人形学級

杏樹まじゅ

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【紫園太陽の学級-三】

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 帰り道。
 紫のケースに入れたアンドロイドのスマホを取り出す。
 ラインは母さんからだった。
 時間を見る。六時四十分。
 もうこんな時間か。
 かけ直す。
 心配していた母さんが出た。
 今どこ。
 小平だと言うと、はあ? と呆れられた。

 あの日以来、家まで行くようなことはしていない。
 部活動後に軽音楽部の前に行くことも減っていった。
 ファンクラブが出来ていた。
 気取った女子達が、憧れの人に黄色い声を送るための。
 軽音楽部のドア前には、いつも三人から五人の出待ちが居た。
 だから、いつもの日課は、もう出来なくなった。

 でも、それだけが理由じゃなかった。

 ──知ってたよ。

 全てを見透かされたかのようで、怖くて怖くて、仕方がなかった。
 何が、怖いんだろう。
 好奇心旺盛な太陽は考える。
 毎週音楽を盗聴していたから?
 尾行したのが、疚しいから?

 いや、違う。

 失うのが、怖いんだ。
 あの歌声を。
 あの後ろ姿を。
 こっちを見る、黄色いあの人形を。

 紫園太陽は、生まれて初めて好きになった少女から、自分を遠ざけた。

 でも、あれからしばらく経ったあの日。
 ライブの熱が治まらない、あの体育館で。
 新宿マルイの袋から落ちたあの黄色い人形が踏まれるのを見過ごすことが、どうしても出来なかった。
 だから、走った。
 だから、急いで拾った。

 だから、その時初めて、自分から声をかけた。

「ねえ君……落としたよ」
 黄色い人形を、見せた。
「……なに?」
 灰島さんが振り返った。
 取り巻きのファンクラブの女子達も振り返る。
 でも、なるべく堂々とするように心掛けた。
「ほら、このお人形。君のかと……」
 ばっ。
 灰島さんは黄色い人形を──余程大切なのだろう──勢いよく取った。
「……ありがと」
 短くそう言うと、太陽に背を向けた。
「あの」
 それでも、太陽は諦めなかった。
 ファンクラブの子達がまた、ウザったそうに太陽をじろりと睨んできた。
「僕、一年D組の、紫園。紫園太陽。……君、なんていうの?」
 もちろん、フルネームは知っていた。
 けど、お互い自己紹介をしたかった。
「ちょっとっ! この人は午後の部の練習があって忙しいの。後にして──」
「灰島」
 灰島さんは後ろを向いたまま、ファンクラブの子達の声を上書きした。
「灰島月子」
「あのさ、うちのクラス、屋台やってて……その……来てくれると」
 太陽が言い終わる前。
「……」
 また何か言った。

 ──名前、知ってるくせに。

 確かに、そう言った。

 それからも、彼女は生き急いでいた。
 図書室で一人でいる時。
 一階の渡り廊下で一人でお弁当を食べてる時。
 部活帰り、ファンクラブの子達に囲まれてる時。
 ギターを手に歌を歌っている時以外は。
 常に、常に教育学部入試の対策本を読んでいた。

 放っておけなかった。
 いつか壊れてしまうんじゃないかと思った。

 昼休み、ひとりで屋上の錆びた緑色のフェンスに手をかけて立っているのが、D組の窓から見えた。
 ゾッとした。
 いつか本当に、そこから飛び降りてしまうんじゃないかと思った。

 ある日。
 女の子と手を繋いで歩いて居るのを、見た。
 相手は、男子たちが勝手に巨乳だと言ってアイドル扱いしている話題の、二年生の茶川志保先輩だ。
 セーラー服の上からでも分かるボリューム満点の胸だ。
 始めはただ、仲がいいだけだと思った。
 でもある日、キスをしていた。
 裏庭の、渡り廊下から見える所で。
 その時、初めて太陽は知った。

 自分の想い人は、同性愛者だと言うことを。

 構わない、と思った。
 自分の好きな人が幸せになるなら、それでいいと思った。

 でも実際は、灰島さんはそれからどんどん不安定になっていった。

 地理の時間、急に廊下で悲鳴が聞こえたかと思ったら、灰島さんが泣いていた。
 学年中が、みんな廊下に野次馬に出た。
 よく聞こえなかったけど、「ひすい、ひすい」と言って泣いていたような気がする。

 すれ違った時、手首に包帯を巻いていたこともあった。

 一人でお弁当を食べている時も、泣いていた。
 その時も、ひすい、と呟いていた。

 下校中、小学校の列の前でしゃがんでいた。
 にこにこしながら、女の子に「こんにちは」と声をかけている。
 知り合いでも居るのかと思ったが、どうも違う。
「片っ端から」女の子に声をかけているのだ。
 そして列が過ぎると、また泣き出した。

 そしてある日、遂に一人の女の子の手を引っ張った。
 女の子は、いたい、やめてと悲鳴を上げた。
「ねえ、ひすい、また遊ぼうよ、ねえ」
 その時も、ひすいという名前を出していた。
 他の子達も悲鳴を上げ始めた。
「灰島さんっ」
 太陽は思わず駆けつけた。
 でも、まるで催眠術にでもかけられてるかのように、ものすごい力で掴んでいる。
「ねえ、ひすい、どうして、叫ぶの。どうして逃げるの。あたしだよ、月子だよ」
「やめなよ、灰島さんっ、灰島さんってば!」
「ひすい! ひすい!」
 程なくして、警官がやってきた。
「君、この子の友達?」
 太陽も巻き込まれた。
 灰島さんは、三日間の停学になった。

 その時期からである。
 毎日毎日、太陽が灰島さんのことを気にかけるようになったのは。

 その時期からである。
 太陽に、貧血の症状が、出始めたのは。

 その日は、一週間ぶりに学校に行けた。
 その間に灰島さんが死んでしまっているんじゃないかと思ったけど、それはなくて安心したのは、覚えてる。
 ただ、やっぱり日中は辛い。
 授業中もふらふらして、集中できない。
 体育なんて、以ての外だ。

 そんな時、灰島さんとすれ違った。
 ぽすっ。
 廊下に、あの黄色い人形が落ちている。

 ──ああ、灰島さんったら、また落としてる。

 気がついてないみたい。
 しょうがない。
 拾わなきゃ。
 走った。
 はあっ。はあっ。
 先生には、走っちゃダメだと言われてたけど。
 どうしても。
 届けなきゃ。
「あの……灰島さん」
 はあっ。はあっ。
「……何? 誰だっけ」
 ははは。
 そりゃないよ。
 一緒に取り調べ受けたじゃん。
「……大丈夫?」
 はあっ。はあっ。
 どうしても息が整わない。
「……ま、また、落としてたよ」
 はい。
 黄色い人形を渡した。
「その……お人形……可愛い……よね」
 言い終わらないうちに、太陽は意識を失った。
「ちょ、ちょっとっ!」

 ──しっかり、しっかり!
 遠くで、灰島さんが呼んでいる。
 ──ほら、歩いて……ほら!
 そうか、僕、今、灰島さんと手を繋いでるんだ。
 ──ほら、保健室だよ、もうちょっとだよ!
 やっとだよ。
 一年間、ずっと見てきて、やっとだよ。

 あはは。

 温かいなあ。

 ……

 どんっ。
 ずるずる。
 誰かが僕を引き摺っている。
 いたた、もう少し丁寧に運んでおくれよ。
 がらっ。
 ん? 待って、ここどこ──

 どんっ。
「わっとっと!」
 全く唐突に、学校の教室みたいな所に放り込まれた。
「痛たたた」
 周りを見渡す。
 保健室かと思ったけど、違う。
「……ここ、どこだ?」
 思わず呟く。
 そして、その先に、知っている顔がある。
 今よりなんだか、大人になったように見える。
 けど、分かる。

「あ……君、確か……灰島……月子さん……だったよね?」

 その少年は、月子のことを、毎日毎日、かかさずにその目に焼き付けてきたのだから。
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