206 / 639
パウロといろはの「う」
しおりを挟む
憂(う)かりける 今の身こそは 先の世と 思えば今ぞ 後の世ならん
現代語訳
思うようにならぬこの世の自分の姿が、前世の報いの結果だと言うのなら、今の自分の生き方は、その結果として後の世に現れることになります。
だからこそ今を心して生きることです。
読者の皆様の中には罪悪感をもって日々生活されている方もいらっしゃると思います。
このいろは歌を書いた島津日新斎は名前の通り仏法を大事にしています。
彼の信仰によると前世の行いが、今の自分の生き方に反映していて、今の生き方が次の生まれに影響すると信じています。
とはいえ、悪いことをしたとしても、その後に良いことをすることが大事であるという考え方を強く推奨しています。
人生はやり直しがきくということを伝えたかったのではと思います。
宗派は違いますが、新約聖書に「パウロ」という人物が紹介されています。
彼はもともとはクリスチャンの敵側の派閥の期待のホープのような存在で、クリスチャンを見つけては迫害を繰り返していました。
ある時、彼はキリストの幻を見、それ以来クリスチャンとして熱心に行動していきます。
初めのうちはクリスチャン達も彼を恐れていて、彼も罰の悪い思いをしたかもしれませんがそうした思いを克服して善行を行っていきます。
とはいえ、彼は自分が以前行った迫害を忘れて訳でも、なかったことにしたわけでもありません。
彼がクリスチャンの仲間にあてて書いた手紙の中には、自分が熱心な迫害者であったこと、それをキリストが咎め後に許してくれたことが記されています。
重ねて言いますが、島津日新斎とパウロは信仰する相手が異なります。
ですが、この章の中で言わんとしている点については共通の部分があります。
仮に以前行った悪行によって現世で苦しんでいるとしても、今に目を向けて生活をしなさいよ、ということです。
そうすれば将来その報いが訪れますよ、そのような内容です。
実はこの章でもう一つ考えてほしい要点があります。
それは人の将来を決める要素はその人の行動ですが、将来を決めるのは人間ではなくより高い次元の存在だということです。
それが神なのか仏なのか、それははっきり断言はできません。
ですが、自分で他人であれ人が決める領分ではないのです。
もちろん、刑法やこの世の因果によって罰せられたり、賞賛されたりすることはあるでしょう。
でも、それは決定的要素ではないのです。
自分自身の良心の呵責であれ、他人の批判や怨嗟の声であれ、その声によってその人の人生が決まるわけではありません。
大事なのはまず心を強くして、後で後悔するような行動を避けること。
そして、それでも悪行を犯してしまった場合は反省しつつ、次の行動で改善していく心構えと行動です。
もし、心が落ち着いたのならどん底に陥っている場合ではありません。
急に頑張れないにしても、前向きに生きるように姿勢を改めてみませんか。
「憂(う)」れいに沈む心を引き上げて生きていけたらいいですね。
現代語訳
思うようにならぬこの世の自分の姿が、前世の報いの結果だと言うのなら、今の自分の生き方は、その結果として後の世に現れることになります。
だからこそ今を心して生きることです。
読者の皆様の中には罪悪感をもって日々生活されている方もいらっしゃると思います。
このいろは歌を書いた島津日新斎は名前の通り仏法を大事にしています。
彼の信仰によると前世の行いが、今の自分の生き方に反映していて、今の生き方が次の生まれに影響すると信じています。
とはいえ、悪いことをしたとしても、その後に良いことをすることが大事であるという考え方を強く推奨しています。
人生はやり直しがきくということを伝えたかったのではと思います。
宗派は違いますが、新約聖書に「パウロ」という人物が紹介されています。
彼はもともとはクリスチャンの敵側の派閥の期待のホープのような存在で、クリスチャンを見つけては迫害を繰り返していました。
ある時、彼はキリストの幻を見、それ以来クリスチャンとして熱心に行動していきます。
初めのうちはクリスチャン達も彼を恐れていて、彼も罰の悪い思いをしたかもしれませんがそうした思いを克服して善行を行っていきます。
とはいえ、彼は自分が以前行った迫害を忘れて訳でも、なかったことにしたわけでもありません。
彼がクリスチャンの仲間にあてて書いた手紙の中には、自分が熱心な迫害者であったこと、それをキリストが咎め後に許してくれたことが記されています。
重ねて言いますが、島津日新斎とパウロは信仰する相手が異なります。
ですが、この章の中で言わんとしている点については共通の部分があります。
仮に以前行った悪行によって現世で苦しんでいるとしても、今に目を向けて生活をしなさいよ、ということです。
そうすれば将来その報いが訪れますよ、そのような内容です。
実はこの章でもう一つ考えてほしい要点があります。
それは人の将来を決める要素はその人の行動ですが、将来を決めるのは人間ではなくより高い次元の存在だということです。
それが神なのか仏なのか、それははっきり断言はできません。
ですが、自分で他人であれ人が決める領分ではないのです。
もちろん、刑法やこの世の因果によって罰せられたり、賞賛されたりすることはあるでしょう。
でも、それは決定的要素ではないのです。
自分自身の良心の呵責であれ、他人の批判や怨嗟の声であれ、その声によってその人の人生が決まるわけではありません。
大事なのはまず心を強くして、後で後悔するような行動を避けること。
そして、それでも悪行を犯してしまった場合は反省しつつ、次の行動で改善していく心構えと行動です。
もし、心が落ち着いたのならどん底に陥っている場合ではありません。
急に頑張れないにしても、前向きに生きるように姿勢を改めてみませんか。
「憂(う)」れいに沈む心を引き上げて生きていけたらいいですね。
0
お気に入りに追加
7
あなたにおすすめの小説



どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる