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第三部 避難篇
11 裏切り
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──空気が冷たい。
僅かな隙間も塞ぐようにして外部に呼気が洩れない工夫を施された冷凍車の荷室にあっても絵梨香は今年初の小雪が舞う外気の温度をひしひしと感じていた。当然、酸欠を防ぐために内部で暖房器具は一切使えない。外に出る際には只でさえ身動きしづらい化学防護服に袖を通すことになるので、あまり厚着もできなかった。それでもゾンビに襲われることに比べれば、寒さに耐える程度のことは何でもないと思える。今頃は運転席の智哉も吐く息を白く曇らせていることだろう。彼とて寒さを感じない超人ではないのだから。その智哉とはVOX(ボイス・オペレーテッド・トランスミッションの略。音声を感知すると自動で送信状態になるためハンズフリー通話が可能)機能付きの小型デジタル無線機でいつでも会話できるが、さすがに道中で無駄話をしているような気楽さはない。外の景色は四方に取り付けた車載カメラの映像で中からも確認できているが、振動だけで荒れたアスファルトの路上を走る気配は伝わる。このところ常態となった智哉と二人で外部に赴く際のやり方だ。ただし、今日はいつもの調達ではなく、連絡が絶えて二日目となった遠征組の捜索を依頼されてのものだった。
「あなた方には迷惑をかけることになってしまって申し訳なく思うわ。結局、あなたが懸念した通りになってしまったわね。反対を押し切って強行しておき、こんなことを頼める義理でないのは承知しているけど、他にお願いできる人はいないのよ。何とかあなた達の手で彼らを見つけ出して、無事でいたなら連れて帰って欲しい」
智哉と共に執務室に呼ばれた絵梨香は友里恵からそのように言われた。友里恵直々のその要請を智哉にしては珍しく二つ返事で引き受けた。断ろうと思えばそうできただろうに。あとで理由を訊くと、どうせ気になって調べることになるだろうから一緒のことだと言う。ついでに三上に借りを作るのも悪くない、とも述べた。その三上はどうしているのかと友里恵に訊ねると、未だに機材トラブルを主張していて己の非を認めてはいないらしい。この調子だと失敗が明らかになっても犠牲は付きものと開き直るのではないかと友里恵は言った。あの男ならあり得ると絵梨香も思った。
それで絵梨香が荷室で寒さに震える中、運転席では智哉が真剣な面持ちで、ダッシュボードに張り付けた物流センターへの地図と景色とを交互に睨めっこしながらハンドルを握ることになっていた。カーナビゲーションを使わないのは、GPSが機能していないためだ。アナログな手法を頼りに障害物の多い表通りは避けてなるべく裏道を進む。幸いにもこの辺りは智哉が住んでいた市内中心部とは違い、道路整備をしていなくてもまだ通れる道が幾つか残されていた。恐らくは遠征組もこうしたルートを通ったに違いない。化学防護服を着ている限り完全には無理でも出会い頭の接触にさえ注意していれば移動中に襲われる危険は低いはずだ。
(問題は目的地に到達してからだな。襲われたとしたら車を降りた後だろう)
それでも一応、道すがら彼らが車を乗り捨てていないか注意しつつ移動する。荷室では絵梨香も周囲の映像に目を凝らしているはずだが、何も言ってこないところをみると、彼女の方でも不審なものは見かけていないのだろう。やがて、半日ほどをかけて車は目的の物流センターに近付いた。正面のトラックヤードが見通せる手前の位置に一旦冷凍車を止め、智哉はヘッドセットに繋いだ無線に話しかけた。
「三百メートルほど先の白い建物は見えるか? 真四角の三階建てやつだ。地図によるとあれが目的の物流センターらしい」
「見えるわ。プラットホームに人影はなさそうだけど、中央に停まっているのは彼らが乗って行った車両みたいね」
トラックの荷台の高さに合わせたコンクリート製のプラットホームには、五ヶ所のシャッター付き荷物搬入出口が設けられており、その一つに後ろ向きで見憶えのある車体が乗り入れられていた。絵梨香の言う通り、彼らが使った冷凍車に間違いなさそうである。ただし、シャッターはいずれも隙間なく閉じられている。
「ここまでは無事に辿り着いたみたいだな。運転席に誰も乗っていないのは当たり前か。荷室の観音扉は開いているようだが、中までは見通せないな。問題は搬入口のシャッターが元々閉じられていたのか、彼らが中から閉じたのかだが、ここからじゃ確かめられそうにない」
もう少し近寄って調べてみるか、と智哉が車を接近させようとすると、待って、と絵梨香が鋭く叫んだ。
「どうした?」
「三階の窓際で何か動いた気がする」
「ゾンビか?」
「映像じゃはっきりとわからなかったわ。もしかしたら見間違いかも知れない」
智哉は三秒ほど思案して、降りて調べてみる、と絵梨香に告げた。ひょっとしたら遠征組が内部で追い詰められ身動きが取れなくなっているのかも知れない。念のため、彼らに見られても不審がられないようダミーの防護服を手早く身に着け、車を降りる。周囲にゾンビの姿がないのを確認してからリア扉を開けて、こちらは本当に厳重に化学防護服を着込んだ絵梨香を車外に出し、取り外しが利くアルミ製の梯子を使って屋根に登らせた。絵梨香は護身用の八九式小銃の外、先日入手した狙撃銃も手にしている。所定のポジションに絵梨香が着いたのを確認して智哉は自分もベネリM3を携えて物流センターへ向かって歩き出した。
「どうだ? 何か見えるか?」
百メートルほど近付いたところで、歩きながら智哉は口許のマイクに話しかける。フェイスマスクの中にあるため、リップマイクの位置を細かく調整できないのがもどかしいが、それでも会話をするのに支障はなく、今のところ異常無し、という絵梨香の声を耳に付けたイヤホンで聞いた。さらに五十メートルほど接近して、智哉は立ち止まった。双眼鏡で建物を確認したいが、フェイスマスクを被ったままでは上手く覗けそうになく、上半身だけでも脱ごうかと迷っていると、突然耳許に緊迫した絵梨香の声が飛び込んできた。
「屋上に人影。銃を構えている。急いで身を隠して」
意味を理解するのに数瞬の間を要したが、ハッとした途端、直ちに近くの車の陰へと身を躍らせた。それとほぼ同時に銃声が鳴り響く。二十メートルほど先のアスファルトの路面が鼠花火でもあったかのようにパッと爆ぜた。アイピース越しの狭い視野でもそれを確認した智哉は、狙われたという恐怖感と、外れたという安堵の感情を一度に味わう。絵梨香に見られているという思いで辛うじてパニックになるのだけは抑え込んだ。こんな時でも男は見栄を張る生き物らしい。それだけでも彼女を同行させた甲斐はあったと言えるだろう。その絵梨香が無線で再度呼びかけてきた。
「援護するからその隙にこっちに戻って来て」
(落ち着け。弾はどこにも当たっていない。冷静に考えろ)
智哉は自分にそう言い聞かせた。着弾点は元いた場所から二十メートルも離れている。幾ら射撃の素人でもこの距離でそこまで外すとは考えにくい。恐らく最初から当てる気はなかったのだろう。だとすれば、脅しの意味合いに違いない。智哉は絵梨香に素早く告げた。
「待て。撃つな。今のは脅しだ。それよりそちらから見た状況を教えてくれ」
声が震えずに済んだのは幸いだった。
「屋上に男が二人。防護服を通してだったから発見が遅れたわ。ごめんなさい。どちらも銃を持っている。一瞬見えた感じでは恐らく猟銃じゃなくて自動小銃。たぶん自衛隊の八九式だと思う。他に人影は見られない」
「服装はどうだ? 自衛隊や警察の制服じゃないか?」
「違うわ。ジャンパーにジーンズみたいなありふれた服装よ」
「わかった。それでそこから狙えるのか?」
「防護服を着ているから正確な狙撃は難しい。牽制程度にはなると思う」
「向こうからお前が狙われる危険性は? 不利な位置にならないか?」
「相手が射撃に慣れていればそうなるわね。でも構えを見た雰囲気では銃を使い慣れている感じには見えなかった。それなら撃ち合っても問題ない」
無理はするな、と智哉が言いかけた時、無線に別の声が割り込んできた。
「そこで防護服を着て隠れている奴、聞こえるか? 聞こえてたら返事をしろ」
どうやら建物内から呼びかけているようだ。先程撃ってきた奴かも知れない。恐らくチャンネルの使用状況から交信周波数を割り出したのだろう。会話自体は秘話機能で守られていても、塞がっているかどうかは雑音性でわかる。智哉は秘話機能を切って慎重に応答した。
「聞こえているぞ。何だ?」
「やっぱり通じたか。あんた、岩永さんだろ?」
「そうだ。そういうお前は元総務班の吉岡だな」
「ああ、その通りだよ。名前を知って貰えていたとは光栄だね」
やはりな。民間人の格好で八九式を持っていたという時点で予想はしていたが、それがたった今、確信に変わった。どうやら無事だったらしい。
「生きていたんだな。他の奴らも一緒か?」
「こっちの人数を探っているのか? まあいい。一人を除いて全員ピンピンしているよ」
(一人を除いて? どういう意味だ?)
気になったが、先にはっきりさせておくべきことを訊いた。
「さっき撃ってきたのはお前らか? どういうつもりだ? 申し開きがあるなら聞くのは今だけだぞ」
「そんなものはないね。近付くなって警告だよ。さっきのは脅しだったが、今度近寄って来れば本気で当てにいく」
「お前らを捜しに来たってわかった上でのことだろうな?」
「もちろんだ。わざわざやって来るとはあんたも大概のお節介焼きだな。死んだと思って放っておいてくれたら良かったものを」
「……つまり、自発的な行動ってことだな。避難所に戻る意思はないということか?」
「そうさ。俺達はここに居坐ることに決めたよ。水や食糧も確保できたことだしな。そういうわけだから他の奴らには帰ってよろしく言っといてくれ。二度とここには来るなともな」
物資の独り占め、どうやらそれが彼らの導き出した結論だったようだ。眼の前で大量の商品を見せつけられればそうなる気持ちもわからなくはない。この規模の物流拠点であれば相当量の物資が手に入っても不思議ではないし、それを数人で消費していくだけなら、かなりの年月が凌げるだろう。逆に持ち帰れば公平に分配されることになり、一人に換算したら幾許もなくなる。ただ、気になったのは一人を除いてという言葉だ。智哉はそのことを訊ねてみることにした。
「そういえば一人を除いてと言ったな。そいつはどうした?」
「気になるのか? そうだなあ、教えてやらんわけでもないが、条件がある」
「一応、聞いてやる。話せ」
「相棒の自衛隊女も連れて来ているんだろ。そいつをこっちに寄越すんだったら教えてやる。何しろ、ここは男所帯で華やかさに欠けているんでね。彼女にはちょっとばかり夜の相手でもして貰えたらいい。それほど悪い提案じゃないだろ? 俺達をほんの少し喜ばせるだけで水も食糧も手に入れ放題だ」
次の瞬間、先程よりやや甲高く余韻の長い銃声が聞こえた。屋上に突き出た塔屋の窓ガラスが粉々に砕け散る。無論、絵梨香が撃ったに違いない。
「クソッ、いきなり何しやがる」
「それが返事だそうだ。振られたようだな」
智哉は内心の笑みを噛み殺して、そう告げた。それにしても化学防護服を着たままではまともにスコープも覗けないはずなのに、窓ガラス一枚分の広さとはいえ、見事に命中させる絵梨香の腕前はさすがのひと言に尽きた。
「……チッ、冗談だよ。こっちは本気で撃ち合う気なんてねえんだ。少なくともあんたらが向かって来ない限りはな。その上で俺達が本気だってことを示すために教えといてやる。さっき言った奴なら死んだよ。避難所には戻らないって言ったら反対したんでね」
「……お前らが殺したのか?」
「直接殺ったわけじゃない。ゾンビに囲まれたのを助けなかっただけさ」
「同じことだ」
吐き捨てるように口にした後、死んだ者の名前を吉岡から訊き出すと、智哉はわざと秘話機能をオフのまま奴らにも伝わるようにして絵梨香に向け発信する。
「これからそちらに戻る。少しでも頭が見えたら遠慮せずに撃ち抜いていいぞ」
「了解」
と、きっぱりとした返事がレシーバーに届いた。
「つまり彼らは生きていて、しかも裏切ったというわけね」
無線の話し相手である友里恵がそう言ったのを受け、一人を除けばそういうことになる、と智哉は肯定した。無駄な争いを避けたいというのは本心だったようで、あの後何の妨害もなく冷凍車まで戻った智哉は、車内に絵梨香を回収して、物流センターから死角になる場所へ車を移動させると、荷室に移り避難所と連絡を取ったのだ。今日の電波状態は悪くなかったらしく無線係が即座に応答に出て待つように言われ、暫くしてから友里恵に替わったので、物流センターでのあらましを報告した。
「その一人は反対したために見捨てられたのね。お気の毒に」
「奴らの話を鵜呑みにすればそうなる。他の四人は無事らしいが、話したのは吉岡とだけだ。奴に言わせると戻る気はないそうだ。近付くなと荒っぽい警告を受けたよ」
智哉のその話に友里恵が何かを言いかけて無線の向こう側が騒がしくなる。やがて、友里恵とは違った男の声が話しかけてきた。
「総務班の三上だ。君と直接話したくて市長に無理を言って替わって貰った。今の話は本当かね?」
「嘘を吐いても仕方がない。疑うんなら連中に話しかけてみろ。無線は死んだふりを装うためにわざと応答しなかったんだろう。それがバレた今なら呼びかけに応えるんじゃないか」
「……わかった。一先ず君を信じることにするよ。それでどうする気だ?」
どうするとはどういう意味だ、と智哉はわざと惚けた。こちらの立場を明確にしておかなければならないためだ。案の定、彼らをそのまま放置しておくつもりか、と三上は言った。
「私としても部下だった者達を処罰しなけれはならないのは辛い。しかし、彼らとしても裏切るのは相応の覚悟があってのことだろう。今更説得に応じるとは思えない。斯くなる上はこの先同様の裏切り者を出さないためにもこれを一罰百戒の機会として捉え、厳しい態度を以て望むのが相応しい──」
これが同時通話可能な小電力トランシーバーでの会話ならこの辺りで有無を言わさず遮っていたはずだ。残念ながらデジタル簡易無線では、相手がPTTスイッチから指を離すか、自動で設定されている一回の最長通話時間である五分が過ぎるのを待たねばならない。
「──以上だ」
漸く終わった長話に被せるような勢いで、智哉は告げた。
「三上さん、あんた、何か勘違いしていないか?」
勘違いとは何か、という予想通りの答え。
「俺達が何のためにここへ来たのかということだ」
三上の頭の中では智哉達が裏切り者に制裁を加えるのは既に確定事項になっているらしい。自分が現場にいたら部下達に迷わずそう指示するのだろう。だが、智哉達にそのようなことをする義理はない。依頼されたのは捜索と救援だ。そんなことにも気付かずに三上は話を続ける。
「方法が問題かね? それなら良い案がある。外から火をかけたらどうだろう? いや、本当に実行する必要はない。そう脅すだけで彼らは戦々恐々に陥るはずだ。それでも抵抗を続けるようなら実際に行っても構わない。そこにある物資は失うことになるだろうが、この際は仕方あるまい。何、他にも調達先の候補地は挙がっているんだ。一箇所くらい失くしても惜しくはないよ。そうだな、君達の働き次第では教えても構わないだろう。何なら我々が手を組んだ方が話は早いかも知れないな。戻って来たら早速検討しようじゃないか」
一人で勝手に盛り上がる三上に言われるまでもなく、物資を考慮に入れなければ方法は幾らでも思い付く。中でも自衛隊から入手した一一〇ミリ個人携帯対戦車弾も僅かとはいえ積んでいるので、赤外線カメラで建物内を監視して奴らが一堂に集まったところを狙えば手っ取り早い。三上が言うように建物に火を放つ方法も効果的ではあるが、接近して見つかる危険を冒す必要がある。だが、問題はそんなことではない。
「わかっていないようだな。何故、俺達が制裁しなければならない?」
「それはこれ以上の裏切りを許さないためだと先程から話しているはずだが」
「そんなことを訊いているんじゃない。はっきり口にしないと伝わらないらしいからそうするが、俺達にそこまでする義理はないと言っているんだ。あんたが望んでいるのは端的に言えば刃向かうようなら奴らを殺せってことだろ? 俺達に人殺しになれと命じているわけだ。冗談じゃないね。そんな十字架を背負ってまであんたの尻拭いをしてやる理由がどこにある? どうしてもそうしたきゃあんたがここに来て自分の手でやれよ。俺達が請け負ったのは連中を捜し出すことと、可能なら連れ帰ることだけだ。それならもう果たした。俺達の役目は終わりにさせて貰うぜ。そういうわけでこれ以上、あんたと話すことは何もないな。市長に替われ。そうしないなら交信は打ち切る」
何だと、と言った切り、三上は絶句する。やがて、再び応答に出た友里恵に智哉は二度と三上を無線に出さないよう念を押す。
「わかったわ。本当にごめんなさい。まさか彼があんなことを言い出すなんて思ってもいなくて。失策を胡麻化そうと焦っていたみたいね。もちろん、あなた達に人殺しをお願いする気なんて一切ありません。彼の言ったことは忘れて頂戴。あなた達は充分に役目を果たしてくれました。彼らのことは放って置きましょう。気分的に納得できるものではないけれど、直接損害を受けたわけでもないですし。ここからはいつものようにあなた達の自由に行動してくれればいいわ。くれぐれも注意して還って来て欲しい──」
それから二言三言彼女と会話をして、避難所との交信を終えた。
「本当にこのままにしておくつもり?」
スピーカーマイクを脇に置いた途端、待ち構えていたように絵梨香がそう訊ねてくる。その表情は、そんなわけないわよね、と語っていた。
「連中には何もしないさ。ただ、あれだけは放置しておけないな」
先程のセクハラ紛いの発言で怒り心頭といった様子の絵梨香に、智哉は苦笑いを浮かべながらそう答えた。あれとは智哉が今回のために用意してやった冷凍車に他ならない。
「居坐るだけなら無視しても良いが、都合良く戻って来られても困る。特に邪な考えでもあったりしたらな。ずっと警戒し続けるのも面倒だ。そうならないように足だけは奪わせて貰う。何か良い方法はあるか?」
制圧するわけではないので、なるべく危険は冒したくない。焼夷徹甲弾でもあれば遠くから燃料タンクでも撃ち抜いて使用不能にするのは簡単なのだが生憎と手持ちにないと絵梨香は話した。なので、ここは些か派手になるが、使い捨てロケット弾を使用するのがベストではないか、というのが彼女の意見だった。それなら一発で片が付くのですぐにその場を離れれば撃ち合いになる可能性も低く済む。智哉もまったく同じことを考えていた。化学防護服を着たままでLAWを操作するのは難しく危険でもあるため、射手は必然的に智哉が務めることになる。どこかで一度使い方を経験しておきたいと思っていたからその意味でも都合が良い。荷室で小一時間ほど絵梨香にみっちりとレクチャーを受けた後、智哉は弾頭を含めると十三・九キロにもなる自衛隊では一一〇ミリ個人携帯対戦車弾として採用されているパンツァーファウスト3を担いで車外に出た。無論、化学防護服は身に着けていない。どうせどこにも行けなくする気なので、万一見られても問題ないはずだ。予め絵梨香と相談の上、発射ポイントとして定めておいた近くのマンションの外階段へと向かう。ちょうど物流センターの真東に当たり、方角的に冷凍車を狙いやすく、仮に反撃に遭った場合でも踊り場の壁が遮蔽物となって護ってくれる。絵梨香曰く、距離は適当とのこと。既に車内で使い捨ての発射筒と、再使用が前提のグリップ部と照準器から成る発射装置は組み立て終えていたので、あとは後部グリップを引き起こせば発射態勢は整う。目的の場所に到着すると、智哉は早速準備に取り掛かる。弾頭の先端にある保護カヴァーを外してプローブと呼ばれる突起を引き出した。これを収納したままだとモンロー/ノイマン効果が発揮されずに軽装甲に対して充分な貫通力が得られないらしい。恐らく冷凍車にそこまでの威力は必要ないだろうが、念のためだ。それから智哉は立ったままロケットランチャーを肩に担いだ。その方が伏せて撃つよりカウンターマス──反動を相殺するため発射と同時に後方へ噴射される金属粉に自分の足を巻き込まずに済むという。後方も教えられた通りに確認した。照準器を覗き込んでトラックヤードの冷凍車に狙いを定めると、呼吸を整え安全装置を外して躊躇なく引き金を絞った。
発射台から放たれた弾頭はあっという間に目標物に吸い込まれていく。ロケットを撃ったというより、肩の上で巨大な風船が破裂したみたいだった。智哉の中ではもっとゆっくりと飛翔するイメージだったのだが、さすがにそんなにのんびりとはしておらず、テニスのトッププレイヤーのサーブを何倍にも速めたような勢いだ。一瞬ののち、轟音と共に目の前で真っ赤な火柱が上がる。距離的に熱さを感じるはずはないのだが、まるで自分も焼かれたように錯覚して、思わず「熱い」と叫びそうになった。どこにも火傷どころか、火の粉も被っていないことを確かめてホッとする。だが、のんびりとしている暇はない。すぐに連中も反撃してくるだろう。車両が原型を留めないほど破壊されたのを確認すると、智哉は撃ち終わった発射筒を捨てて残りの発射装置だけを手に急いで絵梨香の下まで戻る。ちょうどその時、雷雨がトタン屋根を叩くような銃撃が始まった。ただし、それは智哉達を狙ってのものではない。屋上から盲滅法周囲目がけて撃ちまくっているだけだ。
「てめえら、どこにいやがる。出て来い」
殺意に充ちた吉岡の怒声が響き渡る。当然、相手にするわけがない。馬鹿な奴だ、と智哉は言い捨てた。
「自分でゾンビを招いてやがる」
今なら簡単に狙えるけどどうする? と言う絵梨香を智哉は右手を振って制した。そして哀れみを込めた口調で呟いた。
「もういい。放って置け。この調子ならどの途、あいつら長くは保たねえよ」
──あの日から凡そ二週間が経過した。その間に三上は人選を見誤っただけで目的地に辿り着くこと自体は上手くいったのだから計画は間違いではなかったと再度の派遣を主張したが、友里恵を始めとする他のメンバーの強い反対に遭って中断を余儀なくされている。どちらにしてももう一度実行するなら智哉の協力なくしては不可能であり、その智哉は予てより計画していた新たな活動で忙しく、当面他のことに携わる気はなかった。特に相手があの三上ならば余計にだ。今後は余程魅力的な交換条件でも提示されない限り金輪際協力しないという方針を固めているので、今暫くはこれまで通り智哉達が他の活動の合間を縫って物資の調達を担うしかなさそうだ。
その智哉と絵梨香は現在、半島の突端にある避難所からかなりの遠出をし、観光地に程近いとある港に来ていた。以前より智哉が考えていたのは、万が一にも避難所を放棄しなければならなくなった場合に備え、船による海上への脱出ルートの確保だった。冷凍車があるとはいえ、車両での脱出では人数が限られる。その点、船ならばより多くの者を連れ出すことができるのではないかと考えてのことだ。水の中に逃げてもゾンビが追って来ることは実証済みだが、走ることに比べれば泳ぎは達者でないらしく遥かに遅い上、水上なら道路のように障害物で行く手を阻まれることもない。動力船なら尚のこと、手漕ぎボートでも追いつかれる不安はまずないと断言できた。さすがに避難所の人間全員を収容するには大型客船でもないと無理な相談で智哉の手には余るが、一般的なボート免許で操船が認められている二十トン未満の船でも観光船などであれば数十人は乗れることがカタログスペックで確認済みだ。それならば智哉にも練習次第で扱えないことはあるまい。余談ではあるが、ボート免許は正式には「小型船舶操縦免許証」と言い、一級から水上バイク専用の特殊小型まで四種類(湖川小出力限定を含む)に分けられている(二〇二〇年現在)。ただし、一級二級といった違いは車の免許とは異なり大きさや排気量で区分するのではなく、基本的には操船できる陸地からの距離や場所によるものだ。例えば二級操縦士免許では陸岸より五海里(約九キロメートル)以内と定められているものが、一級となるとこの制限は撤廃される。なお、これ以上の大型船の扱いや、複数のクルーの乗船が義務付けられている船舶の操縦並びに航行区域に出るには甲板部、機関部、無線部という各部門毎に細かく等級の定められた「海技士」という国家資格が必要だ。さすがにそこまで勉強する気の起きなかった智哉は、二十トン未満の船に狙いを定めてやって来た。そこで見つけたのが「レインボー丸」という側面に虹の絵が描かれた二階建ての定期観光船である。乗り場にあったパンフレットによると総トン数十九トン、定員は八十名で、一階は冷暖房とトイレ完備の船室、二階は操舵室と船尾デッキを備えたオープンな造りとなっている。当然、大きさがボート免許の基準を満たしていても旅客目的の業務として操船するにはそれだけでなく、車でいうところの二種免許に当たる特定旅客免許という資格が必要となるが、これは一日の安全講習で取得できる程度のものらしいので、さほど気にしなくても良いだろう。どの途、無免許には違いない。
今回は智哉一人だけでなく、絵梨香にも操縦を憶えさせるつもりだったので、まずは船着き場周辺のゾンビの掃討から始めた。そうして充分に安全を確保した上で、とりあえず操船マニュアルを片手に小型のボートで練習を積む。ある程度、慣れてきたところで実際に観光船を動かしてみた。やはり難しいのは離岸と着岸だった。離岸の場合はまだハンドルを切った際に振り幅で船尾を岸にぶつけないことに注意するくらいで良かったのだが、着岸となればそれだけでは済まない。一般的にスクリューは右回りが多いので、舵中央で前進すると船首が左に、後進すると船尾が左に向くという性質がある。このため、着岸は左舷の方が容易だと言われる。行き足を止める際に微速後進にすると船尾が自然と左に振られて岸と平行になりやすいからだ。そうはいっても慣性と潮流、風の影響とを同時に考慮しなければならないため、船の質量が大きくなった途端、扱いにくさは格段に跳ね上がり、慣れるまでは何度も桟橋にぶつけてヒヤリとする場面があった。緩衝材がなければ随分、船体を傷つける羽目になっていただろう。
そのようにして交互に練習を繰り返し、三日間をかけて二人共何とか思い通りに動かせるところまでは漕ぎ着けた。そこに油断があったようだ。あとは避難所近くの漁港に回送してさらに訓練を積むか、もう暫くここに留まり練習を続けるかで迷いながら、いつものように夕方近くになって船着き場へと戻った時、どこからか迷い込んだゾンビを見逃してしまっていたらしい。智哉の操船で岸に接近し、船首から桟橋に飛び移った絵梨香がバウラインをビットに係留しようとしていたところを他船の陰から突如現れたゾンビに襲われたのである。智哉は操船に集中していて気付かなかった。日頃の訓練の賜物だったのか、単に運が良かっただけなのかはわからないが、組み付かれる寸前にゾンビに気付いた絵梨香は咄嗟に身を翻して辛うじて噛まれるのは避けたものの、そのままもつれるようにして海に投げ出された。落水音で漸く智哉も異変を察知する。真冬の海は只でさえ水温が十度を下回り身を切るような冷たさだ。そんな中に長時間浸かっていれば例えゾンビの手を免れたとしても最悪、低体温症で意識不明になる恐れがある。救命胴衣を身に着けていたおかげですぐに溺れることはないだろうが、一刻も早く水から引き上げる必要があった。智哉は船のエンジンを切ると急いで傍に置いていた八九式小銃を引っ掴み、甲板に出た。船首近くの海上で必死にもがく絵梨香と、そこから僅か数メートルの距離で手足をバタつかせ溺れているのか泳いでいるのか不明なゾンビの姿を発見する。そんな有様でもゾンビはゆっくりとだが、着実に絵梨香へ迫っている。一方の絵梨香は冷たい水のせいか上手く身体が動かせないようで、水面を懸命に掻こうとするが一向に前へ進んでいなかった。先に船備え付けの救命浮き輪を絵梨香に投げておき、智哉はゾンビに向けて銃を構えた。セレクターは誤射するのを用心して単射に合わせてある。だが、水中のゾンビは浮き沈みが激しい上に時折予想外の動きをするのでなかなか狙いが定まらない。その間にも絵梨香は相当量の水を飲んでおり、完全にパニックに陥って、早く撃って、とヒステリックに喚いては無駄に体力を消耗させていた。四発を撃つが立て続けに外してしまい五発目にしてやっと急所のこめかみ辺りに命中させてゾンビの動きを止めることができた。さらにもう二発を頭部に撃ち込んでおいてから智哉は絵梨香の引き上げにかかる。浮き輪を繋いだロープを手繰り寄せて、何とか甲板に持ち上げると、絵梨香は濡れた全身を震えさせながら智哉に抱き付いてきた。無意識から出た行動に違いないだろうが、僅かに智哉の胸をざわつかせる。とはいえ、唇を真っ青にしてガチガチと歯を鳴らし今にも倒れ込みそうな相手にさすがに欲情している場合ではなく、服の上からでもわかる氷のような身体の冷たさは直ちに温めなければマズいと智哉は判断した。だが当然、甲板に暖が取れるような火の気などない。大急ぎで船内に連れ込み、普段は燃料節約のため使っていなかった暖房を最大に利かせるが、それとて温まるには時間が掛かる。とにかく濡れた物は脱いだ方が良いだろうと考え、絵梨香の了解も取らずに身体にピタリと張り付いた衣服を一枚一枚奪い取っていく。これまで智哉は絵梨香をあくまで任務上の相棒として扱い、珍しく邪な思いを抱くのは避けてきた。それだけ彼女の存在は重要になっていたのだ。色恋沙汰で貴重な仲間を失うような愚は避けたかった。よってやむを得ず目の前で着替えなければならないような場合でも下着姿すら見ないように努めていたのだが、当然ながら今はそんなことを言っていられない。絵梨香の方も自らの深刻な事態を悟っているのか、文句も言わずにされるがままになっている。上も下も脱がし下着まで剥ぎ取って全裸にした絵梨香は他の女達と比べて若干筋肉質ではあるものの、スタイルの良さは抜群で不覚にも智哉は勃起してしまった。大きさはさほどではないが突き指しそうなくらい弾力がありそうな乳房と、濃い目に生え揃った陰毛に一瞬目が奪われる。幸いにも絵梨香は未だに視線がはっきりと定まらずにいて、気付かれずに済んだようだ。そうして素っ裸にすると、頭から毛布を被せて座席に坐らせる。それでも身体の震えはまったく収まる気配がなかった。
(ベタな方法だが、ここは俺自身の体温で温めるしかないか)
低体温時に手足のマッサージや抱き合って体表面を圧迫すると、冷やされた血液が一気に心臓に流れ込み、救命死を引き起こす恐れがあることは智哉も知っていたが、救助を呼ぶ当てがあるわけでもなく、他の方法も思い付かなかったので、危険性を承知で敢えてそうすることにした。今度は一応、絵梨香にも、そうしていいか、と確認する。余程寒さが応えているのだろう、一にも二にもなく、早くしてくれ、と頼まれた。それで智哉もトランクス一枚だけは残して裸になり、一緒に毛布に入って絵梨香と抱き合った。絵梨香の身体が恐ろしく冷たかったため、すぐに智哉の全身にも鳥肌が立ち始める。慌ててお互いの身体を擦り合いながら耐えていると、二十分ほどして漸く肌に体温が戻るのを実感した。絵梨香も何とか落ち着きを取り戻したようだ。その様子を見て、智哉は冗談めかした口調で言った。
「次から海に飛び込む時は予め断ってからにしてくれないか」
自分では気の利いたジョークのつもりだったが、絵梨香には笑えない発言だったらしい。ごめんなさい、と言った切り、俯いて黙り込んでしまう。何となく悪いことをした気になって、その分役得もあったけどな、と付け加えてみた。
「……それってこの状況のことを言ってるの?」
「他に何があるんだ? もちろん、そうだとも」
「……ふーん、あなたにはこんなこと、珍しくないんじゃなかったっけ?」
漸く普段の調子が戻って来たかと思えば、どうやら七瀬とのことを指摘しているようだ。絵梨香の耳にまで届いているのかと少し驚いたが、考えてみれば命を預ける相方なのだから噂には敏感になっていて当然かも知れない。
「それはそれとしてまだ御礼を言ってなかったわね。助けてくれてありがとう。感謝しているわ」
濡れた髪から滴が垂れるのも構わず神妙な面持ちで絵梨香は頭を下げる。そういうのは止せ、と智哉はやや語気を強めて言った。
「バディなんだから助けるのは当たり前だ。いちいちそんなことで礼なんか言うな。俺は絵梨香に──もう遠慮無しに絵梨香と呼び捨てにするぞ──絵梨香に助けられても礼は言わねえ」
「……わかった。私も今後はそうする」
(それにしても冷静になってくると、この状況は結構ヤバいな)
毛布に包まれた二人の間を隔てているのは、智哉が残す下着一枚だ。胸には絵梨香の弾む乳房がしっかりと押し付けられ、視線を落とせば一糸纏わぬ姿が否が応にも目に入る。改めて考えるまでもなく女を意識せざるを得ない。さすがに下半身の興奮も隠し切れなくなってきた。絵梨香もそれに気付いたようで、居心地が悪そうにもぞもぞと身体を動かすと突然、痛くないか、と訊ねてきた。
「どういう意味だよ、それ」
「私なんかでよく勃つもんだとは思うけど、そうなんでしょ? ずっと当たっているから邪魔だし、下手に動くと折れやしないかって心配なのよ」
どうやら勃起したペニスが絵梨香の下半身を圧迫しているのが気になっているらしい。そうは言われても自分の意志ではどうにも鎮めようがない。仕方がなく少し位置をずらしてやる。
「そういう怪我もあるらしいけど俺は経験ないな……っと、これでいいか?」
「……どうも。ところで介抱して貰ってなんだけど、いつまでこうしているつもり?」
「そうだな、絵梨香が嫌じゃなきゃもう暫くこのままでいたい」
智哉はそのように答えてみた。実際にこうしているのも悪くないと思える。絵梨香の方は、私は別に構わないけど、と何やら含むところがあるような言い方をした。それはそうなるだろう。緊急時だったとはいえ、男女が裸で抱き合っていて何も思わない方がおかしい。
暫くはどことなく気まずい沈黙が続いたが、それに堪え切れなくなったように絵梨香が再度口を開いた。
「何もしないっていうのも却って照れるんだけど」
「俺だってそうだよ。でも、これ以上は駄目だってさっきから自分に言い聞かせている」
「それって先に進みたいけど我慢しているってこと?」
そうだ、と智哉は断言した。どうしてか、と絵梨香は訊ねた。
「今なら、さあ、やろう、って言われたらきっと断れないわよ、私。やっぱり彼女に悪いから遠慮して誘わないってこと? それとも私に女としての魅力がないのかな?」
どれも違う、と智哉はきっぱりと首を振って見せた。
「絵梨香とセックスしないのは、パートナーとしての関係を崩したくないからだ。正直に言うと、セックスするだけの相手なら今の俺は探すのにそれほど苦労しない。俺の特異体質を知る絵梨香ならそれが自信過剰じゃないってわかるよな? 何しろ独裁者になるのを警戒されるくらいだ。けど、背中を任せられる相棒となると、そう簡単には見つけられない。単に銃器の扱いに長けていることだけを言っているわけじゃないぜ。それだったら他の元自衛官でも構わないわけだが、幾ら腕が立とうと一緒に行動する気にはなれないからな。思うに俺達は考え方が似通っているんじゃないか? 良くも悪くもだが。そう思える相手は珍しい。だから余計な感情を持ち込んで壊したくないんだよ。俺の決め付けかも知れないけど、少なくとも寝たくらいで関係は揺るがないって自信が持てるまではさ」
絵梨香はすぐに返事を寄越さない。智哉の話したことをじっくりと吟味しているようだ。やがて、それならやらない方がいいわね、と呟いた。
「私だってもしそうなったら今のままでいられる自信はないもの。でもまあ、理由を聞けて良かったわ。さすがにこの状況でその気がないと言われただけだったら傷付くよ」
「その気がないのに勃起なんてしないさ」
それに今、無性に絵梨香とキスしたい気分だ、と智哉が口にすると、何それ、セックスしないならキスも無しじゃないの? と彼女は呆れたように言った。
「それとこれとは別じゃないか。キスなんて海外じゃ挨拶みたいなもんだし、ハグでも握手でもいいが、やっぱり口付けが一番しっくりくる感じがするな」
「どういうこと?」
「特に深い意味はないよ。セックスはしない方がいいって結論だったけど、今のこの気持ちを何か別の形で記念に残せないかと思っただけでさ」
それがキスなの? とまたしても絵梨香に溜め息を吐かれてしまった。
「変か? 俺としては友情の証みたいなつもりだけど」
「日本人同士なんだし、友情でキスはしないんじゃないの?」
「そうかな?」
「……じゃあ、試してみる?」
智哉と絵梨香はお互いに顔を見合すと、ゆっくりと唇を近付けていった。
唇を重ねながら智哉は絵梨香の背中に腕を回してそっと抱き締めた。絵梨香も拒絶することなく身を任せている。彼女の身体は想像していた以上に柔らかく、腰の辺りはずっと華奢に思え、唇の感触は滑らかで、胸に小さな突起が当たるのを感じられたが、ただそれだけだった。唇を離すと、悪くなかったわね、と小声で絵梨香は感想を洩らした。その時だった。不意に聞き憶えのある声が船内に流れた。操舵室に持ち込んだ無線機から届いたもののようである。船にも元々の備え付けの船舶無線はあったのだが、国際VHF規格──所謂マリンバンドに対応した送受信機を向こうに用意しておかなかったので、普段使用しているデジタル無線で呼出チャネルを聴取していたのだ。さすがに距離があるせいで受信状態は極めて悪い。
それでも二人して顔を見合わせ懸命に耳を澄ませていると、所々で理解できる言葉が増えてきた。同じ内容を繰り返し伝えているらしい。それはこう告げていた。
「岩永さん、聞こえ……ザッ……すか? 美鈴で……ザッ……避難所は……ザッ……に襲われて……ザッ……ます。すぐに還って……ザッ……お願い……ザッ……助けて……ザッ……ださい」
僅かな隙間も塞ぐようにして外部に呼気が洩れない工夫を施された冷凍車の荷室にあっても絵梨香は今年初の小雪が舞う外気の温度をひしひしと感じていた。当然、酸欠を防ぐために内部で暖房器具は一切使えない。外に出る際には只でさえ身動きしづらい化学防護服に袖を通すことになるので、あまり厚着もできなかった。それでもゾンビに襲われることに比べれば、寒さに耐える程度のことは何でもないと思える。今頃は運転席の智哉も吐く息を白く曇らせていることだろう。彼とて寒さを感じない超人ではないのだから。その智哉とはVOX(ボイス・オペレーテッド・トランスミッションの略。音声を感知すると自動で送信状態になるためハンズフリー通話が可能)機能付きの小型デジタル無線機でいつでも会話できるが、さすがに道中で無駄話をしているような気楽さはない。外の景色は四方に取り付けた車載カメラの映像で中からも確認できているが、振動だけで荒れたアスファルトの路上を走る気配は伝わる。このところ常態となった智哉と二人で外部に赴く際のやり方だ。ただし、今日はいつもの調達ではなく、連絡が絶えて二日目となった遠征組の捜索を依頼されてのものだった。
「あなた方には迷惑をかけることになってしまって申し訳なく思うわ。結局、あなたが懸念した通りになってしまったわね。反対を押し切って強行しておき、こんなことを頼める義理でないのは承知しているけど、他にお願いできる人はいないのよ。何とかあなた達の手で彼らを見つけ出して、無事でいたなら連れて帰って欲しい」
智哉と共に執務室に呼ばれた絵梨香は友里恵からそのように言われた。友里恵直々のその要請を智哉にしては珍しく二つ返事で引き受けた。断ろうと思えばそうできただろうに。あとで理由を訊くと、どうせ気になって調べることになるだろうから一緒のことだと言う。ついでに三上に借りを作るのも悪くない、とも述べた。その三上はどうしているのかと友里恵に訊ねると、未だに機材トラブルを主張していて己の非を認めてはいないらしい。この調子だと失敗が明らかになっても犠牲は付きものと開き直るのではないかと友里恵は言った。あの男ならあり得ると絵梨香も思った。
それで絵梨香が荷室で寒さに震える中、運転席では智哉が真剣な面持ちで、ダッシュボードに張り付けた物流センターへの地図と景色とを交互に睨めっこしながらハンドルを握ることになっていた。カーナビゲーションを使わないのは、GPSが機能していないためだ。アナログな手法を頼りに障害物の多い表通りは避けてなるべく裏道を進む。幸いにもこの辺りは智哉が住んでいた市内中心部とは違い、道路整備をしていなくてもまだ通れる道が幾つか残されていた。恐らくは遠征組もこうしたルートを通ったに違いない。化学防護服を着ている限り完全には無理でも出会い頭の接触にさえ注意していれば移動中に襲われる危険は低いはずだ。
(問題は目的地に到達してからだな。襲われたとしたら車を降りた後だろう)
それでも一応、道すがら彼らが車を乗り捨てていないか注意しつつ移動する。荷室では絵梨香も周囲の映像に目を凝らしているはずだが、何も言ってこないところをみると、彼女の方でも不審なものは見かけていないのだろう。やがて、半日ほどをかけて車は目的の物流センターに近付いた。正面のトラックヤードが見通せる手前の位置に一旦冷凍車を止め、智哉はヘッドセットに繋いだ無線に話しかけた。
「三百メートルほど先の白い建物は見えるか? 真四角の三階建てやつだ。地図によるとあれが目的の物流センターらしい」
「見えるわ。プラットホームに人影はなさそうだけど、中央に停まっているのは彼らが乗って行った車両みたいね」
トラックの荷台の高さに合わせたコンクリート製のプラットホームには、五ヶ所のシャッター付き荷物搬入出口が設けられており、その一つに後ろ向きで見憶えのある車体が乗り入れられていた。絵梨香の言う通り、彼らが使った冷凍車に間違いなさそうである。ただし、シャッターはいずれも隙間なく閉じられている。
「ここまでは無事に辿り着いたみたいだな。運転席に誰も乗っていないのは当たり前か。荷室の観音扉は開いているようだが、中までは見通せないな。問題は搬入口のシャッターが元々閉じられていたのか、彼らが中から閉じたのかだが、ここからじゃ確かめられそうにない」
もう少し近寄って調べてみるか、と智哉が車を接近させようとすると、待って、と絵梨香が鋭く叫んだ。
「どうした?」
「三階の窓際で何か動いた気がする」
「ゾンビか?」
「映像じゃはっきりとわからなかったわ。もしかしたら見間違いかも知れない」
智哉は三秒ほど思案して、降りて調べてみる、と絵梨香に告げた。ひょっとしたら遠征組が内部で追い詰められ身動きが取れなくなっているのかも知れない。念のため、彼らに見られても不審がられないようダミーの防護服を手早く身に着け、車を降りる。周囲にゾンビの姿がないのを確認してからリア扉を開けて、こちらは本当に厳重に化学防護服を着込んだ絵梨香を車外に出し、取り外しが利くアルミ製の梯子を使って屋根に登らせた。絵梨香は護身用の八九式小銃の外、先日入手した狙撃銃も手にしている。所定のポジションに絵梨香が着いたのを確認して智哉は自分もベネリM3を携えて物流センターへ向かって歩き出した。
「どうだ? 何か見えるか?」
百メートルほど近付いたところで、歩きながら智哉は口許のマイクに話しかける。フェイスマスクの中にあるため、リップマイクの位置を細かく調整できないのがもどかしいが、それでも会話をするのに支障はなく、今のところ異常無し、という絵梨香の声を耳に付けたイヤホンで聞いた。さらに五十メートルほど接近して、智哉は立ち止まった。双眼鏡で建物を確認したいが、フェイスマスクを被ったままでは上手く覗けそうになく、上半身だけでも脱ごうかと迷っていると、突然耳許に緊迫した絵梨香の声が飛び込んできた。
「屋上に人影。銃を構えている。急いで身を隠して」
意味を理解するのに数瞬の間を要したが、ハッとした途端、直ちに近くの車の陰へと身を躍らせた。それとほぼ同時に銃声が鳴り響く。二十メートルほど先のアスファルトの路面が鼠花火でもあったかのようにパッと爆ぜた。アイピース越しの狭い視野でもそれを確認した智哉は、狙われたという恐怖感と、外れたという安堵の感情を一度に味わう。絵梨香に見られているという思いで辛うじてパニックになるのだけは抑え込んだ。こんな時でも男は見栄を張る生き物らしい。それだけでも彼女を同行させた甲斐はあったと言えるだろう。その絵梨香が無線で再度呼びかけてきた。
「援護するからその隙にこっちに戻って来て」
(落ち着け。弾はどこにも当たっていない。冷静に考えろ)
智哉は自分にそう言い聞かせた。着弾点は元いた場所から二十メートルも離れている。幾ら射撃の素人でもこの距離でそこまで外すとは考えにくい。恐らく最初から当てる気はなかったのだろう。だとすれば、脅しの意味合いに違いない。智哉は絵梨香に素早く告げた。
「待て。撃つな。今のは脅しだ。それよりそちらから見た状況を教えてくれ」
声が震えずに済んだのは幸いだった。
「屋上に男が二人。防護服を通してだったから発見が遅れたわ。ごめんなさい。どちらも銃を持っている。一瞬見えた感じでは恐らく猟銃じゃなくて自動小銃。たぶん自衛隊の八九式だと思う。他に人影は見られない」
「服装はどうだ? 自衛隊や警察の制服じゃないか?」
「違うわ。ジャンパーにジーンズみたいなありふれた服装よ」
「わかった。それでそこから狙えるのか?」
「防護服を着ているから正確な狙撃は難しい。牽制程度にはなると思う」
「向こうからお前が狙われる危険性は? 不利な位置にならないか?」
「相手が射撃に慣れていればそうなるわね。でも構えを見た雰囲気では銃を使い慣れている感じには見えなかった。それなら撃ち合っても問題ない」
無理はするな、と智哉が言いかけた時、無線に別の声が割り込んできた。
「そこで防護服を着て隠れている奴、聞こえるか? 聞こえてたら返事をしろ」
どうやら建物内から呼びかけているようだ。先程撃ってきた奴かも知れない。恐らくチャンネルの使用状況から交信周波数を割り出したのだろう。会話自体は秘話機能で守られていても、塞がっているかどうかは雑音性でわかる。智哉は秘話機能を切って慎重に応答した。
「聞こえているぞ。何だ?」
「やっぱり通じたか。あんた、岩永さんだろ?」
「そうだ。そういうお前は元総務班の吉岡だな」
「ああ、その通りだよ。名前を知って貰えていたとは光栄だね」
やはりな。民間人の格好で八九式を持っていたという時点で予想はしていたが、それがたった今、確信に変わった。どうやら無事だったらしい。
「生きていたんだな。他の奴らも一緒か?」
「こっちの人数を探っているのか? まあいい。一人を除いて全員ピンピンしているよ」
(一人を除いて? どういう意味だ?)
気になったが、先にはっきりさせておくべきことを訊いた。
「さっき撃ってきたのはお前らか? どういうつもりだ? 申し開きがあるなら聞くのは今だけだぞ」
「そんなものはないね。近付くなって警告だよ。さっきのは脅しだったが、今度近寄って来れば本気で当てにいく」
「お前らを捜しに来たってわかった上でのことだろうな?」
「もちろんだ。わざわざやって来るとはあんたも大概のお節介焼きだな。死んだと思って放っておいてくれたら良かったものを」
「……つまり、自発的な行動ってことだな。避難所に戻る意思はないということか?」
「そうさ。俺達はここに居坐ることに決めたよ。水や食糧も確保できたことだしな。そういうわけだから他の奴らには帰ってよろしく言っといてくれ。二度とここには来るなともな」
物資の独り占め、どうやらそれが彼らの導き出した結論だったようだ。眼の前で大量の商品を見せつけられればそうなる気持ちもわからなくはない。この規模の物流拠点であれば相当量の物資が手に入っても不思議ではないし、それを数人で消費していくだけなら、かなりの年月が凌げるだろう。逆に持ち帰れば公平に分配されることになり、一人に換算したら幾許もなくなる。ただ、気になったのは一人を除いてという言葉だ。智哉はそのことを訊ねてみることにした。
「そういえば一人を除いてと言ったな。そいつはどうした?」
「気になるのか? そうだなあ、教えてやらんわけでもないが、条件がある」
「一応、聞いてやる。話せ」
「相棒の自衛隊女も連れて来ているんだろ。そいつをこっちに寄越すんだったら教えてやる。何しろ、ここは男所帯で華やかさに欠けているんでね。彼女にはちょっとばかり夜の相手でもして貰えたらいい。それほど悪い提案じゃないだろ? 俺達をほんの少し喜ばせるだけで水も食糧も手に入れ放題だ」
次の瞬間、先程よりやや甲高く余韻の長い銃声が聞こえた。屋上に突き出た塔屋の窓ガラスが粉々に砕け散る。無論、絵梨香が撃ったに違いない。
「クソッ、いきなり何しやがる」
「それが返事だそうだ。振られたようだな」
智哉は内心の笑みを噛み殺して、そう告げた。それにしても化学防護服を着たままではまともにスコープも覗けないはずなのに、窓ガラス一枚分の広さとはいえ、見事に命中させる絵梨香の腕前はさすがのひと言に尽きた。
「……チッ、冗談だよ。こっちは本気で撃ち合う気なんてねえんだ。少なくともあんたらが向かって来ない限りはな。その上で俺達が本気だってことを示すために教えといてやる。さっき言った奴なら死んだよ。避難所には戻らないって言ったら反対したんでね」
「……お前らが殺したのか?」
「直接殺ったわけじゃない。ゾンビに囲まれたのを助けなかっただけさ」
「同じことだ」
吐き捨てるように口にした後、死んだ者の名前を吉岡から訊き出すと、智哉はわざと秘話機能をオフのまま奴らにも伝わるようにして絵梨香に向け発信する。
「これからそちらに戻る。少しでも頭が見えたら遠慮せずに撃ち抜いていいぞ」
「了解」
と、きっぱりとした返事がレシーバーに届いた。
「つまり彼らは生きていて、しかも裏切ったというわけね」
無線の話し相手である友里恵がそう言ったのを受け、一人を除けばそういうことになる、と智哉は肯定した。無駄な争いを避けたいというのは本心だったようで、あの後何の妨害もなく冷凍車まで戻った智哉は、車内に絵梨香を回収して、物流センターから死角になる場所へ車を移動させると、荷室に移り避難所と連絡を取ったのだ。今日の電波状態は悪くなかったらしく無線係が即座に応答に出て待つように言われ、暫くしてから友里恵に替わったので、物流センターでのあらましを報告した。
「その一人は反対したために見捨てられたのね。お気の毒に」
「奴らの話を鵜呑みにすればそうなる。他の四人は無事らしいが、話したのは吉岡とだけだ。奴に言わせると戻る気はないそうだ。近付くなと荒っぽい警告を受けたよ」
智哉のその話に友里恵が何かを言いかけて無線の向こう側が騒がしくなる。やがて、友里恵とは違った男の声が話しかけてきた。
「総務班の三上だ。君と直接話したくて市長に無理を言って替わって貰った。今の話は本当かね?」
「嘘を吐いても仕方がない。疑うんなら連中に話しかけてみろ。無線は死んだふりを装うためにわざと応答しなかったんだろう。それがバレた今なら呼びかけに応えるんじゃないか」
「……わかった。一先ず君を信じることにするよ。それでどうする気だ?」
どうするとはどういう意味だ、と智哉はわざと惚けた。こちらの立場を明確にしておかなければならないためだ。案の定、彼らをそのまま放置しておくつもりか、と三上は言った。
「私としても部下だった者達を処罰しなけれはならないのは辛い。しかし、彼らとしても裏切るのは相応の覚悟があってのことだろう。今更説得に応じるとは思えない。斯くなる上はこの先同様の裏切り者を出さないためにもこれを一罰百戒の機会として捉え、厳しい態度を以て望むのが相応しい──」
これが同時通話可能な小電力トランシーバーでの会話ならこの辺りで有無を言わさず遮っていたはずだ。残念ながらデジタル簡易無線では、相手がPTTスイッチから指を離すか、自動で設定されている一回の最長通話時間である五分が過ぎるのを待たねばならない。
「──以上だ」
漸く終わった長話に被せるような勢いで、智哉は告げた。
「三上さん、あんた、何か勘違いしていないか?」
勘違いとは何か、という予想通りの答え。
「俺達が何のためにここへ来たのかということだ」
三上の頭の中では智哉達が裏切り者に制裁を加えるのは既に確定事項になっているらしい。自分が現場にいたら部下達に迷わずそう指示するのだろう。だが、智哉達にそのようなことをする義理はない。依頼されたのは捜索と救援だ。そんなことにも気付かずに三上は話を続ける。
「方法が問題かね? それなら良い案がある。外から火をかけたらどうだろう? いや、本当に実行する必要はない。そう脅すだけで彼らは戦々恐々に陥るはずだ。それでも抵抗を続けるようなら実際に行っても構わない。そこにある物資は失うことになるだろうが、この際は仕方あるまい。何、他にも調達先の候補地は挙がっているんだ。一箇所くらい失くしても惜しくはないよ。そうだな、君達の働き次第では教えても構わないだろう。何なら我々が手を組んだ方が話は早いかも知れないな。戻って来たら早速検討しようじゃないか」
一人で勝手に盛り上がる三上に言われるまでもなく、物資を考慮に入れなければ方法は幾らでも思い付く。中でも自衛隊から入手した一一〇ミリ個人携帯対戦車弾も僅かとはいえ積んでいるので、赤外線カメラで建物内を監視して奴らが一堂に集まったところを狙えば手っ取り早い。三上が言うように建物に火を放つ方法も効果的ではあるが、接近して見つかる危険を冒す必要がある。だが、問題はそんなことではない。
「わかっていないようだな。何故、俺達が制裁しなければならない?」
「それはこれ以上の裏切りを許さないためだと先程から話しているはずだが」
「そんなことを訊いているんじゃない。はっきり口にしないと伝わらないらしいからそうするが、俺達にそこまでする義理はないと言っているんだ。あんたが望んでいるのは端的に言えば刃向かうようなら奴らを殺せってことだろ? 俺達に人殺しになれと命じているわけだ。冗談じゃないね。そんな十字架を背負ってまであんたの尻拭いをしてやる理由がどこにある? どうしてもそうしたきゃあんたがここに来て自分の手でやれよ。俺達が請け負ったのは連中を捜し出すことと、可能なら連れ帰ることだけだ。それならもう果たした。俺達の役目は終わりにさせて貰うぜ。そういうわけでこれ以上、あんたと話すことは何もないな。市長に替われ。そうしないなら交信は打ち切る」
何だと、と言った切り、三上は絶句する。やがて、再び応答に出た友里恵に智哉は二度と三上を無線に出さないよう念を押す。
「わかったわ。本当にごめんなさい。まさか彼があんなことを言い出すなんて思ってもいなくて。失策を胡麻化そうと焦っていたみたいね。もちろん、あなた達に人殺しをお願いする気なんて一切ありません。彼の言ったことは忘れて頂戴。あなた達は充分に役目を果たしてくれました。彼らのことは放って置きましょう。気分的に納得できるものではないけれど、直接損害を受けたわけでもないですし。ここからはいつものようにあなた達の自由に行動してくれればいいわ。くれぐれも注意して還って来て欲しい──」
それから二言三言彼女と会話をして、避難所との交信を終えた。
「本当にこのままにしておくつもり?」
スピーカーマイクを脇に置いた途端、待ち構えていたように絵梨香がそう訊ねてくる。その表情は、そんなわけないわよね、と語っていた。
「連中には何もしないさ。ただ、あれだけは放置しておけないな」
先程のセクハラ紛いの発言で怒り心頭といった様子の絵梨香に、智哉は苦笑いを浮かべながらそう答えた。あれとは智哉が今回のために用意してやった冷凍車に他ならない。
「居坐るだけなら無視しても良いが、都合良く戻って来られても困る。特に邪な考えでもあったりしたらな。ずっと警戒し続けるのも面倒だ。そうならないように足だけは奪わせて貰う。何か良い方法はあるか?」
制圧するわけではないので、なるべく危険は冒したくない。焼夷徹甲弾でもあれば遠くから燃料タンクでも撃ち抜いて使用不能にするのは簡単なのだが生憎と手持ちにないと絵梨香は話した。なので、ここは些か派手になるが、使い捨てロケット弾を使用するのがベストではないか、というのが彼女の意見だった。それなら一発で片が付くのですぐにその場を離れれば撃ち合いになる可能性も低く済む。智哉もまったく同じことを考えていた。化学防護服を着たままでLAWを操作するのは難しく危険でもあるため、射手は必然的に智哉が務めることになる。どこかで一度使い方を経験しておきたいと思っていたからその意味でも都合が良い。荷室で小一時間ほど絵梨香にみっちりとレクチャーを受けた後、智哉は弾頭を含めると十三・九キロにもなる自衛隊では一一〇ミリ個人携帯対戦車弾として採用されているパンツァーファウスト3を担いで車外に出た。無論、化学防護服は身に着けていない。どうせどこにも行けなくする気なので、万一見られても問題ないはずだ。予め絵梨香と相談の上、発射ポイントとして定めておいた近くのマンションの外階段へと向かう。ちょうど物流センターの真東に当たり、方角的に冷凍車を狙いやすく、仮に反撃に遭った場合でも踊り場の壁が遮蔽物となって護ってくれる。絵梨香曰く、距離は適当とのこと。既に車内で使い捨ての発射筒と、再使用が前提のグリップ部と照準器から成る発射装置は組み立て終えていたので、あとは後部グリップを引き起こせば発射態勢は整う。目的の場所に到着すると、智哉は早速準備に取り掛かる。弾頭の先端にある保護カヴァーを外してプローブと呼ばれる突起を引き出した。これを収納したままだとモンロー/ノイマン効果が発揮されずに軽装甲に対して充分な貫通力が得られないらしい。恐らく冷凍車にそこまでの威力は必要ないだろうが、念のためだ。それから智哉は立ったままロケットランチャーを肩に担いだ。その方が伏せて撃つよりカウンターマス──反動を相殺するため発射と同時に後方へ噴射される金属粉に自分の足を巻き込まずに済むという。後方も教えられた通りに確認した。照準器を覗き込んでトラックヤードの冷凍車に狙いを定めると、呼吸を整え安全装置を外して躊躇なく引き金を絞った。
発射台から放たれた弾頭はあっという間に目標物に吸い込まれていく。ロケットを撃ったというより、肩の上で巨大な風船が破裂したみたいだった。智哉の中ではもっとゆっくりと飛翔するイメージだったのだが、さすがにそんなにのんびりとはしておらず、テニスのトッププレイヤーのサーブを何倍にも速めたような勢いだ。一瞬ののち、轟音と共に目の前で真っ赤な火柱が上がる。距離的に熱さを感じるはずはないのだが、まるで自分も焼かれたように錯覚して、思わず「熱い」と叫びそうになった。どこにも火傷どころか、火の粉も被っていないことを確かめてホッとする。だが、のんびりとしている暇はない。すぐに連中も反撃してくるだろう。車両が原型を留めないほど破壊されたのを確認すると、智哉は撃ち終わった発射筒を捨てて残りの発射装置だけを手に急いで絵梨香の下まで戻る。ちょうどその時、雷雨がトタン屋根を叩くような銃撃が始まった。ただし、それは智哉達を狙ってのものではない。屋上から盲滅法周囲目がけて撃ちまくっているだけだ。
「てめえら、どこにいやがる。出て来い」
殺意に充ちた吉岡の怒声が響き渡る。当然、相手にするわけがない。馬鹿な奴だ、と智哉は言い捨てた。
「自分でゾンビを招いてやがる」
今なら簡単に狙えるけどどうする? と言う絵梨香を智哉は右手を振って制した。そして哀れみを込めた口調で呟いた。
「もういい。放って置け。この調子ならどの途、あいつら長くは保たねえよ」
──あの日から凡そ二週間が経過した。その間に三上は人選を見誤っただけで目的地に辿り着くこと自体は上手くいったのだから計画は間違いではなかったと再度の派遣を主張したが、友里恵を始めとする他のメンバーの強い反対に遭って中断を余儀なくされている。どちらにしてももう一度実行するなら智哉の協力なくしては不可能であり、その智哉は予てより計画していた新たな活動で忙しく、当面他のことに携わる気はなかった。特に相手があの三上ならば余計にだ。今後は余程魅力的な交換条件でも提示されない限り金輪際協力しないという方針を固めているので、今暫くはこれまで通り智哉達が他の活動の合間を縫って物資の調達を担うしかなさそうだ。
その智哉と絵梨香は現在、半島の突端にある避難所からかなりの遠出をし、観光地に程近いとある港に来ていた。以前より智哉が考えていたのは、万が一にも避難所を放棄しなければならなくなった場合に備え、船による海上への脱出ルートの確保だった。冷凍車があるとはいえ、車両での脱出では人数が限られる。その点、船ならばより多くの者を連れ出すことができるのではないかと考えてのことだ。水の中に逃げてもゾンビが追って来ることは実証済みだが、走ることに比べれば泳ぎは達者でないらしく遥かに遅い上、水上なら道路のように障害物で行く手を阻まれることもない。動力船なら尚のこと、手漕ぎボートでも追いつかれる不安はまずないと断言できた。さすがに避難所の人間全員を収容するには大型客船でもないと無理な相談で智哉の手には余るが、一般的なボート免許で操船が認められている二十トン未満の船でも観光船などであれば数十人は乗れることがカタログスペックで確認済みだ。それならば智哉にも練習次第で扱えないことはあるまい。余談ではあるが、ボート免許は正式には「小型船舶操縦免許証」と言い、一級から水上バイク専用の特殊小型まで四種類(湖川小出力限定を含む)に分けられている(二〇二〇年現在)。ただし、一級二級といった違いは車の免許とは異なり大きさや排気量で区分するのではなく、基本的には操船できる陸地からの距離や場所によるものだ。例えば二級操縦士免許では陸岸より五海里(約九キロメートル)以内と定められているものが、一級となるとこの制限は撤廃される。なお、これ以上の大型船の扱いや、複数のクルーの乗船が義務付けられている船舶の操縦並びに航行区域に出るには甲板部、機関部、無線部という各部門毎に細かく等級の定められた「海技士」という国家資格が必要だ。さすがにそこまで勉強する気の起きなかった智哉は、二十トン未満の船に狙いを定めてやって来た。そこで見つけたのが「レインボー丸」という側面に虹の絵が描かれた二階建ての定期観光船である。乗り場にあったパンフレットによると総トン数十九トン、定員は八十名で、一階は冷暖房とトイレ完備の船室、二階は操舵室と船尾デッキを備えたオープンな造りとなっている。当然、大きさがボート免許の基準を満たしていても旅客目的の業務として操船するにはそれだけでなく、車でいうところの二種免許に当たる特定旅客免許という資格が必要となるが、これは一日の安全講習で取得できる程度のものらしいので、さほど気にしなくても良いだろう。どの途、無免許には違いない。
今回は智哉一人だけでなく、絵梨香にも操縦を憶えさせるつもりだったので、まずは船着き場周辺のゾンビの掃討から始めた。そうして充分に安全を確保した上で、とりあえず操船マニュアルを片手に小型のボートで練習を積む。ある程度、慣れてきたところで実際に観光船を動かしてみた。やはり難しいのは離岸と着岸だった。離岸の場合はまだハンドルを切った際に振り幅で船尾を岸にぶつけないことに注意するくらいで良かったのだが、着岸となればそれだけでは済まない。一般的にスクリューは右回りが多いので、舵中央で前進すると船首が左に、後進すると船尾が左に向くという性質がある。このため、着岸は左舷の方が容易だと言われる。行き足を止める際に微速後進にすると船尾が自然と左に振られて岸と平行になりやすいからだ。そうはいっても慣性と潮流、風の影響とを同時に考慮しなければならないため、船の質量が大きくなった途端、扱いにくさは格段に跳ね上がり、慣れるまでは何度も桟橋にぶつけてヒヤリとする場面があった。緩衝材がなければ随分、船体を傷つける羽目になっていただろう。
そのようにして交互に練習を繰り返し、三日間をかけて二人共何とか思い通りに動かせるところまでは漕ぎ着けた。そこに油断があったようだ。あとは避難所近くの漁港に回送してさらに訓練を積むか、もう暫くここに留まり練習を続けるかで迷いながら、いつものように夕方近くになって船着き場へと戻った時、どこからか迷い込んだゾンビを見逃してしまっていたらしい。智哉の操船で岸に接近し、船首から桟橋に飛び移った絵梨香がバウラインをビットに係留しようとしていたところを他船の陰から突如現れたゾンビに襲われたのである。智哉は操船に集中していて気付かなかった。日頃の訓練の賜物だったのか、単に運が良かっただけなのかはわからないが、組み付かれる寸前にゾンビに気付いた絵梨香は咄嗟に身を翻して辛うじて噛まれるのは避けたものの、そのままもつれるようにして海に投げ出された。落水音で漸く智哉も異変を察知する。真冬の海は只でさえ水温が十度を下回り身を切るような冷たさだ。そんな中に長時間浸かっていれば例えゾンビの手を免れたとしても最悪、低体温症で意識不明になる恐れがある。救命胴衣を身に着けていたおかげですぐに溺れることはないだろうが、一刻も早く水から引き上げる必要があった。智哉は船のエンジンを切ると急いで傍に置いていた八九式小銃を引っ掴み、甲板に出た。船首近くの海上で必死にもがく絵梨香と、そこから僅か数メートルの距離で手足をバタつかせ溺れているのか泳いでいるのか不明なゾンビの姿を発見する。そんな有様でもゾンビはゆっくりとだが、着実に絵梨香へ迫っている。一方の絵梨香は冷たい水のせいか上手く身体が動かせないようで、水面を懸命に掻こうとするが一向に前へ進んでいなかった。先に船備え付けの救命浮き輪を絵梨香に投げておき、智哉はゾンビに向けて銃を構えた。セレクターは誤射するのを用心して単射に合わせてある。だが、水中のゾンビは浮き沈みが激しい上に時折予想外の動きをするのでなかなか狙いが定まらない。その間にも絵梨香は相当量の水を飲んでおり、完全にパニックに陥って、早く撃って、とヒステリックに喚いては無駄に体力を消耗させていた。四発を撃つが立て続けに外してしまい五発目にしてやっと急所のこめかみ辺りに命中させてゾンビの動きを止めることができた。さらにもう二発を頭部に撃ち込んでおいてから智哉は絵梨香の引き上げにかかる。浮き輪を繋いだロープを手繰り寄せて、何とか甲板に持ち上げると、絵梨香は濡れた全身を震えさせながら智哉に抱き付いてきた。無意識から出た行動に違いないだろうが、僅かに智哉の胸をざわつかせる。とはいえ、唇を真っ青にしてガチガチと歯を鳴らし今にも倒れ込みそうな相手にさすがに欲情している場合ではなく、服の上からでもわかる氷のような身体の冷たさは直ちに温めなければマズいと智哉は判断した。だが当然、甲板に暖が取れるような火の気などない。大急ぎで船内に連れ込み、普段は燃料節約のため使っていなかった暖房を最大に利かせるが、それとて温まるには時間が掛かる。とにかく濡れた物は脱いだ方が良いだろうと考え、絵梨香の了解も取らずに身体にピタリと張り付いた衣服を一枚一枚奪い取っていく。これまで智哉は絵梨香をあくまで任務上の相棒として扱い、珍しく邪な思いを抱くのは避けてきた。それだけ彼女の存在は重要になっていたのだ。色恋沙汰で貴重な仲間を失うような愚は避けたかった。よってやむを得ず目の前で着替えなければならないような場合でも下着姿すら見ないように努めていたのだが、当然ながら今はそんなことを言っていられない。絵梨香の方も自らの深刻な事態を悟っているのか、文句も言わずにされるがままになっている。上も下も脱がし下着まで剥ぎ取って全裸にした絵梨香は他の女達と比べて若干筋肉質ではあるものの、スタイルの良さは抜群で不覚にも智哉は勃起してしまった。大きさはさほどではないが突き指しそうなくらい弾力がありそうな乳房と、濃い目に生え揃った陰毛に一瞬目が奪われる。幸いにも絵梨香は未だに視線がはっきりと定まらずにいて、気付かれずに済んだようだ。そうして素っ裸にすると、頭から毛布を被せて座席に坐らせる。それでも身体の震えはまったく収まる気配がなかった。
(ベタな方法だが、ここは俺自身の体温で温めるしかないか)
低体温時に手足のマッサージや抱き合って体表面を圧迫すると、冷やされた血液が一気に心臓に流れ込み、救命死を引き起こす恐れがあることは智哉も知っていたが、救助を呼ぶ当てがあるわけでもなく、他の方法も思い付かなかったので、危険性を承知で敢えてそうすることにした。今度は一応、絵梨香にも、そうしていいか、と確認する。余程寒さが応えているのだろう、一にも二にもなく、早くしてくれ、と頼まれた。それで智哉もトランクス一枚だけは残して裸になり、一緒に毛布に入って絵梨香と抱き合った。絵梨香の身体が恐ろしく冷たかったため、すぐに智哉の全身にも鳥肌が立ち始める。慌ててお互いの身体を擦り合いながら耐えていると、二十分ほどして漸く肌に体温が戻るのを実感した。絵梨香も何とか落ち着きを取り戻したようだ。その様子を見て、智哉は冗談めかした口調で言った。
「次から海に飛び込む時は予め断ってからにしてくれないか」
自分では気の利いたジョークのつもりだったが、絵梨香には笑えない発言だったらしい。ごめんなさい、と言った切り、俯いて黙り込んでしまう。何となく悪いことをした気になって、その分役得もあったけどな、と付け加えてみた。
「……それってこの状況のことを言ってるの?」
「他に何があるんだ? もちろん、そうだとも」
「……ふーん、あなたにはこんなこと、珍しくないんじゃなかったっけ?」
漸く普段の調子が戻って来たかと思えば、どうやら七瀬とのことを指摘しているようだ。絵梨香の耳にまで届いているのかと少し驚いたが、考えてみれば命を預ける相方なのだから噂には敏感になっていて当然かも知れない。
「それはそれとしてまだ御礼を言ってなかったわね。助けてくれてありがとう。感謝しているわ」
濡れた髪から滴が垂れるのも構わず神妙な面持ちで絵梨香は頭を下げる。そういうのは止せ、と智哉はやや語気を強めて言った。
「バディなんだから助けるのは当たり前だ。いちいちそんなことで礼なんか言うな。俺は絵梨香に──もう遠慮無しに絵梨香と呼び捨てにするぞ──絵梨香に助けられても礼は言わねえ」
「……わかった。私も今後はそうする」
(それにしても冷静になってくると、この状況は結構ヤバいな)
毛布に包まれた二人の間を隔てているのは、智哉が残す下着一枚だ。胸には絵梨香の弾む乳房がしっかりと押し付けられ、視線を落とせば一糸纏わぬ姿が否が応にも目に入る。改めて考えるまでもなく女を意識せざるを得ない。さすがに下半身の興奮も隠し切れなくなってきた。絵梨香もそれに気付いたようで、居心地が悪そうにもぞもぞと身体を動かすと突然、痛くないか、と訊ねてきた。
「どういう意味だよ、それ」
「私なんかでよく勃つもんだとは思うけど、そうなんでしょ? ずっと当たっているから邪魔だし、下手に動くと折れやしないかって心配なのよ」
どうやら勃起したペニスが絵梨香の下半身を圧迫しているのが気になっているらしい。そうは言われても自分の意志ではどうにも鎮めようがない。仕方がなく少し位置をずらしてやる。
「そういう怪我もあるらしいけど俺は経験ないな……っと、これでいいか?」
「……どうも。ところで介抱して貰ってなんだけど、いつまでこうしているつもり?」
「そうだな、絵梨香が嫌じゃなきゃもう暫くこのままでいたい」
智哉はそのように答えてみた。実際にこうしているのも悪くないと思える。絵梨香の方は、私は別に構わないけど、と何やら含むところがあるような言い方をした。それはそうなるだろう。緊急時だったとはいえ、男女が裸で抱き合っていて何も思わない方がおかしい。
暫くはどことなく気まずい沈黙が続いたが、それに堪え切れなくなったように絵梨香が再度口を開いた。
「何もしないっていうのも却って照れるんだけど」
「俺だってそうだよ。でも、これ以上は駄目だってさっきから自分に言い聞かせている」
「それって先に進みたいけど我慢しているってこと?」
そうだ、と智哉は断言した。どうしてか、と絵梨香は訊ねた。
「今なら、さあ、やろう、って言われたらきっと断れないわよ、私。やっぱり彼女に悪いから遠慮して誘わないってこと? それとも私に女としての魅力がないのかな?」
どれも違う、と智哉はきっぱりと首を振って見せた。
「絵梨香とセックスしないのは、パートナーとしての関係を崩したくないからだ。正直に言うと、セックスするだけの相手なら今の俺は探すのにそれほど苦労しない。俺の特異体質を知る絵梨香ならそれが自信過剰じゃないってわかるよな? 何しろ独裁者になるのを警戒されるくらいだ。けど、背中を任せられる相棒となると、そう簡単には見つけられない。単に銃器の扱いに長けていることだけを言っているわけじゃないぜ。それだったら他の元自衛官でも構わないわけだが、幾ら腕が立とうと一緒に行動する気にはなれないからな。思うに俺達は考え方が似通っているんじゃないか? 良くも悪くもだが。そう思える相手は珍しい。だから余計な感情を持ち込んで壊したくないんだよ。俺の決め付けかも知れないけど、少なくとも寝たくらいで関係は揺るがないって自信が持てるまではさ」
絵梨香はすぐに返事を寄越さない。智哉の話したことをじっくりと吟味しているようだ。やがて、それならやらない方がいいわね、と呟いた。
「私だってもしそうなったら今のままでいられる自信はないもの。でもまあ、理由を聞けて良かったわ。さすがにこの状況でその気がないと言われただけだったら傷付くよ」
「その気がないのに勃起なんてしないさ」
それに今、無性に絵梨香とキスしたい気分だ、と智哉が口にすると、何それ、セックスしないならキスも無しじゃないの? と彼女は呆れたように言った。
「それとこれとは別じゃないか。キスなんて海外じゃ挨拶みたいなもんだし、ハグでも握手でもいいが、やっぱり口付けが一番しっくりくる感じがするな」
「どういうこと?」
「特に深い意味はないよ。セックスはしない方がいいって結論だったけど、今のこの気持ちを何か別の形で記念に残せないかと思っただけでさ」
それがキスなの? とまたしても絵梨香に溜め息を吐かれてしまった。
「変か? 俺としては友情の証みたいなつもりだけど」
「日本人同士なんだし、友情でキスはしないんじゃないの?」
「そうかな?」
「……じゃあ、試してみる?」
智哉と絵梨香はお互いに顔を見合すと、ゆっくりと唇を近付けていった。
唇を重ねながら智哉は絵梨香の背中に腕を回してそっと抱き締めた。絵梨香も拒絶することなく身を任せている。彼女の身体は想像していた以上に柔らかく、腰の辺りはずっと華奢に思え、唇の感触は滑らかで、胸に小さな突起が当たるのを感じられたが、ただそれだけだった。唇を離すと、悪くなかったわね、と小声で絵梨香は感想を洩らした。その時だった。不意に聞き憶えのある声が船内に流れた。操舵室に持ち込んだ無線機から届いたもののようである。船にも元々の備え付けの船舶無線はあったのだが、国際VHF規格──所謂マリンバンドに対応した送受信機を向こうに用意しておかなかったので、普段使用しているデジタル無線で呼出チャネルを聴取していたのだ。さすがに距離があるせいで受信状態は極めて悪い。
それでも二人して顔を見合わせ懸命に耳を澄ませていると、所々で理解できる言葉が増えてきた。同じ内容を繰り返し伝えているらしい。それはこう告げていた。
「岩永さん、聞こえ……ザッ……すか? 美鈴で……ザッ……避難所は……ザッ……に襲われて……ザッ……ます。すぐに還って……ザッ……お願い……ザッ……助けて……ザッ……ださい」
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