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軽快な足取り。大学の授業を終えてバイトもない日は、基本こんな調子だ。
それに付け加え今日は新しいスニーカー。今まで履いていた靴も履き心地が良かったが、野田さんから貰ったこの靴も抜群に歩きやすい。つい走り出したくなる。
黒地にロゴが入っているシンプルなもの。どんな服でも似合うから、長く愛用できそうだ。彼には感謝しかない。ありがとう、と何回も心の中で繰り返しながら、マンションを目指す。
「え~、足取り軽すぎない?」
背後から声がして、ピタッと立ち止まった。振り返れば、目を丸くした蓮見さんが頬を指先で掻きながら立っていた。
「スキップなんかしちゃって、ご機嫌なのぉ?」
「え、スキップなんてしてました?」
ハッとして、顔が一気に熱くなる。自分では気づかなかった。それほど今の俺は、うかれているらしい。
俺の隣にまで来ると「ルンルンだったよぉ」とヘラリと笑う蓮見さん。そして俺の足元を見て、お、と首を傾けて言った。
「靴、買ったの?」
「いや、これ野田さんに貰ったんです。使ってないからって」
「使ってないぃ~?」
間延びした声で「ふーん」というと、蓮見さんはニヤついた表情のまま何か思案し始めた。指先を顎に乗せて、何度も「ふーん、そうなんだぁ、へぇ」と繰り返している。その姿が不気味で、俺は少しだけ彼と距離をとった。
「……嘘っぽいなぁ」
ぽそ、と呟かれた声を、俺は聞き逃す。え? と聞き返したが、蓮見さんは笑顔を浮かべるばかりで、もう何も言ってくれなかった。
「ああそうだ、蓮見さん。俺、野田さんに何かお礼したいんですけど」
ふと思い出し、歩きながら彼に問いかける。今日も彼は野田さんの部屋に向かうのか、俺と道が違うことは一箇所もない。
「おーイイね。何あげるの?」
「その相談に乗ってもらおうと思って。俺まだ野田さんのことよく知らないから、蓮見さんなら良いアイデア何かあるかもって」
なるほどねぇ、と。蓮見さんはさっきと同じ、指先を顎に乗せる体勢で考え始めた。時折「うーん」と唸りながら空を仰いでいる。
「清貴くんに何かあげるなら、チョコレイトでイイと思うよ」
「え、チョコ?」
「そう。清貴くんねぇ、チョコレイト大好きなんだよ。大人になってからなんだけどね?」
そんなものでイイのか、と。内心スッキリしない気持ちで話を聞く。極端に高額な物を提案されても困るが、ブランドの高級なスニーカーを貰った手前、そんなもので? という気持ちが勝ってしまう。ある程度大きな出費を覚悟していたので、少し拍子抜けしてしまった。
「きっと大喜びするよぉ~」
「そんな物で喜んでくれるんですか?」
「清貴くん親がいないからね、子供の頃チョコレイトとかあんまり食べたことがなかったんだって」
だからいま大好きなんだってぇ。
そう溢した蓮見さんの言葉に、固まりつい立ち止まってしまう。先を歩いていた彼も立ち止まって、戸惑い目を瞬く俺を向いて小首を傾げていた。
「それ、俺に言ってもよかったんですか?」
「イイと思うよぉ。人間嫌いの清貴くんが、名前も知らなかった赤の他人に興味を持つなんて、きっとそう言うことだと思うからねぇ」
どう言う意味なのかよくわからない理由に、俺は「はぁ……」と腑に落ちないながらも返事をする。再び歩き出し彼の隣へ行けば、蓮見さんは野田さんの話を少しだけしてくれた。
小さい時に両親が離婚したこと。母親に引き取られたけれど、面倒が見られないことを理由に関西から関東の親戚に預けられたこと。高校の時からいろんな娯楽を我慢してお金を貯めて、勉強もして自分の力だけで大学まで進学したこと。
「自分の仕事場でオータくんを見た時、もしかしたら自分のことと重なったのかも? だからオータくんのことすっごく気にしてるみたいだねぇ」
「気にしてる?」
「本人は言わないけど、僕が見る限りはなんだがそわそわしてる感じ?」
面白いね! と突然大声で笑う蓮見さん。その音量にびっくりする。
「まぁそんな調子だから、オータくんが選んだ物なら清貴くんは何でも喜ぶと思うよぉ?」
「たかがチョコでも?」
「チョコレイトが一番イイよ。さっきも言ったけど、いろんな娯楽我慢してたらしいから。大人になって甘いもの食べて『エゲツないもん食ったわ』って喜んでたもんねぇ」
野田さんの声真似を交えて言った蓮見さんの提案に、なるほどぉ、と今度は俺が腕を組み思案する。チョコなら手軽にお返しがし易い。そうと決まれば早速行動をしたいところだ。
「あ! あれ清貴くんかな?!」
マンション前に到着すると、ちょうどエントランスへ入ろうとしている人の後ろ姿があった。鍵を取り出し中へ入ろうとする人に、蓮見さんは「お~い清貴くん~」と叫んで手を振っている。
中へ入る前に、呼ばれた野田さんはこちらを振り返った。相変わらずのキッチリしたスーツ姿。姿勢も綺麗で、同性の俺が見ても何回だって見惚れてしまう。
野田さんは涼しげな目つきで俺を見ると、一瞬その目を鋭くさせて、それから蓮見さんの方を向いた。俺がビクッとその威圧に怯んでいる隙に、彼は踵を返して中へと入ってしまう。
「ありゃりゃ、妬いちゃったかなぁ?」
「え?」
「じゃ、僕はここまでだねぇ。今日は絶対部屋に上げてくれないや」
「は?」
完全に置いてけぼりを食らう俺など気にせず、蓮見さんは今来た道を引き戻そうとしている。ちょっと、と俺が呼び止めると、何かを思い出したように「あ!」と声を上げて手を叩いた。
「そうだオータくん。今日聞いた話、清貴くんには内緒ね?」
「え!? 俺に言ってイイ話じゃなかったでしたっけ?」
「言ってよかったかもしれないし、ダメだったかもしれないー。僕の勘違いかもしれないから、内緒にしといてねぇ」
ああー!! と。
突如奇声を発する蓮見さん。それからすぐ、面白そうに、楽しそうに笑い始め、俺に満面の笑顔を向けて意気揚々と言った。
「オータくんてば!! 怖いお兄さんの秘密を知ってしまったね!!」
面白いね! そう言い置いて、蓮見さんはスキップでどこかへ行ってしまった。
俺の顔から、というか体から血の気がなくなっていく。軽い貧血のような症状に襲われ、クラリと体が傾いだ。
あまり関わらないでおこうと思っていた隣人のこと。蓮見さんに煮湯を飲まされたような気がして、食道にへばりつく熱湯に涙が滲んだ。
けれどどうにか足を踏ん張り、頭を左右に振る。ふと腕時計を見て、まだ7時前だと気づく。
そういえば。駅の裏に新しいケーキ屋さんが出来たと噂で聞いたことがある。大々的に広告などを出していないので、口コミだけで生計を立てているらしい。
噂が流れてくるほどだから、きっと美味しいのだろう。あそこならチョコも置いているかもしれない。
駅の裏の、広告のない店。まるで秘密の隠れ家みたいで少しだけ胸が騒いだ。まだ開いているかもしれない、と。期待しながら駅の方へと足を向けた。
***
夜の8時前に野田さんの部屋前でチャイムを鳴らす。ぴんぽん、と聞き慣れた音に交じり、人の足音が近づいてくるのを緊張しながら待った。
深呼吸をする暇もなく、扉が開く。普段着に着替えた野田さんが、珍しく眼鏡を外した状態で迎えてくれる。眼鏡がないと格段に視力が落ちるのか、部屋の外に立ち尽くす俺のことに野田さんは一瞬気づいていなかった。目を細め眉間に皺をよせ、鋭い目つきで見てようやく俺であると気づく。途端、彼の強張っていた目つきが解けるみたいに柔らかくなった。
「ああ、君か。どないしたん?」
「すみません、遅くに……」
「ええよ、なんか用事?」
野田さんはフッと視線を俺から逸らす。俺の姿を確認するために前のめりになっていた体勢は引いて、今にも扉は閉められそうだった。
忙しかったのかもしれない。そりゃそうだろう。平日の夜だ。明日も仕事だし、帰宅してからやらなければいけない仕事だってあるはず。
やってしまった、と内心で自分の失敗を嘆く。こういう気配りもこれからはできるような人間にならねば、と。決意改め、手に提げていた袋を慌てて野田さんに突き出した。
「これ! このスニーカーのお返しです!」
かた、と袋の中身が揺れる。あ、と一瞬息が止まったが、これくらいの揺れなら問題ないだろう。
袋の中身は、箱詰めされたケーキだ。あの後例のケーキ屋さんへ行ったのだが、チョコ菓子の類は数が少なく、目新しいものが特になくて買うのを断念した。
その代わり、ケーキは種類が豊富で目移りした。オーソドックスなショートケーキはもちろん、季節のフルーツタルトやミルクレープ。名前も聞いたことがない種類のケーキまで。
中には当然、チョコレートケーキもあった。しかも一つではない。いくつも種類があったので、どれがいいか選びきれずにチョコのケーキを一個ずつ全種類買ってきた。
買って店を出た後で「普通のチョコの方が良かったかもしれない……」と後悔したけれど、もう後の祭りだった。
目を瞬いて袋を受け取った野田さんは「あ、ありがとう」と控え目な声で言ってくれた。
「あ、あの、俺この前野田さんに貰ったスニーカー、本当に嬉しくて……それだけじゃなくて、この前貰ったチョコ菓子のお礼も適当になってたから、これはささやかすぎるんですけど、そのお礼の気持ちです。チョコ好きだって聞いてたのに、何を血迷ったのかチョコレートケーキになりましたが……」
「蓮見から聞いたん?」
「あ!」
そう問われ、慌てて手で口を塞ぐ。
これはもしかして、内緒にしておかねばいけない話だったのではないだろうか。
さっき蓮見さんと二人で話した内容。野田さんの生い立ちを含め、チョコが好きだということ。
頭の中がパンクしそうになる。心なしか、手にする袋を見る野田さんの目つきが冷たい気がする。
「す、そ、あ、その……何がいいか悩んでた時に相談に乗ってもらったんです……もし苦手な物だったら捨ててください……」
それじゃあ……、と。後頭部をかきながらその場を去る。
このお返しは失敗だったかもしれない。いや俺がそつなく綺麗に渡せていたら上手くいっていたかもしれない。
お返しをしたい気持ちが裏目に出て落ち込む。もしかするとこの失言は、蓮見さんにも何らかの迷惑をかけてしまうのでは、と寒気がした。脳裏で蓮見さんの「面白いね!!」という愉快な声が鳴り響く。……別に迷惑をかけてもいいような気もしてきた。
「ちょい待ち」
自分の部屋のノブを触る寸前。
野田さんが俺を呼び止める。
立ち止まり振り返れば、部屋から一歩出た彼は俺を向いて「明日休みなん?」と首を傾げて訊ねた。
「明日……? たまたま休講ですけど……」
スマホで履修講義確認欄を見て告げる。すると野田さんが少しだけ口元を緩めて笑った。
「ほなこれ一緒に食べよ。俺一人じゃ食えんわ」
「え!? 野田さん明日仕事じゃ!?」
「馬車馬のように働かされとるから、明日はたまたま有給取ってん」
偶然やな、と。軽く笑いながら先に自分の部屋へ戻っていく野田さん。遅れて扉がパタン、と閉まった。
共同廊下の、自分の部屋の前。
一人残された俺の開いた口は、塞がらなくなる。
脳裏でまた蓮見さんの耳障りな笑い声が聞こえる。その次にあの声が、何度も頭の中を反響した。
“怖いお兄さんの秘密を知ってしまったね!”
今からその“怖いお兄さん”と二人でケーキを食べるハメになってしまった。
突然の事態に、目の前がチカチカ光だした。
それに付け加え今日は新しいスニーカー。今まで履いていた靴も履き心地が良かったが、野田さんから貰ったこの靴も抜群に歩きやすい。つい走り出したくなる。
黒地にロゴが入っているシンプルなもの。どんな服でも似合うから、長く愛用できそうだ。彼には感謝しかない。ありがとう、と何回も心の中で繰り返しながら、マンションを目指す。
「え~、足取り軽すぎない?」
背後から声がして、ピタッと立ち止まった。振り返れば、目を丸くした蓮見さんが頬を指先で掻きながら立っていた。
「スキップなんかしちゃって、ご機嫌なのぉ?」
「え、スキップなんてしてました?」
ハッとして、顔が一気に熱くなる。自分では気づかなかった。それほど今の俺は、うかれているらしい。
俺の隣にまで来ると「ルンルンだったよぉ」とヘラリと笑う蓮見さん。そして俺の足元を見て、お、と首を傾けて言った。
「靴、買ったの?」
「いや、これ野田さんに貰ったんです。使ってないからって」
「使ってないぃ~?」
間延びした声で「ふーん」というと、蓮見さんはニヤついた表情のまま何か思案し始めた。指先を顎に乗せて、何度も「ふーん、そうなんだぁ、へぇ」と繰り返している。その姿が不気味で、俺は少しだけ彼と距離をとった。
「……嘘っぽいなぁ」
ぽそ、と呟かれた声を、俺は聞き逃す。え? と聞き返したが、蓮見さんは笑顔を浮かべるばかりで、もう何も言ってくれなかった。
「ああそうだ、蓮見さん。俺、野田さんに何かお礼したいんですけど」
ふと思い出し、歩きながら彼に問いかける。今日も彼は野田さんの部屋に向かうのか、俺と道が違うことは一箇所もない。
「おーイイね。何あげるの?」
「その相談に乗ってもらおうと思って。俺まだ野田さんのことよく知らないから、蓮見さんなら良いアイデア何かあるかもって」
なるほどねぇ、と。蓮見さんはさっきと同じ、指先を顎に乗せる体勢で考え始めた。時折「うーん」と唸りながら空を仰いでいる。
「清貴くんに何かあげるなら、チョコレイトでイイと思うよ」
「え、チョコ?」
「そう。清貴くんねぇ、チョコレイト大好きなんだよ。大人になってからなんだけどね?」
そんなものでイイのか、と。内心スッキリしない気持ちで話を聞く。極端に高額な物を提案されても困るが、ブランドの高級なスニーカーを貰った手前、そんなもので? という気持ちが勝ってしまう。ある程度大きな出費を覚悟していたので、少し拍子抜けしてしまった。
「きっと大喜びするよぉ~」
「そんな物で喜んでくれるんですか?」
「清貴くん親がいないからね、子供の頃チョコレイトとかあんまり食べたことがなかったんだって」
だからいま大好きなんだってぇ。
そう溢した蓮見さんの言葉に、固まりつい立ち止まってしまう。先を歩いていた彼も立ち止まって、戸惑い目を瞬く俺を向いて小首を傾げていた。
「それ、俺に言ってもよかったんですか?」
「イイと思うよぉ。人間嫌いの清貴くんが、名前も知らなかった赤の他人に興味を持つなんて、きっとそう言うことだと思うからねぇ」
どう言う意味なのかよくわからない理由に、俺は「はぁ……」と腑に落ちないながらも返事をする。再び歩き出し彼の隣へ行けば、蓮見さんは野田さんの話を少しだけしてくれた。
小さい時に両親が離婚したこと。母親に引き取られたけれど、面倒が見られないことを理由に関西から関東の親戚に預けられたこと。高校の時からいろんな娯楽を我慢してお金を貯めて、勉強もして自分の力だけで大学まで進学したこと。
「自分の仕事場でオータくんを見た時、もしかしたら自分のことと重なったのかも? だからオータくんのことすっごく気にしてるみたいだねぇ」
「気にしてる?」
「本人は言わないけど、僕が見る限りはなんだがそわそわしてる感じ?」
面白いね! と突然大声で笑う蓮見さん。その音量にびっくりする。
「まぁそんな調子だから、オータくんが選んだ物なら清貴くんは何でも喜ぶと思うよぉ?」
「たかがチョコでも?」
「チョコレイトが一番イイよ。さっきも言ったけど、いろんな娯楽我慢してたらしいから。大人になって甘いもの食べて『エゲツないもん食ったわ』って喜んでたもんねぇ」
野田さんの声真似を交えて言った蓮見さんの提案に、なるほどぉ、と今度は俺が腕を組み思案する。チョコなら手軽にお返しがし易い。そうと決まれば早速行動をしたいところだ。
「あ! あれ清貴くんかな?!」
マンション前に到着すると、ちょうどエントランスへ入ろうとしている人の後ろ姿があった。鍵を取り出し中へ入ろうとする人に、蓮見さんは「お~い清貴くん~」と叫んで手を振っている。
中へ入る前に、呼ばれた野田さんはこちらを振り返った。相変わらずのキッチリしたスーツ姿。姿勢も綺麗で、同性の俺が見ても何回だって見惚れてしまう。
野田さんは涼しげな目つきで俺を見ると、一瞬その目を鋭くさせて、それから蓮見さんの方を向いた。俺がビクッとその威圧に怯んでいる隙に、彼は踵を返して中へと入ってしまう。
「ありゃりゃ、妬いちゃったかなぁ?」
「え?」
「じゃ、僕はここまでだねぇ。今日は絶対部屋に上げてくれないや」
「は?」
完全に置いてけぼりを食らう俺など気にせず、蓮見さんは今来た道を引き戻そうとしている。ちょっと、と俺が呼び止めると、何かを思い出したように「あ!」と声を上げて手を叩いた。
「そうだオータくん。今日聞いた話、清貴くんには内緒ね?」
「え!? 俺に言ってイイ話じゃなかったでしたっけ?」
「言ってよかったかもしれないし、ダメだったかもしれないー。僕の勘違いかもしれないから、内緒にしといてねぇ」
ああー!! と。
突如奇声を発する蓮見さん。それからすぐ、面白そうに、楽しそうに笑い始め、俺に満面の笑顔を向けて意気揚々と言った。
「オータくんてば!! 怖いお兄さんの秘密を知ってしまったね!!」
面白いね! そう言い置いて、蓮見さんはスキップでどこかへ行ってしまった。
俺の顔から、というか体から血の気がなくなっていく。軽い貧血のような症状に襲われ、クラリと体が傾いだ。
あまり関わらないでおこうと思っていた隣人のこと。蓮見さんに煮湯を飲まされたような気がして、食道にへばりつく熱湯に涙が滲んだ。
けれどどうにか足を踏ん張り、頭を左右に振る。ふと腕時計を見て、まだ7時前だと気づく。
そういえば。駅の裏に新しいケーキ屋さんが出来たと噂で聞いたことがある。大々的に広告などを出していないので、口コミだけで生計を立てているらしい。
噂が流れてくるほどだから、きっと美味しいのだろう。あそこならチョコも置いているかもしれない。
駅の裏の、広告のない店。まるで秘密の隠れ家みたいで少しだけ胸が騒いだ。まだ開いているかもしれない、と。期待しながら駅の方へと足を向けた。
***
夜の8時前に野田さんの部屋前でチャイムを鳴らす。ぴんぽん、と聞き慣れた音に交じり、人の足音が近づいてくるのを緊張しながら待った。
深呼吸をする暇もなく、扉が開く。普段着に着替えた野田さんが、珍しく眼鏡を外した状態で迎えてくれる。眼鏡がないと格段に視力が落ちるのか、部屋の外に立ち尽くす俺のことに野田さんは一瞬気づいていなかった。目を細め眉間に皺をよせ、鋭い目つきで見てようやく俺であると気づく。途端、彼の強張っていた目つきが解けるみたいに柔らかくなった。
「ああ、君か。どないしたん?」
「すみません、遅くに……」
「ええよ、なんか用事?」
野田さんはフッと視線を俺から逸らす。俺の姿を確認するために前のめりになっていた体勢は引いて、今にも扉は閉められそうだった。
忙しかったのかもしれない。そりゃそうだろう。平日の夜だ。明日も仕事だし、帰宅してからやらなければいけない仕事だってあるはず。
やってしまった、と内心で自分の失敗を嘆く。こういう気配りもこれからはできるような人間にならねば、と。決意改め、手に提げていた袋を慌てて野田さんに突き出した。
「これ! このスニーカーのお返しです!」
かた、と袋の中身が揺れる。あ、と一瞬息が止まったが、これくらいの揺れなら問題ないだろう。
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その代わり、ケーキは種類が豊富で目移りした。オーソドックスなショートケーキはもちろん、季節のフルーツタルトやミルクレープ。名前も聞いたことがない種類のケーキまで。
中には当然、チョコレートケーキもあった。しかも一つではない。いくつも種類があったので、どれがいいか選びきれずにチョコのケーキを一個ずつ全種類買ってきた。
買って店を出た後で「普通のチョコの方が良かったかもしれない……」と後悔したけれど、もう後の祭りだった。
目を瞬いて袋を受け取った野田さんは「あ、ありがとう」と控え目な声で言ってくれた。
「あ、あの、俺この前野田さんに貰ったスニーカー、本当に嬉しくて……それだけじゃなくて、この前貰ったチョコ菓子のお礼も適当になってたから、これはささやかすぎるんですけど、そのお礼の気持ちです。チョコ好きだって聞いてたのに、何を血迷ったのかチョコレートケーキになりましたが……」
「蓮見から聞いたん?」
「あ!」
そう問われ、慌てて手で口を塞ぐ。
これはもしかして、内緒にしておかねばいけない話だったのではないだろうか。
さっき蓮見さんと二人で話した内容。野田さんの生い立ちを含め、チョコが好きだということ。
頭の中がパンクしそうになる。心なしか、手にする袋を見る野田さんの目つきが冷たい気がする。
「す、そ、あ、その……何がいいか悩んでた時に相談に乗ってもらったんです……もし苦手な物だったら捨ててください……」
それじゃあ……、と。後頭部をかきながらその場を去る。
このお返しは失敗だったかもしれない。いや俺がそつなく綺麗に渡せていたら上手くいっていたかもしれない。
お返しをしたい気持ちが裏目に出て落ち込む。もしかするとこの失言は、蓮見さんにも何らかの迷惑をかけてしまうのでは、と寒気がした。脳裏で蓮見さんの「面白いね!!」という愉快な声が鳴り響く。……別に迷惑をかけてもいいような気もしてきた。
「ちょい待ち」
自分の部屋のノブを触る寸前。
野田さんが俺を呼び止める。
立ち止まり振り返れば、部屋から一歩出た彼は俺を向いて「明日休みなん?」と首を傾げて訊ねた。
「明日……? たまたま休講ですけど……」
スマホで履修講義確認欄を見て告げる。すると野田さんが少しだけ口元を緩めて笑った。
「ほなこれ一緒に食べよ。俺一人じゃ食えんわ」
「え!? 野田さん明日仕事じゃ!?」
「馬車馬のように働かされとるから、明日はたまたま有給取ってん」
偶然やな、と。軽く笑いながら先に自分の部屋へ戻っていく野田さん。遅れて扉がパタン、と閉まった。
共同廊下の、自分の部屋の前。
一人残された俺の開いた口は、塞がらなくなる。
脳裏でまた蓮見さんの耳障りな笑い声が聞こえる。その次にあの声が、何度も頭の中を反響した。
“怖いお兄さんの秘密を知ってしまったね!”
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