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忘れた記憶、料理で繋ぎます
忘れた記憶、料理で繋ぎます-1
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第一章 入家テスト
「儂の正体を当てられねば、この娘にはこの屋敷から出て行ってもらう」
季節は五月、初夏の差しかかり。一ヶ月前から住まわせてもらっている園山家の屋敷の中で、私は面と向かってそう言われ――部屋の空気が静まり返った。
発言の主は、私よりも背の低い少年だった。白い水干に濃い緋色の狩袴。滑らかな長い黒髪を後ろに垂らし、五色の紐でひとくくりにしている、見慣れない少年。
「ええと……」
「おい。今更出てきて、それはないだろう」
少年の言葉を受けてたじろぐ私の横に、ずいと神威さんが進み出る。
凛とした目を鋭くすがめる彼の表情は、その整った造形も相まって凄みが増していた。
「この家の当主は俺なのに、何でお前が出てくる」
「儂を敵に回すか、人神よ」
「敵に回すかどうかとか、そういう問題じゃない。何で反対なのかって聞いてんだ」
「反対ではない。『見定め』と言っておる」
す、と少年が切れ長の目を細め、一触即発といった雰囲気が漂い始める。
翡翠さんも嘉月さんも、固唾を呑んで状況を窺っているようで。一方の私はと言えば、半ば途方に暮れていた。
「あ、あのう……」
これから果たして、どうするべきか。先行き不透明なまま、私は発言の許可を求めて恐る恐る手を挙げる。
――拝啓、天国のおばあちゃん。野一色彩梅は今、せっかく引っ越してきた『家』から、追い出される危機に直面しています。
そもそも、どうしてこんなことになったのか――その発端は、数時間前に遡る。
「ああ、疲れた……」
昼下がりの尾道駅の前で、私はがっくりと肩を落としていた。
園山家の屋敷、つまりは神威さんたちの屋敷に住み始めてから、一ヶ月。私は、新たに始まった大学生活、そして青宝神社とその奥にあるレストランでのアルバイトのやりくりで、少してんてこ舞いになっていた。
何せ、この尾道に越してきて新生活をスタートさせたばかりだったし、ただでさえバイト先では色々非現実的なことが起こるうえ、大学生活という現実的な人生イベントも発生している訳で。
体が重い。足が重い。でも熱は出ていないし、風邪の症状もない。
要するに、ただの疲れだ。
「まだお昼の二時よ。大丈夫? 彩梅」
ふと傍らから声がかかる。
艶やかな肩までの黒髪に白い肌、うっすらピンク色の唇、切れ長の黒くて大きな目。整った顔立ちの、まごうことなき美少女に顔を覗き込まれ、私はコクコクと頷いた。
彼女は永倉澪。大学で必修科目が一緒の同級生だ。とても綺麗な子で、今も白いシャツに黒いワイドパンツというシンプルな格好だけれど、まるでモデルのように見える。
光栄にもあちらから声をかけてきてくれて、こうして一緒に出かけたりもする友達となったけれど。いつ見ても美少女すぎて、見慣れたはずの今でもつい見惚れてしまう。
「う、うん。ぼーっとしててごめんね、澪」
「いや、全然謝ることじゃないけど。とりあえず、午後の講義が休講になってよかったわね。疲れてるなら」
微笑みながら言われた言葉を聞きつつ、私はうんうんと頷いた。
「いやー、ほんとによかった。友達とまたこうして散策できる日が来るなんて……!」
高校時代までの私からは想像もできなかったことだ。何一つ気兼ねせず、不安がらずに友達と外を歩けるなんて。
「え?」
「あ、ううん、なんでもない」
キョトンとした顔をされ、私は慌てて誤魔化し笑いをしながら手を左右に振る。思わず気が抜けていたけど、まさか言える訳がない。
私が『不幸体質』だなんて。
何もしていないのに持ち物が壊れるなんて日常茶飯事だった。他にも何度も詐欺に遭いかけたり、小動物が目の前で事切れたり。周囲に気味悪がられるくらい、色々と「運が悪い」出来事がいつも私の周りにはついて回っていたのだけれど。
今お世話になっているバイト先のおかげで、それもめっきり起こらなくなっていた。
ああ、なんて幸せ……!
「それはそうと……折角だし、アイス最中でも食べにいく?」
不幸な目に遭わないで済むありがたさにしみじみと浸る私へ、澪が嬉しい提案をしてくれる。その言葉で、疲れからくるだるさが少し吹っ飛んだ。
「食べる!」
「じゃあ、行きましょうか」
そんな訳で私たちは、尾道駅前から歩き出し、ゆっくり東の方角へ向かう。
左手には、山の斜面に住宅が連なる尾道の街並み。目の前には、商店街の入り口に繋がる道。そして右手へ行った方には、穏やかな瀬戸内海の尾道水道がある。
尾道水道は、本州にある尾道と対岸の向島に挟まれた狭い水路で、「海の川」と呼ばれることもある。
この水道と、大宝山・愛宕山・瑠璃山の「尾道三山」に囲まれた空間には、多くの寺社や家々が密集していて、その間に路地と坂道が張り巡らされている。そんな尾道を代表する景色が、今私の左手にある。
私たちはその反対側、尾道水道の方へ向かう。アーケードから海側の道路沿いへ出たところに、手作りアイスクリームのお店があるのだ。
お店の中に入り、私たちはアイス最中をそれぞれ一つずつ買う。
「これ、すぐそこの海のそばで食べない?」
「いいね!」
澪の提案に私は頷き、わくわくしながら彼女の後を追って海沿いの遊歩道に向かう。
爽やかな海風を感じながらひんやりとしたアイス最中を持ち、ベンチに座ってゆったりとさざ波に揺れる海原を見つめる……うん、なんて至福な時間だろう。
「アイス最中と海って、なんか合うなあ」
綺麗な八角形をした黄色い最中の皮を一口齧れば、上品な味わいのとろりとしたたまごアイスが、じんわりと口の中に広がる。
パリッと香ばしい最中の食感と、冷たく滑らかな卵とミルクの味わいのハーモニーがたまらない。コクのある味ながら、アイス自体はのど越し良くさっぱりとしていて、するすると食べられる逸品だ。
「これ、もう一個いけたかも」
「清々しい食べっぷりね」
私の隣では、澪が目を細めながらアイスクリームを齧る。彼女が食べている抹茶アイスの最中も美味しそうで、次はあれにしようと私は密かに企てた。
あまりの美味しさに、あっという間に私たちはアイス最中を食べ終わる。
しばらくのんびりと海原と、その上を飛ぶ白い鳥を眺めていると、ふと澪が口を開いた。
「彩梅、バイト何時からだっけ?」
「あ、ええと、大学終わり次第来れるときにってなってるから、きっちり決まってる訳じゃなくて」
「随分柔軟なバイト先ね」
「そうかも」
まあその代わり、神様やらあやかしやらもやってくる、というか従業員も神様と人神様とあやかししかいない、癖のあるバイト先でもあるのだけど……。そうは言えず、私はこくりと頷いた。
「ま、それなら疲れ取れてから行きなよ」
そう言って空を見上げること数秒。澪はふいに「あ」と呟いた。
「用事あったの忘れてた……ごめんね、私ちょっと行かなくちゃ」
ひょいとベンチから立ち上がり、澪が申し訳なさそうな表情で手を合わせる。
「ごめん、用事あったんだ? 待って、途中まで送ってくよ」
そう言う私の額に、澪はにこりと笑って人差し指をトンと突きつける。そうして私をベンチに座り直させ、彼女はゆっくりと首を振った。
「いいのいいの、彩梅ものすごく疲れてるし、もうすぐそこだから。じゃあ、また明日ね」
「あ、うん、また明日」
私はぼんやりとその姿を見送る。立ち上がらなきゃとは思ったのだけど、確かにどっと疲れがのしかかってきていて、少ししんどくて。
「ちょっと休もうかな……」
私はぼやいて、ベンチの上に座ったまま両目をつぶる。こうしていると、潮風を頬に感じて気持ちいい。
そのままの状態で座ること、約数分ほど。
「……おい、大丈夫か?」
近くで何やら聞き覚えのある声がして、私はばっと目を見開いた。
「か、神威さん⁉」
白いTシャツに紺の春物のマウンテンパーカー、黒いズボンという出で立ち。そんなシンプルな服でもファッション誌に載れるのではというくらい洗練された青年が、私の目の前に立っている。
「え、あの、どうしてここに」
「食材の買い出しに。あんたは?」
神威さんはひらりと買い物袋を空中で揺らして見せる。
「いや、すみません、今日ラストの講義が休講になったので、ちょっとアイスを食べて休憩していこうと……」
言い訳をし、冷や汗をかきながら立ち上がろうとすると「まだ座ってろ」と止められた。
「いや、神威さんが立ちっぱなしなのに、私だけ座りっぱなしという訳には」
「大丈夫か」
「はい?」
私は首を傾げる。何が?
「具合、悪いのか?」
ぼそりと、そんな声が落ちてきた。私は慌てて声の主である神威さんを見上げる。
「いえいえいえ、具合が悪いっていうほどじゃ」
この状況に既視感を覚えながら、私は慌てて頭を振った。
そう。少し前、この地に来たばかりの頃。私は、神威さんとその仲間たちに助けてもらったことがある。
体が重く、不眠気味で、それでも食欲は異常にあって。今思えば、過食傾向にあったときの話だ。そんな私に彼らは、青宝神社の奥にある不思議なレストラン『招き猫』で、『思い出のメニュー』を作って救ってくれた。
今目の前にいるこの青年は、人間でありながら神格を与えられた『人神』様だった。
彼は人の『思い出のメニュー』と、それにまつわる記憶を読み取ることができる、凄い能力を持っている。その記憶から再現した料理を食べれば、忘れてしまった大切な記憶を思い出せる……という寸法だ。
私もかつてそれに救われたのだけど、今はあのときほど気分はどん底ではない。
「この通り、ピンピンしてますよ!」
さっき、じっと目を閉じて休んだから少し回復したかも。
私は「前へならえ」の先頭のように、腰に手を当て胸を張って、元気さをアピールしてみた。
「顔が疲れてるけどな」
「まじですか」
バッサリと指摘され、私は慌てて自分の頬に手をやる。なんと、不覚。
「疲れている」と指摘された顔を、この美青年にさらすのは忍びない。というより、はっきり言って恥ずかしい。
「神威さんは……疲れてるところですら絵になりそうですよね」
つくづく人生は、不公平だ。
「さっきから何言ってんだ?」
神威さんが深々とため息をつきながら肩を落とす。どうやら呆れさせてしまったらしい。
「疲れてるんだよ、あんた。いきなり環境が変わったしな」
ダメ押しでそう言われ、私は腕組みをしてきゅっと口を引き結ぶ。
「いえ、もっと苦労している人たちはたくさんいますし。私なんて甘ちゃんです。住居も提供してもらってるし、毎日美味しいものは食べられるし、バイトだってさせてもらってますし」
それに、神威さんたちの屋敷に住み込みさせてもらっている費用はアルバイト代から天引きされるので、「払っている」という感覚が薄い。
本当にちゃんと住居費用、差し引いてくれてるんだよね?
そのことを問うと、神威さんは即答した。
「それは心配ない。金銭周りは嘉月が担当だ」
「あ、それは本当に心配ないですね。安心しました」
私は頷きながら、黒縁眼鏡の青年の姿を思い出す。
あの知的な美青年、もとい八咫烏のあやかしでもある嘉月さんは、なぜか私にだけ厳しい。私に関する計算、絶対に間違えたりしなさそう……。
「それはともかく、『甘ちゃん』じゃないだろ」
「え」
「あんたが色んなことを乗り越えてきたのを俺たちは知っているし、そもそも『自分より他の人の方が』って比べ方は良くない。自分は自分、他人は他人。辛さを比べることに、意味はない」
言葉を切って、神威さんは海原を見つめてまた口を開く。
「そのときの自分だって、確かに『苦しい』んだ。自分を必要以上に卑下するのはやめろ」
普段はあまり積極的に長文で喋らない神威さんが、めちゃめちゃ喋っている。私はその言葉を頭の中でぼんやりと反芻した。
「聞いてるか?」
「あ、はい、もちろん」
あまりにぼうっとしているように見えたのか、怪訝そうな顔をされてしまった。私は慌てて頷く。
「いや、『卑下するな』っていうのは言葉が強すぎるな。何と言ったらいいか、こう……」
何やら悩み出す神威さん。どうやらしっくりくる言葉を探して逡巡しているらしい。
そんなに悩まなくても、誤解しないのに。言いたいこと、伝えてくれようとしたことは、十二分に伝わっているのだから。
優しくて、そして不器用な人だ。本当に。
「よし、疲れ取れました! お待たせしてすみません、行きましょう」
すっくと私が立ち上がると、神威さんは疑り深そうな目で私をじろりと見下ろした。
視線にたじろぐ私、落ちる沈黙。
「あのー……」
「そんなにすぐ疲れが取れる訳があるか。今日はバイトも休め」
にべもなくそう言ってから、神威さんはすたすたと歩き出した。
「え、あの」
「屋敷に帰るぞ」
顔だけ肩越しに振り返ってそう言われたけれど、そういう訳にはいかない。
「あの、働けますって!」
「休め。帰るぞ」
長いコンパスでこちらまで数歩で戻り、神威さんが私の肩掛け鞄をぐいと取り上げる。そして取り付く島もなく、彼は無言で歩き出した。
「神威さん、ちょ、鞄! 自分で持ちますので……!」
取られてしまった鞄に手を伸ばし、返してくださいと呼びかけながら、私は走って神威さんの後を追いかけた。
屋敷に帰るとは言いつつも、バイト先である青宝神社に向かうのと屋敷に向かうのとで、実は道のりは一緒だったりする。青宝神社と園山家の屋敷は、全く別の場所にあるはずなのに、だ。
これには理由がある。最近やっと慣れたけれど、最初は腰を抜かすほど驚いた。
「あ、お帰りー」
「お二人とも、お帰りなさいませ。早かったですね」
青宝神社の鳥居をくぐると、翡翠さんと嘉月さんが境内を掃除していた。二人とも、白い小袖に水色の袴姿だ。
茶髪の童顔美少年である翡翠さんと、黒髪の眼鏡イケメン姿である嘉月さん。この二人の袴姿も、いつもながら眼福な光景だ。
これが片や恐ろしいほど長寿の『猫』の神様と、片や千里眼の能力を持つ八咫烏だなんて、何も知らない人から見れば信じられない事実だろう。
……のだけれど、実際この神社で、このメンバーで、私は巫女の助務――つまりアルバイトをさせてもらっている。
きっかけは、約一ヶ月前。大学入学を控えた私が、亡き祖母との思い出の地、ここ尾道に来たばかりの頃だ。内心で祖母の死をずっと引きずっていた私は、祖母との記憶や、幼い頃一緒に食べた料理のことも忘れてしまっていた。
しかし神威さんたちの作ってくれた『思い出のメニュー』でそれを思い出し、心から救われた。その後私は、「その不幸体質もなんとかすることができるから」と巫女の助務の話を持ちかけられたのだ。
そう、私の抱えていた不幸体質は、私が『あやかしに愛される体質』であったせいだと分かり。
そんな厄介者の私をこのメンバーは受け入れ、彼らの屋敷で同居までさせてくれている。
「遅くなってすみません。今日もよろしくお願いいたします」
「いや、屋敷に帰れっつっただろ。仕事しようとすんな」
神威さんが私の鞄を持ったまま、私の服の袖を掴んでぐいぐいと社殿の方へ引っ張っていこうとする。
「いえ、仕事します! バイトさせていただきます!」
「帰れ」
鞄を取り返そうとすると、さらりと体を翻される。私が歯噛みしてもう一度不意をついても、結果は同じ。もう何度、この試みに敗れたことか。
「……僕たちはいったい、何を見せられているんでしょうか」
「さあ……痴話喧嘩かな?」
「違う」「違います!」
翡翠さんの聞き捨てならない言葉に、鞄を巡って攻防を繰り広げていた神威さんと私は同時に噛み付いた。
「じゃあ何してんの、二人とも」
「具合なんて悪くないのに、神威さんが休めって言うから」
「明らかに不調なのに、こいつが働くって言って聞かないから」
「あーはいはい、分かった分かった」
パンと一度高らかに手を打ち鳴らし、翡翠さんが私と神威さんの言い合いに終止符を打つ。私たちは互いを見遣ったまま口をつぐんだ。
「まず、彩梅ちゃん」
「は、はい」
にっこりと翡翠さんが満面の笑みを浮かべる。有無を言わさぬ、完璧な笑みだ。
「土日平日ひっきりなしに掃除やら料理やらお客様たちの相手をして、大学生活もこなして……って、そりゃ誰でもバテるよ。ただでさえ、この神社に来るのは人間だけじゃないし、気力も体力も奪われるんだから。君は働きすぎ」
「いえ、でも」
それは翡翠さんたちも同じでは?
「うん? 休もうね?」
満面の笑みが、更に深くなる。その柔らかな風貌にそぐわない、容赦ないほど鋭い声が彼の口から飛び出してきて、私は思わず言葉に詰まった。
遥か昔、神威さんのご先祖様に神格を与えて『人神』にした、『猫』の神様。そんな彼からぴしゃりと言われれば、黙るしかない。
「返事は?」
「……はい」
普段は飄々としているけれど、いざとなったときの翡翠さんは怖い。怖すぎる。私は完全に気圧され、こくこくと頷いた。
「うん、よろしいよろしい」
満面の笑みのまま頷く翡翠さんを前に、私の隣にいた神威さんがこちらを横目で見て「ほら見ろ」と呟く。私はキッとその涼しげな顔を黙って見上げた。
「それから神威」
「なんだ」
私とにらめっこをしていた神威さんが、翡翠さんに向き直る。
「あんまり千里眼を嘉月に使わせると、今度は嘉月がバテるよ。ほどほどにしたげて」
翡翠さんの言葉に、神威さんが片眉を少し上げ、そのまま固まった。
私はそんな彼と嘉月さんを見比べる。翡翠さんはいったい、何を言っているのだろうか。
嘉月さんの千里眼は、遠くを見通すことができる力だ。水面など何か景色を映せるものがあれば、そこに見たものを映し、他人に示すこともできる。
そしてその力は人間の体力と同じく、無尽蔵ではない。あまり使いすぎると体力を消耗するのだそうだ。翡翠さんが言っているのは、そういうことだろう。
でも、最近そんなに力を使う場面あったっけ?
「別に、彩梅さんのためじゃないですからね」
「はい?」
眼鏡を押し上げながら言い放つ嘉月さんの言葉に、私は首を傾げた。
「嘉月」
神威さんに睨まれた嘉月さんは、しずしずと詫びの言葉を入れる。
「失礼いたしました、主」
その直後、なぜか私は嘉月さんからちらりと鋭い一瞥を食らった。
気のせいだろうか。最近、嘉月さんから鋭い視線を食らう頻度がますます高くなっているような……って、ひょっとして。
私はそこで腑に落ちたことがあって、ぽんと手を打った。
「ああ、なるほど」
「ん?」
私の隣で、神威さんが片眉をもう一段階、上に上げる。
「いや、タイミング良すぎだと思ったんですよね。私が寄り道したときに限って、街を歩いてる神威さんと会うって」
「……」
神威さんは明後日の方向を向いたまま、無言を貫く姿勢だ。否定しないらしい。
「嘉月さん、私が寄り道しているのを千里眼で知っていたんですよね、きっと……それで」
サボっていると思って告げ口しましたね、と言いかけて私は口をつぐむ。「告げ口したな」という言い方は良くない。そもそもバイト前に寄り道していた私が悪いのだし。
ああ、じわじわと罪悪感が胸に広がる。自業自得だけど。
「『それで』の後、何か失礼なことを考えませんでした?」
げ、思考回路がバレている。私の背中を冷や汗が伝った。
「いえ、あの……寄り道が叱られると思って思考逃避してました。すみません」
「その潔い謝り方、正直すぎてちょっと怖いです」
嘉月さんに引かれてしまった。
「というより、なぜそちらに思考がいくのですか……僕はそんなに鬼畜じゃありません」
「え、そうなの?」
「翡翠くんまで同調しないでください」
大きなため息をつき、嘉月さんが鷹揚に腕を組む。
「そもそも、彩梅さんの勤務時間は特に決まっていないのですから。来たいときに来る、でいいんですよ。なんならあなた、大学生が勤しんでいる宴会にも行きませんし、課外活動の集まりにも入っていないじゃないですか」
『課外活動の集まり』とは。そのワードに首をひねった数秒後、はたと思い当たって私は予想を口にする。
「ひょっとして、サークル活動のことをおっしゃってます?」
「ああ、それです。どうも若者言葉は苦手で」
サークル活動って、若者言葉なのかな。そんなことをぼんやり思う私をよそに、嘉月さんは大きなため息をついた。
「で。なぜその『さーくる活動』とやらに、入らないのです?」
なぜと言うか、何と言うか。そもそも私がこの地に来た理由の一つは、民俗学や民話に興味があったからだ。尾道にはそうした逸話がたくさん残っていて、それを学ぶためにはどこかのサークルに入るという手もあったけれど。
「青宝神社に居た方が直接色んな話が聞けますし……」
何せ、神様やあやかしが直接やって来るのだもの。
それに、少しでも長く神威さんたちの仕事の手伝いがしたいし。ここに居られる時間を、とてつもなく大事に思っている自分がいるのだ。
「何をブツブツ言ってるんですか。はっきりお言いなさい」
嘉月さんの言葉の端々に、何やらちりっとしたものを感じる。なんだか機嫌が悪いな、と思ったところで思い当たる節があり、私は恐る恐る右手を小さく挙げた。
「あの、ひょっとして、サークルに入った方がいいんですか?」
「ええ。そちらの方が望ましいですね。僕としては」
「何でですか……?」
嘉月さんは「何を分かり切ったことを」と言わんばかりの視線を私に投げかける。
「決まっているでしょう。あなたが課外活動に出れば、神社にやってくる時間が遅くなる。つまり、主との時間をより多く、僕は持てる訳です。あなたよりも」
「はあ」
本当にブレないな、この人。
嘉月さんは神威さんに絶対的な信頼を置き、忠誠を誓っている。つまりは『主』第一主義なのだ。そして私は、なぜだか彼にライバル視されている。
「儂の正体を当てられねば、この娘にはこの屋敷から出て行ってもらう」
季節は五月、初夏の差しかかり。一ヶ月前から住まわせてもらっている園山家の屋敷の中で、私は面と向かってそう言われ――部屋の空気が静まり返った。
発言の主は、私よりも背の低い少年だった。白い水干に濃い緋色の狩袴。滑らかな長い黒髪を後ろに垂らし、五色の紐でひとくくりにしている、見慣れない少年。
「ええと……」
「おい。今更出てきて、それはないだろう」
少年の言葉を受けてたじろぐ私の横に、ずいと神威さんが進み出る。
凛とした目を鋭くすがめる彼の表情は、その整った造形も相まって凄みが増していた。
「この家の当主は俺なのに、何でお前が出てくる」
「儂を敵に回すか、人神よ」
「敵に回すかどうかとか、そういう問題じゃない。何で反対なのかって聞いてんだ」
「反対ではない。『見定め』と言っておる」
す、と少年が切れ長の目を細め、一触即発といった雰囲気が漂い始める。
翡翠さんも嘉月さんも、固唾を呑んで状況を窺っているようで。一方の私はと言えば、半ば途方に暮れていた。
「あ、あのう……」
これから果たして、どうするべきか。先行き不透明なまま、私は発言の許可を求めて恐る恐る手を挙げる。
――拝啓、天国のおばあちゃん。野一色彩梅は今、せっかく引っ越してきた『家』から、追い出される危機に直面しています。
そもそも、どうしてこんなことになったのか――その発端は、数時間前に遡る。
「ああ、疲れた……」
昼下がりの尾道駅の前で、私はがっくりと肩を落としていた。
園山家の屋敷、つまりは神威さんたちの屋敷に住み始めてから、一ヶ月。私は、新たに始まった大学生活、そして青宝神社とその奥にあるレストランでのアルバイトのやりくりで、少してんてこ舞いになっていた。
何せ、この尾道に越してきて新生活をスタートさせたばかりだったし、ただでさえバイト先では色々非現実的なことが起こるうえ、大学生活という現実的な人生イベントも発生している訳で。
体が重い。足が重い。でも熱は出ていないし、風邪の症状もない。
要するに、ただの疲れだ。
「まだお昼の二時よ。大丈夫? 彩梅」
ふと傍らから声がかかる。
艶やかな肩までの黒髪に白い肌、うっすらピンク色の唇、切れ長の黒くて大きな目。整った顔立ちの、まごうことなき美少女に顔を覗き込まれ、私はコクコクと頷いた。
彼女は永倉澪。大学で必修科目が一緒の同級生だ。とても綺麗な子で、今も白いシャツに黒いワイドパンツというシンプルな格好だけれど、まるでモデルのように見える。
光栄にもあちらから声をかけてきてくれて、こうして一緒に出かけたりもする友達となったけれど。いつ見ても美少女すぎて、見慣れたはずの今でもつい見惚れてしまう。
「う、うん。ぼーっとしててごめんね、澪」
「いや、全然謝ることじゃないけど。とりあえず、午後の講義が休講になってよかったわね。疲れてるなら」
微笑みながら言われた言葉を聞きつつ、私はうんうんと頷いた。
「いやー、ほんとによかった。友達とまたこうして散策できる日が来るなんて……!」
高校時代までの私からは想像もできなかったことだ。何一つ気兼ねせず、不安がらずに友達と外を歩けるなんて。
「え?」
「あ、ううん、なんでもない」
キョトンとした顔をされ、私は慌てて誤魔化し笑いをしながら手を左右に振る。思わず気が抜けていたけど、まさか言える訳がない。
私が『不幸体質』だなんて。
何もしていないのに持ち物が壊れるなんて日常茶飯事だった。他にも何度も詐欺に遭いかけたり、小動物が目の前で事切れたり。周囲に気味悪がられるくらい、色々と「運が悪い」出来事がいつも私の周りにはついて回っていたのだけれど。
今お世話になっているバイト先のおかげで、それもめっきり起こらなくなっていた。
ああ、なんて幸せ……!
「それはそうと……折角だし、アイス最中でも食べにいく?」
不幸な目に遭わないで済むありがたさにしみじみと浸る私へ、澪が嬉しい提案をしてくれる。その言葉で、疲れからくるだるさが少し吹っ飛んだ。
「食べる!」
「じゃあ、行きましょうか」
そんな訳で私たちは、尾道駅前から歩き出し、ゆっくり東の方角へ向かう。
左手には、山の斜面に住宅が連なる尾道の街並み。目の前には、商店街の入り口に繋がる道。そして右手へ行った方には、穏やかな瀬戸内海の尾道水道がある。
尾道水道は、本州にある尾道と対岸の向島に挟まれた狭い水路で、「海の川」と呼ばれることもある。
この水道と、大宝山・愛宕山・瑠璃山の「尾道三山」に囲まれた空間には、多くの寺社や家々が密集していて、その間に路地と坂道が張り巡らされている。そんな尾道を代表する景色が、今私の左手にある。
私たちはその反対側、尾道水道の方へ向かう。アーケードから海側の道路沿いへ出たところに、手作りアイスクリームのお店があるのだ。
お店の中に入り、私たちはアイス最中をそれぞれ一つずつ買う。
「これ、すぐそこの海のそばで食べない?」
「いいね!」
澪の提案に私は頷き、わくわくしながら彼女の後を追って海沿いの遊歩道に向かう。
爽やかな海風を感じながらひんやりとしたアイス最中を持ち、ベンチに座ってゆったりとさざ波に揺れる海原を見つめる……うん、なんて至福な時間だろう。
「アイス最中と海って、なんか合うなあ」
綺麗な八角形をした黄色い最中の皮を一口齧れば、上品な味わいのとろりとしたたまごアイスが、じんわりと口の中に広がる。
パリッと香ばしい最中の食感と、冷たく滑らかな卵とミルクの味わいのハーモニーがたまらない。コクのある味ながら、アイス自体はのど越し良くさっぱりとしていて、するすると食べられる逸品だ。
「これ、もう一個いけたかも」
「清々しい食べっぷりね」
私の隣では、澪が目を細めながらアイスクリームを齧る。彼女が食べている抹茶アイスの最中も美味しそうで、次はあれにしようと私は密かに企てた。
あまりの美味しさに、あっという間に私たちはアイス最中を食べ終わる。
しばらくのんびりと海原と、その上を飛ぶ白い鳥を眺めていると、ふと澪が口を開いた。
「彩梅、バイト何時からだっけ?」
「あ、ええと、大学終わり次第来れるときにってなってるから、きっちり決まってる訳じゃなくて」
「随分柔軟なバイト先ね」
「そうかも」
まあその代わり、神様やらあやかしやらもやってくる、というか従業員も神様と人神様とあやかししかいない、癖のあるバイト先でもあるのだけど……。そうは言えず、私はこくりと頷いた。
「ま、それなら疲れ取れてから行きなよ」
そう言って空を見上げること数秒。澪はふいに「あ」と呟いた。
「用事あったの忘れてた……ごめんね、私ちょっと行かなくちゃ」
ひょいとベンチから立ち上がり、澪が申し訳なさそうな表情で手を合わせる。
「ごめん、用事あったんだ? 待って、途中まで送ってくよ」
そう言う私の額に、澪はにこりと笑って人差し指をトンと突きつける。そうして私をベンチに座り直させ、彼女はゆっくりと首を振った。
「いいのいいの、彩梅ものすごく疲れてるし、もうすぐそこだから。じゃあ、また明日ね」
「あ、うん、また明日」
私はぼんやりとその姿を見送る。立ち上がらなきゃとは思ったのだけど、確かにどっと疲れがのしかかってきていて、少ししんどくて。
「ちょっと休もうかな……」
私はぼやいて、ベンチの上に座ったまま両目をつぶる。こうしていると、潮風を頬に感じて気持ちいい。
そのままの状態で座ること、約数分ほど。
「……おい、大丈夫か?」
近くで何やら聞き覚えのある声がして、私はばっと目を見開いた。
「か、神威さん⁉」
白いTシャツに紺の春物のマウンテンパーカー、黒いズボンという出で立ち。そんなシンプルな服でもファッション誌に載れるのではというくらい洗練された青年が、私の目の前に立っている。
「え、あの、どうしてここに」
「食材の買い出しに。あんたは?」
神威さんはひらりと買い物袋を空中で揺らして見せる。
「いや、すみません、今日ラストの講義が休講になったので、ちょっとアイスを食べて休憩していこうと……」
言い訳をし、冷や汗をかきながら立ち上がろうとすると「まだ座ってろ」と止められた。
「いや、神威さんが立ちっぱなしなのに、私だけ座りっぱなしという訳には」
「大丈夫か」
「はい?」
私は首を傾げる。何が?
「具合、悪いのか?」
ぼそりと、そんな声が落ちてきた。私は慌てて声の主である神威さんを見上げる。
「いえいえいえ、具合が悪いっていうほどじゃ」
この状況に既視感を覚えながら、私は慌てて頭を振った。
そう。少し前、この地に来たばかりの頃。私は、神威さんとその仲間たちに助けてもらったことがある。
体が重く、不眠気味で、それでも食欲は異常にあって。今思えば、過食傾向にあったときの話だ。そんな私に彼らは、青宝神社の奥にある不思議なレストラン『招き猫』で、『思い出のメニュー』を作って救ってくれた。
今目の前にいるこの青年は、人間でありながら神格を与えられた『人神』様だった。
彼は人の『思い出のメニュー』と、それにまつわる記憶を読み取ることができる、凄い能力を持っている。その記憶から再現した料理を食べれば、忘れてしまった大切な記憶を思い出せる……という寸法だ。
私もかつてそれに救われたのだけど、今はあのときほど気分はどん底ではない。
「この通り、ピンピンしてますよ!」
さっき、じっと目を閉じて休んだから少し回復したかも。
私は「前へならえ」の先頭のように、腰に手を当て胸を張って、元気さをアピールしてみた。
「顔が疲れてるけどな」
「まじですか」
バッサリと指摘され、私は慌てて自分の頬に手をやる。なんと、不覚。
「疲れている」と指摘された顔を、この美青年にさらすのは忍びない。というより、はっきり言って恥ずかしい。
「神威さんは……疲れてるところですら絵になりそうですよね」
つくづく人生は、不公平だ。
「さっきから何言ってんだ?」
神威さんが深々とため息をつきながら肩を落とす。どうやら呆れさせてしまったらしい。
「疲れてるんだよ、あんた。いきなり環境が変わったしな」
ダメ押しでそう言われ、私は腕組みをしてきゅっと口を引き結ぶ。
「いえ、もっと苦労している人たちはたくさんいますし。私なんて甘ちゃんです。住居も提供してもらってるし、毎日美味しいものは食べられるし、バイトだってさせてもらってますし」
それに、神威さんたちの屋敷に住み込みさせてもらっている費用はアルバイト代から天引きされるので、「払っている」という感覚が薄い。
本当にちゃんと住居費用、差し引いてくれてるんだよね?
そのことを問うと、神威さんは即答した。
「それは心配ない。金銭周りは嘉月が担当だ」
「あ、それは本当に心配ないですね。安心しました」
私は頷きながら、黒縁眼鏡の青年の姿を思い出す。
あの知的な美青年、もとい八咫烏のあやかしでもある嘉月さんは、なぜか私にだけ厳しい。私に関する計算、絶対に間違えたりしなさそう……。
「それはともかく、『甘ちゃん』じゃないだろ」
「え」
「あんたが色んなことを乗り越えてきたのを俺たちは知っているし、そもそも『自分より他の人の方が』って比べ方は良くない。自分は自分、他人は他人。辛さを比べることに、意味はない」
言葉を切って、神威さんは海原を見つめてまた口を開く。
「そのときの自分だって、確かに『苦しい』んだ。自分を必要以上に卑下するのはやめろ」
普段はあまり積極的に長文で喋らない神威さんが、めちゃめちゃ喋っている。私はその言葉を頭の中でぼんやりと反芻した。
「聞いてるか?」
「あ、はい、もちろん」
あまりにぼうっとしているように見えたのか、怪訝そうな顔をされてしまった。私は慌てて頷く。
「いや、『卑下するな』っていうのは言葉が強すぎるな。何と言ったらいいか、こう……」
何やら悩み出す神威さん。どうやらしっくりくる言葉を探して逡巡しているらしい。
そんなに悩まなくても、誤解しないのに。言いたいこと、伝えてくれようとしたことは、十二分に伝わっているのだから。
優しくて、そして不器用な人だ。本当に。
「よし、疲れ取れました! お待たせしてすみません、行きましょう」
すっくと私が立ち上がると、神威さんは疑り深そうな目で私をじろりと見下ろした。
視線にたじろぐ私、落ちる沈黙。
「あのー……」
「そんなにすぐ疲れが取れる訳があるか。今日はバイトも休め」
にべもなくそう言ってから、神威さんはすたすたと歩き出した。
「え、あの」
「屋敷に帰るぞ」
顔だけ肩越しに振り返ってそう言われたけれど、そういう訳にはいかない。
「あの、働けますって!」
「休め。帰るぞ」
長いコンパスでこちらまで数歩で戻り、神威さんが私の肩掛け鞄をぐいと取り上げる。そして取り付く島もなく、彼は無言で歩き出した。
「神威さん、ちょ、鞄! 自分で持ちますので……!」
取られてしまった鞄に手を伸ばし、返してくださいと呼びかけながら、私は走って神威さんの後を追いかけた。
屋敷に帰るとは言いつつも、バイト先である青宝神社に向かうのと屋敷に向かうのとで、実は道のりは一緒だったりする。青宝神社と園山家の屋敷は、全く別の場所にあるはずなのに、だ。
これには理由がある。最近やっと慣れたけれど、最初は腰を抜かすほど驚いた。
「あ、お帰りー」
「お二人とも、お帰りなさいませ。早かったですね」
青宝神社の鳥居をくぐると、翡翠さんと嘉月さんが境内を掃除していた。二人とも、白い小袖に水色の袴姿だ。
茶髪の童顔美少年である翡翠さんと、黒髪の眼鏡イケメン姿である嘉月さん。この二人の袴姿も、いつもながら眼福な光景だ。
これが片や恐ろしいほど長寿の『猫』の神様と、片や千里眼の能力を持つ八咫烏だなんて、何も知らない人から見れば信じられない事実だろう。
……のだけれど、実際この神社で、このメンバーで、私は巫女の助務――つまりアルバイトをさせてもらっている。
きっかけは、約一ヶ月前。大学入学を控えた私が、亡き祖母との思い出の地、ここ尾道に来たばかりの頃だ。内心で祖母の死をずっと引きずっていた私は、祖母との記憶や、幼い頃一緒に食べた料理のことも忘れてしまっていた。
しかし神威さんたちの作ってくれた『思い出のメニュー』でそれを思い出し、心から救われた。その後私は、「その不幸体質もなんとかすることができるから」と巫女の助務の話を持ちかけられたのだ。
そう、私の抱えていた不幸体質は、私が『あやかしに愛される体質』であったせいだと分かり。
そんな厄介者の私をこのメンバーは受け入れ、彼らの屋敷で同居までさせてくれている。
「遅くなってすみません。今日もよろしくお願いいたします」
「いや、屋敷に帰れっつっただろ。仕事しようとすんな」
神威さんが私の鞄を持ったまま、私の服の袖を掴んでぐいぐいと社殿の方へ引っ張っていこうとする。
「いえ、仕事します! バイトさせていただきます!」
「帰れ」
鞄を取り返そうとすると、さらりと体を翻される。私が歯噛みしてもう一度不意をついても、結果は同じ。もう何度、この試みに敗れたことか。
「……僕たちはいったい、何を見せられているんでしょうか」
「さあ……痴話喧嘩かな?」
「違う」「違います!」
翡翠さんの聞き捨てならない言葉に、鞄を巡って攻防を繰り広げていた神威さんと私は同時に噛み付いた。
「じゃあ何してんの、二人とも」
「具合なんて悪くないのに、神威さんが休めって言うから」
「明らかに不調なのに、こいつが働くって言って聞かないから」
「あーはいはい、分かった分かった」
パンと一度高らかに手を打ち鳴らし、翡翠さんが私と神威さんの言い合いに終止符を打つ。私たちは互いを見遣ったまま口をつぐんだ。
「まず、彩梅ちゃん」
「は、はい」
にっこりと翡翠さんが満面の笑みを浮かべる。有無を言わさぬ、完璧な笑みだ。
「土日平日ひっきりなしに掃除やら料理やらお客様たちの相手をして、大学生活もこなして……って、そりゃ誰でもバテるよ。ただでさえ、この神社に来るのは人間だけじゃないし、気力も体力も奪われるんだから。君は働きすぎ」
「いえ、でも」
それは翡翠さんたちも同じでは?
「うん? 休もうね?」
満面の笑みが、更に深くなる。その柔らかな風貌にそぐわない、容赦ないほど鋭い声が彼の口から飛び出してきて、私は思わず言葉に詰まった。
遥か昔、神威さんのご先祖様に神格を与えて『人神』にした、『猫』の神様。そんな彼からぴしゃりと言われれば、黙るしかない。
「返事は?」
「……はい」
普段は飄々としているけれど、いざとなったときの翡翠さんは怖い。怖すぎる。私は完全に気圧され、こくこくと頷いた。
「うん、よろしいよろしい」
満面の笑みのまま頷く翡翠さんを前に、私の隣にいた神威さんがこちらを横目で見て「ほら見ろ」と呟く。私はキッとその涼しげな顔を黙って見上げた。
「それから神威」
「なんだ」
私とにらめっこをしていた神威さんが、翡翠さんに向き直る。
「あんまり千里眼を嘉月に使わせると、今度は嘉月がバテるよ。ほどほどにしたげて」
翡翠さんの言葉に、神威さんが片眉を少し上げ、そのまま固まった。
私はそんな彼と嘉月さんを見比べる。翡翠さんはいったい、何を言っているのだろうか。
嘉月さんの千里眼は、遠くを見通すことができる力だ。水面など何か景色を映せるものがあれば、そこに見たものを映し、他人に示すこともできる。
そしてその力は人間の体力と同じく、無尽蔵ではない。あまり使いすぎると体力を消耗するのだそうだ。翡翠さんが言っているのは、そういうことだろう。
でも、最近そんなに力を使う場面あったっけ?
「別に、彩梅さんのためじゃないですからね」
「はい?」
眼鏡を押し上げながら言い放つ嘉月さんの言葉に、私は首を傾げた。
「嘉月」
神威さんに睨まれた嘉月さんは、しずしずと詫びの言葉を入れる。
「失礼いたしました、主」
その直後、なぜか私は嘉月さんからちらりと鋭い一瞥を食らった。
気のせいだろうか。最近、嘉月さんから鋭い視線を食らう頻度がますます高くなっているような……って、ひょっとして。
私はそこで腑に落ちたことがあって、ぽんと手を打った。
「ああ、なるほど」
「ん?」
私の隣で、神威さんが片眉をもう一段階、上に上げる。
「いや、タイミング良すぎだと思ったんですよね。私が寄り道したときに限って、街を歩いてる神威さんと会うって」
「……」
神威さんは明後日の方向を向いたまま、無言を貫く姿勢だ。否定しないらしい。
「嘉月さん、私が寄り道しているのを千里眼で知っていたんですよね、きっと……それで」
サボっていると思って告げ口しましたね、と言いかけて私は口をつぐむ。「告げ口したな」という言い方は良くない。そもそもバイト前に寄り道していた私が悪いのだし。
ああ、じわじわと罪悪感が胸に広がる。自業自得だけど。
「『それで』の後、何か失礼なことを考えませんでした?」
げ、思考回路がバレている。私の背中を冷や汗が伝った。
「いえ、あの……寄り道が叱られると思って思考逃避してました。すみません」
「その潔い謝り方、正直すぎてちょっと怖いです」
嘉月さんに引かれてしまった。
「というより、なぜそちらに思考がいくのですか……僕はそんなに鬼畜じゃありません」
「え、そうなの?」
「翡翠くんまで同調しないでください」
大きなため息をつき、嘉月さんが鷹揚に腕を組む。
「そもそも、彩梅さんの勤務時間は特に決まっていないのですから。来たいときに来る、でいいんですよ。なんならあなた、大学生が勤しんでいる宴会にも行きませんし、課外活動の集まりにも入っていないじゃないですか」
『課外活動の集まり』とは。そのワードに首をひねった数秒後、はたと思い当たって私は予想を口にする。
「ひょっとして、サークル活動のことをおっしゃってます?」
「ああ、それです。どうも若者言葉は苦手で」
サークル活動って、若者言葉なのかな。そんなことをぼんやり思う私をよそに、嘉月さんは大きなため息をついた。
「で。なぜその『さーくる活動』とやらに、入らないのです?」
なぜと言うか、何と言うか。そもそも私がこの地に来た理由の一つは、民俗学や民話に興味があったからだ。尾道にはそうした逸話がたくさん残っていて、それを学ぶためにはどこかのサークルに入るという手もあったけれど。
「青宝神社に居た方が直接色んな話が聞けますし……」
何せ、神様やあやかしが直接やって来るのだもの。
それに、少しでも長く神威さんたちの仕事の手伝いがしたいし。ここに居られる時間を、とてつもなく大事に思っている自分がいるのだ。
「何をブツブツ言ってるんですか。はっきりお言いなさい」
嘉月さんの言葉の端々に、何やらちりっとしたものを感じる。なんだか機嫌が悪いな、と思ったところで思い当たる節があり、私は恐る恐る右手を小さく挙げた。
「あの、ひょっとして、サークルに入った方がいいんですか?」
「ええ。そちらの方が望ましいですね。僕としては」
「何でですか……?」
嘉月さんは「何を分かり切ったことを」と言わんばかりの視線を私に投げかける。
「決まっているでしょう。あなたが課外活動に出れば、神社にやってくる時間が遅くなる。つまり、主との時間をより多く、僕は持てる訳です。あなたよりも」
「はあ」
本当にブレないな、この人。
嘉月さんは神威さんに絶対的な信頼を置き、忠誠を誓っている。つまりは『主』第一主義なのだ。そして私は、なぜだか彼にライバル視されている。
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