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 外資系とか大手の企業がわんさか入っているようなビルで清掃のバイトを始めた俺の話を聞いてほしい。

 そもそも掃除なんて、ガサツで整理整頓が苦手な俺にはむいていないバイトのような気が端からしていたのだが、それはあながち間違いではなく、案の定むいていなかった。

 なんせ大きな企業が複数入った高層ビルだ。階数が多くなれば、その分掃除をする箇所も多くなる。
 廊下の掃除、窓拭き、トイレ掃除にその他諸々。目についた不衛生な物は一ミリも逃してはいけない。そんなバイトを、むいていないにも関わらずはじめてしまった。

 手際よく作業できない掃除素人の俺は当然、その職を長年経験してきた先輩たちにこっぴどく叱られた。先輩、といってもパートのおばさんたちだ。若い男手が入ったから力仕事が楽になるかもって喜んだけど、全然役に立たないじゃない! と。ゴミが大量に詰められた袋を二つ抱えたままのおばさんに怒鳴られた時は流石に落ち込んで、泣き出しそうになった。

 違うバイトを探そう。別に清掃の仕事をしたくて始めたわけではない。ただ単に時給が良かっただけなんだし。

 メンタルが落ち込み、モップで床の汚れを無心で拭いた。キュッキュと光沢のある石床が、水の含んだモップに擦られ音を鳴らす。
 そんな小さな音なんて、日中仕事をする人たちの耳には届かないだろう。ちら、とビルのエントランス内を行き交う人の顔を見れば、誰も一清掃員である俺のことなんて見てもいなかった。

 まあいい。一清掃員、たかがバイトだ。今できることと言えば、パートのおばさまたちの機嫌を損ねないために何をすればいいか考えるくらいである。誰の目にも留めてもらえない、と気分を落ち込ませ、ちんたら仕事をしていればまた何処かから怒声が飛んでくるはずだ。怒られないように「よし」と一人気を引き締め鼻息を荒くする。手にしていたモップの柄を、再度しっかり握り直した。

「これ、いつもありがとう」


 はい、と。
 突然背後から声をかけられる。
 え、と驚き振り返れば、きっちりスーツを着込んだ男性が、背筋を伸ばして立っていた。

 グレーのスーツに真っ黒な革靴。レザーの鞄と、首元で緩められることなく結ばれた臙脂のネクタイ。
 こざっぱりした長すぎず、短すぎない髪型に、銀縁の眼鏡。その向こう側にあるキリリとした怜悧な目元には、少し冷たい印象を持つ。

 そんな鋭い目に見られ、一瞬ひやっとした。だが彼の口元に浮かんでいる柔和な笑みを見ると、単純なことに恐怖は解ける。肩から力が抜けたと同時、なぜ俺はこの人に話しかけられているのだろう、という疑問が隕石のように脳天に落ちてきた。

 ええ?! と衝撃のあまり後ずさる。一清掃員、ただのバイトの俺が、なぜ面識のない彼に話しかけられているのか。疑問で目を回していたが、ふと俺に差し出された手元を見て、急に冷静さが取り戻される。

 コンビニなんかで売っている、箱に入ったチョコ菓子。彼はそれを、俺に笑顔で手渡してくれていた。

「あ、あの……?」

 なぜ急に、知らない人にお菓子を貰うような状況に陥ったのか。わけがわからないまま、それを両手で恐る恐る受け取る。受け取ったそれと男性の顔を交互に見ていれば、俺が不安そうにしている様子に気づいたのか、唐突に両手を叩き「ああ!」と声を弾ませた。


「若い同性の清掃員って珍しいから、ちょっと気になってたんだ。いつも掃除してくれてありがとう」


 これからもよろしくね、と。

 彼はそう言い残してエントランス入り口まで歩いて行った。


 その背中を見送りながら、俺の心臓がギュウウウンと締め付けられる心地になる。顔が火照り、嬉しさのあまり泣き出しそうになった。いや、ちょっと泣いていたかもしれない。目尻にうっすら涙が溜まっている気がする。

 日々怒られているけれど、ちゃんと誰かの役に立てていたのだろうか。さっきまで「やめて次のバイト探そう」としていた気持ちが急激に萎んでいく。新たに芽吹いた感情は「もうちょっと頑張ってみよう」というやる気だった。

 男の人が去っていった方向を見ていれば、彼よりもさらに若い男性が「野田さーん!!」と駆け足で近づいて行く。野田さん、と呼ばれた例の彼は扉付近で足を止め振り返ると、くしゃ、と顔を歪め可笑しそうに笑った。
 遅いよまったく、と。少しも苛立っていないような雰囲気で、後輩と思しき男性と会話を交わしている。

「……あ!!」


 扉を押し開け外へ出た彼らを見送り、突然声が出た。それはほぼ、条件反射だ。

 手にしたチョコ菓子に視線を落とし、やってしまった……、とため息をつく。

「お礼、いうの忘れたな……」

 まぁここでバイトを続けていれば、また再会できるだろう。


***


 夜の十時にバイトを終えて、それから今日は三時間だけコンビニのバイトをこなした。
 普段からバイトを掛け持ちしているのだが、大学終わりに清掃のバイトがある時はコンビニのバイトは入れないようにしている。今日はたまたま、人数が足りなくて補填されたのだ。

 終わって夕飯の弁当を一個買い帰路に着く。明日は大学も休みだしバイトも入っていないから、溜まっている課題の解消に努めようと考え歩いた。

 ふと、横掛け鞄の奥底に沈ませていた物をすくいあげる。
 清掃のバイトの時にもらったチョコ菓子だ。赤いパッケージが、深夜の暗がりにボヤっと浮かび上がっている。
 コンビニのバイトをする前に食べようと思っていたのだが、ちょうど客足が多くあったせいでゆっくり準備をする暇がなかった。そのせいで帰って食べようと思ったのだが、今この場で箱を軽く振ってみると、なんだが粘着質な音がする。おそらく、少しだけ溶けているのかもしれない。

 もったいなかった、と心でため息をこぼしながら、今日見た「野田さん」という人のことを思い出す。

 年の功、三十前といったところか。声だけ聞くと低くて怖い印象だったが、見た目が爽やかで好青年のような目鼻立ち。話し方も立ち姿も完璧な人間で、同性の俺が見ても「アレはモテるな」と感心してしまうほどだった。


 あんな広いビルの中でだと、彼と再会できるのは当分先かなー、それとも昨今稀に見る絶滅危惧種爽やか好青年ということで、逆にすぐ出会えるかもしれない。そんな呑気なことを考えているうちにマンションに到着する。

 鞄から鍵を取り出し、働いた疲労を放出するようにため息を吐く。共同廊下の薄暗い灯りを頼りに自分の部屋を開錠すると、隣部屋の扉が勢いよく大きな音を立てて開き、中から大きな何かが転がり出てきた。
 俺は反射で肩を抱き、巨大な物体から距離をとる。


「うわぁぁぁぁぁん!! 許してよぉぉ!!清貴くぅうん!!」


 おそらく成人男性の、情けない悲鳴。小さな子供のような甲高い声が辺りに響いている。嫌な気配を察知し、俺は静かにその場の空気に溶け込むように息を止めた。
 人の喧嘩現場に遭遇したら巻き込まれないように、遠目から見ていつでも逃げられる体勢を確保しておくのがいいと知りながら、俺はその情けないぐずり声に呆気にとられてしまい、部屋に入ることも忘れてその現場に釘付けになってしまった。


 部屋から転がり出てきたのは、おそらく……おそらく成人の男性。大きな、まるで少女のようにくりっとした目にうっすら涙を溜めて、ずぴずぴと鼻を啜っている。
 格好は上半身裸の紺色のボクサーパンツ一枚。布一枚の姿で吹き抜けの共同廊下に放り出され、哀れな姿を晒しているのは、俺の目で見る限りではたぶん成人男性だった。

 成人男性が、半裸の状態で、半ベソかいて、部屋の外へ投げ捨てられている。

 その見慣れない異様な光景に、唖然としないなんて無理だった。
 

 固唾を飲み現場を目撃していると、第二波がやってくる。
 部屋の中から荒々しい足音が響き、半ベソで泣いてる男に向かって黒い財布が叩きつけられた。ぐしょぐしょに濡れた顔に叩きつけられ「ぐへっ」と不細工な声が辺りに響く。幸い財布の表面で強打したようだ。金具なんかで顔を打ち付けられれば、ぐへ、何かでは済まないだろう。


「っこんっの!! クソ野郎!! お前のせいで俺がどれだけ苦労しとると思ってんねん!!」


 ドス利いた声が辺りに響き、緊張感が増す。俺は今しがた聞こえた男の声のイントネーションに、肝を冷やした。

 おそらくあれは、関西弁だ。

 この辺の地域では聞き馴染のない喋り方のせいか、部屋の主である男の声には凄味がある。重低音の声で関西弁を駆使し、半ベソの男に言葉をマシンガンのようにとめどなく吐き続ける部屋の中の男は、ちょうどこちらからでは扉が邪魔して姿が見えなかった。それは不幸中の幸いで、体中を巡った恐怖は幾分か霧散する。もし死角の扉がなくて、風貌の厳つい男なんかが俺の目に入ってしまえば、俺はすぐにでも引っ越しを考えただろう。

 いや、今もちょっと考えてるけれど、でも万年貧乏学生のせいですぐには行動できないのがつらい。

 しばらく隣人トラブルの現場を眺めていたが、体が冷えていることに気づく。流石に部屋に入ろう。もし事件とかになりそうなら警察に連絡するようにしておこう。


 そう思い、鞄の中へ手を入れスマホを取り出したはずみ。
 中へ入れていたチョコ菓子の箱が音を立てて足元に落ちる。

 耳聡くその音を拾ったのは、パン一姿で座り込み鼻を啜る成人男性らしき人だった。ハッと目を開き、俺の存在に今気づいたと言わんばかりに口をアングリさせる。そして部屋の中の男に声をかけようとしたのだが、


「今日という今日は許さんからなっ!!」


 そう叫ばれ、そのまま片手で髪を鷲掴みにされてしまう。彼が発そうとしていた声は、途端喉の奥へ引っ込んでいった。


 流石にヤバイ、そう思いスマホの画面を起動する。
 110番を押そうとしたのだが、画面を押そうとした俺の指が、何故か急に、動かなくなった。

 恐怖、ではない。
 決して男の怒声に怯んだわけではない。


 凄味を聞かせた、低い男の声。声だけ聞くと、怖い印象を持たれる声色だ。

 声だけ聞くと。
 その声に聞き覚えがあるな、と考え出したと同時、チョコが溶けた絵が脳内に浮かんだ。ねちょ、とした粘着質な音が急に耳の奥で響き、つい耳を片手で押さえる。


「清貴くん!! お隣さん帰ってきてるよぉ!!」


 髪の毛を鷲掴みにされたまま、男がそう言った。瞬間、場が無音になる。

 そのピリついた空気感に、つい唾を飲み込んだ。動けないでいた俺だが、逃げ出す時間も声を上げる暇もなく、扉が大きく開けられ今まで死角で見えなかった、関西弁の男の姿を目の当たりにする。


 キッチリとした、スーツ姿の男性。
 長すぎず、短すぎない髪に、銀縁眼鏡の人。

 ネクタイは緩められ、胸元は少し歪んでいるが、俺のごちゃごちゃになった頭の中を漁ってみると、その人は間違いなく、俺の記憶の中にある人だった。


「こ、こんばんは……。あの、さっきはチョコレート、ありがとうございました……」


 唖然と口を張り、顔を真っ青にして動かなくなった隣人の男、野田さんから視線を逸らし、無理矢理口角を上げて笑ってみせた。


 加藤旺太、大学三年生。
 バイトをしながら生活をやりくりする俺の隣の部屋には、好青年の皮を被った野蛮関西人が住んでいる。
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