人形学級

杏樹まじゅ

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【或る先生の放課後】

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 或る青年の手術は、無事成功した。
 八年振りに目を覚ました息子に、母さんも父さんも、涙を滝のように流して喜んだ。
 青年を次に待っていたのは、長いリハビリだった。
 脚は、信じられないほど細くなってしまっている。
 自分の足で立って歩くため、毎日毎日、訓練に明け暮れた。
 それはさながら、親元を離れ、自立するために勉強するかの様だった。

 半年のリハビリ生活を終え、青年が豊島区の実家のマンションに帰ってきた時、最後に家を出てから九年の年月が流れていた。
 彼は、教育学部のある大学に入るため、猛勉強をした。
 一度の浪人の後、無事に東京都の西の端、八王子市にある大学へ進学が決まった。
 通える距離ではあったが、青年は八王子市で一人暮らしを始めた。
 多摩ニュータウンの、山の上にある真新しいマンションだ。
 父さんも母さんも、青年の病気のこともあり、心配していたが、彼は頑として譲らなかった。
 数年前に理事長が変わった大学。
 そこでは、新しい理事長の元、様々なカリキュラムが用意されていて、教師を目指すには最適な環境になっていた。
 そして彼は、小学校教師を目指すことにした。
 その事を親に告げると、二人とも驚いた。
 子供の頃から大学教授になりたいと言って聞かなかったから、青年の突然の心変わりに戸惑った。
 青年自身も、なぜそうしたくなったのか、わからない。
 ただ、小学校教師になる為の学部の案内を目にした時、心の中でものすごい衝動に駆られたのだ。
 心臓がどきどきした。
 まるで──その為に生かされているような、そんな衝動だった。

 その学部の授業は、ハードだった。
 山のように出る課題。
 毎日詰め込まれる講義。
 サークル活動など、している余裕はなかった。
 それでも、青年は単位を一つも落とさなかった。

 四年生の五月、教育実習が始まった。
 多摩の中心、立川市にある大きな小学校だ。
 受け持ったのは、五年二組。
 やんちゃな子供たちばかりだった。

 ある日、その中の女子に呼び出された。
 ポニーテールの可愛い子だった。
 社会科準備室の薄暗い部屋で、その子は先生のことが好きだ、そう言って服をたくしあげた。
 青年は──少女の服を黙って戻し、頭を撫でて、何も言わずに準備室を出た。
 ちぇっ、今回はダメか。
 ポニーテールの子がそう言うと、青年は振り返って言った。
 いつでも言ってね。何度でも話を聞いてあげる。
 ──ポニーテールの子は、下を向いてはにかんだ。

 無事、教育実習は修了した。
 青年は大学を卒業し「先生」になった。
 新しい学校に教師として着任する前日。
 青年は新宿で懐かしい友人と会っていてその帰りだった。
 ちょうど雨が降っていた。
 すれ違った赤い傘を差している女子高生に、目を奪われた。
 ふわふわのショートヘアに、痩せ型の高い背。
 見覚えのあるセーラー服。
 ギターケースを背負っていた。
 なぜか──
 着いてきて、と言われているようだった。
 彼はその子の四メートル後ろを歩いた。
 西口を過ぎて、ビックカメラの前を過ぎて、アーケード街の前を過ぎて、大ガードの下をくぐった。
 そして西武新宿ぺぺの中に入っていった。
 その子は、新宿線の急行のホームに並ぶと、赤い、教育学部の大学入試の対策本を読み始めた。
 電車が入線する。
 電車が来た。青と緑のグラデーションの帯の、最新型の車両だ。
 ナナメ前に座った。
 その子はずっと本を読んでいる。
 こちらに気付くことは無いだろう。
 十分経って、二十分経って、都区外に出て。
 三十分経ってようやく降りた。
 小平という、郊外の駅だ。

 ここで先生は、やっと思い出した。
 前に来たことがある、その事を。
 今日みたいに、ある女の子を追って。

 その子は足早に南口に降りて、赤い傘を開いて、西友の前のバス停に並んだ。
 バスが来た。
 一緒に乗り込む。

 ──そうだ、その子はあの子みたいに、ふわふわショートヘアだった。

 ピンポーン。
「次、停車します」
 機械の音声が告げ、程なくしてバスは止まった。
 その子はパスモをタッチして降りた。
 先生も後に続いた。

 ──そうだ、あの子も赤い傘を差していた。

 閑静な住宅街だった。
 真昼の白い空の下。
 雨の中、赤い傘が歩く。
 傘からはみ出たギターケースが濡れている。

 ──そうだ、あの子もギターを弾いていた。中島美嘉の歌が、とても、とても上手だった。

 そして数分歩いて。
 角にあるヘアサロンを、赤い傘が右に曲がった。

 ──そうだ、この先に、あの子の家があった。
 白い、一戸建ての家が。
 道と家とを隔てる柵が、ヨーロッパのお城みたいで、素敵だった、あの家が。

 ──あの子に、もう名前も忘れたあの子に会いたい。
 会って言いたい。
 先生に、小学校の先生になれた、と──

 先生は角を曲がった。

 二十四時間。最大千円。
 無機質な、黄色い看板。
 駐車された二台の車。

 赤い傘の子は、もう居ない。

 白い家は、駐車場になっていた。

 でも、先生には聞こえる。
 心臓が鼓動する度、聞こえてくる。
 白熱した体育館のライブで、ラルクアンシエルが作曲した中島美嘉の歌を歌う、あの少女の歌声が。

 じゅうぶんだ。
 それでじゅうぶんだ。

 昔の、まだ子供だったころの思い出に鍵をかけて、新米教師は、また駅に戻るバス停へ、そしてこれから先生を待つ何百人もの未来の生徒の所へ、歩いていった。
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