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失くした思い出、料理で見つけます
失くした思い出、料理で見つけます-1
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尾道は猫の道、海の見える街。
猫の導きに従って、坂道を上り、とある神社へ足を踏み込むと。
黄昏時に、不思議なレストランを見つけることがあるそうな。
フシギもフシギ、なぜなら店には、
メニュー表もないのだから。
唯一のメニューは【魔法のメニュー】。
「大事な思い出」を探す者は、
そのメニューで「探しもの」を思い出す。
その店の名は、『招き猫』。
なんでも、昔神様と契約した一族の末裔が、
おわすレストランなのだとか。
第一章 レストラン「招き猫」
『――逢魔時には気を付けて。攫われていって、しまわないように』
どこかで、誰かの声がした。
あれは誰だったろう。
遠い遠い、昔の記憶。薄桃色の桜が舞い落ちる風の中で、私は確かにそう言われたのだ。
思い出すには遠すぎて。その声に耳を澄まそうとすればするほど、風景は曖昧になっていく。
『いつかまた、ここで待ってる』
それは遠い遠い、昔の約束――。
頭のすぐ近くで、電子音の目覚ましが鳴り響いた。
私は寝起きの重たいまぶたをこすり、アラーム音の源に目を凝らしてそちらに手を伸ばす。
「わ、いつの間にかもう十七時……」
スマホの画面から漏れ出る光が目に染みる。引っ越したばかりのとっ散らかったアパートの一室で、私は身を起こした。
「尾道も久しぶりだし、散策してみようかな」
四月から入学する大学のパンフレットや、新生活のために揃えた道具。それらの整理もそこそこに、私は伸びをして立ち上がる。
朝からずっと根詰めて荷ほどきをしていたから、気分転換だって大事だ。
ちらりと時計を見ると、十七時十五分だった。
もうこの時間は、『黄昏時』だ。おばあちゃんはよく言っていた。
――彩梅、よう覚えとき。黄昏時には、一人で出歩かん方がええ。特に、気分が落ち込んどる時はのう。
黄昏時。江戸時代まで使われていた十二時辰では「酉の刻」に当たるという。
段々と夜の闇が出てくる時間帯だから、昔は通り過ぎる相手の顔を判別することができなかった。
だから、通り過ぎていった人に「誰そ彼」――あなたは誰ですか、と尋ねていたことから変形して、「黄昏」という言葉になった。確かそうだったなとぼんやり思い出す。
全部全部、おばあちゃんが教えてくれた。
――大丈夫だよおばあちゃん。
落ち込んでなんていられない。私はここから頑張っていくと、そう決めたのだから。
頭から被るだけでそれなりに着映えする、便利なカーキ色の春物のワンピース。そして黒い薄手のカーディガン。近くにあったそれらを手に取り、のそのそと着替えた私は、アパートのエントランスを抜けて外に出た。
尾道猫の道、海の見える街。
ここは、瀬戸内の穏やかな海と坂の街だ。
石畳の坂と大ぶりの階段に、そこかしこに立ち並ぶ歴史ある日本家屋。ちょうどいい細さの道が、どこか、訪れた人々を隠れ家へといざなってくれるかのような――そんな光景が有名な、ノスタルジックな香り漂う海沿いの街。
胸にこみ上げてくるときめきを抑えられず、うきうきと歩を進めながら、私は顔を空の方へ向けた。つい最近までいた東京とは違ってどこまでも見通せる、広く青い空だ。
――ピー、ヒョロロロロロ……。
「あ、トンビ」
ゆっくりと輪を描きながら、悠々と空を浮遊する大きな鳥。それがちょうど私の上に、三羽ほどもいる。
今までの経験からくる悪い予感を振り払うように、私は歩く速度を少し上げた。
早歩きで向かうのは、JR山陽本線と並行して東西に伸びている、商店街の方角だ。あそこはアーケード街だから、一度入ればトンビを警戒しなくていい。鳥に『落とし物』をされることも、食べ物を持っていると思われて襲われることも、頭上すれすれに飛ばれて恐怖することもない。完璧な安全地帯だ。
「はー、やっと着いた!」
たどり着いた尾道本通り商店街の落ち着いた雰囲気に、私はほっと胸を撫でおろした。
ここは昔ながらのレトロで昭和らしいお店に交じって、尾道オリジナルの商品を扱うお洒落な雑貨店やカフェもある。
どこか懐かしい空気の漂う商店街を、私は思い出を辿るように歩いていく。
周りを見渡しながら歩を進めていた私が、足元で何かがうろうろしているのに気付いたのは、十分ほど経ってからのことだった。
「うにゃあ」
足元をかわいらしい鳴き声がかすめる。声の主は、毛並みの良い一匹の白猫だった。ふさふさの尻尾をぴんと立てて、こちらを窺うような目でじっと私を見上げている。
早速会えた、と私は思わず頬を緩めた。
尾道は猫の街でもある。ちょっとしたところに、のんびりと思い思いの時間を過ごす猫の姿を拝むことができるのだ。
私が猫に向かって身を屈めると、白猫はひょいっと頭を巡らして踵を返し、すたすたと歩き出した。
アーケードから脇道へと歩を進めたその猫は、一度ぴたりと止まってこちらを振り返り、もう一度「にゃあ」と鳴く。物語の読みすぎかもしれないけれど、まるで私に「着いてこい」と言っているかのように。
時間もたっぷりあるし、猫の後についていきながら散歩するのもいいかもしれない。そう思った私は、再び歩きだした猫の後をゆっくりと追った。
さらに細い脇道に入り、しばらく進む。すると、とてとてと歩いていた白猫は、ある角を曲がった途端俊敏な動きで走りだした。
思わず追いかけて角を曲がると、細い路地のようになっているそこには誰もいなかった――歩いている人は。
「……うう」
地面の方から人の気配と低いうめき声を感じ、私は恐る恐るそちらに視線を向ける。
そして、私はその場に固まった。
人だ。人が倒れている。
道の途中で、一人の若い男の人が目をつぶって座り込んでいた。顔はよく見えないけれど、春物の紺色のジャケットに細身のジーンズという服装も手伝って、大学生っぽい雰囲気が漂っている。
ついでに、先ほど私の前を歩いていた猫が、その男の人の隣にちょこんと前足を揃えて座っていた。さも「この人を助けろ」と言わんばかりの姿勢だ。
「ええと、どうしよう一一〇番!? いや、救急車なら一一九番……だっけ!?」
スマホを急いで取り出し、わたわたと電話のアプリを立ち上げる。震える手で電話をかけようとしていると、ぐっと右腕に重みを感じた。
男の人が、私の腕を掴んだのだ。
「いら、ない」
茶色い前髪の隙間からこちらを見上げ、ゆっくりとその人は頭を振った。
「え、でもあの」
「休めば大丈夫だから。家もすぐそこだから、歩いて帰れる」
壁に片手をつき、彼はふらりと立ち上がった。その様子を、先ほどの猫がどこか不安げに眺めている。
なすすべもなく棒立ちになって固まる私の前で、彼がのろのろと歩き始める。彼の向かう先に目を遣った私は、微かに聞こえてくる車のエンジン音に顔を上げた。
その音が響いてくる方へ、彼は歩いていく。あともう少しで、道路に出てしまう。
「えっ、あの……手伝います!」
間違いない。この人が行こうとしているのは千光寺の方だ。尾道一有名なそのお寺へ商店街から向かうと、真っ先に車通りの多い国道二号線にぶち当たる。
全く知らない人だけれど、この状況で一人のまま行かせる訳にはいかない。
「すみません、失礼します」
一応そう断ってから、ふらふらと足元がおぼつかない様子で歩く彼の肩を下から支え、私は足に力を込めた。
あれ、意外と軽いなこの人。
その軽さに驚いていると、耳元でうめき声がした。よく聞こえない。
私は彼を支えながら、聞こえるように声を張った。
「方面はこっちでいいんですか?」
「……うん、そのまま国道渡った、坂の方……」
観念したのか、彼は素直に道を指し示す。その方向に向かって、私たちは歩いていく。先ほどの猫は、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。
国道へ出ると、ありがたいことにすぐ近くに横断歩道があった。私は彼を支えながらそこを渡り、『坂の方』へと顔を向ける。
小さい階段を上ったすぐそこには、踏切がある。その奥へ奥へと連なるのは、坂と階段の街。山の斜面に沿って由緒ある寺社や民家が建ち並び、独特の景観を形成している。
よく観光ガイドブックにも掲載される有名な尾道の景色が、そこには広がっていた。
国道を背に踏切を渡る。坂を上り始めてすぐに、背後から電車の通り過ぎる音がした。
「……本当にお人好しだね。放っておけばいいのに」
「いやいやいや、国道もあるし踏切もあったじゃないですか。放っておけないです」
こんなふらふらした足取りの人を黙って行かせて、事故にでも遭ったりしたら目覚めが悪いじゃないか。
そう一人頭の中でぼやきながら、私は彼の横顔を見上げる。身長一六三センチの私より、頭一つ分くらい背が高い。
……あれ? 必死すぎて気付かなかったけど、これって俗に言う、イケメンってやつなのでは……。
不謹慎にもつい、そう思ってしまった。
ぱっちりとした二重の目に、横顔のシルエットにも印象を残すほど長い睫毛。顔を構成するパーツも形よく小顔の中に収まっていて、美点しか見当たらない。さらさらとしたブラウンの髪の毛には、天使の輪っかが見えた。私の髪よりもキューティクルがある。
「あの、何か」
「いえ何でも」
私が見つめすぎたせいか、彼が怪訝そうな声で問いかけてくる。しまったと冷や汗をかきながら視線をぐるりと前に戻し、私は歩くのに専念することにした。
邪な煩悩よ、消え去るがいい。そう念仏のように頭の中でひたすら唱えて数分後。
「相変わらず、きっつい……」
煩悩はすぐに消え去った。尾道の坂や階段は、傾斜も大きい。いくら軽くても、男の人を支えながら歩くには少々骨が折れる。
春とはいえど、まだ三月。少しひんやりした気候なのに、今の私はうっすらと汗をかいていた。
それに、尾道の急な坂道を歩いていると、昔のことを思い出すのだ。
子供の頃からインドア派だった私。体力がなかったせいで、坂を上るといつも息を切らしていたっけ。
私はぼんやりと、回りの景色を眺めつつ進む。どうやら神社仏閣が多い辺りに入ったらしい。先ほどから由緒正しそうな建築物がちらほらと目に入る。
「ここ入って奥のとこ……」
ふと隣から道順を示す声が聞こえて、私は彼の指さした方を向く。そして、思わず目を見開いた。
年季が入りつつも、かえってそれが趣を醸し出している朱色の鳥居と、左右に青々と茂る木々。
『青宝神社』。
鳥居から数メートル離れた石碑には、そう名前が書いてある。
「え、神社ですか……?」
確かについさっき、この辺は古い神社仏閣が多いとは思ったけれど、まさか目的地がそこだったとは。
「神社の中にレストランがあって、そこに家族がいるんだ。ありがとう、ここまで来たら大丈夫」
弱々しく青年が呟いた、その時。
「翡翠くんじゃないですか! お帰りなさい」
神社の奥から、背の高い人影がこちらに向かって駆け寄ってきた。
二十代後半くらいに見える男の人だった。短い黒髪で、目鼻立ちのはっきりした顔だ。
黒縁眼鏡の下には涼しげな切れ長の目が見て取れる。黙っていたら鋭く尖った雰囲気のありそうな見た目だけれど、目元には優しげな微笑が漂っていて、それほどきつい印象を与えない。
白いシャツに、黒いズボンの上からはひざ下まである黒のエプロンという出で立ち。神社の奥にレストランがあるというから、そこの店員さんだろうか。
神社から現れたその男の人は、私を見るなり目を見開いた。その表情のまま、翡翠と呼ばれた私の隣にいる人に向かって、首を傾げて問いかける。
「あれ、そちらの方は?」
「行き倒れてたとこ助けてもらった」
「なんと! 申し訳ない、ありがとうございます!」
私よりも背が高いその眼鏡の男の人は、深々と腰を折ってお辞儀をこちらに寄越した。
「いえあの、それよりもこの方を早く」
言っているそばから、私の肩にずしりと重みがのしかかる。翡翠さんの体から力が抜けたのだ。
「大丈夫ですか!?」
「翡翠くん、しっかり」
黒縁眼鏡の青年が、ぐったりしている翡翠さんを私の反対側から支える。そして彼は申し訳なさそうに眉を下げながら私の顔を見た。
「本当に恐縮なのですが、運ぶのを手伝っていただけませんか」
「もちろんです」
「ありがとうございます、こちらです」
境内に入り、拝殿の横を通り抜けてさらに奥へ。
秘密基地のような竹林の小道へと入って数分歩いたところで、急に視界が開ける。
境内の中にもかかわらず、そこにはまるで別世界のようなイングリッシュガーデンがあった。
門の脇にある岩壁には、アンティーク調の木彫りの看板が埋め込まれており、こう文字が刻まれていた。
『レストラン招き猫』と。
門をくぐり、庭に足を踏み入れる。そして庭園のさらに奥を見た途端、私は思わず感嘆の声を漏らした。
「海が見える……!」
坂をどのくらい上ったのかはあまりよく覚えていないが、いつの間にか随分上の方まで来ていたらしい。
庭の縁沿いに走る白い柵越しに、素晴らしいオーシャンビューが広がっていた。
ちょうど今は夕暮れ時。グレープフルーツ色から黄金色にグラデーションを作る夕焼けの色が、穏やかな海のさざ波に反射して幻想的な風景を作り出している。
庭に目を戻せば、足元の白く光る飛び石や芝はしっとりと露をはじき、夕焼けの刹那の光に照らされてきらきらと光を放ち。
庭の片隅にはビオラ、チューリップなどの春の草花が咲き誇っている。
そして飛び石の連なる先には、こぢんまりとした白いレンガ造りの洋館があった。壁にはほどよく蔦が絡まり、磨きあげられた大きな窓とダークチョコレート色のドアが壁の白さによく合っている。
「あー、やっと着いた」
少し体力が回復したのか、翡翠さんがほっとため息をつきながら、私の横で半ば倒れ込むように店のドアを押し開けた。
チリンチリンと、澄んだ鈴の音が頭上で軽く鳴り響く。扉が開いた途端、店内から流れ出てきたコーヒーの香りが鼻先をくすぐった。
「嘉月、何か食べるものか飲むものちょうだい。僕もうそろそろ限界」
言うなり、翡翠さんが私と黒縁眼鏡イケメンの間にぱったりと倒れ込んだ。
黒縁眼鏡の人は、嘉月さんという名前らしい。
「まったく、仕方ないですね。ほら、これ」
慣れた手つきで嘉月さんが、翡翠さんの開けた口に何かを放り込む。
……なんだろうあれ、ミニサイズのカヌレ?
「あ、美味い。さすが僕の作ったスイーツ」
のっそりと起き上がって、翡翠さんがカヌレを黙々と味わう。嘉月さんがいくつかカヌレを追加で渡すと、翡翠さんはあっという間に全部平らげてしまった。
「足ります?」
「ん。とりあえず助かった」
呆れたように苦笑する嘉月さんに頷いてみせながら、伸びをする翡翠さん。そしてぽかんとその光景を見守っていた私の方を、二人は揃って振り返った。
「あの、もう体調は大丈夫なんですか」
私が恐る恐る絞り出した問いかけに、翡翠さんは笑顔で頷き、嘉月さんはため息をつきながら肩をすくめる。
「うん。ありがとね、帰るところ手伝ってくれて」
「驚かせてすみませんでした。この子、エネルギー切れになるとさっきみたいなことになるんですよ」
「エネルギー切れ……?」
嘉月さんの言葉をオウム返しに繰り返しながら、私は翡翠さんをじっと見る。
確かにもう大丈夫そうに見えるけれど、エネルギー切れってまさか。
「あの、病気ではないんですか?」
「いんや? 空腹による行き倒れ」
あっけらかんと答える翡翠さんに、そのまさかだった、と私は内心頭を抱える。さっきまでは『倒れている人を何とか家まで送り届けないと』と必死だったものの、今になって頭がやっと冷静になってきた。
気が動転するあまり、正常な判断ができなくなっていたことを反省する。
というかこれ、急病人だったらやっぱり救急車呼ぶのが正解だったのでは、いやでも倒れていた理由が病気ではないし、結果オーライなのかな……。
そんなことをぐるぐると考えている私の前で、翡翠さんが無邪気に首を傾げた。
「で、きみ名前何だっけ? ごめん、聞いてなかったそういえば」
「ああー、お構いなく。元気になって良かったです!」
翡翠さんの問いかけに、私は笑顔をキープしたまま、もう一歩後ずさりをする。
「ふむ、初対面の者には名前を明かさないと。ま、賢明だね」
「いや翡翠くん、僕たちは名前ばれちゃってますけども」
「あ、ほんとだ」
店内にあるカウンターの方へと歩きながら呆れ声で指摘した嘉月さん。彼の言葉に、翡翠さんはへらりと苦笑して頬をかく。
うん、とりあえず悪い人たちじゃないのはよく分かった。
「あ、いや怪しんでるとかじゃなく……。野一色彩梅といいます」
私が名乗った瞬間、翡翠さんと嘉月さんが顔を見合わせた。
「野一色? ってあの『近江堂』の?」
嘉月さんに問い返され、私はびっくりして顔を上げる。
「え、うちの祖母がやっていた食堂、ご存知なんですか?」
「もちろん知ってますよ。あそこのメニューの幅広さと、どれを食べても外れなしの美味しさは今でもよく覚えてます」
「そうですか……」
まさかこんなところで、おばあちゃんが切り盛りしていた食堂を知っている人に出会うなんて。思わず滲んできてしまいそうな目元の波を堪えて、私は話題を転換した。
「あの、怪しんでいた訳じゃないんです。『野一色』って苗字、一発で聞き取ってもらえることが少ないので」
「だろうね」
「翡翠くんはちょっと黙ってなさい。僕たちだってだいぶ珍しい名前でしょ」
失礼にも即答で私の言葉に同意を返した翡翠さんを、めっ、と言いながらカウンターの奥から嘉月さんが窘めた。
その手はカップやコーヒーを挽くミルの間を忙しなく行き来している。どうやらあのカウンターと、その奥の空間が調理スペースらしい。
「ま、しょうがないねえそれは」
翡翠さんがぼそっと呟く。一瞬沈黙が落ちた後、嘉月さんが軽く咳ばらいをして、私の方へ顔を向けた。
「飲み物を用意しようと思うのですが、カフェオレとかでも大丈夫ですか?」
「あ、遠慮しないで飲んでってね。お礼も兼ねてだから……って、ひょっとしてカフェオレ嫌いだったりする?」
何と言ったらいいか迷う私の顔を、翡翠さんがしゅんとした顔で覗き込んでくる。私はその表情にほだされて、ついぶんぶんと頭を振ってしまった。
「いえ、カフェオレ大好きです!」
コーヒー単体だと苦くて未だに苦手だが、カフェオレとなると話は別だ。牛乳たっぷりのカフェオレは私の大好物でもあった。
「それはよかった。では少しお待ちください」
優雅に微笑み、嘉月さんは黙々と手元の作業を再開する。しばらくして彼は湯気を立てるコーヒーカップを二人分、持ってきてくれた。
「ではこちらを。ミルクたっぷりのカフェオレです」
「あ、ありがとうございます……!」
善意の塊のような二人の雰囲気に押され、半ば流されるような形で、私は窓際のテーブル席に座った。
外から想像するよりも店内はゆったりと広い。
夕日が大きな窓ガラスから柔らかく差し込み、店内を照らしている。そして天井から下がるステンドグラスでできたランプが、虹色の光を落としていた。
壁は真珠のように白く、床は店のドアと同じダークチョコレート色のフローリング。床よりもやや明るい色の木製のテーブル席が大小合わせて四つほどあり、中央にはソファー席まである。
ソファーは品の良い色合いの深いワインレッド。ベルベット素材なのか、その布地は遠目からでも滑らかそうなのが分かる。座ったらふかふかして気持ち良さそうだ。
店内を見回していつの間にか前のめりになっていたのか、首が痛い。私は姿勢を正し、嘉月さんが持ってきてくれたカップを手に取った。
嘉月さんが淹れてくれたコーヒーカップの中身は、ラテアートされたカフェオレだった。
表面にはふわふわの泡立ったクリームで、かわいらしい猫が描いてある。
描いてもらったアートを崩さないよう、ゆっくりと香ばしい飲み物を口へと流し込む。ほっこりとした苦味とほのかな甘みの調和が絶妙なバランスで口の中を綻ばせ、その極上の味に私は驚愕した。
「お、美味しい……!」
滑らかなミルクの香りとあいまって、まったりとした旨味が喉の奥まで心地よく広がる。
かなり、いやこれは間違いなく、今まで飲んだ中で格別に美味なカフェオレだった。思わずほう、とため息が漏れる。
「あ、それ出すの?」
そう言いながら翡翠さんが私の向かいの席に座る。私が顔を上げると、黒い冊子を持った嘉月さんが、翡翠さんの隣へ歩み寄っているところが見えた。
「一応、そういう店ですからね。店主がどう出るか分かりませんが……」
何やら二人でひそひそと会話をしている。この冊子がどうしたというのだろうか。
見た目はA4用紙ほどの大きさで、二つ折り。鈍い光沢のある黒い革の冊子で、高級感があふれ出ている。
「あれ?」
私は開いた冊子をパタンと閉じ、もう一度開けてみる。
「いかがなさいました?」
「あの、これって」
しれっとにこやかに聞き返してくる嘉月さん。その顔は「何か問題でも」と言わんばかりのピュアな表情だ。
猫の導きに従って、坂道を上り、とある神社へ足を踏み込むと。
黄昏時に、不思議なレストランを見つけることがあるそうな。
フシギもフシギ、なぜなら店には、
メニュー表もないのだから。
唯一のメニューは【魔法のメニュー】。
「大事な思い出」を探す者は、
そのメニューで「探しもの」を思い出す。
その店の名は、『招き猫』。
なんでも、昔神様と契約した一族の末裔が、
おわすレストランなのだとか。
第一章 レストラン「招き猫」
『――逢魔時には気を付けて。攫われていって、しまわないように』
どこかで、誰かの声がした。
あれは誰だったろう。
遠い遠い、昔の記憶。薄桃色の桜が舞い落ちる風の中で、私は確かにそう言われたのだ。
思い出すには遠すぎて。その声に耳を澄まそうとすればするほど、風景は曖昧になっていく。
『いつかまた、ここで待ってる』
それは遠い遠い、昔の約束――。
頭のすぐ近くで、電子音の目覚ましが鳴り響いた。
私は寝起きの重たいまぶたをこすり、アラーム音の源に目を凝らしてそちらに手を伸ばす。
「わ、いつの間にかもう十七時……」
スマホの画面から漏れ出る光が目に染みる。引っ越したばかりのとっ散らかったアパートの一室で、私は身を起こした。
「尾道も久しぶりだし、散策してみようかな」
四月から入学する大学のパンフレットや、新生活のために揃えた道具。それらの整理もそこそこに、私は伸びをして立ち上がる。
朝からずっと根詰めて荷ほどきをしていたから、気分転換だって大事だ。
ちらりと時計を見ると、十七時十五分だった。
もうこの時間は、『黄昏時』だ。おばあちゃんはよく言っていた。
――彩梅、よう覚えとき。黄昏時には、一人で出歩かん方がええ。特に、気分が落ち込んどる時はのう。
黄昏時。江戸時代まで使われていた十二時辰では「酉の刻」に当たるという。
段々と夜の闇が出てくる時間帯だから、昔は通り過ぎる相手の顔を判別することができなかった。
だから、通り過ぎていった人に「誰そ彼」――あなたは誰ですか、と尋ねていたことから変形して、「黄昏」という言葉になった。確かそうだったなとぼんやり思い出す。
全部全部、おばあちゃんが教えてくれた。
――大丈夫だよおばあちゃん。
落ち込んでなんていられない。私はここから頑張っていくと、そう決めたのだから。
頭から被るだけでそれなりに着映えする、便利なカーキ色の春物のワンピース。そして黒い薄手のカーディガン。近くにあったそれらを手に取り、のそのそと着替えた私は、アパートのエントランスを抜けて外に出た。
尾道猫の道、海の見える街。
ここは、瀬戸内の穏やかな海と坂の街だ。
石畳の坂と大ぶりの階段に、そこかしこに立ち並ぶ歴史ある日本家屋。ちょうどいい細さの道が、どこか、訪れた人々を隠れ家へといざなってくれるかのような――そんな光景が有名な、ノスタルジックな香り漂う海沿いの街。
胸にこみ上げてくるときめきを抑えられず、うきうきと歩を進めながら、私は顔を空の方へ向けた。つい最近までいた東京とは違ってどこまでも見通せる、広く青い空だ。
――ピー、ヒョロロロロロ……。
「あ、トンビ」
ゆっくりと輪を描きながら、悠々と空を浮遊する大きな鳥。それがちょうど私の上に、三羽ほどもいる。
今までの経験からくる悪い予感を振り払うように、私は歩く速度を少し上げた。
早歩きで向かうのは、JR山陽本線と並行して東西に伸びている、商店街の方角だ。あそこはアーケード街だから、一度入ればトンビを警戒しなくていい。鳥に『落とし物』をされることも、食べ物を持っていると思われて襲われることも、頭上すれすれに飛ばれて恐怖することもない。完璧な安全地帯だ。
「はー、やっと着いた!」
たどり着いた尾道本通り商店街の落ち着いた雰囲気に、私はほっと胸を撫でおろした。
ここは昔ながらのレトロで昭和らしいお店に交じって、尾道オリジナルの商品を扱うお洒落な雑貨店やカフェもある。
どこか懐かしい空気の漂う商店街を、私は思い出を辿るように歩いていく。
周りを見渡しながら歩を進めていた私が、足元で何かがうろうろしているのに気付いたのは、十分ほど経ってからのことだった。
「うにゃあ」
足元をかわいらしい鳴き声がかすめる。声の主は、毛並みの良い一匹の白猫だった。ふさふさの尻尾をぴんと立てて、こちらを窺うような目でじっと私を見上げている。
早速会えた、と私は思わず頬を緩めた。
尾道は猫の街でもある。ちょっとしたところに、のんびりと思い思いの時間を過ごす猫の姿を拝むことができるのだ。
私が猫に向かって身を屈めると、白猫はひょいっと頭を巡らして踵を返し、すたすたと歩き出した。
アーケードから脇道へと歩を進めたその猫は、一度ぴたりと止まってこちらを振り返り、もう一度「にゃあ」と鳴く。物語の読みすぎかもしれないけれど、まるで私に「着いてこい」と言っているかのように。
時間もたっぷりあるし、猫の後についていきながら散歩するのもいいかもしれない。そう思った私は、再び歩きだした猫の後をゆっくりと追った。
さらに細い脇道に入り、しばらく進む。すると、とてとてと歩いていた白猫は、ある角を曲がった途端俊敏な動きで走りだした。
思わず追いかけて角を曲がると、細い路地のようになっているそこには誰もいなかった――歩いている人は。
「……うう」
地面の方から人の気配と低いうめき声を感じ、私は恐る恐るそちらに視線を向ける。
そして、私はその場に固まった。
人だ。人が倒れている。
道の途中で、一人の若い男の人が目をつぶって座り込んでいた。顔はよく見えないけれど、春物の紺色のジャケットに細身のジーンズという服装も手伝って、大学生っぽい雰囲気が漂っている。
ついでに、先ほど私の前を歩いていた猫が、その男の人の隣にちょこんと前足を揃えて座っていた。さも「この人を助けろ」と言わんばかりの姿勢だ。
「ええと、どうしよう一一〇番!? いや、救急車なら一一九番……だっけ!?」
スマホを急いで取り出し、わたわたと電話のアプリを立ち上げる。震える手で電話をかけようとしていると、ぐっと右腕に重みを感じた。
男の人が、私の腕を掴んだのだ。
「いら、ない」
茶色い前髪の隙間からこちらを見上げ、ゆっくりとその人は頭を振った。
「え、でもあの」
「休めば大丈夫だから。家もすぐそこだから、歩いて帰れる」
壁に片手をつき、彼はふらりと立ち上がった。その様子を、先ほどの猫がどこか不安げに眺めている。
なすすべもなく棒立ちになって固まる私の前で、彼がのろのろと歩き始める。彼の向かう先に目を遣った私は、微かに聞こえてくる車のエンジン音に顔を上げた。
その音が響いてくる方へ、彼は歩いていく。あともう少しで、道路に出てしまう。
「えっ、あの……手伝います!」
間違いない。この人が行こうとしているのは千光寺の方だ。尾道一有名なそのお寺へ商店街から向かうと、真っ先に車通りの多い国道二号線にぶち当たる。
全く知らない人だけれど、この状況で一人のまま行かせる訳にはいかない。
「すみません、失礼します」
一応そう断ってから、ふらふらと足元がおぼつかない様子で歩く彼の肩を下から支え、私は足に力を込めた。
あれ、意外と軽いなこの人。
その軽さに驚いていると、耳元でうめき声がした。よく聞こえない。
私は彼を支えながら、聞こえるように声を張った。
「方面はこっちでいいんですか?」
「……うん、そのまま国道渡った、坂の方……」
観念したのか、彼は素直に道を指し示す。その方向に向かって、私たちは歩いていく。先ほどの猫は、いつの間にかどこかへ行ってしまっていた。
国道へ出ると、ありがたいことにすぐ近くに横断歩道があった。私は彼を支えながらそこを渡り、『坂の方』へと顔を向ける。
小さい階段を上ったすぐそこには、踏切がある。その奥へ奥へと連なるのは、坂と階段の街。山の斜面に沿って由緒ある寺社や民家が建ち並び、独特の景観を形成している。
よく観光ガイドブックにも掲載される有名な尾道の景色が、そこには広がっていた。
国道を背に踏切を渡る。坂を上り始めてすぐに、背後から電車の通り過ぎる音がした。
「……本当にお人好しだね。放っておけばいいのに」
「いやいやいや、国道もあるし踏切もあったじゃないですか。放っておけないです」
こんなふらふらした足取りの人を黙って行かせて、事故にでも遭ったりしたら目覚めが悪いじゃないか。
そう一人頭の中でぼやきながら、私は彼の横顔を見上げる。身長一六三センチの私より、頭一つ分くらい背が高い。
……あれ? 必死すぎて気付かなかったけど、これって俗に言う、イケメンってやつなのでは……。
不謹慎にもつい、そう思ってしまった。
ぱっちりとした二重の目に、横顔のシルエットにも印象を残すほど長い睫毛。顔を構成するパーツも形よく小顔の中に収まっていて、美点しか見当たらない。さらさらとしたブラウンの髪の毛には、天使の輪っかが見えた。私の髪よりもキューティクルがある。
「あの、何か」
「いえ何でも」
私が見つめすぎたせいか、彼が怪訝そうな声で問いかけてくる。しまったと冷や汗をかきながら視線をぐるりと前に戻し、私は歩くのに専念することにした。
邪な煩悩よ、消え去るがいい。そう念仏のように頭の中でひたすら唱えて数分後。
「相変わらず、きっつい……」
煩悩はすぐに消え去った。尾道の坂や階段は、傾斜も大きい。いくら軽くても、男の人を支えながら歩くには少々骨が折れる。
春とはいえど、まだ三月。少しひんやりした気候なのに、今の私はうっすらと汗をかいていた。
それに、尾道の急な坂道を歩いていると、昔のことを思い出すのだ。
子供の頃からインドア派だった私。体力がなかったせいで、坂を上るといつも息を切らしていたっけ。
私はぼんやりと、回りの景色を眺めつつ進む。どうやら神社仏閣が多い辺りに入ったらしい。先ほどから由緒正しそうな建築物がちらほらと目に入る。
「ここ入って奥のとこ……」
ふと隣から道順を示す声が聞こえて、私は彼の指さした方を向く。そして、思わず目を見開いた。
年季が入りつつも、かえってそれが趣を醸し出している朱色の鳥居と、左右に青々と茂る木々。
『青宝神社』。
鳥居から数メートル離れた石碑には、そう名前が書いてある。
「え、神社ですか……?」
確かについさっき、この辺は古い神社仏閣が多いとは思ったけれど、まさか目的地がそこだったとは。
「神社の中にレストランがあって、そこに家族がいるんだ。ありがとう、ここまで来たら大丈夫」
弱々しく青年が呟いた、その時。
「翡翠くんじゃないですか! お帰りなさい」
神社の奥から、背の高い人影がこちらに向かって駆け寄ってきた。
二十代後半くらいに見える男の人だった。短い黒髪で、目鼻立ちのはっきりした顔だ。
黒縁眼鏡の下には涼しげな切れ長の目が見て取れる。黙っていたら鋭く尖った雰囲気のありそうな見た目だけれど、目元には優しげな微笑が漂っていて、それほどきつい印象を与えない。
白いシャツに、黒いズボンの上からはひざ下まである黒のエプロンという出で立ち。神社の奥にレストランがあるというから、そこの店員さんだろうか。
神社から現れたその男の人は、私を見るなり目を見開いた。その表情のまま、翡翠と呼ばれた私の隣にいる人に向かって、首を傾げて問いかける。
「あれ、そちらの方は?」
「行き倒れてたとこ助けてもらった」
「なんと! 申し訳ない、ありがとうございます!」
私よりも背が高いその眼鏡の男の人は、深々と腰を折ってお辞儀をこちらに寄越した。
「いえあの、それよりもこの方を早く」
言っているそばから、私の肩にずしりと重みがのしかかる。翡翠さんの体から力が抜けたのだ。
「大丈夫ですか!?」
「翡翠くん、しっかり」
黒縁眼鏡の青年が、ぐったりしている翡翠さんを私の反対側から支える。そして彼は申し訳なさそうに眉を下げながら私の顔を見た。
「本当に恐縮なのですが、運ぶのを手伝っていただけませんか」
「もちろんです」
「ありがとうございます、こちらです」
境内に入り、拝殿の横を通り抜けてさらに奥へ。
秘密基地のような竹林の小道へと入って数分歩いたところで、急に視界が開ける。
境内の中にもかかわらず、そこにはまるで別世界のようなイングリッシュガーデンがあった。
門の脇にある岩壁には、アンティーク調の木彫りの看板が埋め込まれており、こう文字が刻まれていた。
『レストラン招き猫』と。
門をくぐり、庭に足を踏み入れる。そして庭園のさらに奥を見た途端、私は思わず感嘆の声を漏らした。
「海が見える……!」
坂をどのくらい上ったのかはあまりよく覚えていないが、いつの間にか随分上の方まで来ていたらしい。
庭の縁沿いに走る白い柵越しに、素晴らしいオーシャンビューが広がっていた。
ちょうど今は夕暮れ時。グレープフルーツ色から黄金色にグラデーションを作る夕焼けの色が、穏やかな海のさざ波に反射して幻想的な風景を作り出している。
庭に目を戻せば、足元の白く光る飛び石や芝はしっとりと露をはじき、夕焼けの刹那の光に照らされてきらきらと光を放ち。
庭の片隅にはビオラ、チューリップなどの春の草花が咲き誇っている。
そして飛び石の連なる先には、こぢんまりとした白いレンガ造りの洋館があった。壁にはほどよく蔦が絡まり、磨きあげられた大きな窓とダークチョコレート色のドアが壁の白さによく合っている。
「あー、やっと着いた」
少し体力が回復したのか、翡翠さんがほっとため息をつきながら、私の横で半ば倒れ込むように店のドアを押し開けた。
チリンチリンと、澄んだ鈴の音が頭上で軽く鳴り響く。扉が開いた途端、店内から流れ出てきたコーヒーの香りが鼻先をくすぐった。
「嘉月、何か食べるものか飲むものちょうだい。僕もうそろそろ限界」
言うなり、翡翠さんが私と黒縁眼鏡イケメンの間にぱったりと倒れ込んだ。
黒縁眼鏡の人は、嘉月さんという名前らしい。
「まったく、仕方ないですね。ほら、これ」
慣れた手つきで嘉月さんが、翡翠さんの開けた口に何かを放り込む。
……なんだろうあれ、ミニサイズのカヌレ?
「あ、美味い。さすが僕の作ったスイーツ」
のっそりと起き上がって、翡翠さんがカヌレを黙々と味わう。嘉月さんがいくつかカヌレを追加で渡すと、翡翠さんはあっという間に全部平らげてしまった。
「足ります?」
「ん。とりあえず助かった」
呆れたように苦笑する嘉月さんに頷いてみせながら、伸びをする翡翠さん。そしてぽかんとその光景を見守っていた私の方を、二人は揃って振り返った。
「あの、もう体調は大丈夫なんですか」
私が恐る恐る絞り出した問いかけに、翡翠さんは笑顔で頷き、嘉月さんはため息をつきながら肩をすくめる。
「うん。ありがとね、帰るところ手伝ってくれて」
「驚かせてすみませんでした。この子、エネルギー切れになるとさっきみたいなことになるんですよ」
「エネルギー切れ……?」
嘉月さんの言葉をオウム返しに繰り返しながら、私は翡翠さんをじっと見る。
確かにもう大丈夫そうに見えるけれど、エネルギー切れってまさか。
「あの、病気ではないんですか?」
「いんや? 空腹による行き倒れ」
あっけらかんと答える翡翠さんに、そのまさかだった、と私は内心頭を抱える。さっきまでは『倒れている人を何とか家まで送り届けないと』と必死だったものの、今になって頭がやっと冷静になってきた。
気が動転するあまり、正常な判断ができなくなっていたことを反省する。
というかこれ、急病人だったらやっぱり救急車呼ぶのが正解だったのでは、いやでも倒れていた理由が病気ではないし、結果オーライなのかな……。
そんなことをぐるぐると考えている私の前で、翡翠さんが無邪気に首を傾げた。
「で、きみ名前何だっけ? ごめん、聞いてなかったそういえば」
「ああー、お構いなく。元気になって良かったです!」
翡翠さんの問いかけに、私は笑顔をキープしたまま、もう一歩後ずさりをする。
「ふむ、初対面の者には名前を明かさないと。ま、賢明だね」
「いや翡翠くん、僕たちは名前ばれちゃってますけども」
「あ、ほんとだ」
店内にあるカウンターの方へと歩きながら呆れ声で指摘した嘉月さん。彼の言葉に、翡翠さんはへらりと苦笑して頬をかく。
うん、とりあえず悪い人たちじゃないのはよく分かった。
「あ、いや怪しんでるとかじゃなく……。野一色彩梅といいます」
私が名乗った瞬間、翡翠さんと嘉月さんが顔を見合わせた。
「野一色? ってあの『近江堂』の?」
嘉月さんに問い返され、私はびっくりして顔を上げる。
「え、うちの祖母がやっていた食堂、ご存知なんですか?」
「もちろん知ってますよ。あそこのメニューの幅広さと、どれを食べても外れなしの美味しさは今でもよく覚えてます」
「そうですか……」
まさかこんなところで、おばあちゃんが切り盛りしていた食堂を知っている人に出会うなんて。思わず滲んできてしまいそうな目元の波を堪えて、私は話題を転換した。
「あの、怪しんでいた訳じゃないんです。『野一色』って苗字、一発で聞き取ってもらえることが少ないので」
「だろうね」
「翡翠くんはちょっと黙ってなさい。僕たちだってだいぶ珍しい名前でしょ」
失礼にも即答で私の言葉に同意を返した翡翠さんを、めっ、と言いながらカウンターの奥から嘉月さんが窘めた。
その手はカップやコーヒーを挽くミルの間を忙しなく行き来している。どうやらあのカウンターと、その奥の空間が調理スペースらしい。
「ま、しょうがないねえそれは」
翡翠さんがぼそっと呟く。一瞬沈黙が落ちた後、嘉月さんが軽く咳ばらいをして、私の方へ顔を向けた。
「飲み物を用意しようと思うのですが、カフェオレとかでも大丈夫ですか?」
「あ、遠慮しないで飲んでってね。お礼も兼ねてだから……って、ひょっとしてカフェオレ嫌いだったりする?」
何と言ったらいいか迷う私の顔を、翡翠さんがしゅんとした顔で覗き込んでくる。私はその表情にほだされて、ついぶんぶんと頭を振ってしまった。
「いえ、カフェオレ大好きです!」
コーヒー単体だと苦くて未だに苦手だが、カフェオレとなると話は別だ。牛乳たっぷりのカフェオレは私の大好物でもあった。
「それはよかった。では少しお待ちください」
優雅に微笑み、嘉月さんは黙々と手元の作業を再開する。しばらくして彼は湯気を立てるコーヒーカップを二人分、持ってきてくれた。
「ではこちらを。ミルクたっぷりのカフェオレです」
「あ、ありがとうございます……!」
善意の塊のような二人の雰囲気に押され、半ば流されるような形で、私は窓際のテーブル席に座った。
外から想像するよりも店内はゆったりと広い。
夕日が大きな窓ガラスから柔らかく差し込み、店内を照らしている。そして天井から下がるステンドグラスでできたランプが、虹色の光を落としていた。
壁は真珠のように白く、床は店のドアと同じダークチョコレート色のフローリング。床よりもやや明るい色の木製のテーブル席が大小合わせて四つほどあり、中央にはソファー席まである。
ソファーは品の良い色合いの深いワインレッド。ベルベット素材なのか、その布地は遠目からでも滑らかそうなのが分かる。座ったらふかふかして気持ち良さそうだ。
店内を見回していつの間にか前のめりになっていたのか、首が痛い。私は姿勢を正し、嘉月さんが持ってきてくれたカップを手に取った。
嘉月さんが淹れてくれたコーヒーカップの中身は、ラテアートされたカフェオレだった。
表面にはふわふわの泡立ったクリームで、かわいらしい猫が描いてある。
描いてもらったアートを崩さないよう、ゆっくりと香ばしい飲み物を口へと流し込む。ほっこりとした苦味とほのかな甘みの調和が絶妙なバランスで口の中を綻ばせ、その極上の味に私は驚愕した。
「お、美味しい……!」
滑らかなミルクの香りとあいまって、まったりとした旨味が喉の奥まで心地よく広がる。
かなり、いやこれは間違いなく、今まで飲んだ中で格別に美味なカフェオレだった。思わずほう、とため息が漏れる。
「あ、それ出すの?」
そう言いながら翡翠さんが私の向かいの席に座る。私が顔を上げると、黒い冊子を持った嘉月さんが、翡翠さんの隣へ歩み寄っているところが見えた。
「一応、そういう店ですからね。店主がどう出るか分かりませんが……」
何やら二人でひそひそと会話をしている。この冊子がどうしたというのだろうか。
見た目はA4用紙ほどの大きさで、二つ折り。鈍い光沢のある黒い革の冊子で、高級感があふれ出ている。
「あれ?」
私は開いた冊子をパタンと閉じ、もう一度開けてみる。
「いかがなさいました?」
「あの、これって」
しれっとにこやかに聞き返してくる嘉月さん。その顔は「何か問題でも」と言わんばかりのピュアな表情だ。
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