人形学級

杏樹まじゅ

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【五分休憩-三】

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「またこのクソガキは楯突きやがって」
 白鳥萌のお父さんの口癖だ。
 飲んでる時は、特にひどい。
 ビールを買ってこないと、お腹を蹴られるなんてことは日常茶飯事だった。

 萌の家は小平市のいちばん大きな──奇しくも自分がいじめている子と同じ──団地にある一室だ。
 決して狭い間取りでは無い。
 でも、部屋は玄関まで酒瓶だらけで足の踏み場がない。
 壁にはお父さんが酔って殴った穴が幾つも空いている。
 溢れるゴミは、萌と弟が寝る部屋にも溢れていた。
 お母さんは、もうひと月帰ってきてない。
 だから、萌は働かないで生活保護を受けるお父さんにすがるしかなかった。
 どんなに殴られても、髪を引っ張られても。
 ずっと、ずっと前からそうだったから、もう慣れた。
 ただ──五つ年下の弟の蒼太のことは、守らなければいけないと心の底でいつも思っていた。
 だから蒼太がどんなに失敗しても──例えば、おもらしをしてしまったり、おやつが欲しいと泣いた時、聞き分けのできない弟に変わって萌が殴られた。
 いい。それでもいいと思った。
 蒼太さえ殴られなければ、それで。
 胸には言葉にできない穴が空いてしまって、寒い。
 でも、それでいい。
 そう言い聞かせて生きてきた。

 小学校低学年の時は、顔中アザだらけで登校していた。
 周りのお友達はみなひそひそと噂した。
 アザのことを笑われるのは、なによりも恥ずかしくて、辛かった。

 三年生のある日、お父さんのお酒のゴミの中からお母さんのファンデーションを見つけた。
 お父さんが寝ている隙に、洗面所の鏡の前で塗ってみる。
 ファンデーションの粉は萌に馴染んで、アザはあっという間に消えた。
 その日から、萌は生まれ変わった。
 小柄だけど、もともと整った顔立ち。
 その上バレないようにお化粧したから、たちまち男子も女子も可愛いと集まって、持て囃されるようになった。
 この時、萌は持ってはいけない感情を持ってしまう。

 ずっと、ずっとお父さんに踏みにじられて、生きてきた。
 ──たまには、あたしが踏みにじる側に立っても、いいよね。

 同じ団地に住む、緑川ひすい。
 大して可愛くもないのに、髪の毛をふわふわとさせて、気が小さい癖に男子の気でも引こうっての?
 気に──喰わなかった。
 グズ。ブス。
 どんなに悪口を言ってやっても、始めはへらへら笑っていた。
 でもそのうち黙るようになっていった。
 つまらない。
 だから髪を引っ張った。
 頬をツネった。
 わんわん泣かせた。
 萌は、この上ない快感を得るようになった。
 あたしでも、お父さんみたいに誰かを踏みにじれるんだ──
 萌はタガが外れた。
 毎日毎日、気の済むまでいじめた。

 五年生になって、おもちゃが増えた。
 デカいくせに痩せてて、大きなメガネをかけた灰島月子だ。
 こいつは、ひすいと違って悲鳴をあげない。
 面白みには欠けるけど、この前、校舎裏に呼び出して裸にしてやった。
 生意気に萌より早く生理なんて来てるみたいで、ぐしょぐしょのパンツを放り投げて遊んでやった。
 そしたら傑作だ。
 男子たちが見ていてくれた。
「みて、露出狂がいるよ!」
 そう言ってやると、男子達は大笑いして周りに言いふらした。
 初めて泣いた顔を見た。
 勝った。
 根暗で木偶の坊のおもちゃを泣かせた達成感でいっぱいだった。
 満面の笑みで家に帰った。

 でもその日は、お父さんがひどく機嫌が悪かった。
 酒を買ってこい酒を買ってこい、すごい剣幕で捲し立てながらがなるので、缶チューハイを三本買ってきたら、ビールが良かったと散々殴られた。
 顔に大アザが出来てしまった。
 急いでお母さんのファンデーションを塗る。
 でも、どんなに厚くぬっても、消えてくれなかった。
 その晩、膝を抱えて泣いた。

 次の日、道徳の時間。
 授業中にあのひすいが言った。
「萌ちゃん、そのアザ、どうしたの? 大丈夫?」
 は?
 なんだって?
 あたしのおもちゃのクセに、なに人の顔に文句付けてんだ?
「あんたっ! 人の顔にイチャモン付けてんじゃねえよっ」
 髪を引っ張ってやった。
「みなさん、お口にチャックですよ──」
 当然、怒り沸騰な萌には黒木先生のそんな小さな声は聞こえない。
 ふと、黄色い人形みたいなのに、目が止まった。

 ──壊して、やりたくなった。

「うわーん」
 ひすいが泣き出した。
 泣かせてやったのに、腹の虫が収まらない。
「なによっ、人形くらいで!」

 白鳥萌は忘れていた。
 自分もお父さんに、同じように罵声を浴びせられていたことを。

 その数ヶ月後。
 ひすいが死んだ。
 なんか、飛び降りたらしい。
 困ったな。
 おもちゃが減った。
 月子ひとりじゃ満足出来ない。
 隣のクラスの子も、おもちゃにすることにした。

 萌のいじめは、中学校を卒業するまで続いた。
 お父さんの暴力も、中学校を卒業するころまで続いた。
 でも、高校一年生の春、お父さんは呆気なく死んだ。
 急性肝炎だった。
 ──いい気味だと、思った。
 解放された気分だった。
 高校生は、小平のそこそこの高校に通った。
 化粧をした。
 スカートをめちゃくちゃ短くした。
 憧れていたロックバンドの真似をしたくて、軽音楽部に入った。
 小柄でツインテールな萌に、変なオタクのファンクラブが出来た。
 オタク達は正直キモくて勘弁って感じだったけど、それなりに持て囃されるのは悪い気がしなかった。
 でもある日気がついた。
 なぜか……

 もう居ないはずのひすいのことを、目で追うようになっていることに。

 初めはおもちゃを探しているんじゃないかと思った。
 でも、どんなにオタク達にチヤホヤされても、浮かぶのはひすいの顔だった。
 そして、高校二年生のころ、転校してきた先輩に会って、やっと理解した。
 その人は新宿の高校から転校してきた三年生の茶川志保先輩だ。
 軽音楽部が好きみたいで、いつも練習を見に来ていた。
 胸が大きくてスタイルが良くて、優しくてそしてなにより……

 ひすいに、目元が似ていた。

 その目で見られると、どうしてかどきどきして止まらない。
「なあに?」
 思い切って声を掛けた。

 そこからはあっという間だった。
 お互い求め合って、体の関係になった。
 なんでも、前にも後輩と付き合ったことがあったらしくて、その人は手慣れていた。
 優しい先輩にリードされて愛されるのは、まるでひすいが優しくしてくれてるみたいで嬉しかった。
 志保先輩は八王子の教育学部のある大学に通いたいみたいだった。
 特に将来の夢なんて無かったけど、同じ大学に通いたかった。
 だから、とりあえず受験は頑張った。
 志保先輩と一緒に大学でも愛し合いたくて。

 萌の努力は実った。
 一年遅れだけど、志保先輩と同じ大学の経済学部に入った。
 週に三度はラブホテルに通った。
 コンドームなんて要らない。
 女の子同士だもん。
 骨の髄まで溶け合って、愛し合った。
 そんなに授業には興味はないから適当にやってて、単位も何個か落としたけど、四年生までなんとか進級出来た。

 六月の蒸し暑いある曇りの日。
 その日は愛する志保先輩と──春に無事、教師に成れたようだ──ラブホテルでデートの約束をしていた。
「私が迎えに行くよ」
 愛する志保先輩が、迎えに来てくれていた。
 手を振る。
 志保先輩も、いつものひすいとおなじ顔で手を振った。
「志保先輩、おまたせ!」
 思いっきり手を振る。
 萌は愛する先輩に会えて幸せいっぱいになった。

 ああ、しあわせだなあっ。
 生きてて良かった!

 ……

 その講義棟は、茶色で、九階まであって、経済学部の他に教育学部も入っていた。

 ごきゃっ。

 神様は、ひどいいじめをして生きてきた萌を、許していなかった。
 神様は、女の人同士愛する萌を、昔殺した友達に重ねて愛する萌を、許していなかった。

 神様の雷に打たれた萌の意識は、深い、深い地の底に沈んだまま、二度と陽の光を浴びることは許されなかった。
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