【完結済】星瀬を遡る

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1.古い記憶

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「あのね、僕ね、昔人魚だったの。だから、そのせいで足の動かし方がわかんないの。だからね、僕が歩けないのはお母さんのせいじゃなくて……だから、その……えっと。……僕の方こそ、ごめんなさい?」

僕が歩けないのは自分がちゃんと産んであげられなかったせいだと、自らを責め泣く現世の母に酷く驚いて。
物心ついて以来、ずっと自らの心の内に秘めていたそんな前世の記憶を、罪悪感からそっと打ち明ければ。

ひかる! ……あなたは本当に優しい子ね」

彼女は僕のそんな告白を、幼子が母を励ます為、健気にも考え出した作り話だと思ったのだろう。
指の腹で涙を拭った後、覚悟を決めた様にニコリと僕に向けて微笑んで見せた彼女は、以降、僕の前で自らを責め泣く事はなくなった。
しかし、同時に僕の話を信じてくれることもなかった。

それでも……。僕が話したのは母を慰めるための優しい嘘などではなく、僕の魂の中にある確かな過去の記憶。

僕はかつて、海の底で暮らす人魚だった。


僕が人魚だった時代からは長い長い時間が経っていて。地殻も大きく変ってしまった今となっては、かつて暮らしていた大陸が地球上のどのあたりに位置していたのか、僕にももう良く分からない。
しかし、現代よりもずっと文明が進んで、科学が発展の末、魔術と呼ばれるまでに進化した都市が、この世界には確かにあった――






******

「レリ! レリ!!」

僕を呼ぶ声で目覚め、閉じていた瞼を開けば。
ガラス越しに一人の少年と実に間近で目が合った。

癖のあるダークブロンドの髪に、日の当たる海の底を思い出させる美しいダークグリーンの瞳。
整った目鼻立ちと、僕の半分も無い体長。
水槽にベタリと押し付けられた手のひらはまるで小さなヒトデの様だ。

「見てよコレ!! 凄いだろう! 街の図書館の書庫の奥に隠されてるのを見つけたんだ!!」

彼の肌が、まるで深海に暮らす僕等と同じくらい真白なのは、彼が同じ年頃の友達と日の下で快活に遊ぶのを厭い、今日のように一人図書館に籠ってばかりいるせいだろう。

ガラスに押し付けられた本のページに目をやれば、そこには何やら複雑な図形と共に、切り刻まれたニンゲンの死骸が渦高く詰まれた挿絵があって。
一気に血の気が引いてしまった僕は、慌ててそれに背を向けた。

天使とみまごうばかりに美しい容姿とは対照的に、まるで悪魔か何かの様に、非常にグロテスクな旧時代の科学書オカルト本を愛して止まないこの少年はルシェ。
美しい筈のヒレも鱗もボロボロで、養殖の人魚観賞魚達が得意とされる歌も歌えず。“廃棄”されるはずだった僕を酔狂にも買い取った、僕の飼い主。

家柄と容姿に恵まれ、財産でも頭の良さでも、それこそ何でも持っているはずのルシェは、他のニンゲンからすればただのペットに過ぎない僕の事を『たった一人のボクの親友』と呼ぶ。

好戦的な同族を厭い群れを離れ、この部屋に置かれた狭い水槽の中でしか生きられぬ弱い僕もまた、僕にしかその弱い弱い胸の内を明かせぬこの哀れで美しい少年の事が、可哀そうで可愛くて大好きだった。




そんな、僕とルシェのささやかな、幸せによく似た暮らしが突如として終わりを告げたのは、ある冬の日の事。

「待って!! レリだけは連れて行かないで!!!」

沢山のニンゲンの成体がルシェの部屋にやって来るなり、その悲痛な声を無視して僕が入っている水槽を持ち上げた。

「レリは他の人魚の様に戦えない。人魚の癖に優しすぎるんだ! 生餌だって満足に殺せない。それなのに海に還せば、あっという間に死んでしまう!!」

泣き叫んで抵抗するルシェを、彼の父親が後ろから抱きかかえるようにして懸命に抑え込むのが見えた。

どうして突然、僕とルシェが引き離されるような事態になったのかは、正直なところ僕も良く分かっていない。
しかし、今になって思うに。
おおかた長年活動してきた人魚の人権保護を訴える団体とやらの活動がついに実を結び? 人魚達の売買が禁止されたのを機に飼育されていたそれらが全て海に還される事が、国の法案か何かで決まったとか。
まぁきっと、そういった事なのだろう。

「レリ! レリ!! レリ!!!」

懸命にこちらに伸ばされたルシェの手を取りたくて、初めて水槽のガラスを強く叩く。
しかし人魚の雄を飼育する為にあつらえられたソレを、僕が壊せる筈も無かった。


突然放り込まれた冬の海の水は、肌を刺すように冷たくて。
それに慣れるまでは、ヒレを動かすどころか、しばらくの間は満足に息をする事さえ叶わず。
僕は、僕と同じように遺棄された温水育ちの人魚達と共に、グングンと遠ざかっていく船影を呆然と眺めながら、何の所縁も無い大海のど真ん中、途方に暮れた。

遺棄された同胞の中には、僕と同じ様にその美しさを見初められ、半ば攫われるようにしてどこかの群れへと入って行った者もいたはいたらしいが……。
歌は歌えど、同じ種族でありながらも互いに共通した言葉も持たなかった彼らの多くは、何も分からず、何も得られず。
住み慣れた故郷への帰り道も分からぬまま、ただただ冷たい海水に震えながら、混乱したまま皆死んでいったと聞く。




陽ざしも届かぬ暗い洞窟を用いた檻の中、鎖に繋がれ。
果たして、一体どのくらいの時間が経ったのだろう。
目覚めた回数を岩壁に刻む事は、千を超えたところでその意味を見出せなくなって止めた。

ルシェは。
あの孤独だった少年は、今頃どこで何をしているのだろう。

ルシェが僕に心酔するのと反比例するように、僕を酷く厭うようになっていった彼の両親が願った通り、僕と離れたのを機に仲間やつがいが出来て、もう僕の事なんてすっかり忘れてしまっただろうか。
……そうだったらいいな。

あの日最後に見たルシェの泣き顔を思い出しながら、そんな事を思った時だった。

「レリ!!」

突然誰かが、僕の事をそんな懐かしい名前で呼んだ。
それにハッとして、声がした方を仰げば、目の前にあった筈の檻も、僕の首と手を苛んでいた鎖もどういう訳か消えて無くなっていて。
ずっともう一度見たいと願って止まなかった美しいダークグリーンの瞳と、また実に間近で目が合った。

「レリ……。ずっと、ずっと会いたかった」

ルシェはニンゲンだ。
彼が潜水服も身につけずにこんな海底を訪れられるハズも、海水の中で声を出せる筈も無い。
自分はきっと、幸せな夢を見ているのに違いない。そう思った時だ。
僕はルシェの左手の中に、あの日彼が図書館からくすねて来た古い科学書と、手書きと思しき真新しい魔術書を見つけた。

「レリを引き上げる方法ばかり考えていて、僕が沈めばいいんだって事に気づくのにバカみたいに時間がかかった。遅くなって本当にごめん。でも、レリの事を忘れた日なんて、ただの一日もなかったよ」

僕の願いを知ってか知らずか。
きっと夢なんかではなく、世界を、そして自らをも贄とするような悪い魔術を使って本当に僕に会いに来てしまったのであろうルシェが、酷く嬉しそうに僕の手を取りながら、そんなとっても哀しい事を言った。
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