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第一部 月は笑うが…… 

主治医(精神科)による覚書

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  主治医(精神科)による覚書
  
 患者 佐藤稔(カルテにそうあるが仮名? 偽名?)
 症状 意識不明から覚醒するも記憶喪失
    というか記憶の混濁? 
    完全な喪失ではなく断片的?
    失語症? 認知障害・人格障害の傾向も?
    過去の脳へのダメージが原因か?

 ※医療はチームで当たるので私は精神科として担当している。外科的なことはとりあえずここではまだ書かないおく。それによくわからないことも多い。
        
 黙狂という言葉は医学にはないが調べると確かに埴谷雄高の「死霊」(しりょうではなくしれいと読むらしい)なる難解な小説に矢場徹吾なる登場人物がいて、そいつが黙狂(ある日を境に何も話さなくなる)という設定らしい。
「死霊」は入手できたので読もうとしたが、難解すぎて手に負えず、拾い読み程度しかできていない。それでも確かに五章に「およそ、人間が完全に自由意志で成し遂げられることが、二つあり、その一つが自殺なのだ」といったことを登場人物が喋るシーンがある。患者はやみくもに出鱈目を書いているわけではないらしい。
 それに「死者の電話箱」なるものも確かに同じく「死霊」第五章に出てきて、最終的にそれが「存在の電話箱」に切り替えられる、などとも書かれているので、死刑囚の手記の方もまったくの出鱈目ではないとも言える。ただ、医学的に「死者の電話箱」のようなものは作っても機能しないと思うが……
 
 とにかく、患者も書いているように、精神疾患で自傷行為を行う可能性もあるのだが、物理的に自殺はできないようになっている、そうカルテには書かれている。所謂拘束というのとも違うらしいのだが専門外なので(外科的なことらしいが)とにかく知らないことも多いので書くのはやめておく。
 とにかく意識不明から覚醒した患者が何やら纏まったものを書き始めたという次第である。
 これまで意識が戻っても「わからない」を繰り返すのみ。自分で思い出すまで、こちらも何も答えられないのだが、今回初めて「ヒント」を求められた。
 それで――
 きっかけとして読んでもらったあの手記――■■さんへ、で始まる未決の死刑囚の手記。この試みはうまく行ったようだ。
 
 さて患者がミステリー作家であるか? どうかだが――。
 手記にあった「尾崎諒馬」と「坂東善」二つのペンネームで調べてみたが「坂東善」という作家はいないようであった。しかし「尾崎諒馬」なる作家は実在し、第十八回横溝正史賞で佳作をとってデビューしている。
 賞を取ったデビュー作の「思案せり我が暗号」は入手できたので、読んでみたが、小説の中で「坂東善」なるペンネームで書かれた「完全な密室」なる作品が、とあるミステリー雑誌の新人賞をとるシーンが描かれているのに気付いた。その部分をちょっとだけ転記しておくと、
 
 ――――――――――――――――――
 しばらく男は放心状態だった。幾分気分が落ち着いたところで、更に次のページを捲った。
 
  完全な密室     坂東 善
  
 そこには、先の最終予選通過の一人が写真と共に掲載されていた。彼が受賞者だった。
 ――おや? これは……。
 見覚えのある顔であった。男は、本名がどこかに記載されていないか、くまなく捜してみた。
 ――やはり、水沼だ。
 男は「月刊本格推理」を閉じ、本棚に戻した。そして何も買わずに本屋を出た。
 ――彼が賞を取り、僕の方は一次予選すら通らなかった。
 受賞者は男と高校で同級だった男だった。男はこの時ほど自分が惨めに思えたことはなかった。
 外はまだまだ残暑が厳しかった。冷房が効いた室内から出てきたばかりの体から急に汗が吹き出す。
 ――推理文学、探偵小説、犯罪、悪、悪意……。
 男の頭の中にそのような単語が駆け巡っている時に、ふと、天からの声がした。
 
「世界の【悪意】のすべてを一身に引き受けたような、そんな探偵小説を書くんだ」

 ――悪意、悪意……、しかし……。
 男は脂汗を流した。思わず立ち止まり、電柱にもたれ掛かった。
 ――純文学、私小説、自己、吐露……。
 今度はそのような単語が男の頭を支配した。
 ――推理純文学、探偵私小説、自己の犯罪、悪、悪意の吐露……。
 そして、それらを合成した単語が男の頭を支配した。男の頭の中で一つの狂気が弾けた。
 ――すべての小説は探偵小説である……。ああ、夢野久作か。――すべての小説は現実を模した虚構。それらは掃いて捨てるほどこの世に溢れているじゃないか。未だ誰も成し得ていないもの……それは、虚構を模した現実――。
 男の頭の中で弾けた狂気が、男のすべてを支配しようとしていた。
 
 ――報復?
 
 男は、一つ、「完全な密室」のトリックを思い付いた。
 
 ――――――――――――――――――
 
 と、まあ、このように書かれている。
 
「思案せり我が暗号」は現実に起こったことがベースにある(虚構と現実が交錯する所謂メタミステリー?)ということらしいので、ひょっとしたら「坂東善」にもモデルが実在する可能性があるかもしれない。ただとにかく「月刊本格推理」という雑誌は現実には存在しないようで「坂東善」なるミステリー作家も実在しない(少なくとも私が調べた範囲では)といえる。
 それと、「思案せり我が暗号」の登場人物に、鹿野信吾、その妻の良美、あと尾崎凌駕がいることは覚書として書いておく。
 
 追記:調べたところ二作目の「死者の微笑」にも鹿野信吾と尾崎凌駕、また結婚前の良美が出てくる。
 
 担当してからこれまで、この患者とはほとんどコミュニケーションがとれていなかったのだが、あの手記を読んでもらったところ、内容はともかく意味のある文章を書いてくれたのは進歩であろう。
 しかし、あれ以来、こちらの質問に答えたり、逆に質問してくることはなくなってしまい、ただひたすら文章を綴っている状況で、それがミステリーっぽい内容――とすればあの事件のことを書いているのかもしれない――であるので、しばらく好きに書いてもらおうと思っている。
 
 追記 
 
 これは単なる私的な覚書なのだが、あの手記と患者の手記を並べ、順に読んだ後に、自分が書いたこの覚書を読んでみると、本当に何かミステリーの冒頭のようにも思えてくる。私は個人の自由意志でこれを書いている(カルテは医師の仕事として書くが、この覚書はまったくの個人的な覚書であるのでカルテには残さない)はずであるが、「これがもしミステリーだとしたら、読者はどう思うだろうか?」と(現時点で存在するはずもない)読者を意識している自分が確かに存在している。
 ■■さん、と黒塗りの四角で置き換えられた名前の判明しない相手に宛てた、とある未決の死刑囚の手記。
 ここはどこだろう? そして私は……、で始まる私の患者の手記。
 最後の署名は同じ「佐藤稔」というのを読者はどう捉えるだろうか?
 死刑囚の手記の最後に「手記は続きますが、もはやこれはミステリーです」とあるので、患者の手記自体が受刑者の書いているミステリーの冒頭なのかもしれないし……
 記憶喪失、いや、混濁した記憶しか持てない患者が過去に手記を書いた(ミステリーのつもりで犯人たる囚人になり切って?)――のを当の本人が忘れているのかもしれない。(とにかく私は患者の担当になって日も浅いし、精神科以外は専門外なので)
 そうなると、私は実在の人物ではなく、ミステリー上の一登場人物つまりは架空の存在になってしまうのだけれども。
 
 まあ、もっとも私はミステリー作家ではないので、単なる覚書にこんな心配事――読者の誤読を心配してる?――を書く意味はないのだけれども……
 これは個人的な覚書なので最後の署名はなし。敢えて書けば――
 
             ■■
           
 ※ただ、あの事件は確かにあったと聞いている。  
 
 
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