尾道 神様の隠れ家レストラン

瀬橋ゆか

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失くした思い出、料理で見つけます

失くした思い出、料理で見つけます-3

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「……疲れました?」

 ロープウェイの中で一息つきながら窓の外にじっと見入っていると、神威さんがぽつりと聞いてきた。

「あ、いえそんなことは」
「そうですか」

 本当のところを言うとなかなか息が上がったけれど、疲れましたというのもなんだかあれだ。私が笑顔で返すと、神威さんは短く呟いたきり、また真顔に逆戻りした。
 そのまま私たちは千光寺公園へ到着。景色を眺めるようなこともせず、神威さんはまた黙って歩き出した。
 さっきからどうしたんだろうか。聞きたいけれど、助けてもらった手前、こちらから図々しくは聞けず悶々としていると、神威さんは木製のベンチの前で立ち止まった。

「まだ何も食べてないですよね?」

 ベンチに座り、背負っていたシンプルな灰色のリュックから何かをごそごそと取り出しながら、神威さんが尋ねてきた。
 尋ねてきたというより、答えが分かっていて形だけ確認してきたような、断定的な口調だった。

「はい」

 その通りなので、私は素直に頷く。

「あの」

 神威さんの隣に座り、続けて言葉をつむぎかけて、私は口をつぐんだ。彼の手元に現れた、タッパーの中身に目を奪われたからだ。
 彼は綺麗な手つきで、てきぱきと『準備』をしていく。さっき買ったばかりの、焼きたてのテーブルロールも取り出して。

「はい、まずは何を挟みます?」

 テーブルロールにパン用のナイフをすっと差し込み、縦に切り目を入れる。ただし、裏面にまですっぱりといかないよう、パンの半分までに留めながら。
 そこに、具を挟むのだ。
 思わず震える手で、私はタッパーの一つを指さした。

「焼きそばが、いいです」
「かしこまりました」

 神威さんが優美な仕草でにこりと笑い、お辞儀をする。彼はタッパーに詰めていた焼きそばを、器用に箸を使ってテーブルロールの切れ目の間にぎっしりと詰めていった。
 隙間なく詰め込みやすい、細麺で一本一本が短めの、濃厚ソースで絡めた野菜たっぷりの焼きそば。

「はい、どうぞ」

 神威さんが私に出来上がった『焼きそばパン』を手渡してくれる。

「い、いただきます」

 私は信じられない気持ちで、恐る恐るそのパンを一口かじった。最初の一口目からダイレクトに焼きそばがたっぷりと口の中に広がる、『特製』ミニ焼きそばパン。
 食べた途端頭の中に、何かで揺さぶられたような衝撃が走る。
 ――ねえおばあちゃん、私これがいい!
 ――ええ? そりゃ失敗作じゃけぇ、もっとちゃんとしたやつの方がええじゃろ?

「『ううん、私、これがいいの』……」

 細麺で、ぶちぶちと切れてしまうけれど、その分ソースがよく染み込むやつ。
 ――だって、その方がソースの味しっかりするし、やきそばたくさん詰められるじゃない!
 ――ああらまあ、彩梅は欲張りさんじゃのぉ。……ふふ、もっとうてええんよ。

「こちらも、それからこのスープもどうぞ」

 用意よく紙皿に取り分けられたもう一つの『パン』と、水筒のカップの中に湯気を立てて揺蕩たゆたっているスープを見て、さらに胸が締め付けられる思いがした。
 ――これ美味しい! サクサクしてる!
 ――喜んでくれる思うとったんじゃ。彩梅は天ぷら、好きじゃろう?

「もちろん、ポテトサラダは天かす入りです」

 呆然としている私のひざに、説明しながら神威さんが紙皿を置く。その上には、今度はポテトサラダを挟んだテーブルロールがちょこんと載っていた。
 それから。

「『食べても食べても、コーンが尽きないコーンスープ』……」

 それは、全部全部。
 おばあちゃんが、私にだけ作ってくれるメニューだった。

『神威さまは凄いんですよ。お客さんの頭の中にあるレシピを引き出して、あらゆる料理を再現する。その人が必要としている料理を、いくつも作っていたんです』

 夢の中で聞いたはずの、嘉月さんのセリフが、頭の中によみがえる。
 そうだ、そうだ。思い出した。どうして今、こんなにはっきりと思い出すのだろう。
 おばあちゃんとの記憶を。
 私は色々なことを、おばあちゃんから教わった。例えば『落ち込んだ時』のための、おまじないのこと。

『辛い時、悲しい時、寂しい時、落ち込んだ時。そがいな時は、出来たての美味しいご飯を食べればええんじゃ。そんで、体あっためてゆうっくり寝る。なんも心配せんでええ、おばあちゃんはどがいなことがあっても、ずうっと彩梅の味方じゃけえ』

 ――そんなことを、私の頭を撫でながら言ってくれたのだ。そして一緒にご飯を食べてくれた後、あったかいお風呂と、お日様の匂いがほんのり香る布団を用意してくれて、一緒に寝てくれたんだっけ。
 普段――私がお母さんとの二人暮らしで東京にいた時は、お母さんは平日夜遅くまで働き、土日はその疲れをまとめて癒すかのように眠るか、自分の部屋にこもるかだった。ずっと一緒に暮らしていたはずなのに、あまり、顔を合わせて『一緒に過ごした』記憶がない。
 落ち込んでも辛くても、それを誰にも打ち明けずに自分の中に閉じ込めて、鎮静化するまで待つことには、慣れっこになっていた。
 だって、お母さんだって私を養うために身をにして働いてくれているんだもの。
 ただでさえ張り詰めて頑張っているお母さんに、愚痴なんて言える訳がなかった。
「ただいま」と、返事の返ってこない挨拶を誰もいない部屋の中に落とし、二人分のご飯を自分で作り、一人で自分の分をもそもそと食べる。一人でお風呂に入り、一人で布団に潜る。それが私にとっての当たり前だった。
 だから、おばあちゃんの『おまじない』は、それはそれは幼心おさなごころに染みた。こんなふうに誰かと過ごすのは、この地で、おばあちゃんの元でしか経験できないことだったから。
 あたたかい『おまじない』が骨の奥までじいんと染みた、あの記憶。それが脳裏に甦る。

「……神威さん、でしたっけ」
「そうですが」

 神威さんがきょとんとした顔をして首を傾げる。不本意だけれど、思わず見入ってしまったくらい綺麗な顔で。

「昨日、伺いました。神威さんはその人にとって『食べる必要がある』メニューを再現できると。……本当にそうなら」

 神威さんは何も言わず、その意志の強そうな大きな瞳でこちらの様子を窺っている。

「――私はまだ、許されていないんでしょうか」

 私は紙皿の上に載った、食べかけの焼きそばパンとポテトサラダパンを見つめながら呟いた。

「許されていない、とは?」

 神威さんが身体をこちらに向けて問い返してくる。どうやらこの人は、人の話を誠実に聞く姿勢を取ってくれる人らしい。

「涙が、出てこないんです」

 あんなに、大好きだったのに。
 長期休暇のたびに預けられる私を優しく出迎え、『ゆっくりしてき』と微笑んで手を握ってくれた手のぬくもり。ゆったりと一緒に尾道の坂道をのぼってくれた祖母の背中。
 調理台の前に立つ背中に何を作っているのか問うと、『できてからのお楽しみ』といたずらっぽく頬を緩めて私の方を振り返った、おばあちゃんの笑顔。
 私の頭の中で、ぼんやりと場面がフラッシュバックしては消えていく。
 ――大好きだったあの人は、もういない。

「涙?」

 後ろからいきなり声が入ってきて、私はびくりと振り向く。

「翡翠さん!」

 いつの間にか後ろに翡翠さんと嘉月さんが立っていた。困り顔の嘉月さんに口を押さえられ、翡翠さんがじたじたともがいている。

「翡翠、お前はちょっと黙ってて」
「ごめんなさい」

 ため息をつきながら、冷静に翡翠さんを睨む神威さん。謝りながら、目に見えて翡翠さんがしょぼくれる。なんだかいたずらが見つかってしゅんとしている猫みたいだ。

「い、いつから」
「ごめん、僕も嘉月もさっきからいたの」

 いつの間にやらそばに立たれていたらしい。全く気付かなかったな、と私は首を傾げた。

「すみません彩梅さん、翡翠くんが突撃してしまいまして」

 心底申し訳なさそうな顔をしながら、深々と頭を下げる嘉月さん。
 あれは夢だったのかもしれない、と思っていた人たちが勢揃いだ。なんだかおかしくなって、私は少しだけ頬を緩める。

「いえ、いいんです。つまらない話ですから」
「つまらなくないから。――あんた、このままいくとやばいぞ」

 先ほどまで敬語だった神威さんが、口調を崩し、低い声できっぱりと言い切る。声のトーンに凄みを感じて、私はぴりっとした空気に思わず体を縮こまらせた。

「や、やばいって、何がですか」
「これ。ほっといたら、もっと食べる気だったろ。あの時点でワッフルとかラーメンとか言ってたしな」

 神威さんが、先ほど私が買い込んだ食品の袋を、静かに揺らした。

「どんどん際限さいげんがなくなる。感覚麻痺まひしてってるだろ、既に」

 感覚が、麻痺。口の中で小さく私は呟いた。

「目のクマもひどい。ちょっと坂を上っただけで、息切れもしてる。最近、変な時間に昼寝とかもしてるんじゃないか? 夜に眠れなくて」
「……どうして」

 まさに言われた通りで、私はうろたえた。確かに変な時間にぽつぽつと昼寝をすることが多くて、まとまった時間で寝られていないのは確かだ。

「見りゃ分かるさ。だからまずいと言ってる。既に食べる量が、身体の限界を越えかけてるんだよ」

 神威さんの言葉に、翡翠さんが首を傾げた。

「でも彩梅ちゃん、スタイルいいよね。とても大食いしている人には」
「だから余計、性質たちが悪いんだよ」

 翡翠さんの言葉をばっさりと神威さんが切り捨てる。そんな様子を見た嘉月さんが、どうにかして場を収めようとおろおろしているのが、私の目にぼんやりと映った。
 ――ああ、この人たち、間違いなく、いい人だ。
 会ったのはつい昨日のことなのに、よく見てくれている。そう思うと同時に、私の唇は震えた。
 この人たちなら、この人たちになら。そう、思ってしまう自分が止められなかった。

「私、昔よく学校とかが長い休みに入るたびに、こっちに住んでいる祖母にお世話になってたんです。……その祖母が、去年亡くなって」

 私が話し始めると、三人は真剣な顔でこちらを向き、口を挟まずに頷いた。

「その告別式、親族代表の言葉が私だったんです。……おばあちゃんへの言葉だから、もの凄く悩んで、精一杯やりきったつもりだったん、ですけど」

 口元が震え、言葉がぷつりと切れる。
 あの時に聞いた言葉が、苦々しさと共に頭の中にこだまする。
 ――お孫さんの言葉なんだけどねえ。一生懸命だったけど、棒読みだったわねえ……。もうちょっとこう、気持ちを込められなかったのかしら。
 ――東京にいたんでしょう? 最近訪ねにも行ってなかったみたいだし、まだ高校生だし、お葬式だってなかなかないでしょうよ。仕方ないんじゃないかねえ。

「……言葉が棒読みだったと、言われていました」

 乾ききった眼球が痛い。目の縁が痛い。私はそれ以上言葉が紡げず、膝の上でギュッと拳を握り締めた。

「一体誰がそんなことを」

 神威さんが苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。

親戚しんせきの方、です。それも私本人に直接言った訳ではなく、会話しているのが聞こえただけですが」

 それでも私の頭に打撃を与えるには十分で。
 あの時。いっぱいいっぱいで、記憶がおぼろげだけれど。
 おばあちゃんとの思い出のエピソードを語るたび、眩暈めまいのような感覚が自分を襲った。悪夢を見て、纏わりついてくる泥の中で必死でもがいているみたいだった。
『今喋っている』自分を保てないと、このままぷつんと言葉が語れなくなるのではと、そんなことを思うくらい。
 気を緩めたら、何かタガが外れてしまいそうで。
 だけど、私が述べたおばあちゃんを見送る言葉は、他人には『ただの棒読み』でしかなかったのだ。それをおばあちゃんの最期に捧げてしまったのだと、悩みと苦しみと後悔が今でも続いている。
 私には、何かが欠けているのだろうか。薄情はくじょうな孫だったのだろうか。
 お別れの言葉ですら、棒読みに響いてしまうほどに。
 そんな思いがぐるぐると頭の片隅でずっと回っている。もう乗り越えていたつもりで、全然乗り越えられていなかった。

「ひどいもんだ。何も、表面に出てくるものが全てじゃないのに」
「だねえ。何かを我慢してるのって、人には分かりにくいのかな」

 神威さんの言葉に頷きながら、翡翠さんが茶目っ気たっぷりにウインクする。

「で、そこから食欲がおかしくなったのか?」
「いえ、元から食べる方ではあったんですけど……そうですね、食べてる時が一番気が紛れるので、ついつい食べるようにはなったかもしれません」

 神威さんの質問に答えると、彼は黙ったまま、自分の髪の毛を乱暴にガシガシとかいた。

「不眠に息切れと疲れ、過食傾向ですか……。確かにそろそろ王手ですね。店主が心配していた通り」

 嘉月さんが眼鏡を押さえ、眉をひそめた。

「心配、ですか?」

 私が首を傾げると、嘉月さんは大真面目な顔で「はい」と深く頷く。

「昨日神威さま、心配してたんですよ。『あれは絶対やばい』って……うぐ」

 神威さんがギロリと睨みながら嘉月さんのほっぺたを引っ張った。

「いやー、普段あんなに食事を作りたがらない店長がねえ。こりゃ珍しい」
「翡翠、お前根も葉もないこと言うな、しかも手の届かないところへ逃げるな!」
「本当のことだもーん」

 ひらりと神威さんの手をかわし、鬼さんこちら、とあっかんべーをする翡翠さん。見た目は大学生くらいのイケメンなのに、その仕草はなんだか少年っぽい。
 神威さんは「あいつら後で覚えてろ」と頭を抱えてその場にフリーズしている。

「あ、あの」
「……あのなあ、あんた。他人の言葉なんてそこまで気にしなくていいんだよ。あんたたちのこと、何も知らない人たちだろう?」
「え?」
「このメニュー見て、食べてどう思った?」

 ほれ、と神威さんが焼きそばパンとポテトサラダパンの皿を私の膝へ置き直す。

「……懐かしいと、思いました。それに……あったかい」

 このメニューには、思い出がたくさん詰まっている。私は食べた瞬間、それをありありと思い出した。
 さっきパン屋さんの『サンモルテ』で既視感を覚えたのは、おばあちゃんがよくパンを買っていた店だったから。
 あのパン屋さんで焼きたてのパンを買って、おばあちゃん特製の焼きそばとポテトサラダを二人でタッパに詰め込んで、二人でロープウェイに乗って、ここまで来る。
 尾道の景色が一望できるこの場所で、二人でパンに具をその場で詰め込み、コーンたっぷりのコーンスープと一緒に味わうのだ。
『楽しいハイキングじゃのぉ』と、おばあちゃんは目を細めて笑っていた。
 その思い出は全部温かいまま、私の心にんでいたのだ。なぜだか、詳しく思い出せなかった思い出が甦ってくる。

「さっきこのメニュー出した時、嬉しそうだった。おばあさんと一緒にいた時、本当に楽しかったんだな」

 神威さんの、淡々としているけれど心のこもった声音こわねに、私は頭をガバッと上げる。そして大きく頷いた。

「……はい! 凄く凄く楽しくて、一緒に出来上がったものをその場で二人で食べられることが嬉しくて……!」

 心が躍って、全ての景色が眩しく見えて。

「ほら、それでいいんだよ」

 ふっと微笑みながら、神威さんが頷いた。思わずどきりとするくらい、優しい笑顔で。

「それで、いいんだ。それだけでいいんだよ。他の人間が何と言おうと、あんたは確かにおばあさんが好きで、それはきっと、いや絶対に、生前の彼女に十分伝わっていたんだから。あんたのその反応が、何よりの証拠」

 言葉を失った私の目の前に、ほら、と言いながら神威さんがお皿を差し出す。
 勧められるがままに、私は焼きそばパンにかぶりついた。
 麺が細麺で柔らかく、ソースがたっぷりと濃厚に絡みつき、焼きたてのパンの香ばしい香りと共に口いっぱいに広がる。わざと大ぶりに切ったキャベツやニンジンは風味豊かで、口の中でしゃくしゃくと新鮮な音を立てる。
 そしてポテトサラダパン。茹で立てのジャガイモを潰して、たっぷりのマヨネーズとざっくり混ぜこんだポテトサラダだ。私の好きなコーンと天かすが入っていて、ザクザクと美味しいハーモニーを奏でる。
 やっぱりそれは、私とおばあちゃんだけが知るレシピだった。

「はい、これも。……それから」

 コーンスープを私に手渡してくれた神威さんは、空を見上げながらぽつりと言った。

「人は本当に悲しい時、涙が出てこないことがある。感じること、思い出すことに、感情自体にブレーキがかかる時がある。……涙が出ない時は出ない、だけど代わりに、出るようになった時は我慢しないで思いっきり出す。それでいいんだ」

 神威さんは不自然なほどこちらを見ない。
 私はそれを不思議に思ったまま、コーンスープを一口飲んだ。

「……からい?」

 思い出の味の中に、何かしょっぱいものが混じっている。
 頬に冷たいものが流れていて、それが手元に持っていたスープに落ちていたのだと理解するのに、時間がかかった。
 ――ああ、私、やっと泣ける。泣けるんだ。
 そう思ったら最後、タガが外れたように止めどなく頬が濡れていく。
『辛い時、悲しい時、寂しい時、落ち込んだ時。そがいな時は、出来たての美味しいご飯を食べればええんじゃ』と、おばあちゃんは言った。
 ――でもねおばあちゃん。その『おまじない』は、それだけじゃ不十分なんだ。
 私はそれを、よく知っている。そう思い返しながら、私は涙でふやけた視界の中でパンとコーンスープを見つめる。
 おばあちゃんは言葉ではなくて、実際の行動でそれを教えてくれた。
 出来たてのご飯、美味しいご飯。確かにそれは幸せを与えてくれるけれど、その内容は正直どんなものだっていいと思う。
 誰か大切な人と一緒に食べるからこそ、ご飯は美味しいのだから。
 そして、私にとって、その『大切な人』は、紛れもなくおばあちゃんだったのだ。
 そこまで思い出すともう駄目だった。堪え切れない嗚咽おえつが、喉の奥から漏れる。
 神威さんはさっきまで目もくれなかった尾道の眺望を見つめ、隣で黙ったまま、私と一緒にご飯を食べてくれた。


「……落ち着きました?」

 しばらくしてからそっと問いかけてきた神威さんの言葉に、私は慌ててごしごしと目をこする。

「は、はい。すみません人前で」

 かれこれ三十分ほどは経っただろうか。今まで涙を出してこられなかった分、存分に泣いたからか、頭の片隅が鈍く痛む。と同時に、段々と冷静になってきた。
 泣きながらパンを食べている人間を見て、周りはどう思っただろうか。

「はい、今日は人目を気にしすぎるの禁止です。今まで、よく頑張りました」

 目元をくしゃっと微笑みで満たし、神威さんが私の背中を軽くぽんぽんと叩く。彼はそのまま手際良く、私の手の中にあった空の紙皿とコップを回収した。

「あれ、そういえば」

 さっきまでいた翡翠さんと嘉月さんは、どこに行ったのだろう。今更ながら顔を上げて、辺りをきょろきょろと見回す。だがパッと見、見当たらない。
 ベンチから立ち上がり、足を踏み出しかけ、その裏に何かがいるのを感じて私はベンチの裏側の芝生を覗き込んだ。
 猫だ。いつの間にやら、さっきまでいなかった猫がそこにいる。
 茶色の猫がすやすやと、身体を丸めて目を閉じていた。眠っているのか、お腹の辺りの毛並みが上下にゆっくりと動いている。
 その様子を見守っていると、ぴょんぴょんとこちらへ地面を蹴りながら跳ねてくるものが一羽。

「……ん、カラス?」

 私は思わず硬直し、その黒い鳥と目を合わせないように視線だけをすっとずらす。このまま静かにじっとしていれば、きっとどこかに行ってくれる。
 そう考えながら、私ははたとカラスの足元に注目する。カラスの二本あるはずの足が、なぜか三本あったのだ。
 目が疲れて乱視になったのだろうか、三本足のカラスなんている訳がない。そんなことを考えていると、猫がうっすらと目を開け、もぞもぞと前足で自分の頭を撫でた。

「あ、お話終わった?」
「……え?」

 私は声のもとを探して辺りを見回した。今のは……。

「翡翠くん、大事なところで寝ないで下さい」

 カラスが羽を片方広げ、やれやれとでも言いたげにそのまま羽を額に当てて首を振る。

「えええええええ!? ね、猫とカラスが……!」
「どうしました?」

 ベンチの裏で慌てふためく私に、神威さんが冷静に声をかける。その声を聞くと、なんだかほっとした。

「あ、あの、猫とカラスが喋って」
「……ああ。猫が翡翠で、カラスは嘉月ですよ」

 それが何か、と言わんばかりのあっさりしたトーンで話しながら、神威さんがリュックに荷物を詰める。しれっとすました顔はもう、これ以上説明する気はないと言っているようだった。

「ごめん、驚かせちゃった?」

 確かに翡翠さんの声で言いながら、猫がてけてけと歩き、ベンチの座る部分にひょいと飛び乗った。
 私は黙って自分の頬をつねった。古典的ながら実用的な手法だ。

「夢じゃないよ。僕たちは神威の眷属けんぞくのあやかし。僕は猫又ねこまたで、嘉月は八咫烏やたがらす。名前くらいは聞いたことない?」
「や、バリバリありますけど……!」

 どちらかというと、神話とかあやかしとかの話は大好物だ。それを勉強したかったのもこの地に来た理由の一つだった。だけど、それはあくまで創作としての『話』のこと。

「まさか、本当にいるなんて」
「もっと言うなら、そこにいるお方のほうが凄いんですよ?」

 カラス、いや八咫烏もとい嘉月さんが首を傾げながらその右の羽を持ち上げ、ビシっと神威さんを指さした。
 指さされた張本人は、黙って詰め終わったリュックを片方の肩に引っ提げた。その顔は、先ほどまでの微笑みはどこへ行ったのやら、不機嫌そうな表情に逆戻りだ。

「神威さまは、昔神様と契約した一族の末裔まつえい。人でありながらこの地一帯をお守りくださる神様……つまり、人神さまなのです」

 リュックを背負った神威さんは、ドラマティックに語る嘉月さんの言葉を完全に無視してすたすたと歩き出している。その後ろ姿を目で追いながら、私は「……え?」と腑抜けた声を出すことしかできなかった。


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