5 / 9
第一部 月は笑うが……
主治医(精神科)による覚書
しおりを挟む主治医(精神科)による覚書
患者 佐藤稔(カルテにそうあるが仮名? 偽名?)
症状 意識不明から覚醒するも記憶喪失
というか記憶の混濁?
完全な喪失ではなく断片的?
失語症? 認知障害・人格障害の傾向も?
過去の脳へのダメージが原因か?
※医療はチームで当たるので私は精神科として担当している。外科的なことはとりあえずここではまだ書かないおく。それによくわからないことも多い。
黙狂という言葉は医学にはないが調べると確かに埴谷雄高の「死霊」(しりょうではなくしれいと読むらしい)なる難解な小説に矢場徹吾なる登場人物がいて、そいつが黙狂(ある日を境に何も話さなくなる)という設定らしい。
「死霊」は入手できたので読もうとしたが、難解すぎて手に負えず、拾い読み程度しかできていない。それでも確かに五章に「およそ、人間が完全に自由意志で成し遂げられることが、二つあり、その一つが自殺なのだ」といったことを登場人物が喋るシーンがある。患者はやみくもに出鱈目を書いているわけではないらしい。
それに「死者の電話箱」なるものも確かに同じく「死霊」第五章に出てきて、最終的にそれが「存在の電話箱」に切り替えられる、などとも書かれているので、死刑囚の手記の方もまったくの出鱈目ではないとも言える。ただ、医学的に「死者の電話箱」のようなものは作っても機能しないと思うが……
とにかく、患者も書いているように、精神疾患で自傷行為を行う可能性もあるのだが、物理的に自殺はできないようになっている、そうカルテには書かれている。所謂拘束というのとも違うらしいのだが専門外なので(外科的なことらしいが)とにかく知らないことも多いので書くのはやめておく。
とにかく意識不明から覚醒した患者が何やら纏まったものを書き始めたという次第である。
これまで意識が戻っても「わからない」を繰り返すのみ。自分で思い出すまで、こちらも何も答えられないのだが、今回初めて「ヒント」を求められた。
それで――
きっかけとして読んでもらったあの手記――■■さんへ、で始まる未決の死刑囚の手記。この試みはうまく行ったようだ。
さて患者がミステリー作家であるか? どうかだが――。
手記にあった「尾崎諒馬」と「坂東善」二つのペンネームで調べてみたが「坂東善」という作家はいないようであった。しかし「尾崎諒馬」なる作家は実在し、第十八回横溝正史賞で佳作をとってデビューしている。
賞を取ったデビュー作の「思案せり我が暗号」は入手できたので、読んでみたが、小説の中で「坂東善」なるペンネームで書かれた「完全な密室」なる作品が、とあるミステリー雑誌の新人賞をとるシーンが描かれているのに気付いた。その部分をちょっとだけ転記しておくと、
――――――――――――――――――
しばらく男は放心状態だった。幾分気分が落ち着いたところで、更に次のページを捲った。
完全な密室 坂東 善
そこには、先の最終予選通過の一人が写真と共に掲載されていた。彼が受賞者だった。
――おや? これは……。
見覚えのある顔であった。男は、本名がどこかに記載されていないか、くまなく捜してみた。
――やはり、水沼だ。
男は「月刊本格推理」を閉じ、本棚に戻した。そして何も買わずに本屋を出た。
――彼が賞を取り、僕の方は一次予選すら通らなかった。
受賞者は男と高校で同級だった男だった。男はこの時ほど自分が惨めに思えたことはなかった。
外はまだまだ残暑が厳しかった。冷房が効いた室内から出てきたばかりの体から急に汗が吹き出す。
――推理文学、探偵小説、犯罪、悪、悪意……。
男の頭の中にそのような単語が駆け巡っている時に、ふと、天からの声がした。
「世界の【悪意】のすべてを一身に引き受けたような、そんな探偵小説を書くんだ」
――悪意、悪意……、しかし……。
男は脂汗を流した。思わず立ち止まり、電柱にもたれ掛かった。
――純文学、私小説、自己、吐露……。
今度はそのような単語が男の頭を支配した。
――推理純文学、探偵私小説、自己の犯罪、悪、悪意の吐露……。
そして、それらを合成した単語が男の頭を支配した。男の頭の中で一つの狂気が弾けた。
――すべての小説は探偵小説である……。ああ、夢野久作か。――すべての小説は現実を模した虚構。それらは掃いて捨てるほどこの世に溢れているじゃないか。未だ誰も成し得ていないもの……それは、虚構を模した現実――。
男の頭の中で弾けた狂気が、男のすべてを支配しようとしていた。
――報復?
男は、一つ、「完全な密室」のトリックを思い付いた。
――――――――――――――――――
と、まあ、このように書かれている。
「思案せり我が暗号」は現実に起こったことがベースにある(虚構と現実が交錯する所謂メタミステリー?)ということらしいので、ひょっとしたら「坂東善」にもモデルが実在する可能性があるかもしれない。ただとにかく「月刊本格推理」という雑誌は現実には存在しないようで「坂東善」なるミステリー作家も実在しない(少なくとも私が調べた範囲では)といえる。
それと、「思案せり我が暗号」の登場人物に、鹿野信吾、その妻の良美、あと尾崎凌駕がいることは覚書として書いておく。
追記:調べたところ二作目の「死者の微笑」にも鹿野信吾と尾崎凌駕、また結婚前の良美が出てくる。
担当してからこれまで、この患者とはほとんどコミュニケーションがとれていなかったのだが、あの手記を読んでもらったところ、内容はともかく意味のある文章を書いてくれたのは進歩であろう。
しかし、あれ以来、こちらの質問に答えたり、逆に質問してくることはなくなってしまい、ただひたすら文章を綴っている状況で、それがミステリーっぽい内容――とすればあの事件のことを書いているのかもしれない――であるので、しばらく好きに書いてもらおうと思っている。
追記
これは単なる私的な覚書なのだが、あの手記と患者の手記を並べ、順に読んだ後に、自分が書いたこの覚書を読んでみると、本当に何かミステリーの冒頭のようにも思えてくる。私は個人の自由意志でこれを書いている(カルテは医師の仕事として書くが、この覚書はまったくの個人的な覚書であるのでカルテには残さない)はずであるが、「これがもしミステリーだとしたら、読者はどう思うだろうか?」と(現時点で存在するはずもない)読者を意識している自分が確かに存在している。
■■さん、と黒塗りの四角で置き換えられた名前の判明しない相手に宛てた、とある未決の死刑囚の手記。
ここはどこだろう? そして私は……、で始まる私の患者の手記。
最後の署名は同じ「佐藤稔」というのを読者はどう捉えるだろうか?
死刑囚の手記の最後に「手記は続きますが、もはやこれはミステリーです」とあるので、患者の手記自体が受刑者の書いているミステリーの冒頭なのかもしれないし……
記憶喪失、いや、混濁した記憶しか持てない患者が過去に手記を書いた(ミステリーのつもりで犯人たる囚人になり切って?)――のを当の本人が忘れているのかもしれない。(とにかく私は患者の担当になって日も浅いし、精神科以外は専門外なので)
そうなると、私は実在の人物ではなく、ミステリー上の一登場人物つまりは架空の存在になってしまうのだけれども。
まあ、もっとも私はミステリー作家ではないので、単なる覚書にこんな心配事――読者の誤読を心配してる?――を書く意味はないのだけれども……
これは個人的な覚書なので最後の署名はなし。敢えて書けば――
■■
※ただ、あの事件は確かにあったと聞いている。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
失踪した悪役令嬢の奇妙な置き土産
柚木崎 史乃
ミステリー
『探偵侯爵』の二つ名を持つギルフォードは、その優れた推理力で数々の難事件を解決してきた。
そんなギルフォードのもとに、従姉の伯爵令嬢・エルシーが失踪したという知らせが舞い込んでくる。
エルシーは、一度は婚約者に婚約を破棄されたものの、諸事情で呼び戻され復縁・結婚したという特殊な経歴を持つ女性だ。
そして、後日。彼女の夫から失踪事件についての調査依頼を受けたギルフォードは、邸の庭で謎の人形を複数発見する。
怪訝に思いつつも調査を進めた結果、ギルフォードはある『真相』にたどり着くが──。
悪役令嬢の従弟である若き侯爵ギルフォードが謎解きに奮闘する、ゴシックファンタジーミステリー。
特殊捜査官・天城宿禰の事件簿~乙女の告発
斑鳩陽菜
ミステリー
K県警捜査一課特殊捜査室――、そこにたった一人だけ特殊捜査官の肩書をもつ男、天城宿禰が在籍している。
遺留品や現場にある物が残留思念を読み取り、犯人を導くという。
そんな県警管轄内で、美術評論家が何者かに殺害された。
遺体の周りには、大量のガラス片が飛散。
臨場した天城は、さっそく残留思念を読み取るのだが――。
カフェ・シュガーパインの事件簿
山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。
個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。
だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。
月夜のさや
蓮恭
ミステリー
いじめられっ子で喘息持ちの妹の療養の為、父の実家がある田舎へと引っ越した主人公「天野桐人(あまのきりと)」。
夏休み前に引っ越してきた桐人は、ある夜父親と喧嘩をして家出をする。向かう先は近くにある祖母の家。
近道をしようと林の中を通った際に転んでしまった桐人を助けてくれたのは、髪の長い綺麗な顔をした女の子だった。
夏休み中、何度もその女の子に会う為に夜になると林を見張る桐人は、一度だけ女の子と話す機会が持てたのだった。話してみればお互いが孤独な子どもなのだと分かり、親近感を持った桐人は女の子に名前を尋ねた。
彼女の名前は「さや」。
夏休み明けに早速転校生として村の学校で紹介された桐人。さやをクラスで見つけて話しかけるが、桐人に対してまるで初対面のように接する。
さやには『さや』と『紗陽』二つの人格があるのだと気づく桐人。日によって性格も、桐人に対する態度も全く変わるのだった。
その後に起こる事件と、村のおかしな神事……。
さやと紗陽、二人の秘密とは……?
※ こちらは【イヤミス】ジャンルの要素があります。どんでん返し好きな方へ。
「小説家になろう」にも掲載中。
めぐるめく日常 ~環琉くんと環琉ちゃん~
健野屋文乃
ミステリー
始めて、日常系ミステリー書いて見ました。
ぼくの名前は『環琉』と書いて『めぐる』と読む。
彼女の名前も『環琉』と書いて『めぐる』と読む。
そして、2人を包むようなもなかちゃんの、日常系ミステリー
きっと癒し系(⁎˃ᴗ˂⁎)
蠱惑Ⅱ
壺の蓋政五郎
ミステリー
人は歩いていると邪悪な壁に入ってしまう時がある。その壁は透明なカーテンで仕切られている。勢いのある時は壁を弾き迷うことはない。しかし弱っている時、また嘘を吐いた時、憎しみを表に出した時、その壁に迷い込む。蠱惑の続編で不思議な短編集です。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
【完結】シリアルキラーの話です。基本、この国に入ってこない情報ですから、、、
つじんし
ミステリー
僕は因が見える。
因果関係や因果応報の因だ。
そう、因だけ...
この力から逃れるために日本に来たが、やはりこの国の警察に目をつけられて金のために...
いや、正直に言うとあの日本人の女に利用され、世界中のシリアルキラーを相手にすることになってしまった...
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる