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第二部 戦闘篇
2 奇妙な来訪者
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(それにしてもポルシェでもフェラーリでも乗り放題だというのに、よりにもよって軽トラが一番しっくりくるとはね)
そんな苦笑混じりの感想を抱きつつ荷物を満載した軽トラックを運転していた智哉は、不意に昨晩の出来事を思い出した。あの屋上で二人きりになった夜を皮切りに、毎晩のように美鈴を呼び出し、その若く弾けた健康的な肉体を弄ぶ日々が続いている。美鈴の方も四度目ともなれば大して抗いもせず、淡々と智哉の要求をこなすことのみに心を砕いているようだ。トランクスを脱がす手付きももはや手慣れたものだった。
もっとも生理中ということでこれまで見逃してきた下半身に、そろそろ良いだろうと手を伸ばした際にはさすがに美鈴も抵抗する素振りを見せた。所詮は無駄な足掻きに過ぎなかったが。強引にジーンズを下ろされ、股の間からパンティを剥ぎ取られると、やっと諦めた表情で押さえていた智哉の腕を離し放心したように全身の力を抜いた。
「案外、毛深いんだな」
繁みを掻き分けるようにして智哉が下半身を弄っている間中、美鈴はされるがままになっていた。抵抗は無意味どころか、却って相手を悦ばせるだけだと遅ればせながらに気付いたらしい。必死で心を押し殺そうとしているようだが、顔から火が出るような恥ずかしさは容易に消し去れるものではない。そこへさらに智哉はヴァギナを押し拡げるようにしてゆっくりと指を滑り込ませていく。美鈴は無言でそれに耐えた。バージンに配慮してかあまり深くは挿入してこなかったが、初めて膣内に異物を受け容れた感覚はとても言葉で言い表せるものではなかった。痛かったら言えよ、と一応智哉も気遣いは見せるが、指一本入れただけでも下腹部が酷く圧迫された感じがしてピリッとした痛みが走った。そのことを智哉に告げると、以降は無理に押し入ろうとはせず周辺をなぞるだけに留めた。あとはずっと美鈴の股間に顔を埋めて舐めたり吸ったりし続ける。やがて唾液ではなく美鈴自身のものである程度濡れてくると、智哉は奇妙な卵型の道具を取り出し、コードで繋がった先にあるスイッチを入れた。それがピンクローターと呼ばれる性具であることは美鈴も何となく承知していたが、どう使うかまではわからない。戸惑っている間に、智哉は小刻みに振動するローターを美鈴のクリトリスにあてがう。慣れていないことに考慮して直接ではなく包皮の上からだったが、それでも触れた途端、弾けるような感覚が背筋を走り、思わず仰け反った。快楽とは言えないまでも今まで味わったことのない刺激なのは確かで、美鈴はこんなことを続けられたらこの先どうなるのかと一層の不安に包まれた。単なる嫌悪感だけなら耐え忍べば済む。だが、それだけではなかったからだ。執拗に責められて徐々に声が上がるのも我慢できなくなった。ただ本当に辛くなった時には真剣な口調で止めてくれと訴えると、その時は智哉も手を休めてくれるので、次第に美鈴は自分が本気で嫌がっているのか、それとも嫌がるふりだけで本当は受け容れてしまっているのかがわからなくなってきた。その上で美鈴にはどうしても気になることがあり、ひと通りの愛撫が済んでいつものように手でし始めた折に、思い切って智哉に訊ねてみた。
「あの……訊いてもいいですか?」
「何だ? 今更、どうしてこんなことをさせるのか、なんて言うなよ」
「そうじゃありません。その……私って変だったりしていませんでしたか?」
「変? 変って何が?」
「つまり、さっき見た感じが、他の人と違っていなかったかっていう意味で……」
どうやら自分の性器のことを言っているらしいと智哉は気付いた。小陰唇が大き過ぎやしないかとか色が黒ずんでいないかとか膣口が変形していないかとかそういうことだろうと判断して、別に普通だけど、と答えた。そうですか、と美鈴は安心した表情を見せる。妙なことを気にするものだと智哉は半ば呆れたが、もしかしたらこの異常な状況に必死に順応しようする表れかも知れないと考えた。
(だったら、そろそろ次のステップに移っても良さそうか……)
すっかりペニスにも慣れ、触るくらいでは動じなくなった美鈴の様子を見て、智哉は兼ねてより予定していた行為を試してみようと決意する。ペニスを擦る手を止めさせて両脚を開いた股の間に膝を折って坐るよう指示する。言われるがまま目の前に腰を下ろした美鈴に向かい、正面のそそり立つものを指して、舐めろ、と命じた。
「えっ?」
「わからないか? フェラチオをしろと言ったんだ。それくらい知っているだろ」
「……そんなの嫌です」
手淫には殆ど抵抗を感じなくなっていた美鈴だが、口でするのはそれとはまったくの別問題である。一応、そういう男性の悦ばせ方があるのは美鈴も知っていたが、自分がそれをするとはこれまで一度も考えたことはない。
「セックス以外は何でもする約束だったろ。そっちが守らないなら俺も守る必要はなくなるが、それでも構わないのか?」
智哉にそう切り返されるのはわかっていたが、素直に応じるにはやはりハードルが高過ぎた。そんな美鈴の心情を見抜いたみたいに智哉は、いきなり咥えろ言わないからとりあえず先の方だけでも舐めてみろ、と促した。俺だってしてやったんだからそのお返しだと思えば良いだろ、などと勝手なことをのたまう。元々がクンニリングスは智哉がやりたくてしたことなので美鈴にとっては理不尽な言いがかりに過ぎないのだが、そんな正論が通用しないことは百も承知だった。ならば他に自分ができることはないかと考えて、だったら、と美鈴は口を開いた。
「これって取引なんですよね? それなら私の方にも要求する権利はあるはずです」
はっきりした口調でそう返す。智哉は意外そうな面持ちで多少警戒しながらも、何だ、言ってみろ、と答えた。
「教科書や参考書を手に入れて来てください、加奈とユウくんの分の。二人には勉強をさせたいので」
「勉強……?」
思いがけない要求に智哉は一瞬、言葉に詰まる。もっと別の、待遇を改善しろとでも言われるのかと思っていたのだ。それを呆れられたとでも受け止めたのだろう。やや向きになった口調で美鈴は主張した。
「こんな時に勉強なんておかしいですか? でも、こんな時だからこそ最低限の知識は身に付けておく必要があると思います。もしかしたらそれがこの先、生き残るのに役立つ時が来るかも知れないじゃないですか」
別におかしくはない、と智哉は言った。気が付かなくて悪かったと思っただけだ、そう付け加えた。
「……じゃあ、手に入れて貰えるんですね?」
「ああ。教科書と参考書、それからノートや筆記用具もいるな。勉強はお前が教えるのか?」
「わかるところまではそのつもりです。小学生のうちならともかく、中学生ともなると、どこまでやれるのか自信はありませんが……」
恐らくそれは謙遜に違いない。これまでの会話の内容から察するに、かなりの優等生ぶりが窺えた。勉強の方もそれなりにできていたはずだ。そのことを踏まえて智哉は言う。
「自分の分も必要だろう? どの程度の学力なのか知らないから、志望大学でもあるならそれを教えろ。それに見合った参考書でも探して来てやる」
「でも、それじゃあ、与えられた仕事がこなせなくなります。二人の分だけで構いません」
「そんなにやることなんかないだろ。少なくとも今のところはな。どうせ暇を持て余しているんじゃないか?」
確かに現時点ですべきことは大してなかった。掃除や洗濯などの日常の雑務以外で智哉から言い付かっているのは、屋上で始めた家庭菜園の世話くらいだ。それも本格的な始動は春まで待たねばならず、今は色々と試している最中である。とはいえ、受験勉強が必要とも思えない。
「やっぱり私の分は……いえ、だったら農業高校のものが良いです。栽培についてもっと学びたいので。最近、少しコツみたいなものがわかってきたんですけど、春までにはもっと上手くやれるようになっておきたくて」
本当に生真面目な性格なのだと感心する一方で、それが将来的に足枷にならなければ良いがと余計な心配をしてしまう。それでも、わかった、と智哉は請け負った。次はいよいよ智哉の要求を美鈴が聞く番だった。
「下手でがっかりしたって知りませんよ」
最後の悪足掻きでそう言ってみたものの、
「最初から上手くできるなんて期待してねえよ。歯さえ当てなきゃ初めてとしては上出来だ」
そのように言われてしまい、もはや美鈴も観念せざるを得なくなる。目を閉じて思い切ってペニスの先端に軽く口を付けた。途端に生臭さと酸っぱさをない交ぜにしたような不快な味が口いっぱいに拡がる。その嫌悪感に耐えながら命じられるままに舌を出し亀頭に這わせたり裏筋を舐めたりした。
「それだけじゃひと晩かかっても終わらねえぞ」
促されて遂に智哉のものを口に咥える。より一層の不快感に苦さまで加わり、喉を塞がれる息苦しさと相まってむせ返りそうになった。思わず涙がこみ上げてくるが、ここで泣いたら負けだと思い、必死で堪えた。どうせ逃れられないのなら、例え僅かでも弱味を見せないことが唯一の反抗に思えたからだ。
(この先、何があっても絶対に泣いたりしない)
そう固く決意する。
しかしながら結局は口でいけなかったので、最後はいつも通りの手で終わらせた。ある程度時間が経つと、智哉がそうするように命じたのだ。だったら最初から口でする必要はなかったのではないかと思ったが、端からそこまで期待されていなかったのは明白で、それはそれでどことなく腹立たしく感じてしまうのが尚のこと忌々しい。
その非難がましい視線は智哉も感じ取っていた。もっともそんな意味が込められているとは気付かなかったが。余程フェラチオが嫌だったのだろうと思い、軽く受け流した程度だ。当然であるが、口淫の技術は智哉が満足するレベルには程遠く、更なる向上を美鈴には要求することになろう。そのために今夜も呼び出すことを考えていると、唐突に助手席に置いた無線トランシーバーが鳴った。
「──もしもし、美鈴です。岩永さん、聞こえますか? どうぞ」
切迫した様子で呼びかけてくる。無線を使うのは緊急時に限るという決まりだ。一応は無線機の秘話機能を使うようにしてあるが、軍用無線のように本格的な暗号化変調をかけているわけではなく、あくまで有限な組み合わせのコードで識別しているに過ぎないので、その気になれば解読できてしまう。そうでなくとも通話していることはわかるため、場合によっては厄介な相手を招き寄せないとも限らない。それを防止するのが目的だ。その無線機で連絡してきたということは、何らかの火急の事態が起きたに違いなかった。
智哉は無線機を引っ掴むと、通話スイッチを押して答えた。
「岩永だ。どうした? どうぞ」
「今、屋上に出ているんですけど、誰かが来ました。外の駐車場にいます」
報告を聞いて、智哉は一気に緊張感を高めた。いずれは接触してくる者があるかも知れないとは思っていたが、こうもあっさりとその時が訪れるとは予想していなかったのだ。道路は整備しているとはいえどうやってゾンビがいる中を潜り抜けてきたのか、という疑問が真っ先に頭を掠めるが、今はそれを詮索するより先にやるべきことがあった。素早く考えを巡らせると、送信権交代の合図がまだなのも気付かずに無線機に話しかけた。もっとも美鈴の方も合図を出し忘れていただけらしく、すぐに話は通じた。
「知りたいことだけを伝えるから手早く教えろ。相手は歩きか車か? 確認できるならその人数と武器の有無。周りのゾンビの様子。それと、そこにお前が居ることに向こうは気付いたかだ。どうぞ」
すかさず美鈴から返信が届く。
「やって来たのは車が一台だけです。降りて来ていないので何人乗っているのかはわかりません。ゾンビに変化はないようです。こっちにはたぶん気付いていないと思います。どうぞ」
「よし。そのまま見つからないように隠れていろ。すぐに戻る。何か新しい動きがあればまた報告しろ。こちらからは以上だ」
「わかりました。何かあったら連絡します。えっと、通信を終わります」
智哉は軽トラックをスーパーの方向に向けると、可能な限りのスピードで飛ばし始めた。何者かは不明だが、あそこまで無事に辿り着けたということは只の生存者ではあるまい。まさかとは思うが、自分と同じ特異体質の持ち主ではないかという考えが浮かぶ。自らがそうである以上、他にいないとは断言できないのだ。もしそうなら智哉が戦略上優位に立てる要素はなくなる。友好的な相手であれば良いが、危険な連中だった場合、何らかの武装をしていることは充分に考えられた。それに対して智哉の手持ちの武器は数本のナイフ類と米国製コンパウンドクロスボウ、それとゾンビ対策用に持ち歩いている手製の槍だけだ。槍といっても五十センチほどの鉄の棒の先端をグラインダーで削って尖らせ焼き入れしただけの、どちらかと言えば杭と呼んだ方が近い代物である。ゾンビにナイフを振るうと粘着性の体液が付着してすぐに駄目になるため、それを避けたくて使い捨てにできるそいつを十本ばかり常時携行するようにしていた。ゾンビに危険なく近寄れる智哉だから効果的に使える武器で、他の者には到底お勧めできない。ましてや人に対しては威嚇にすらならないだろう。クロスボウは狩猟用だが、米国製の強力なもので、人に向ければ当然殺傷力はある。ただし、張力が百八十五ポンド(一ポンドは約〇・四五キロ)もあるため、智哉が引くには専用の道具の手助けが必要で、その分連射はできない。脅すだけならそれでも事足りたが、特に複数を相手にして本気で挑むには圧倒的に分が悪かった。
こうなってみると早めに銃を手に入れておかなかったことが悔やまれる。ゾンビがいればおいそれとは近付けないだろうと高を括って必要性をさほど感じていなかったのが間違いだったようだ。だが、来訪者が何をする気にせよ、今から探しに行ってはとても間に合うまい。
銃は諦めて十五分ほどでスーパーの近くまで戻ると、エンジン音に気付かれないよう直前で軽トラを降りて、走って敷地に向かった。念のため、クロスボウに矢は番えてある。駐車場が見通せる位置まで来ると、障害物に身を潜め、無線機で美鈴を呼び出した。
「こちら岩永だ。今、正面の駐車場近くまで戻った。まだいるのが見えるか? どうぞ」
サザッというノイズに続いて、美鈴の声が響く。
「まだいます。駐車場に入ってからずっと動いていません。車から降りてもいないです。どうぞ」
「どの辺りに停まっている? 車種と色はわかるか? どうぞ」
「真ん中よりやや東の道路寄りです。車種まではちょっと……形はいつも岩永さんと夜に過ごすようなやつで、色は白です。どうぞ」
ということは、ミニバンタイプの乗用車なのだろう。智哉は双眼鏡でその辺りを探る。難なく見つかった。確かに今朝方まではなかった白いバンが停まっていた。
「確認した。お前は中に戻れ。俺が還るまで誰かが来ても無視しろ。暫く無線も切るぞ。以上」
「あっ、はい。……気を付けてください」
智哉は無線の電源を切ると、もっと見やすい位置へと移動する。相手の車から見て右斜め前方に当たる場所に行き着いた。そこからもう一度じっくりと眺める。車自体は何の変哲もないように見えるが、側面には英語らしき何かの文字とロゴが描かれていた。十メートルばかり離れたところにはゾンビもいるが、美鈴の報告にあった通り何の反応も示していなかった。これまでの智哉の経験では車内に誰かがいれば確実に襲って来る距離だ。もしかして美鈴が降りたところを見逃して誰も乗っていないのではないかと疑うが、運転席を注視すると、確かに動く人影らしきものが確認できた。助手席にも誰かが乗っているようだ。見たところ人影はそれだけで、後部座席に同乗者の気配はない。
(これだけ近くにゾンビがいて襲われないということはやはり俺と同じなのか? それも二人共がそうということになる。偶然に知り合ったのだろうか? それともどこかにそういう体質の人間が集まるコミュニティがある……?)
ここからでは距離が離れ過ぎていて、窓に張られたスモークガラス越しでは中の様子まではよく見えない。もっと近くに寄って観察したいが、この先は身を隠せる場所が限られて来るので、見つからずに近付くのは困難だった。せめて中の人間がどこを向いているかがわかれば良いのだが……そんな風に考えながら仕方がなく様子を窺っていると、暫くして近くにいたゾンビがどこかに離れて行った。それを待ちかねていたように助手席側のサイドウインドウが下げられる。ゾンビが傍にいたため窓を開けるのを控えていたらしい。ほぼ同時に運転席側の窓も開く。そこから突き出された二人の両手には今の智哉と同様に双眼鏡が握られていた。だが、それは智哉に向けられたわけではなく、スーパーの入口付近を見据えていた。
本来ならそこで相手が何者かを知る手掛かりが得られて然るべきはずだった。ところが手掛かりどころか、年齢や性別すらも智哉には判断が付かなかったのである。何故なら二人の顔が遊園地で見かけるような動物の着ぐるみほどもある巨大なヘルメットで遮られていたためだ。そのせいで双眼鏡を覗くのもままならないらしく、悪戦苦闘している様子が目に入る。思うように動けないのは頭だけでなく、全身が何か大掛かりなもので覆われているからのようだと気付く。
二人が偵察に苦心している間に、智哉は素早く駐車された車の陰を渡り歩きながら傍に近寄って行った。距離を縮めるに連れ、その全貌が徐々に明らかになってくる。思った通り、鮮やかなオレンジ色の宇宙服のようなもので二人共身を包んでいる。恐らく、病原菌や有毒ガスから身を護る化学防護服というやつだろうと智哉は推測した。
(それにしても何故……? ゾンビに感染するのを警戒しているのだろうか?)
しかし、ゾンビになる原因がウイルスだとしても空気感染はしないのが定説である。そうでなければ人類などとっくに絶滅していてもおかしくないからだ。今のところ、噛まれることでのみ感染被害は拡大していると見て間違いないだろう。即ち唾液や血液に触れなければ安全なはずだ。ならば大袈裟な防護服は不要である。むしろ、動きが制限されてゾンビから逃げる際の障害になる負担の方が大きい。そんなものをわざわざ着込んでいるのは単なる酔狂としか思えないが──。
(いや、そうじゃない。彼らは逃げる必要がないんだ)
ある考えが脳裏に閃く。つまり、来訪者は感染を恐れて化学防護服を着込んでいるのではなく、ゾンビに襲われない対策としてそれを着用しているのではないかという発想だ。ウイルスや細菌を防ぐということは簡単に言えば外気を遮断して触れないようにすることに他ならない。それは裏を返せば自らが輩出したものも閉じ込めておけることを意味する。無論、通常はそんな使い方はしないから換気弁を塞ぐなどの工夫は必要となろうが、気密服ならさほど難しくはないと思われる。そうして内気を外に洩らさないことでゾンビに気付かれなくなるのではないか。以前、検証してゾンビの嗅覚が優れていることは判明していたが、それを逆手に取った方法と見られる。なまじ鋭い嗅覚故に効果があるのかも知れない。それにしても実践しようという者がいるとは驚きだったが。もちろん、現時点では全て智哉の憶測に過ぎない。確かめるには直接彼らに訊くのが一番だが、只の感染予防の装備とはいえ、やはりその異様な風体が接触を躊躇わせた。少なくとも普通の会社員がそんなものを所持しているとは思えない。医療関係者か化学者と見受けられるが、もしそうなら智哉の特異体質を見抜かれる恐れも出てくる。迷っているうちに、彼らは車のエンジンをかけた。駐車場の出入口を振り返っていることから、どうやら立ち去る気でいるようだ。店内にゾンビが溢れているのを見て、誰も居ないものと判断したらしい。もう少し近寄っていれば、立体駐車場のスロープに防火シャッターが下りていたり、一階の食料品フロアがきれいに整理されていたりと、あるいは人が居る痕跡に気付けたかも知れない。襲われる心配がないのならどうして店内を見て回らないのか疑問に思うべきだったが、この時は焦っていてそこまで考えが及ばなかった。不安要素は大いにあるが、見過ごすにはやはり惜しい相手だったので、動き出した彼らを呼び止めるべく立ち上がりかけたその時だ。近くに停まっていたトラックの陰から不意に一体のゾンビが現れた。死角になっていたため、彼らも智哉も気付くのが遅れた。ふらりと飛び出し車の進行方向に立ち塞がる。無視して跳ね飛ばせば良かったものの、平時の癖で思わずブレーキを踏んだのだろう。ぶつかる直前で急停止する。近いな、と智哉が考えたのも束の間、それまで大人しかったゾンビが突然、豹変して車内の二人に襲いかかった。ボンネットに飛び乗ると、頭からフロントガラスを突き破る。運転席にいた人物の化学防護服があっという間に引き裂かれるのが見えた。助手席のもう一人はパニックに陥ったようで車外に逃げ出すが、その先にも運悪く別のゾンビが待ち受けていた。次の瞬間には彼もしくは彼女の絶叫が駐車場に響き渡る。全ては智哉の目と鼻の先で、僅か数秒間に起きた出来事だった。突発的過ぎて助けるどころか、声をかけることもできなかった。今まで襲われなかったものが、どうして急に攻撃の対象に変わったのかさえすぐには理解できず、暫く茫然と立ち尽くす。やがて、ゾンビが傍にいる間は彼らが窓を開けなかったことを思い返した。そのことから防護服による対策は万全ではないのだと気付いた。よくよく考えてみれば不思議でも何でもない。我々でも何かを見分ける際には嗅覚だけではなく、五感から得られる様々な情報を駆使して総合的に行う。ゾンビもそれと同じく近くで目視すれば嗅覚よりもそちらの視覚情報を優先するのは当たり前と言えよう。要するに近寄り過ぎたがために見抜かれたのだ。そう考えれば彼らが何故、店内に足を踏み入れなかったかも納得がいく。恐らくゾンビの数が多過ぎて、胡麻化し切れないと考えたに相違なかった。詰まるところ彼らには初めから防護服の効果範囲がわかっていて、呼気や生体ガスを外に出さないだけでは不十分であると知っていたことになる。もっともその慎重さが却って仇となったのは皮肉としか言いようはあるまいが。
いずれにしてもこうなってしまったからには仕方がなかった。智哉は正体を知る手掛かりが残っていないかを調べるため彼らの下へ向かった。既にゾンビとなっていた彼らに勝手に動き回られては面倒なので、一先ず車両止めのロープで近くの車体に括りつけておき、まずは運転席に坐っていた方のヘルメットを外す。その下にはさらにフルフェイスの呼吸器を付けていて、そこから伸びたホースが背面の酸素供給装置とおぼしき箱に繋がっていた。フェイスマスクも取ると、漸く五、六十代と思われる白髪混じりの頭髪をした男の顔が現れた。身分証を探すが、それらしきものは何も身に付けていなかった。もう一人の方を調べても結果は同様である。ただし、こちらは幾分若いと思われる女だった。彼らからは何のヒントも得られなかったが、解放するわけにもいかなかったので、例の槍で始末をした後、車を調べ始めた。側面に描かれていた文字は何かの研究機関を示しているらしいという以外、やはりめぼしい情報は何もない。結局、死んだのが誰なのかも、何の目的でやって来たのかも、以前として謎のまま残った。智哉はとりあえずまだ使えそうなフェイスマスクと呼吸装置を死体から外して車の後部座席にあった予備の酸素ボンベ共々、優に二十キロはありそうなそれらを抱えてやっとの思いで軽トラックまで運んだ。荷台に積み込むと、これから戻る旨を美鈴に伝える。死体は放って置けばゾンビが勝手に片付けてくれるので、何もしなくて特に問題はない。
「──それで、どうなりましたか?」
スーパーに戻った智哉がソファに腰を下ろすなり、待ち切れなかった様子で美鈴が訊ねた。
「説明するから落ち着けよ。まずはひと息入れされてくれ」
気を利かせて優馬が差し出したコップの水を一気に飲み干すと、智哉は大きく息を吐いた。そして、最初に言っておくことがある、そう告げてから智哉は話を切り出した。
「もうわかっていると思うが、ここには誰もやって来ない。訪ねて来た連中はゾンビに襲われて全員、と言っても二人だけだったが死んだよ」
「やっぱり、そうなりましたか……」
智哉が一人で戻った時点で大方の予想はしていた。そう言われても美鈴にさほどの驚きはない。むしろ、こんな場所にのこのこと出向いて来て無事で済むとは思っていなかったくらいだ。
「でも、屋上から見ていた時にはゾンビは襲って来ませんでした。何故なんでしょう?」
真っ先に思い付いた疑問を智哉に訊いてみる。
「それは俺も確認した。たぶん、こういうことだろうと思う」
智哉は見てきたことの一部始終を自身の推論を交えながら美鈴達に話してやった。
「それじゃあ、匂いを消せばゾンビに襲われないってこと?」
隣で訊いていた加奈が胡散臭げな目付きでそう口を挟む。
「匂いとは限らないけどな。吐く息に含まれる成分とか無意識に発しているフェロモンとかが影響しているのかも知れない」
「だったら香水を振りかけてみるとかは? たまに電車の中で嗅ぐと気持ち悪くなるくらいさせている人がいるよ。あんな風にしたらどうかな?」
「たぶん、無意味だろう。ゾンビの嗅覚がどれほど鋭敏かは不明だが、その程度で欺けるならとっくに誰かが試してみんなに知れ渡っているさ」
智哉はそう言って加奈のアイデアを一蹴した。
「岩永さんはその化学防護服というのがゾンビを寄せ付けなくしていたと考えているわけですね?」
美鈴が訊き、智哉が答える。
「寄せ付けないというのとは少し違う。見ていた限りじゃ気付かれにくくしているといった感じだったな。そもそもゾンビは動くものを見境なく襲っているわけじゃない。襲うのは生きた人間だけで、他のゾンビには反応しないだろ。ということは何らかの手段で獲物と仲間を見分けているはずなんだ。それは今言ったような身体から出る何かの成分かも知れないし、ちょっとした動きの違いや、あるいは体温といったものとも考えられる。そのどれにしろ防護服を着ることで胡麻化せていることは間違いないと思う」
「それでも近寄られたら駄目なんですよね?」
「それも推測だけどな。あのフェイスマスクは透明だったからそれが悪かったのかも知れない。もっと色を濃くして覗き込まれても誰だかわからないようにしていれば無事で済んだ可能性もなくはない」
その後、回収したフェイスマスクと呼吸装置を調べてみると、やはり開放式ではなく循環式であったことがわかる。これは吐いた息に含まれる二酸化炭素を清浄缶で吸収し、余った酸素は呼吸器に戻され消費した分をボンベで補いながら再使用される仕組みのものだ。使われなかった酸素まで放出してしまう開放式に対して無駄が少ない分、長時間の使用に耐えられると同時に排気を外部に出さずに済む。火災現場などでは排気に多量の酸素を含むと爆発の恐れがあるため、圧縮酸素ボンベで作業する場合はよく用いられる方式らしい。ただし、清浄缶内の二酸化炭素吸収剤は一旦封を開けると化学反応が止められなくなるので、一回毎の使い切りだ。予備も見当たらなかったことから効果を検証するには破れた防護服を含めてどこかで調達しなければならない。その上、実証は智哉自身ではできないのだ。それでももし智哉の推論が正しければ今後の活動に大きな進展をもたらすことになる。このまま見過ごすというわけにはいかないだろう。それには何としてでも美鈴を説得し検証に立ち会わせることが不可欠だ。だが、果たして今の関係で上手くいくだろうか? どちらにしても今すぐにやれることではなく、話が一段落すると、智哉は美鈴達にも手伝わせて、屋上に停めた軽トラックから運んで来た荷物を降ろし始めた。その中には頼まれていた加奈達の勉強道具も含まれている。
「あの、それって何ですか?」
荷台から降ろした縦横がそれぞれ一・五メートル×一メートルほどもある長方形のパネルを目ざとく見つけた美鈴がそう訊ねてくる。
「ソーラーパネルだよ。探していたサイズのがやっと見つかったんでね。漸く試せる」
その宣言通りに智哉は太陽光発電を実践してみるつもりだった。ひと昔前は高度な専門知識とそれなりの費用がかかるというイメージの強かった太陽光発電だが、現在ではチャージコントローラーやインバーター、バッテリーなどの必要な設備を揃えた安価な自作キットも販売されており、敷居はかなり低くなっている。とりあえず智哉はコストを気にする必要はなかったのでなるべく高性能なものをと最大出力二五〇Wのパネル十二枚を使い一日の総発電量三〇〇〇Wの独立型発電を目指してみることにした。家庭用冷蔵庫で一時間の消費電力が凡そ六〇Wほどなので、電力が失われた後でも計画的に運用すれば燃料発電機に頼らずに済む計算だ。幸いパネルを置く場所には不自由しないので、順調そうなら枚数を増やしていけば良い。
その設置予定場所にしようと考えている屋上の隅の一角には、バスタブ代わりに使った強化プラスチック製水槽と同じものが二十個ほど整然と並べられていた。蓋を敷いた中には満面の水が湛えられている。美鈴に命じて給湯室から引いたホースで蓄えさせたものだ。これで水道が止まっても当面の生活用水に困ることはないだろうし、使いきった後はそのまま雨水を貯めるのに利用できる。ちなみに一般的な水洗トイレでは断水しても水さえ補充できれば流せるのでその点も心配には及ばない。飲料水としては大量のペットボトルの備蓄に加え、市内の数ヶ所で飲料可能な井戸を調べて見つけてある。智哉の祖父母の家にも昔ながらの手押しポンプ式井戸があり、今でも醸造所や生け簀を使う場所には残っていることが多いのを知っていたためだ。探すに当たっては保健所に出向いて見つけた水質検査の書類や市の防災協力井戸の地図が大いに役立った。運搬には給水車を使うつもりで、どこかに放置されていないかと目下のところ、捜索中である。さらには万一に備えて災害時用浄化システムもいずれ手に入れようと思っている。これは自衛隊でも使われる浄水セットの小型版と言えるもので、大型のスーツケースほどの大きさに発電機と浄水エレメントを備え、逆浸透膜(RO方式)により水中のウイルスや細菌、重金属などの不純物を除去し、河川や雨水はもちろんのこと、海水までも飲料化できるという優れものだ。浄水能力は淡水で毎時約百リットル、海水なら凡そその半分である。性能の高さ故、価格も数百万は下らないという個人で持つには些か値の張るものだが、無論、今の智哉がそれを気に病むことはない。
これだけ準備しておけば停電と断水への備えは整ったと考えて問題ないだろう。あとはその時が来るのを待つだけだ。他にしておくべきことは──。
ふと思い付いて、智哉は傍らの美鈴に声をかけた。
「そうだ。お前、運転を覚えろ」
「運転……ですか?」
妙なことを教え込まれるよりは余程マシだが、唐突にそう言われても美鈴はピンと来ない。車の運転免許は家族では父親だけが持っていた。
「折角、教習にもってこいの広い場所があるんだ。時間がある時に教えてやるよ。運転できる人間が他にもいれば選択の幅も拡がるしな。オートマなら簡単だがマニュアルで操作を覚えた方がいい」
運転できればいざという時、智哉と離れ離れになっても自分達だけで逃げ延びる可能性は高まる。そのことは美鈴も理解したようで、わかりました、とあっさり承服した。運転を覚えたらここから逃げ出すのではないか、という心配は智哉の念頭にはない。そもそもが閉じ込めている意識はないからだ。出て行きたければ好きにすれば良いと思っている。もっとも運転を覚えたくらいで出て行こうものなら即座に奴らの餌食となるのは目に見えており、そこまで愚かとは考えたくなかった。教習と言っても交通ルールなどの座学を覚える必要はないので、すぐに身に付くはずだ。まあ、生真面目な美鈴なら独学でそれも学ぼうとするかも知れない。無論、智哉にそれを反対する理由はない。この先に活かせる機会があるとは思えなかったが──。
そんな苦笑混じりの感想を抱きつつ荷物を満載した軽トラックを運転していた智哉は、不意に昨晩の出来事を思い出した。あの屋上で二人きりになった夜を皮切りに、毎晩のように美鈴を呼び出し、その若く弾けた健康的な肉体を弄ぶ日々が続いている。美鈴の方も四度目ともなれば大して抗いもせず、淡々と智哉の要求をこなすことのみに心を砕いているようだ。トランクスを脱がす手付きももはや手慣れたものだった。
もっとも生理中ということでこれまで見逃してきた下半身に、そろそろ良いだろうと手を伸ばした際にはさすがに美鈴も抵抗する素振りを見せた。所詮は無駄な足掻きに過ぎなかったが。強引にジーンズを下ろされ、股の間からパンティを剥ぎ取られると、やっと諦めた表情で押さえていた智哉の腕を離し放心したように全身の力を抜いた。
「案外、毛深いんだな」
繁みを掻き分けるようにして智哉が下半身を弄っている間中、美鈴はされるがままになっていた。抵抗は無意味どころか、却って相手を悦ばせるだけだと遅ればせながらに気付いたらしい。必死で心を押し殺そうとしているようだが、顔から火が出るような恥ずかしさは容易に消し去れるものではない。そこへさらに智哉はヴァギナを押し拡げるようにしてゆっくりと指を滑り込ませていく。美鈴は無言でそれに耐えた。バージンに配慮してかあまり深くは挿入してこなかったが、初めて膣内に異物を受け容れた感覚はとても言葉で言い表せるものではなかった。痛かったら言えよ、と一応智哉も気遣いは見せるが、指一本入れただけでも下腹部が酷く圧迫された感じがしてピリッとした痛みが走った。そのことを智哉に告げると、以降は無理に押し入ろうとはせず周辺をなぞるだけに留めた。あとはずっと美鈴の股間に顔を埋めて舐めたり吸ったりし続ける。やがて唾液ではなく美鈴自身のものである程度濡れてくると、智哉は奇妙な卵型の道具を取り出し、コードで繋がった先にあるスイッチを入れた。それがピンクローターと呼ばれる性具であることは美鈴も何となく承知していたが、どう使うかまではわからない。戸惑っている間に、智哉は小刻みに振動するローターを美鈴のクリトリスにあてがう。慣れていないことに考慮して直接ではなく包皮の上からだったが、それでも触れた途端、弾けるような感覚が背筋を走り、思わず仰け反った。快楽とは言えないまでも今まで味わったことのない刺激なのは確かで、美鈴はこんなことを続けられたらこの先どうなるのかと一層の不安に包まれた。単なる嫌悪感だけなら耐え忍べば済む。だが、それだけではなかったからだ。執拗に責められて徐々に声が上がるのも我慢できなくなった。ただ本当に辛くなった時には真剣な口調で止めてくれと訴えると、その時は智哉も手を休めてくれるので、次第に美鈴は自分が本気で嫌がっているのか、それとも嫌がるふりだけで本当は受け容れてしまっているのかがわからなくなってきた。その上で美鈴にはどうしても気になることがあり、ひと通りの愛撫が済んでいつものように手でし始めた折に、思い切って智哉に訊ねてみた。
「あの……訊いてもいいですか?」
「何だ? 今更、どうしてこんなことをさせるのか、なんて言うなよ」
「そうじゃありません。その……私って変だったりしていませんでしたか?」
「変? 変って何が?」
「つまり、さっき見た感じが、他の人と違っていなかったかっていう意味で……」
どうやら自分の性器のことを言っているらしいと智哉は気付いた。小陰唇が大き過ぎやしないかとか色が黒ずんでいないかとか膣口が変形していないかとかそういうことだろうと判断して、別に普通だけど、と答えた。そうですか、と美鈴は安心した表情を見せる。妙なことを気にするものだと智哉は半ば呆れたが、もしかしたらこの異常な状況に必死に順応しようする表れかも知れないと考えた。
(だったら、そろそろ次のステップに移っても良さそうか……)
すっかりペニスにも慣れ、触るくらいでは動じなくなった美鈴の様子を見て、智哉は兼ねてより予定していた行為を試してみようと決意する。ペニスを擦る手を止めさせて両脚を開いた股の間に膝を折って坐るよう指示する。言われるがまま目の前に腰を下ろした美鈴に向かい、正面のそそり立つものを指して、舐めろ、と命じた。
「えっ?」
「わからないか? フェラチオをしろと言ったんだ。それくらい知っているだろ」
「……そんなの嫌です」
手淫には殆ど抵抗を感じなくなっていた美鈴だが、口でするのはそれとはまったくの別問題である。一応、そういう男性の悦ばせ方があるのは美鈴も知っていたが、自分がそれをするとはこれまで一度も考えたことはない。
「セックス以外は何でもする約束だったろ。そっちが守らないなら俺も守る必要はなくなるが、それでも構わないのか?」
智哉にそう切り返されるのはわかっていたが、素直に応じるにはやはりハードルが高過ぎた。そんな美鈴の心情を見抜いたみたいに智哉は、いきなり咥えろ言わないからとりあえず先の方だけでも舐めてみろ、と促した。俺だってしてやったんだからそのお返しだと思えば良いだろ、などと勝手なことをのたまう。元々がクンニリングスは智哉がやりたくてしたことなので美鈴にとっては理不尽な言いがかりに過ぎないのだが、そんな正論が通用しないことは百も承知だった。ならば他に自分ができることはないかと考えて、だったら、と美鈴は口を開いた。
「これって取引なんですよね? それなら私の方にも要求する権利はあるはずです」
はっきりした口調でそう返す。智哉は意外そうな面持ちで多少警戒しながらも、何だ、言ってみろ、と答えた。
「教科書や参考書を手に入れて来てください、加奈とユウくんの分の。二人には勉強をさせたいので」
「勉強……?」
思いがけない要求に智哉は一瞬、言葉に詰まる。もっと別の、待遇を改善しろとでも言われるのかと思っていたのだ。それを呆れられたとでも受け止めたのだろう。やや向きになった口調で美鈴は主張した。
「こんな時に勉強なんておかしいですか? でも、こんな時だからこそ最低限の知識は身に付けておく必要があると思います。もしかしたらそれがこの先、生き残るのに役立つ時が来るかも知れないじゃないですか」
別におかしくはない、と智哉は言った。気が付かなくて悪かったと思っただけだ、そう付け加えた。
「……じゃあ、手に入れて貰えるんですね?」
「ああ。教科書と参考書、それからノートや筆記用具もいるな。勉強はお前が教えるのか?」
「わかるところまではそのつもりです。小学生のうちならともかく、中学生ともなると、どこまでやれるのか自信はありませんが……」
恐らくそれは謙遜に違いない。これまでの会話の内容から察するに、かなりの優等生ぶりが窺えた。勉強の方もそれなりにできていたはずだ。そのことを踏まえて智哉は言う。
「自分の分も必要だろう? どの程度の学力なのか知らないから、志望大学でもあるならそれを教えろ。それに見合った参考書でも探して来てやる」
「でも、それじゃあ、与えられた仕事がこなせなくなります。二人の分だけで構いません」
「そんなにやることなんかないだろ。少なくとも今のところはな。どうせ暇を持て余しているんじゃないか?」
確かに現時点ですべきことは大してなかった。掃除や洗濯などの日常の雑務以外で智哉から言い付かっているのは、屋上で始めた家庭菜園の世話くらいだ。それも本格的な始動は春まで待たねばならず、今は色々と試している最中である。とはいえ、受験勉強が必要とも思えない。
「やっぱり私の分は……いえ、だったら農業高校のものが良いです。栽培についてもっと学びたいので。最近、少しコツみたいなものがわかってきたんですけど、春までにはもっと上手くやれるようになっておきたくて」
本当に生真面目な性格なのだと感心する一方で、それが将来的に足枷にならなければ良いがと余計な心配をしてしまう。それでも、わかった、と智哉は請け負った。次はいよいよ智哉の要求を美鈴が聞く番だった。
「下手でがっかりしたって知りませんよ」
最後の悪足掻きでそう言ってみたものの、
「最初から上手くできるなんて期待してねえよ。歯さえ当てなきゃ初めてとしては上出来だ」
そのように言われてしまい、もはや美鈴も観念せざるを得なくなる。目を閉じて思い切ってペニスの先端に軽く口を付けた。途端に生臭さと酸っぱさをない交ぜにしたような不快な味が口いっぱいに拡がる。その嫌悪感に耐えながら命じられるままに舌を出し亀頭に這わせたり裏筋を舐めたりした。
「それだけじゃひと晩かかっても終わらねえぞ」
促されて遂に智哉のものを口に咥える。より一層の不快感に苦さまで加わり、喉を塞がれる息苦しさと相まってむせ返りそうになった。思わず涙がこみ上げてくるが、ここで泣いたら負けだと思い、必死で堪えた。どうせ逃れられないのなら、例え僅かでも弱味を見せないことが唯一の反抗に思えたからだ。
(この先、何があっても絶対に泣いたりしない)
そう固く決意する。
しかしながら結局は口でいけなかったので、最後はいつも通りの手で終わらせた。ある程度時間が経つと、智哉がそうするように命じたのだ。だったら最初から口でする必要はなかったのではないかと思ったが、端からそこまで期待されていなかったのは明白で、それはそれでどことなく腹立たしく感じてしまうのが尚のこと忌々しい。
その非難がましい視線は智哉も感じ取っていた。もっともそんな意味が込められているとは気付かなかったが。余程フェラチオが嫌だったのだろうと思い、軽く受け流した程度だ。当然であるが、口淫の技術は智哉が満足するレベルには程遠く、更なる向上を美鈴には要求することになろう。そのために今夜も呼び出すことを考えていると、唐突に助手席に置いた無線トランシーバーが鳴った。
「──もしもし、美鈴です。岩永さん、聞こえますか? どうぞ」
切迫した様子で呼びかけてくる。無線を使うのは緊急時に限るという決まりだ。一応は無線機の秘話機能を使うようにしてあるが、軍用無線のように本格的な暗号化変調をかけているわけではなく、あくまで有限な組み合わせのコードで識別しているに過ぎないので、その気になれば解読できてしまう。そうでなくとも通話していることはわかるため、場合によっては厄介な相手を招き寄せないとも限らない。それを防止するのが目的だ。その無線機で連絡してきたということは、何らかの火急の事態が起きたに違いなかった。
智哉は無線機を引っ掴むと、通話スイッチを押して答えた。
「岩永だ。どうした? どうぞ」
「今、屋上に出ているんですけど、誰かが来ました。外の駐車場にいます」
報告を聞いて、智哉は一気に緊張感を高めた。いずれは接触してくる者があるかも知れないとは思っていたが、こうもあっさりとその時が訪れるとは予想していなかったのだ。道路は整備しているとはいえどうやってゾンビがいる中を潜り抜けてきたのか、という疑問が真っ先に頭を掠めるが、今はそれを詮索するより先にやるべきことがあった。素早く考えを巡らせると、送信権交代の合図がまだなのも気付かずに無線機に話しかけた。もっとも美鈴の方も合図を出し忘れていただけらしく、すぐに話は通じた。
「知りたいことだけを伝えるから手早く教えろ。相手は歩きか車か? 確認できるならその人数と武器の有無。周りのゾンビの様子。それと、そこにお前が居ることに向こうは気付いたかだ。どうぞ」
すかさず美鈴から返信が届く。
「やって来たのは車が一台だけです。降りて来ていないので何人乗っているのかはわかりません。ゾンビに変化はないようです。こっちにはたぶん気付いていないと思います。どうぞ」
「よし。そのまま見つからないように隠れていろ。すぐに戻る。何か新しい動きがあればまた報告しろ。こちらからは以上だ」
「わかりました。何かあったら連絡します。えっと、通信を終わります」
智哉は軽トラックをスーパーの方向に向けると、可能な限りのスピードで飛ばし始めた。何者かは不明だが、あそこまで無事に辿り着けたということは只の生存者ではあるまい。まさかとは思うが、自分と同じ特異体質の持ち主ではないかという考えが浮かぶ。自らがそうである以上、他にいないとは断言できないのだ。もしそうなら智哉が戦略上優位に立てる要素はなくなる。友好的な相手であれば良いが、危険な連中だった場合、何らかの武装をしていることは充分に考えられた。それに対して智哉の手持ちの武器は数本のナイフ類と米国製コンパウンドクロスボウ、それとゾンビ対策用に持ち歩いている手製の槍だけだ。槍といっても五十センチほどの鉄の棒の先端をグラインダーで削って尖らせ焼き入れしただけの、どちらかと言えば杭と呼んだ方が近い代物である。ゾンビにナイフを振るうと粘着性の体液が付着してすぐに駄目になるため、それを避けたくて使い捨てにできるそいつを十本ばかり常時携行するようにしていた。ゾンビに危険なく近寄れる智哉だから効果的に使える武器で、他の者には到底お勧めできない。ましてや人に対しては威嚇にすらならないだろう。クロスボウは狩猟用だが、米国製の強力なもので、人に向ければ当然殺傷力はある。ただし、張力が百八十五ポンド(一ポンドは約〇・四五キロ)もあるため、智哉が引くには専用の道具の手助けが必要で、その分連射はできない。脅すだけならそれでも事足りたが、特に複数を相手にして本気で挑むには圧倒的に分が悪かった。
こうなってみると早めに銃を手に入れておかなかったことが悔やまれる。ゾンビがいればおいそれとは近付けないだろうと高を括って必要性をさほど感じていなかったのが間違いだったようだ。だが、来訪者が何をする気にせよ、今から探しに行ってはとても間に合うまい。
銃は諦めて十五分ほどでスーパーの近くまで戻ると、エンジン音に気付かれないよう直前で軽トラを降りて、走って敷地に向かった。念のため、クロスボウに矢は番えてある。駐車場が見通せる位置まで来ると、障害物に身を潜め、無線機で美鈴を呼び出した。
「こちら岩永だ。今、正面の駐車場近くまで戻った。まだいるのが見えるか? どうぞ」
サザッというノイズに続いて、美鈴の声が響く。
「まだいます。駐車場に入ってからずっと動いていません。車から降りてもいないです。どうぞ」
「どの辺りに停まっている? 車種と色はわかるか? どうぞ」
「真ん中よりやや東の道路寄りです。車種まではちょっと……形はいつも岩永さんと夜に過ごすようなやつで、色は白です。どうぞ」
ということは、ミニバンタイプの乗用車なのだろう。智哉は双眼鏡でその辺りを探る。難なく見つかった。確かに今朝方まではなかった白いバンが停まっていた。
「確認した。お前は中に戻れ。俺が還るまで誰かが来ても無視しろ。暫く無線も切るぞ。以上」
「あっ、はい。……気を付けてください」
智哉は無線の電源を切ると、もっと見やすい位置へと移動する。相手の車から見て右斜め前方に当たる場所に行き着いた。そこからもう一度じっくりと眺める。車自体は何の変哲もないように見えるが、側面には英語らしき何かの文字とロゴが描かれていた。十メートルばかり離れたところにはゾンビもいるが、美鈴の報告にあった通り何の反応も示していなかった。これまでの智哉の経験では車内に誰かがいれば確実に襲って来る距離だ。もしかして美鈴が降りたところを見逃して誰も乗っていないのではないかと疑うが、運転席を注視すると、確かに動く人影らしきものが確認できた。助手席にも誰かが乗っているようだ。見たところ人影はそれだけで、後部座席に同乗者の気配はない。
(これだけ近くにゾンビがいて襲われないということはやはり俺と同じなのか? それも二人共がそうということになる。偶然に知り合ったのだろうか? それともどこかにそういう体質の人間が集まるコミュニティがある……?)
ここからでは距離が離れ過ぎていて、窓に張られたスモークガラス越しでは中の様子まではよく見えない。もっと近くに寄って観察したいが、この先は身を隠せる場所が限られて来るので、見つからずに近付くのは困難だった。せめて中の人間がどこを向いているかがわかれば良いのだが……そんな風に考えながら仕方がなく様子を窺っていると、暫くして近くにいたゾンビがどこかに離れて行った。それを待ちかねていたように助手席側のサイドウインドウが下げられる。ゾンビが傍にいたため窓を開けるのを控えていたらしい。ほぼ同時に運転席側の窓も開く。そこから突き出された二人の両手には今の智哉と同様に双眼鏡が握られていた。だが、それは智哉に向けられたわけではなく、スーパーの入口付近を見据えていた。
本来ならそこで相手が何者かを知る手掛かりが得られて然るべきはずだった。ところが手掛かりどころか、年齢や性別すらも智哉には判断が付かなかったのである。何故なら二人の顔が遊園地で見かけるような動物の着ぐるみほどもある巨大なヘルメットで遮られていたためだ。そのせいで双眼鏡を覗くのもままならないらしく、悪戦苦闘している様子が目に入る。思うように動けないのは頭だけでなく、全身が何か大掛かりなもので覆われているからのようだと気付く。
二人が偵察に苦心している間に、智哉は素早く駐車された車の陰を渡り歩きながら傍に近寄って行った。距離を縮めるに連れ、その全貌が徐々に明らかになってくる。思った通り、鮮やかなオレンジ色の宇宙服のようなもので二人共身を包んでいる。恐らく、病原菌や有毒ガスから身を護る化学防護服というやつだろうと智哉は推測した。
(それにしても何故……? ゾンビに感染するのを警戒しているのだろうか?)
しかし、ゾンビになる原因がウイルスだとしても空気感染はしないのが定説である。そうでなければ人類などとっくに絶滅していてもおかしくないからだ。今のところ、噛まれることでのみ感染被害は拡大していると見て間違いないだろう。即ち唾液や血液に触れなければ安全なはずだ。ならば大袈裟な防護服は不要である。むしろ、動きが制限されてゾンビから逃げる際の障害になる負担の方が大きい。そんなものをわざわざ着込んでいるのは単なる酔狂としか思えないが──。
(いや、そうじゃない。彼らは逃げる必要がないんだ)
ある考えが脳裏に閃く。つまり、来訪者は感染を恐れて化学防護服を着込んでいるのではなく、ゾンビに襲われない対策としてそれを着用しているのではないかという発想だ。ウイルスや細菌を防ぐということは簡単に言えば外気を遮断して触れないようにすることに他ならない。それは裏を返せば自らが輩出したものも閉じ込めておけることを意味する。無論、通常はそんな使い方はしないから換気弁を塞ぐなどの工夫は必要となろうが、気密服ならさほど難しくはないと思われる。そうして内気を外に洩らさないことでゾンビに気付かれなくなるのではないか。以前、検証してゾンビの嗅覚が優れていることは判明していたが、それを逆手に取った方法と見られる。なまじ鋭い嗅覚故に効果があるのかも知れない。それにしても実践しようという者がいるとは驚きだったが。もちろん、現時点では全て智哉の憶測に過ぎない。確かめるには直接彼らに訊くのが一番だが、只の感染予防の装備とはいえ、やはりその異様な風体が接触を躊躇わせた。少なくとも普通の会社員がそんなものを所持しているとは思えない。医療関係者か化学者と見受けられるが、もしそうなら智哉の特異体質を見抜かれる恐れも出てくる。迷っているうちに、彼らは車のエンジンをかけた。駐車場の出入口を振り返っていることから、どうやら立ち去る気でいるようだ。店内にゾンビが溢れているのを見て、誰も居ないものと判断したらしい。もう少し近寄っていれば、立体駐車場のスロープに防火シャッターが下りていたり、一階の食料品フロアがきれいに整理されていたりと、あるいは人が居る痕跡に気付けたかも知れない。襲われる心配がないのならどうして店内を見て回らないのか疑問に思うべきだったが、この時は焦っていてそこまで考えが及ばなかった。不安要素は大いにあるが、見過ごすにはやはり惜しい相手だったので、動き出した彼らを呼び止めるべく立ち上がりかけたその時だ。近くに停まっていたトラックの陰から不意に一体のゾンビが現れた。死角になっていたため、彼らも智哉も気付くのが遅れた。ふらりと飛び出し車の進行方向に立ち塞がる。無視して跳ね飛ばせば良かったものの、平時の癖で思わずブレーキを踏んだのだろう。ぶつかる直前で急停止する。近いな、と智哉が考えたのも束の間、それまで大人しかったゾンビが突然、豹変して車内の二人に襲いかかった。ボンネットに飛び乗ると、頭からフロントガラスを突き破る。運転席にいた人物の化学防護服があっという間に引き裂かれるのが見えた。助手席のもう一人はパニックに陥ったようで車外に逃げ出すが、その先にも運悪く別のゾンビが待ち受けていた。次の瞬間には彼もしくは彼女の絶叫が駐車場に響き渡る。全ては智哉の目と鼻の先で、僅か数秒間に起きた出来事だった。突発的過ぎて助けるどころか、声をかけることもできなかった。今まで襲われなかったものが、どうして急に攻撃の対象に変わったのかさえすぐには理解できず、暫く茫然と立ち尽くす。やがて、ゾンビが傍にいる間は彼らが窓を開けなかったことを思い返した。そのことから防護服による対策は万全ではないのだと気付いた。よくよく考えてみれば不思議でも何でもない。我々でも何かを見分ける際には嗅覚だけではなく、五感から得られる様々な情報を駆使して総合的に行う。ゾンビもそれと同じく近くで目視すれば嗅覚よりもそちらの視覚情報を優先するのは当たり前と言えよう。要するに近寄り過ぎたがために見抜かれたのだ。そう考えれば彼らが何故、店内に足を踏み入れなかったかも納得がいく。恐らくゾンビの数が多過ぎて、胡麻化し切れないと考えたに相違なかった。詰まるところ彼らには初めから防護服の効果範囲がわかっていて、呼気や生体ガスを外に出さないだけでは不十分であると知っていたことになる。もっともその慎重さが却って仇となったのは皮肉としか言いようはあるまいが。
いずれにしてもこうなってしまったからには仕方がなかった。智哉は正体を知る手掛かりが残っていないかを調べるため彼らの下へ向かった。既にゾンビとなっていた彼らに勝手に動き回られては面倒なので、一先ず車両止めのロープで近くの車体に括りつけておき、まずは運転席に坐っていた方のヘルメットを外す。その下にはさらにフルフェイスの呼吸器を付けていて、そこから伸びたホースが背面の酸素供給装置とおぼしき箱に繋がっていた。フェイスマスクも取ると、漸く五、六十代と思われる白髪混じりの頭髪をした男の顔が現れた。身分証を探すが、それらしきものは何も身に付けていなかった。もう一人の方を調べても結果は同様である。ただし、こちらは幾分若いと思われる女だった。彼らからは何のヒントも得られなかったが、解放するわけにもいかなかったので、例の槍で始末をした後、車を調べ始めた。側面に描かれていた文字は何かの研究機関を示しているらしいという以外、やはりめぼしい情報は何もない。結局、死んだのが誰なのかも、何の目的でやって来たのかも、以前として謎のまま残った。智哉はとりあえずまだ使えそうなフェイスマスクと呼吸装置を死体から外して車の後部座席にあった予備の酸素ボンベ共々、優に二十キロはありそうなそれらを抱えてやっとの思いで軽トラックまで運んだ。荷台に積み込むと、これから戻る旨を美鈴に伝える。死体は放って置けばゾンビが勝手に片付けてくれるので、何もしなくて特に問題はない。
「──それで、どうなりましたか?」
スーパーに戻った智哉がソファに腰を下ろすなり、待ち切れなかった様子で美鈴が訊ねた。
「説明するから落ち着けよ。まずはひと息入れされてくれ」
気を利かせて優馬が差し出したコップの水を一気に飲み干すと、智哉は大きく息を吐いた。そして、最初に言っておくことがある、そう告げてから智哉は話を切り出した。
「もうわかっていると思うが、ここには誰もやって来ない。訪ねて来た連中はゾンビに襲われて全員、と言っても二人だけだったが死んだよ」
「やっぱり、そうなりましたか……」
智哉が一人で戻った時点で大方の予想はしていた。そう言われても美鈴にさほどの驚きはない。むしろ、こんな場所にのこのこと出向いて来て無事で済むとは思っていなかったくらいだ。
「でも、屋上から見ていた時にはゾンビは襲って来ませんでした。何故なんでしょう?」
真っ先に思い付いた疑問を智哉に訊いてみる。
「それは俺も確認した。たぶん、こういうことだろうと思う」
智哉は見てきたことの一部始終を自身の推論を交えながら美鈴達に話してやった。
「それじゃあ、匂いを消せばゾンビに襲われないってこと?」
隣で訊いていた加奈が胡散臭げな目付きでそう口を挟む。
「匂いとは限らないけどな。吐く息に含まれる成分とか無意識に発しているフェロモンとかが影響しているのかも知れない」
「だったら香水を振りかけてみるとかは? たまに電車の中で嗅ぐと気持ち悪くなるくらいさせている人がいるよ。あんな風にしたらどうかな?」
「たぶん、無意味だろう。ゾンビの嗅覚がどれほど鋭敏かは不明だが、その程度で欺けるならとっくに誰かが試してみんなに知れ渡っているさ」
智哉はそう言って加奈のアイデアを一蹴した。
「岩永さんはその化学防護服というのがゾンビを寄せ付けなくしていたと考えているわけですね?」
美鈴が訊き、智哉が答える。
「寄せ付けないというのとは少し違う。見ていた限りじゃ気付かれにくくしているといった感じだったな。そもそもゾンビは動くものを見境なく襲っているわけじゃない。襲うのは生きた人間だけで、他のゾンビには反応しないだろ。ということは何らかの手段で獲物と仲間を見分けているはずなんだ。それは今言ったような身体から出る何かの成分かも知れないし、ちょっとした動きの違いや、あるいは体温といったものとも考えられる。そのどれにしろ防護服を着ることで胡麻化せていることは間違いないと思う」
「それでも近寄られたら駄目なんですよね?」
「それも推測だけどな。あのフェイスマスクは透明だったからそれが悪かったのかも知れない。もっと色を濃くして覗き込まれても誰だかわからないようにしていれば無事で済んだ可能性もなくはない」
その後、回収したフェイスマスクと呼吸装置を調べてみると、やはり開放式ではなく循環式であったことがわかる。これは吐いた息に含まれる二酸化炭素を清浄缶で吸収し、余った酸素は呼吸器に戻され消費した分をボンベで補いながら再使用される仕組みのものだ。使われなかった酸素まで放出してしまう開放式に対して無駄が少ない分、長時間の使用に耐えられると同時に排気を外部に出さずに済む。火災現場などでは排気に多量の酸素を含むと爆発の恐れがあるため、圧縮酸素ボンベで作業する場合はよく用いられる方式らしい。ただし、清浄缶内の二酸化炭素吸収剤は一旦封を開けると化学反応が止められなくなるので、一回毎の使い切りだ。予備も見当たらなかったことから効果を検証するには破れた防護服を含めてどこかで調達しなければならない。その上、実証は智哉自身ではできないのだ。それでももし智哉の推論が正しければ今後の活動に大きな進展をもたらすことになる。このまま見過ごすというわけにはいかないだろう。それには何としてでも美鈴を説得し検証に立ち会わせることが不可欠だ。だが、果たして今の関係で上手くいくだろうか? どちらにしても今すぐにやれることではなく、話が一段落すると、智哉は美鈴達にも手伝わせて、屋上に停めた軽トラックから運んで来た荷物を降ろし始めた。その中には頼まれていた加奈達の勉強道具も含まれている。
「あの、それって何ですか?」
荷台から降ろした縦横がそれぞれ一・五メートル×一メートルほどもある長方形のパネルを目ざとく見つけた美鈴がそう訊ねてくる。
「ソーラーパネルだよ。探していたサイズのがやっと見つかったんでね。漸く試せる」
その宣言通りに智哉は太陽光発電を実践してみるつもりだった。ひと昔前は高度な専門知識とそれなりの費用がかかるというイメージの強かった太陽光発電だが、現在ではチャージコントローラーやインバーター、バッテリーなどの必要な設備を揃えた安価な自作キットも販売されており、敷居はかなり低くなっている。とりあえず智哉はコストを気にする必要はなかったのでなるべく高性能なものをと最大出力二五〇Wのパネル十二枚を使い一日の総発電量三〇〇〇Wの独立型発電を目指してみることにした。家庭用冷蔵庫で一時間の消費電力が凡そ六〇Wほどなので、電力が失われた後でも計画的に運用すれば燃料発電機に頼らずに済む計算だ。幸いパネルを置く場所には不自由しないので、順調そうなら枚数を増やしていけば良い。
その設置予定場所にしようと考えている屋上の隅の一角には、バスタブ代わりに使った強化プラスチック製水槽と同じものが二十個ほど整然と並べられていた。蓋を敷いた中には満面の水が湛えられている。美鈴に命じて給湯室から引いたホースで蓄えさせたものだ。これで水道が止まっても当面の生活用水に困ることはないだろうし、使いきった後はそのまま雨水を貯めるのに利用できる。ちなみに一般的な水洗トイレでは断水しても水さえ補充できれば流せるのでその点も心配には及ばない。飲料水としては大量のペットボトルの備蓄に加え、市内の数ヶ所で飲料可能な井戸を調べて見つけてある。智哉の祖父母の家にも昔ながらの手押しポンプ式井戸があり、今でも醸造所や生け簀を使う場所には残っていることが多いのを知っていたためだ。探すに当たっては保健所に出向いて見つけた水質検査の書類や市の防災協力井戸の地図が大いに役立った。運搬には給水車を使うつもりで、どこかに放置されていないかと目下のところ、捜索中である。さらには万一に備えて災害時用浄化システムもいずれ手に入れようと思っている。これは自衛隊でも使われる浄水セットの小型版と言えるもので、大型のスーツケースほどの大きさに発電機と浄水エレメントを備え、逆浸透膜(RO方式)により水中のウイルスや細菌、重金属などの不純物を除去し、河川や雨水はもちろんのこと、海水までも飲料化できるという優れものだ。浄水能力は淡水で毎時約百リットル、海水なら凡そその半分である。性能の高さ故、価格も数百万は下らないという個人で持つには些か値の張るものだが、無論、今の智哉がそれを気に病むことはない。
これだけ準備しておけば停電と断水への備えは整ったと考えて問題ないだろう。あとはその時が来るのを待つだけだ。他にしておくべきことは──。
ふと思い付いて、智哉は傍らの美鈴に声をかけた。
「そうだ。お前、運転を覚えろ」
「運転……ですか?」
妙なことを教え込まれるよりは余程マシだが、唐突にそう言われても美鈴はピンと来ない。車の運転免許は家族では父親だけが持っていた。
「折角、教習にもってこいの広い場所があるんだ。時間がある時に教えてやるよ。運転できる人間が他にもいれば選択の幅も拡がるしな。オートマなら簡単だがマニュアルで操作を覚えた方がいい」
運転できればいざという時、智哉と離れ離れになっても自分達だけで逃げ延びる可能性は高まる。そのことは美鈴も理解したようで、わかりました、とあっさり承服した。運転を覚えたらここから逃げ出すのではないか、という心配は智哉の念頭にはない。そもそもが閉じ込めている意識はないからだ。出て行きたければ好きにすれば良いと思っている。もっとも運転を覚えたくらいで出て行こうものなら即座に奴らの餌食となるのは目に見えており、そこまで愚かとは考えたくなかった。教習と言っても交通ルールなどの座学を覚える必要はないので、すぐに身に付くはずだ。まあ、生真面目な美鈴なら独学でそれも学ぼうとするかも知れない。無論、智哉にそれを反対する理由はない。この先に活かせる機会があるとは思えなかったが──。
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黒藤冬夜は自分を噛んだ知性ある女子高生のゾンビ、特殊体を探すためまず総合病院に向かう。
そこでゾンビとは思えない程の、異常なまでの力を持つ別の特殊体に出会う。
そこの総合病院の地下ではある研究が行われていた……
"P-tB"
人を救う研究のはずがそれは大きな厄災をもたらす事になる……
何故ゾンビが生まれたか……
何故知性あるゾンビが居るのか……
そして何故自分はゾンビにならず、ゾンビに狙われない孤独な存在となってしまったのか……

【⁉】意味がわかると怖い話【解説あり】
絢郷水沙
ホラー
普通に読めばそうでもないけど、よく考えてみたらゾクッとする、そんな怖い話です。基本1ページ完結。
下にスクロールするとヒントと解説があります。何が怖いのか、ぜひ推理しながら読み進めてみてください。
※全話オリジナル作品です。
【1分読書】意味が分かると怖いおとぎばなし
響ぴあの
ホラー
【1分読書】
意味が分かるとこわいおとぎ話。
意外な事実や知らなかった裏話。
浦島太郎は神になった。桃太郎の闇。本当に怖いかちかち山。かぐや姫は宇宙人。白雪姫の王子の誤算。舌切りすずめは三角関係の話。早く人間になりたい人魚姫。本当は怖い眠り姫、シンデレラ、さるかに合戦、はなさかじいさん、犬の呪いなどなど面白い雑学と創作短編をお楽しみください。
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