でも自由が利く連中の方から攻めて来ることを想定して立てた作戦だ。待ちに徹せられるなど考え付きもしなかった。完全に奴らの術中に嵌ったと言って良い。
 それだけを早口に捲し立てて黙り込んだ智哉に、やや間があって絵梨香が言った。
「策なら……ないこともないわ。用意に少し時間がかかるけど」
 どんな手かと智哉が訊いても、実行できる算段が付いたら教えると言って取り合って貰えない。若干不安を感じながらも智哉はそれ以上追及するのを諦めた。準備がある、と一方的に通話を切られて暫く経った頃、どこからともなくエンジン音が聞こえてくる。聞き耳を立て注意深く方向を探ると予期した通り、高台の上から響いてきているのがわかった。
(これが絵梨香の言っていた策なのか? 車を持ち出してどうする気だ? まさか一人で逃げ出そうって腹じゃないだろうな)
 いや、絵梨香に限ってそれはない、と即座に思い浮かべた考えを否定しながら、智哉は不吉な予感を覚えた。何か無茶をするつもりではなかろうか──。
 やがて、走り出したらしくエンジン音は甲高く変わり、次第に大きくなって交差点に近付きつつあるのを教える。すぐにゾンビを蹴散らしながらスロープを駆け下りて来る一台の車が目に入った。いつもの改造冷凍車じゃない。智哉が一人で出掛ける時用の何のゾンビ対策も施していないSUVだ。化学防護服を身に着けていても絵梨香にとっては危険極まりなく、しかもこの先は連中が手ぐすねを引いて待ち受けているであろう交差点だ。奴らがこの格好の標的を見逃すはずがない。
「おい、何をしている。無茶な真似なら止めろ。引き返せ」
「私が車であいつらの注意を惹き付けるから、あなたはその間に道路を渡るなりして接近して。撃ってくれば潜伏箇所もわかるはずよ」
 どうやらわざと撃たせて奴らの居場所を突き止める算段らしい。だが、幾ら何でも無謀過ぎた。直ちに止めさせなければ絵梨香の無事は保証できない。
「だったらその役は俺がやる。いざとなれば車を捨てて逃げられるのは俺だけだ」
「駄目よ。他の人が囮はできてもゾンビが彷徨く中を急襲できるのはあなたしかいない。それに議論している時間はないわ。何も撃ち合うわけじゃない。目の前を車で通り過ぎるだけよ。運転席で身を屈めていればそうそう当たるものでもないわ」
 出鱈目だ。確かに正面から撃たれるだけなら頑丈なエンジンルームが盾になってある程度は防いでくれるかも知れないが、前後左右に加え上からも狙われては薄い鋼板が銃弾を弾きようはずもなく、ほぼ無防備であることは間違いない。それに運良く身体への被弾を免れたとしてもタイヤやエンジンが破損して立ち往生する羽目になればゾンビに取り囲まれることになるのだ。
(それとも本当に勝算があってのことなのか? 単なる無鉄砲ではなくて……?)
 いずれにせよ、ここまで来てしまってはもはや智哉に止めようがなかった。あとは事態の成り行きを見守るより外、仕方がない。
 そう覚悟を決めた智哉の眼前に絵梨香の駆る漆黒のSUVが現れ、一瞬、静寂が周囲を包んだかのような錯覚に囚われた次の瞬間、道路の向こう側から銃撃が始まる。使用火器はこれまでと同じアサルトライフルであるようだ。消炎器フラッシュハイダーを着けていても早朝の薄暗い中、完全には隠し切れない発火炎ですぐに射撃位置は特定できた。県道を挟んで智哉が潜む茂みの斜向かいに当たる三階建ての工場と思われる建物、その二階と屋上からだった。ただし、わかったのはそれだけで誰がどの場所にいるのかまでは掴めない。
(どちらかに千秋がいるとは限らないが、手掛かりがそれしかない以上、賭けるしかないだろうな)
 可能性としてはさほど低くはないだろう。護るべき対象を目の届かないところに置くとは考えにくいためだ。
 今なら注意は絵梨香の方に向いていてこちらを見る目はないはず、そう考え、思い切って草むらを飛び出る。日の出前とはいえ、道路を横切る人影を照らすには充分過ぎる月明かりの下、祈るような気持ちで横断する。
 幸いなことに気付かれた様子はなかった。一先ずは絵梨香の思い付きが功を奏したことにホッと胸を撫で下ろす。だが、安堵してばかりはいられない。直後に五十メートルほど離れた交差点内に侵入するSUVが見えた。その姿に思わず息を呑む。フロントガラスは既に全面が蜘蛛の巣状の真っ白なひび割れに覆われ、ボンネットには無数の穴が開く。バンパーは外れて落ち、ヘッドライトは片側が壊れ、サイドミラーは左右のどちらも残っていない。タイヤは今のところ平気なようだが、他にもあちこちに着弾の痕が見られ、未だに走れているのが不思議なほどの惨状だった。あれで車内の絵梨香は無事なのだろうか? そんな智哉の心配を他所に車は交差点内に置かれたトラックの脇を一気に通過するつもりらしく、一段と加速する。その時、斜め上方から銃弾が一斉に降り注いだ。リアフェンダーを貫通して直下のタイヤに当たったようで、ゴム片を紙吹雪のように撒き散らしながら後輪が派手にバーストした。そのせいでバランスを崩した車はあり得ない角度でスライドしつつ、トラックに激突する。さらに弾かれた拍子に地面を二回転し、電柱の根元にぶつかって漸く停止した。一瞬、呆気に取られたものの、すぐに気を取り直して思わず駆け寄りそうになるのを辛うじて意思の力でねじ伏せると、代わって無線に手を伸ばした。
「大丈夫か? 応答しろ」
 返事はない。あれほど激しい衝突の後だけに気を失っているのかも知れない。だから無茶をするなと言ったのに、という叱責が喉元まで出かかったのを呑み込んで、もう一度呼びかける。応答の代わりに運転席側のドアが開いて転がり出て来た絵梨香を見て、智哉はこの日何度目かの驚愕にまたしても見舞われた。彼女は化学防護服を身に着けてはいなかった。
「まだ生きているわよ、一応ね」
 やっと応えたそんな減らず口も耳に入らず、智哉は半ば放心したように呟いた。
「何の真似だ? どうして防護服を着ていない?」
 今、問い詰めても詮無いことをそうと気付かずつい訊ねてしまう。
「どうせ途中で停止すれば周りはゾンビだらけなんだから防護服を着ていようが着ていまいが同じことでしょ。だったら運転しやすい方が無事に走り抜けられそうと踏んだんだけど、どうやら甘かったようね。でも、判断に誤りはなかったと思っている」
「待ってろ。今、助けに向かう」
 智哉のその宣言に、気持ちは嬉しいけど駄目に決まっているでしょ、と絵梨香は即答した。
「私がしたことを全部無駄にするつもり? 失敗すればこうなるのは覚悟の上でやったことよ。それにあいつらの居場所は掴めたんでしょ? 最低限の目的は果たせたわけだし、後悔はないわ。このチャンスを逃す方が私には無念よ。時間もあまりないことだし、さっさと行って。自分のことは自分でけりを着ける」
 そんな絵梨香の言葉を一切無視して智哉は何とか彼女を救う手立てが無いかと必死に模索する。しかし、この状況で絵梨香が助かる可能性は限りなくゼロに近いと考えざるを得なかった。それこそ、古代ギリシア悲劇に登場する神様でも現れない限りは不可能だ。当然、そんな都合の良い展開が訪れるはずもなく、智哉が見ている前で絵梨香は片足を引きずりながら車の陰に移動し、その場に腰を下ろした。そして智哉の葛藤を見抜いたように語気鋭く言い放つ。
「行きなさい。それとも私が死ぬところを見ていたい? できればあなたにだけは見せたくないんだけど、まあ仕方がないか」
 諦めるな、と智哉が口にするより早く、有無を言わさず無線は切られた。以降は何と呼びかけようが一切応じる気配はない。
(どうあってもこれまでなのか……)
 愚図々々していたら連中が動き出すかも知れない。そうなれば絵梨香がしたことは本当に徒骨となる。それだけは絶対にあってはならないことだ。智哉は意を決してその場を立ち去ろうとして、あることに気付いた。
(ゾンビが襲って来ない……?)
 本来なら猟犬さながらに群がって来るはずのゾンビが何故か絵梨香を無視している。まるで彼女など端から存在していないかのように、これまでとまったく変わらない足取りで高台に向かっている。
(これは一体どういうことだ?)
 考えられるとしたら千秋の仕業ということだろう。ゾンビが操れるということにもはや疑いの余地はない。どうやら絵梨香も異変を察知したようだ。遠目にも明らかに狼狽した様子が見て取れた。それも無理はない。何しろ、一旦は死を覚悟したに相違なく、そんな中で僅かでも助かる見込みが脳裏に過れば誰であれ決心が鈍ったとして何らおかしなことではないからだ。狙ってやったとしたら悪辣極まりない手口と言えよう。
 だが、当然ながら絵梨香を救うつもりでないのは明白だ。千秋が絵梨香をゾンビに襲わせない理由、それは一つしか考えられない。自分達の手で嬲り殺しにする以外にあり得なかった。その証拠に絵梨香が隠れている辺りを狙い、またしても銃弾が撃ち込まれ始めた。今度は動かない標的ということで、先程までの無差別な銃撃と違い、一発一発を丁寧に狙い澄ましてきている。狩りでもしている気分なのだろう。今度こそ、智哉はその場を離れた。ここで加勢に向かっても千秋がその気になればゾンビをけしかけるだけで済んでしまう。自分達で始末できないとなれば躊躇うことなくそうするだろう。第一、智哉が救援に駆け付けることを絵梨香は望んではいまい。それなら今できることは当初の目的を完遂することだけだ。智哉は連中が陣取っている建物の隣のマンションに目を留めた。ちょうど窓越しに建物内部を見通せそうな外階段がある。そこに賭けた。壁伝いに接近し、目標の集合住宅に到着すると、外階段を一気に駆け上がる。二階の踊り場からは期待通りに同じ高さの工場のフロアが覗けたが、そこには千秋と思しき少女の姿はなかった。代わって智哉と同世代と思われる男が一人で反対側の窓の外に向かい銃を構えていた。自分では仕留める気がないのか、スコープ越しに見物しているだけらしく撃つ気配は感じられない。無理をすれば狙えない角度ではなかったが、千秋以外を斃しても意味がない。むしろ、それで千秋に逃げられでもしたら元も子もないので無視することにした。なので立ち止まらずに三階へと向かう。そこで遂に二人の女達を発見する。一人は工場の事務所と思しき部屋の片隅で小さくなって蹲っており、もう一人は窓際で双眼鏡のようなものを手にして通りを見下ろしている。セーラー服姿なのは後者だ。見間違えようがない。
(見つけた。だが──)
 ここからでは建物の裏側に当たる絵梨香の居場所は死角になっていて見えない。銃撃が続いているということはまだ生きていると推測できるのみだ。もっともそれすら長くは続かないだろう。ゾンビを抑えている千秋を殺せば絵梨香がどうなるかは智哉でなくとも想像するのは簡単だ。それでもやるしかないのは今更なことだった。
 智哉は一度、大きく息を吸った。迷いを断ち切るように小銃のセレクターレバーを連射を意味する「レ」の位置に合わせる。絶対に仕留め損なうわけにはいかなかったので、弾倉内の全弾を撃ち尽くすつもりだった。例え心の中だけであっても絵梨香に詫びようとは思わない。それは彼女の行いに水を差す気がしたからだ。だから頭の中を空っぽにして無言で銃を構える。スコープを覗き込み、レティクル中央の十字線を少女の背中に重ねるようにする。そして己が成すべきことをした──。
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