【完結】Z[zi:] END OF THE WORLD(エンド・オブ・ザ・ワールド)

るさんちまん

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プロローグ

プロローグ

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「女は他にも大勢いるのよ」
 今年三十二歳になる岩永智哉が月に一度か二度、女を買うようになったのは秋山涼子のこのひと言からだった。
 涼子とは今から七年前、智哉が二十五歳の時に職場で偶然、出逢った。当時、智哉が勤めていたデザイン会社に新たに入社してきたのが彼女で、二歳年上の、他に恋人がいる女だった。それまで女性との付き合いが皆無というわけではなかったが、あまり他人と交わることに積極的でなかった智哉にとって、殆ど初めての本気で誰かを愛した経験だったと言って良い。
 無論、特別だという思い入れは当事者同士の主観に過ぎず、傍から見ればよくあることに違いなかった。障害が大きければ大きいほど燃え上がる、交際がすんなりいかずにのめり込むなんてよくある話だと智哉も頭では理解していた。だが、わかっていてもどうにもならなかった。職場が同じということもあり、二人は仕事中を含めると常に顔を合わせていられる立場にあった。中堅出版社の下請けが主な業務だった小さなデザイン事務所では、グラフィックデザイナーである智哉達が休憩以外で社外に出る機会は滅多になかったのである。そうした中で恋人とは遠距離恋愛中だった涼子を智哉が半ば強引に押し切る形で、ほぼ毎日、仕事が終わってからも会っていた。当時はその異常さに気付かなかったが、出勤してから退社後の深夜に至るまで四十六時中常に一緒に居て、離れ離れになるのは帰って寝る間だけという状態が何ヶ月も続いた。休日も似たようなもので、たまに会えない日があると、一日中何もする気が起きなかった。その間、何度も仕事以外で会うのはこれきりにしようと話し合ったが、結局、実行できなかった。涼子も本気で会わないつもりならいつでも避けられたのだから、離れられなかったのは向こうも同じだったと思いたい。もっとも涼子が智哉との交際を正式に認めたことは一度もなかった。酷い女と話しながら遠距離恋愛中の恋人とは別れられないと言い、その理由は一切明かそうとしなかったのだ。智哉も深くは追及しなかった。理由を訊ねて最終的に別れ話になるのが怖かったからだ。
 そんな状況だったから当然、仕事は手につかず、職場での智哉の評価は下がる一方だった。元々少なかった友人は一人また一人と減って、気付けば涼子の他に親しい間柄と呼べる相手は誰も残っていなかった。それでも一向に構わなかったのである。涼子以外の者と関わる時間が心底無駄に思えていたからに他ならない。会社にも居づらくなり、予てから考えていたことでもあったので、智哉は思い切って独立して仕事場を自宅マンションに移した。そのまま会社に残った涼子とは昼間、会えなくはなったものの、その分夜は一層離れ難くなり、どれほど疲れていても顔を合わせずに済ますなど考えられなかった。だから、もし涼子が生きていても恐らく二人の関係は長くは続かなかったのではないか、と今では智哉もそう思う。互いに心身共疲れ果てボロボロになって別れるのが関の山だったに違いない。だが、実際はそうはならなかった。涼子が急性の白血病であっという間にこの世を去る前に言い残したのが、女は他にも大勢いるのだから自分以外にも目を向けた方が良い、ということだった。その時は何故急にそんなことを言い出すのか智哉には理解できなかった。別れたいならはっきりとそう言えば良いと腹立たしくさえあった。彼女の余命が幾許もないとは知らなかったのである。それを知ったのは涼子が亡くなった翌日だった。出逢ってからちょうど三年の歳月が経過していた。
 以来、智哉の胸中には言い知れぬ虚無感だけが残った。ただ、それは涼子を失ったことによるものか、初めから存在していて彼女が死ぬまで気付かなかっただけなのかは智哉自身にも判断が付かなかった。涼子を失ったばかりの頃、どうして自分が狂わずにいられるのかが不思議だった。ずっと涼子がいなくなったら生きていけないと信じ込んでいたのだ。そんなことはなかった。彼女抜きでも普通に暮らしていける。ある日、その事実に気付いて智哉は愕然とした。
 だからというわけではないだろうが、一人になってからの智哉はそれまでの懶惰らんだな生活が嘘だったかのように精力的に仕事をこなし、周囲の人間とも打ち解けて話すようになった。会う人毎に、明るくなったね、とよく言われた。しかし、悲しみを仕事で紛らわせていたわけではない。むしろ逆で、やりがいや熱意はまったく感じていなかった。何のことはない。他人の干渉や気遣いがひたすら煩わしくて、間違ってもそれが自分に向くことがないよう注意深く避けていただけの話だ。もっとも皮肉なことにそのおかげで智哉の仕事への評価はまずまずのものとなり、食べていくだけなら生活に困ることはなかった。
 その一方で、智哉がありとあらゆるものに興味を失い始めたのもこの頃からだ。元より無精で物臭な性格ではあったが、その傾向に一層の拍車が掛かり、例えば数少ない趣味としていた映画をまるで観に行かなくなったのもその一つ。仕事柄、月に十数冊は目を通していた雑誌は購買しなくなり、小説に至っては最後に読んだものも憶えていないという有様だった。音楽だけは仕事中にないと淋しいので常にかけっ放しにしているが、誰の何の曲かということに一切の関心を払うことがなくなった。そのうち、ただ興味が薄れるだけでは飽き足らず、仕事の合間に少しずつ身の周りのものを片付け始めた。一体何のためにこんなことをしているのか自分でもさっぱり理解できないままに最初は古い写真アルバムの整理から始めて、どうしても捨て切れない家族が写ったもの以外は概ね処分し、卒業アルバムの類いは残らず捨てた。次いでクローゼットの中身を見直し、ここ一年以内に一度も袖を通さなかった服は省き、使っていない家具や食器や小物は売るか人にあげるかして、最後に名刺入れと住所録から今も付き合いのある相手以外は全て抹消し終えると、漸く落ち着いた。その間は涼子のことをあまり思い出さずに済んだ。それまでは何をするにしても涼子との想い出が頭に浮かんできて苦しかったのだ。そうして殆ど何も残らなかった部屋で、改めて涼子の言葉を思い返した。何もやることのなくなった智哉は、その助言に素直に従うことにした。それが女遊びを始めたきっかけだ。凡そ四年前のことになる。
 最初のうちは一人でソープランドに行ったり、女性のいる飲み屋に立ち寄ったりするだけで、そのことは誰にも教えなかった。回数もさほど多くはなく、気が向いた時にぶらりと出かけるといった程度で、馴染みの店や相手も持たなかった。やがて、わざわざ店まで出向かなくても指定した場所に女性がやって来てサービスを行うというホテトルに似たシステムの、しかもそれより経済的で違法性がない(という建前の)無店舗派遣型風俗、所謂デリバリーヘルスが全盛となり、智哉もその利便性からもっぱらそちらを利用するようになった。頻度も不定期だったのを改めて月に一度か二度と定めて、それをある種のリハビリと位置付けた。早い話が義務としたのだ。それも当初は自宅に呼ぶのは抵抗があったため、ラブホテルを使っていた。大抵はどの業者も提携しているホテルの一つや二つはあって、そこを利用すればホテル代の割引が受けられるという仕組みだ。もちろん、別のホテルでも構わないが、その場合は正規の料金を客が支払うことになる。また、ひと口にデリヘルと言ってもサービス内容は多種多様で、本格的なマッサージを売りにしていたり、SMがメインだったりと一概にこうだと言い切るのは難しい。最もオーソドックスと思われるサービスだと女性が手や口で男性客を射精に導くというもので、ボディタッチは基本的に自由だが、本番行為は無しが原則だ。原則と言うのは交渉次第ではあり得るからである。無論、公には認められていない。従って無理強いすることはあってはならない。その気のない女の子の場合、気分を害されてプレイに支障をきたすばかりでなく、店とのトラブルにも成りかねないためだ。特に、前に来た子はやらせてくれた、というようなフレーズは絶対に避けるべきであろう。風俗で働く女の子達は他人と比べられることに異様な嫌悪感を持つ場合が少なくない。金で身体を売るという行為の正当性を客である男達を内心卑下することで辛うじて繋ぎ止めている彼女達のプライドはこちらが考えるより遥かに高いのだ。よって遊びのルールを理解しない男は徹底的に嫌われるし、馬鹿にもされる。客である以上、表立って忌避されることは少ないものの、そういう気持ちはおのずとプレイに現れるものだし、逆に気分を良くさせれば思わぬサービスが受けられることだってある。そうしたことを智哉はこの遊びを通して学んだ。
 そのうち智哉は遊びの質を、単に女を買うだけに留まらず、もっと相手の内面まで踏み込んでいけるような接し方や話術を磨く場へとシフトさせた。如何に彼女達の警戒心を解かせて、プライベートな話題や情報が引き出せるかを試し始めたのである。これは実際に行ってみると至難の業ということがすぐにわかった。大抵の風俗で働く女の子は客との会話に興味などはなく、人に言えない秘密を抱えていたり仕事中は別人と割り切っていたりすることが殆どなので、自分について正直に打ち明ける子はまずいない。彼女達が関心のあるのは客が不潔な身なりをしていないかとか、性病を患っていないかとか、金を払わず逃げたりしないかとか、強姦されないかとか、そういうことだけだ。密室で素性の知れない相手と二人きりにならざるを得ないこの手の商売では程度の差こそあれ怖い思いをしたことがないという子はいないので、客前でリラックスしろという方が無理なのだ。そのことに気付いてから智哉は相手を安心させるために例え訊かれていなくとも自分のことを積極的に話すようになった。大半は作り話に過ぎなかったが。それと共にラブホテルを止めて、自宅マンションに女を呼び寄せることにした。その方が少しは安心して緊張が解けやすいのではないかという配慮からだ。自分の部屋なら細かな気配りが行き届きやすいということもある。どうせ関心を持たれないならどこに呼んでも同じことだ。独身である智哉が自宅に女を連れ込んだところで何か不都合があるわけでもない。月に数回程度なら他の住人に不審がられる恐れもまずなかった。ホテル代は浮くようになったが、その分出張費や交通費が余分に掛かるようになり、金銭的には以前とさほど変わりなかった。ただ、女を家に呼ぶようになってからの智哉はかなりの頻度で部屋を掃除するようになったし、ベッド回りや浴室は常に清潔に保ち、シーツやタオルも小まめに取り換えるなど、それまでとは違った効果も実感した。同時に身なりにも気を配るようになって、それは仕事で会う人にも好印象を与えているようであった。なので、そのことに限っても月に四、五万円かけて遊ぶだけの価値はあると智哉は思っていた。ただし、どれほど気に入った相手でも同じ女とは二度と会わないと決めていた。利用する業者も毎回変えて、一度使った後では最低でも三ヶ月は置かないと連絡しないという徹底ぶりだ。そのことに特別な意味があるわけではなかった。強いて言うなら常連客との印象を持たれないためだが、そんなことをしなくとも気に留める業者などいなかっただろう。あくまでもリハビリの一環であって愉しんで行っているわけではないことを強調したかったのかも知れない。だから余程酷い場合を除いて女の子の選り好みもしなかった。容姿やスタイルがこれはどうかと思う相手に当たれば嗜虐的な接し方をして、まずあり得ない話だがどうしてこんな子がという相手なら優越感に浸るだけだった。智哉とすれば退屈せずに済み、後腐れがなくて最後に射精できれば誰だって良かったのだ。そういう女は情報源としていたインターネットの専門サイトには常に溢れていた。智哉がどれほどの頻度で女を変えようとも尽きることなど到底考えられなかったのである。

「サヤカです。今晩は」
 この日、玄関先で出迎えた智哉に女はそう名乗った。今月に入って初めて呼んだ遊び相手だ。見た目の印象は良くも悪くもなく普通だった。街ですれ違ってもたぶん目に留めることもなく素通りしてしまうだろう。だが、肩より少し下まで伸びた髪はきちんと整えられているし、歯並びもきれいで、顔中にピアスをしているようなこともない。コートを脱ぐと、小柄だが均整の取れた身体つきなのが服の上からでもわかった。この手の商売をしている女としてはまずまず悪くはない。
「お部屋、随分ときれいにされているんですね」
 ブーツを脱いで部屋に上がり込むと、そうするのが習い癖になっているのだろう、女はさりげなく室内を見回して言った。無論、智哉も女を自宅に呼んだ場合、真っ先にチェックされるのが部屋の清潔さであることを経験上心得ている。この日も当然、前以て入念に掃除はしてあった。汚い部屋ではそれだけで女のテンションはガタ落ちになるし、自身も不潔な奴と思われかねない。
 幸いにも女のお気に召すことはできたようだ。気を良くして、家に呼ばれることはよくあるの? と智哉は訊いてみた。
「たまにですけどね。大抵の皆さんはホテルを利用されるので。でも私、ラブホテルってあまり好きじゃないんですよ。如何にもそれだけが目的の場所って感じがするじゃないですか」
 風俗嬢を呼んで他に何をするのか、と智哉は突っ込みたくなったが、雰囲気が悪くなりそうだったので曖昧に頷くだけにしておいた。本当に遊びを知っている人は安っぽいラブホテルなんかじゃなくてちゃんとしたシティホテルを使いますよ、その方がプレイに集中できるからって、と女はまだその話を続けている。あっ、でも自宅っていうのも嫌いじゃないですよ。
 チェンジでなければ先に料金をいただきたい、と女が言って、智哉は規定の金額を支払った。言葉遣いは丁重だが、金を受け取らないうちは指一本触らせないぞというニュアンスだった。その場で金額を確認すると、女は、ちょっとすいません、と断って事務所に電話した。今入りましたとか、ええ受け取りましたとか、そういう会話の切れ端が聞こえてくる。電話を終えた女は、すぐに始めますか? と訊いて、とりあえずひと息入れなよ、と智哉は飲み物を勧めた。
「それじゃあ、炭酸以外の物を何かいただけますか?」
 オレンジジュースでいいか、と訊くと、それでいい、と女は言うので、智哉は冷蔵庫から紙パック入りのジュースを取り出し中身をコップに注いで渡した。ソファに腰を下ろした女はゆったりとした動作で口をつけた。二口ほど飲んだところで、部屋の片隅にあるパソコンデスクを目に留めると、コンピューターがお好きなんですか? と訊ねてきた。
 仕事で使っている、と智哉は答え、丁寧に内容を説明してやる。別にそこまで訊かれたわけではないが、真っ当な仕事をしていると知れば女も安心するだろうという計算の上だった。けれど、智哉の予想に反して女は話し始めるとすぐに落ち着きを失った。授業中にじっとしていられない子供のような反応だった。表情は終始にこやかだが、恐らく何も聞いてはいない。その証拠に智哉が話し終えると、何の感想も口にせず、そろそろシャワーに行きません? と誘った。
「脱がせますか? それとも自分で脱いだ方がいいですか?」
 立ち上がった女がそう訊いてくる。面倒だったので自分で脱ぐように言うと、女は恥ずかしがる素振りもなく、智哉の目の前でさっさと裸になった。ややおっぱいが垂れ気味なのを除けば最初に思った通り、均整の取れた身体をしていた。智哉が脱ぐのを女は手伝い、二人して全裸になると浴室に向かった。
「こういうところはよく利用されるんですか?」
 女は智哉の身体を持参した薔薇の香りがするというボディソープで洗いながら、大して興味はなさそうにそう訊いた。
 たまに、と智哉は嘘を吐いた。毎月、決まって呼んでいるなどと言えば警戒されると思ったからだ。彼女さんはいらっしゃるんですか? という気のない質問にも、いる、とだけ簡潔に答えた。もっともそれは正確さには欠けるものの、まったくの出鱈目というわけではない。先々週までは確かに頻繁に会う女がいた。この二週間ほどはまったく連絡を取り合っていないので、恐らく相手はもう終わったものと考えているだろうが、はっきりとした別れ話を切り出したわけではないので未だに続いていると言えなくもないのだ。ただし、もう会わないだろうという予感は智哉の方にもある。後はこのまま自然消滅を待つばかりだが、それを特に惜しいとも思わない。そういう相手は涼子が死んでからこれまで三人ほどいた。本当は誰かと付き合うなど面倒なだけだったが、女遊びを本格化させるに当たり、普通の恋愛をしていないと風俗嬢に舐められることがあると聞き、それで恋人を持つ努力も怠らずにいた成果だ。もちろん、誰とも本気になったことはない。初めから長続きしないことが前提で、保ってせいぜい半年ほどだ。智哉にとっての恋人とはその程度の相手に過ぎなかった。
「結構、多いんですよね。恋人はいるけど風俗は別っていう人。彼女にはできないことをやれるのが嬉しいみたい。だから、お客さんも今夜は遠慮せずに愉しんでくださいね」
 言われるまでもなく智哉は九十分の利用時間のうち、七十分をプレイに費やし、浴室とベッドでそれぞれ一回ずつ女の口に射精して、余った時間で軽い世間話をすることにした。
「多少お時間は残ってますけど、延長はされますか?」
「それもいいけどさ、折角だから時間まで少し話でもしようよ」
 智哉がそう言うと、女は一瞬怪訝そうな表情になったが、すぐに、わかりました、と言って起き上がり、バスタオルを身体に巻いてベッドサイドに腰掛けた。智哉は冷蔵庫から缶ビールを二本取り出すと、一本を黙って女に差し出し、もう一本は自分で開けて飲み始めた。女は僅かに迷った挙句、自分も飲むことにしたようだ。それを確認してから智哉は話しかけた。
「この仕事は長いの? こんなこと訊いちゃまずいんだっけ?」
「嫌がる子もいますけど、私は別に構いませんよ。大体二年くらいですね」
「それって長いのかな? 短いのかな? よくわからないからさ」
「うーん、平均的じゃないかな。一ヶ月で辞めちゃう子もいますし、長いと七、八年になるって人もいますからね」
「よく聞くよね、一度風俗で働いて贅沢な暮らしを覚えてしまうとなかなか普通の生活に戻れなくなるって」
「そんな贅沢な暮らしなんてしてないですよ」
「へー、そうなんだ。男に貢いでいるとか?」
「そんな相手はいません。あっ、でも確かに男運は悪いかも」
 どういうこと? と訊いたが、それ以上は上手くはぐらかされてしまった。
 その後も会話を続けようと試みたが、以降は当たり障りのない回答ばかりで、女も退屈してきたようだし、これといってプレイに魅力も感じなかったので、今夜は延長せずに女を帰すことにした。最後にもう一度、シャワーを浴びに行く。
「そういえば今日は朝から何だかバタバタしていて落ち着きませんでしたね」
 シャワーから出ると、女は濡れた身体をバスタオルで拭きながらそう言った。何のことか、と智哉が訊くと、心底驚いた様子で、知らないんですか、と答えた。
「朝からずっとニュースでやってますよ。あちらこちらで喧嘩みたいな騒ぎが起こっているって」
「仕事中はテレビもラジオも点けないんだ」
 締め切りに追われていたため、今日は朝からずっと部屋に閉じ籠りっ放しで仕事をしていて、何も観たり聞いたりしていなかった。そんなことが起こっていたとは初耳だ。
「喧嘩ってヤクザの抗争でもあったのかな?」
「さあ、でもヤクザ同士の争いなら喧嘩って言わないんじゃないですか?」
 黒いレースのパンティを素足に通しながら女がどうでも良い、という調子でそう話す。もしかしたら今もテレビでやっているかも、と女が言うので、智哉はリビングのテレビを点けてみた。既に殆どの局では放送の終了した時間帯だったが、画面の下に『全国で暴動が発生している模様』『対象地域にお住まいの方は充分にご注意ください』『新しい情報が入り次第お知らせします』といったテロップが断続的に流れていた。
「これのことか。でもテロップだけなら大したことはなさそうだな」
「そうかも知れませんね。前の大地震の時なんか夜中もずっと臨時ニュースをやっていましたもんね」
 テレビを消して、智哉は女に、また必ず指名をする、と嘘を言って帰した。それから一人で部屋の後片付けを始め、使ったバスタオルを洗濯機に放り込み、浴室を軽くシャワーで流して、ベッドの乱れを直した。壁の時計を見ると深夜四時を回った辺りで、射精の余韻は下腹部辺りにまだ微かな火照りとして残るが、あの後特有の倦怠感は既に去りつつあった。それと同時に小腹が減ってくる。外食するのが嫌いで普段から自炊が多い智哉の部屋の冷蔵庫にはそれなりの食材が揃っているが、今から調理するとなるとさすがに億劫だった。なので、近所のコンビニエンスストアに買い出しに出かけることにする。バイクで五分ほどの距離だ。軽く飲んでいたが、この時間なら裏道を通れば警察の飲酒検問に引っ掛かることもまずない。そうと決めるとフルフェイスのヘルメットを片手に部屋を出た。智哉の住んでいる部屋は六階建てマンションの四階なので、いつも通りにエレベーターを使う。一階まで下りて正面玄関に続くエントランスホールに出たところで、背広姿の男とばったり出喰わした。この時刻には珍しいことだった。ただ、エレベーターに背を向けて佇んでいるので顔までは見えない。まあ、見たところで日頃から近所付き合いのない智哉には誰だかわからないだろうが。それでも恐らくマンションの住人に違いないと智哉が推察したのは、一応これでもオートロック付きの物件なので、こんな時間に部外者がウロウロしている可能性は低いと判断したためだ。いつもなら相手に声をかけられない限りは無視して通り過ぎるのだが、この時は射精した直後という多幸感があったせいだろう、自分から挨拶でもしようと何気なく近付いた。急に背後から忍び寄って驚かせては申し訳ないと考え、二、三歩離れた場所で立ち止まる。今晩は、と口にしかけて、ふと嫌な予感が背筋を伝った。例えるなら自分の部屋に足を踏み入れた途端、どこも変わっていないはずなのに誰かが弄って元通りにしたみたいに思える違和感。ただ、その原因がどこにあるのかはわからない。きっと慣れないことをしようとしているせいだと強引に納得して、気を取り直し改めて声をかけようとしたその時だ。男が突然振り向いた。その顔つきに智哉は思わず後ずさった。磁器のように青白く血の気を失った男の表情がはっきりと狂気に歪んで見えたからだ。
 昔、一度だけ知り合いに連れて行かれたイリーガルなパーティーで、似たような顔を見たことがある。慣れないLSDをやり過ぎて、突如会場の一角で奇声を上げて暴れ始めた男の表情がそうだった。周囲の人間に押さえ付けられながらも口から泡を飛ばし、意味不明な言葉を喚き続ける男の姿を智哉はよく憶えていた。今、目の前にある男の顔はまさにそれを何十倍も激しくしたようで、全ての表情筋がまるで独立した意思を持つ別の生き物であるかのように不規則に動き、あらゆる感情をごちゃ混ぜにしたような複雑な形相を描いていた。人間にそんな表情が作れるとはこの時まで思いもしなかった。さらに、その男はいきなり智哉に跳びかかって来た。咄嗟に後ずさっていなければ掴まれ身体ごと圧し掛かられていたに違いなかった。辛うじてそれだけは避けられたものの、続けざまに向かって来た男を今度は躱し切れなかった。急所である喉元を反射的に庇おうと右腕を持ち上げたのが精一杯の抵抗で、次の瞬間、その腕に焼けるような激痛が走った。
「痛てぇ!」
 思わずそう叫んでいた。見ると男が右腕に噛みついている。袖口から十センチほど上の辺りで尖った犬歯が皮膚に食い込む感触が伝わった。智哉は思わずかっとなってわけのわからないまま声を上げ左手に持っていたヘルメットを男の顔面に叩き付ける。それでも相手に怯む様子がないとわかると、二度三度と無我夢中で殴り続けた。しかし尚も男は口を離そうとしない。何度目かの殴打で男の唇の端が切れ、鼻骨が砕けた音がして、歯も何本か飛び散ったところで、漸く男を引き剥がすことに成功した。厚手のジャンパーを着ていたことが幸いしたようだ。歯は生地を貫いて皮膚を裂いていたが、それ以上奥までは達しておらず、肉を噛み千切られることもなく済んだ。これが夏場の薄着ならどうなっていたかわからない。男は殴られた拍子に後ろに転倒はしたが、まだ起き上がって来る気配だ。折れた鼻や歯の痛みを気にする素振りもない。その際立つ異様さが立ち向かうという選択肢を即座に智哉から奪った。助けを呼ぶにしても裏手にある守衛室は夜間は無人である。辺りに他の人影はない。残された対応は急いでここから逃げ出すことだが、問題はどこに向かうかだった。近くの部屋の住人を叩き起こしてドアを開けて貰うだけの猶予はなさそうである。となれば男の脇をすり抜けて玄関から表に出るか、戻って自分の部屋に逃げ込むかしかないだろう。マンションの外に逃げることを選んだ場合、暗証番号を打ち込むか住人を呼び出すかして開錠が必要な入館時と違い、出て行くのはフリーパスなので、男に後を追って来られる可能性が高い。相手に向かって行かなければならないという心理的なプレッシャーもある。一方で自分の部屋に逃げ込むならエレベーターか、その脇にある内階段のいずれかを使わなければならず、どちらを選択するかが重要だった。エレベーターなら上手く乗り込みさえすれば比較的安全に上まで行けるだろうが、万一男に同乗された場合、逃げ場を失うことになる。階段ならその点の心配はないが、部屋に辿り着く前に男に追いすがられる恐れがあった。
 結局、どちらを選んでも確実に逃げ切れるという保証はどこにもないのだ。ただ、最善策はわからなくても何が最悪かはわかる。迷って時間を浪費することだ。だから智哉は瞬時に決断を下すと、くるりと踵を返してエレベーターに向かい一目散に駆け出した。この時間ならエレベーターの利用者は殆どおらず、下りて来た時のまま一階に留まっているに違いないと判断したからだ。この場で唯一、智哉に有利な条件である。たぶん、十数年ぶりとなる全力疾走で智哉はエレベーターの前まで走った。到達すると、急いで上昇のボタンを押して、扉が開くのをジリジリしながら待つ。完全に開き切るのを待ち切れず二十センチほど開いた隙間から無理矢理身体を捻じ込むようにしてエレベーターに飛び込むと、狂ったように「閉」のボタンを連打した。にも関わらずエレベーターの扉は一度開き切ってからでないと閉じない仕組みのようで、智哉の意思とは無関係に開き続けた。その向こうで男が起き上がるのが見えた。何事もなかったように立つと間髪を入れずにこちらに向けて突進して来る。扉は今、漸く閉まり始めたところだ。男との距離は僅か数メートル。その間に立ち塞がるものは何もない。扉が閉まる絶望的なまでの緩慢さに思わず悪態が口をつき、智哉が自らの判断の過ちを認めて諦めかけた時、男が到達するより一瞬早く目の前で扉が閉まった。直後にエレベーター内に轟音が響き渡る。男が扉に衝突したに違いなかった。その一事を取っても男の異常さは群を抜いていると言えよう。正気であれば誰でもがぶつかる直前には本能的に速度を緩めざるを得ないはずだ。ところが男にはそうした様子がまったく見られなかった。だからこそ扉越しでもあれほどの激しい衝撃がエレベーターを揺さぶったに違いない。それだけに男が無事で済んだとは到底思えなかったが、確かめる気にはもちろんなれなかった。ホッとひと息ついたのも束の間、まだここが一階だったことに気付き愕然とする。扉を閉めることに夢中で行き先階のボタンを押し忘れていたのだ。慌てて四階のボタンを押して壁に背中を預けた。軽いGを感じて、エレベーターの上昇を確認する。もし男が冷静であったなら外から開閉ボタンを押すだけで、簡単に扉が開いて乗り込むことができていたのだ。改めて智哉は背筋に寒気を覚えた。だが、それは単なる恐怖心からばかりではなかったようで、エレベーターが四階に到達するまでの僅かな間に、本当に体調が悪化してきた。全身の震えが止まらなくなり、壁に手を付いて支えていないと立っていることもままならなくなった。視界は掠れて、呼吸はゼイゼイと荒くなる。目的の階に到着して扉は開いたものの、声を上げることもできなくなって、遂には崩れるように床に膝をついてしまった。持っていたスマートフォンで助けを呼ぶことも考えたが、男が階段を上がって来ないとも限らないので、とにかく部屋に戻ることを優先した。必死で気力を奮い立たせ、よろめきながら廊下を進み、やっとの思いで自分の部屋の前に辿り着く。霞む視界と震える指先に苦労しながら何とか鍵を開け、転がり込むようにして室内に入った。サムターンを回して施錠し終えると、這うように部屋の奥へと向かう。どこからかサイレンが聞こえてきた気がするが、もはやそれが現実かどうかも定かではない。最後の力を振り絞ってどうにかリビングまでやって来ると片隅のソファに倒れ込んだところで、智哉は意識を失った。
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