人形学級

杏樹まじゅ

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【灰島月子の学級-三】

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「社会科で使う世界地図を忘れてしまいました。授業用の、大きな、丸めてあるやつです。準備室へ、取りに行っていただけませんか」

 月子は指示通り、社会科準備室の前に来た。
 鍵が掛かってそうだったけど、引いたら素直に開いてくれた。
 埃の匂いがつんと鼻を刺激する。
 左右に聳えるラックには、社会の授業で使う様々なものが収納されている。
 月子は世界地図を探した。
「平成二十年発行 地球地図全球版 国土地理院」
 すぐに見つけた。
 重い地図を持って、振り返った、その時。

「先生、ひすいのこと、見て?」

 ひすいが、立っていた。
 月子が大好きで、ずっと会いたかった、ひすいが。
 ひすいは深緑のシャツを、ゆっくりたくしあげた。
 下着も、一緒に上げていた。
 大好きなひすいの、大好きな裸が、目の前にさらけ出された。
 手を伸ばせば、触れられる。
 大好きなひすいに。
 大好きな──

 ぞくり。

 触れようとした瞬間、強烈な既視感が月子を襲った。
 ──だめだ。
 触ってはいけない。

 後ずさる。
「先生?」
 ひすいが見つめてくる。
「ひすい……ごめん!」
 そう言うと、地図を持って、廊下に通じるドアまで走った。
 がらっ。
 開けると、のっぺらぼうの人形達がドアの前で十五体ほど固まっている。
 社会科室を振り返る。
 服をたくしあげたひすいが、こちらを見ている。
「ざんねん。今回は月子ちゃんの勝ち」
 月子は何も言わずに、動かない人形たちを倒して、廊下に出た。
「気をつけて」
 背後でひすいが言った。
 ぴたりと月子は足を止めた。
「みんな、月子ちゃんを試したがってる」
 振り返る。
「どうして……?」
「あはは。それはそうだよ。ここは世界で一番優しくて世界で一番平和な学級、『人形学級』なんだから。月子ちゃんはなるんでしょ、人形学級の先生に」
「……うん、そうだよ」
「気をつけて。覚えておくことだよ。何度失敗しても」
「覚えておく? なにを?」
「忘れちゃ、だめ。忘れちゃだめだよ」
 そう言うと、ひすいだったのっぺらぼうの人形は、ばたりと倒れて動かなくなった。

 教室に帰った。
「あら、今度は持って来られましたね」
 緑川先生が意味深に微笑む。
「……はい、これを」
 国土地理院監修の重たい地図の筒を渡した。
「これこれ。重いんですよねえ。助かりました。よいしょっと」
 そう言うと、黒板のフックに地図を掛けた。
 取っ手を引っ張ると、色鮮やかな世界の地図が現れた。
「はいはーい、一時間目、始まりますよー、ちょっと遅くなっちゃったけど」
 緑川先生が、待ちくたびれておしゃべりをしている四人の生徒に呼びかけた。
「きりーつ」
 黒板を見る。日直 蒼井アキ。
「れー。ちゃくせきー」
 三人はぺこりとお辞儀をすると、席に着いた。
「はいはい、夏休みが終わって、最初の授業です。みなさんはちゃあんと過ごしてきましたかー?」
「はーい!」
 ぼたんがいちばん元気よく返事をした。

 きーんこーんかーんこーん。
「いかがでしたか? 緊張したでしょう」
 初日を終えた月子を、緑川先生が労う。
「ああ、いえ、大丈夫です」
 大丈夫ではなかった。
 一限目の社会は、ぼたんが嫌いな教科だった。
 居眠りを指摘したアキと喧嘩になった。
 仲裁は月子が右往左往して収めた。
 二限目の体育は、つばきが苦手な教科だった。
 バスケットボールのドリブルが上手くいかなくて、体育館の端で座ってしまった。
 結局、最後まで参加しなかった。
 三限目の理科は、サクラが暴走した。
 勝手に塩酸をビーカーに入れて走り回った。
 危うく月子の顔に塩酸を被るところだった。
 四限目の道徳は、アキが泣き出した。
 反戦の内容の物語で、ヒロインが死んでしまう所で、音読出来なくなった。
 三人と月子と緑川先生総出で泣き止ませた。
 半日の授業だった。
 五限目は無い。
 生徒の数も、たった四人。
 それでも、こんなに疲れるのか、そう思った。

 なにより。
 今日は九月一日だ。
 普通、授業はない。
 外も、何時間経ってもお日様の位置は変わらない。
 違和感ばかりあるが、どうしてそうなのか、よく思い出せない。

「……はい、皆様……いただきます」
「いただきまーす!」
 給食係のつばきが小さな声で号令を掛けると、ぼたんが元気よく返事をした。
「んー! おいひー! やっぱりナポリタンはさいこーよね!」
 食べ方も十人十色だ。
 ぼたんは、箸でがつがつとナポリタンを食べていて、よく見ると赤のTシャツに零れている。
 アキは、フォークでクルクルと上手に巻いて、口に運んだ。牛乳キャップも、綺麗に開けた。
 斜視のサクラは、箸が上手く持てないみたいで、グーで握って、スープのつみれに刺しては、まじまじとめずらしそうに片目で見ている。
 つばきは、パンを一口大にちぎって口に運んでいる。でも全部は食べられないのか、七割ほど食べた所で箸を置いた。
「お口に合いませんか? ふふ、給食なんて、久しぶりでしょう」
 ナポリタンを残す月子に、緑川先生が微笑む。
「あ、いえ、そういうわけでは……」
「ピーマン」
 え。
「ピーマン、苦手だもんね?」
 かしゃん。
 お盆にフォークを落とした。
 緑川先生がこっちを見ている。
 ひすいと、同じ顔で。
 十年、聞いていなかった台詞だ。
 愛しい愛しい、あの声だ。
「ね、食べてあげよっか」
 黒髪で、黒い目の十一歳のひすいに変わっていた。
「……うん」
 月子はフォークにピーマンを刺して、手を伸ばした。
 ぱくり。
 ひすいが食べた。
「ありがと」
 そう言って視線を上げると。

 のっぺらぼうの人形に、フォークが刺さっている。

 がたん。
 四人ののっぺらぼうの人形が席を立つ。
「え……え……」
 人形からフォークを離したいけれど、手がフォークからはなれない。
「たべてあげよっか」
 フォークを持った四人が近づく。
 きりきりきりきり。
 丸かったフォークの先端が、目に見えて鋭くなる。
「いや、いやあ!」
「たべてあげよっか」
 必死に手を動かすが、どうしても手は外れない。
 赤のTシャツの人形が、月子の眼前に迫った。
「いただきまーす」
 そして、月子の顔面目掛けてフォークを振り下ろした。
「ぎあああっ」
 右の眼球にフォークが刺さった。
 そして、「引き抜いた」。
「やめてええええええ!」
 その後も、次々にフォークを振り下ろされた。
 何度も、何度も。
「ぎあっ、うぎゃああああっ」
 身体中を刺して、引きずり出され、また刺された。
 月子が動かなくなるまで、数分かかった。
 最後に右腕に刺さったフォークで、やっと右腕が「切断」されて、月子は床に倒れた。
 穴だらけにされたからだから流れた血は、床に一メートルの血溜まりを作った。
 空っぽになった眼窩から流れた血は、涙のようだった。

 まっくらな空間で。
 声が聞こえる。
「だめだよ、月子ちゃん。気をつけないと」
 さっき身体をズタボロにされたばかりの月子は、両肩を抱いて座り込んで震えている。
「痛かった……死んだかと思った」
「ひすいの人形さんたちは、月子ちゃんが大好きなんだよ。食べちゃいたいくらいに」
 誰かが頭を撫でる。
 顔を上げる。
 十一歳の黒髪のひすいが、しゃがんで、にっこり笑っている。
「さ、もう一度、がんばろ?」
 抱きつきたい。
 そう思って立ち上がった。

 気がつくと、水色で、木で出来ていて、重そうな扉の前に立っていた。
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