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【浮気疑惑】
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「ボク、つばきさんと浮気してるでしょ」
みーんみんみん。
みーんみんみん。
八月。
十一時二十分。
燦々と降り注ぐ太陽。
八王子市の夏は暑い。
鉄板の上で焼かれてお好み焼きにされるような暑さだ。
あんまり暑いから焼けるようなアスファルトに顔を近づけると逃げ水が見えた。
そしてその時に急にそんな事を言われて振り返ったから。
瞳さんの……可愛い水色のぱんつが見えた。
「えっち! 不潔! さいてー!」
「へええっ?」
つーん。
瞳さんは日傘と旅行カバンを持ったままそっぽを向いてしまった。
身に覚えのない濡れ衣に、博巳は、情けない声を出すのが精一杯だった。
「誰ですか、つばきさんって」
「ふっふっふー。とぼけてもムダだよ、ワトソンくん」
なにか、パイプを吹かすような仕草をして、ふうっ、と息を吐いた。
ワトソン……シャーロック・ホームズの真似だろうか。
なら、たぶん、そこに入るのはワトソンじゃなくて犯人の名前だ。
「いや、瞳さん、何を言ってるのか」
「いーえ! あたしは見ましたよ、ええ。金野つばきさん。巨乳で童顔で、茜坂病院に入院する全ての患者さんのアイドル! その豊満な胸を、いやらしい視線でまったりと眺めるボクちゃんを!」
博巳は途方に暮れる。
(えー……金野……金野……居たっけ、そんな看護婦さん……)
そういえば、入院してるはずなのに、看護婦さんの顔が一人も浮かばない。
博巳には瞳さんがいる。
だから、他の人なんて気にしたことがない。
……そのせいだと思った。
でも……
(一人も浮かばないのは、何でだ? おかしい)
毎日ベッドにお薬を運んでくるのは?
毎日ベッドで検温してくれているのは?
毎日ベッドに……ご飯をとどけてくれるのは?
ぐにゃり。
(あれ……)
視界が歪む。
「もうボクのことなんて知らないもん! バイちゃ! きーん!」
(ああ、待って。行かないで、瞳さん。行かないで)
……
「あら、こんにちは」
病院の廊下を歩いている博巳に声をかけたのは、肩まである髪をゆるめにひとつに結んだ、童顔で優しい顔をの看護婦さんだ。
左目に涙ぼくろがある。
「金野」と、名札に書いてある。
(わ……胸、大っきいなあ……いやいや、違う、そんなことを考えている場合では無い)
「病棟? わかんなくなっちゃったかな? ふふ。……迷路みたいだから、迷っちゃうよね」
ふふふ。
笑顔のまま、右手で渡り廊下の方を指さした。
「あそこに症状別の患者さんの病棟の案内と地図があるよ」
「あ……いや……あの。白血病の人のいる病棟、探してるんですけど」
「あら。それならここで合ってるよ。……もしかして、君が『ひろみくん』かしら?」
(あ。そうだ、僕がひろみだ)
そして、その名前で呼ぶのは、一人しかいない。
「あの、逢沢……瞳さんの病室はどちらですか?」
「そっか。君が、逢沢さんの、瞳ちゃんの想い人さんだったの……」
「会いたいんです。どこに行けば会えますか」
「……今は、とっても忙しいの。会えないわ」
金野さんはとてもすまなそうに、目をうるませた。
「どうしてですか。約束したんです。連れていくって。バスに乗って、瞳さんの行きたいところまで」
「……もう、瞳ちゃんはバスには乗れないわ」
「なんでですか。約束したんですよ。毎日、毎日一緒にバス停まで行って……」
「そか、婦長さんがやたら怒ってたのは、君のことだったのね……」
金野さんは下を向いて暫く俯く。
そして、ゆっくりと、口を開いた。
「いい? この茜坂病院はね。命の最前線なの。君は、幸運にも今こうして生きている。でもね。でも……」
溢れる涙を堪えながら、言った。
「そうならなかった子も、たくさん、たくさん居るの」
「瞳さんが、そうでなかった、って言うんですか」
「……ええ」
「嘘だ! 嘘だ、嘘だ!」
「ひろみくん! 嘘じゃないの。聞いて。聞いて!」
金野さんがしゃがんで、博巳の目を見た。
両手で肩を抱いて。
「逢沢瞳さんは、昨日、白血病が悪化して■■■ったの」
「そんな……だって、僕は……僕は、約束したんだ。連れていくって。連れていくって。連れて……」
ぐにゃり。
視界が歪む。
博巳はその場に崩れ落ちた。
(ああ、待って。行かないで、瞳さん。行かないで)
「ひろみくん! ひろみくん──大変──待っててね、今応援を呼んでくるから──」
……
「ダメよ、しっかり食べなきゃ。今日も一口も食べてないじゃない」
見知らぬ看護婦さんが怒っている。
博巳は布団を被ったまま、食事に見向きもしない。
「倉敷くん? 倉敷くん! ……あ、金野さん」
「どう? 食べてる?」
「それが……もうかれこれ……」
……
「おはよ、倉敷くん」
金野さんがにこにこしながら──それは布団を被る博巳には見えなかったが──博巳のベッドの隣の席に座った。
「今日は食べてもらうまで帰らないからねえ」
ごく自然にウインクしたが、もちろん博巳には見えない。
(別に見たくない。見なくなんか、ない。要らない。ご飯なんか。食べなくない。生きていたくない。連れてって欲しい。あのバスに乗って、瞳さんの待つ所に)
瞳さん。
瞳さん……
ふわり。
トマトの匂い。
お肉の匂い。
茹で上がった小麦粉の……パスタの匂い。
『かくまって。お願い』
(瞳さん?)
声がした。
四月から七月まで、毎日聞いていた、あの愛おしい声が。
(瞳さん。瞳さん!)
「瞳さん!」
がばっ。
博巳は布団をはね上げて起き上がった。
「はーい、私の勝ちね」
金野さんがにっこり笑う。
ミートソースの……スパゲッティだった。
「起きたからには今日こそは食べて……」
博巳には、金野さんの声は聞こえていない。
ただ、ただ、また聞きたいのだ。
あの声を。
大好きだったあの声を。
無我夢中でスパゲッティに食らいついて、飲み込んだ。
『ワガハイの辞書に不可能は無いのだー!』
『にひひ! 似てるね! 『ひろみ』に『ひとみ』。何かの縁かしら?』
『バイちゃ! きーん!』
(瞳さん。瞳さん。瞳さん……)
「……言うまでもなかったかな?」
ほっ、と金野さんが表情を和らげる。
博巳は泣きながら、ただひたすらスパゲッティを口に運んだ。
「そんなに、ミートソースが好きなのかな?」
金野さんが優しく笑う。
「……なんです……」
「ん?」
金野さんが耳を近づけた。
「初めてあった日のお昼に、食べたんです……瞳さんに……」
「そう……だったのね……」
涙を零し続ける博巳を見て、金野さんも声を詰まらせる。
「そうだったのね……そんなに逢沢さんが……好きだったのね……」
金野さんが優しく博巳の頭を撫でた。
あ。
飛んだミートソースが、金野さんの胸に、豊かなバストにシミて付いてしまっている。
……
「ほらー! 思い出したー?」
はっ。
気がつくと、また、バス停前に蹲っている。
もうサビ付いて字も読めない、あのバス停に。
「思い出したって……見てたって、あの時の、あのスパゲッティのシミのこと……?」
「あたぼーよぉ! 瞳さんは、大事なカレシの動向は、逐一チェックしてますからね!」
瞳さんが鼻息を荒くする。
「許しませんよー、あんな、不埒な目で見ちゃってさ!」
「でも瞳さん……」
「あーん?」
瞳さんがヤクザみたいな目で見てくる。
「いま、カレシって……」
かっ。
瞳さんは耳まで真っ赤になった。
「い、言ってない、言ってないよ、オジサンは!」
「いーえ、僕には聞こえました。カレシって、確かに、今!」
「いっ、いっ、いっ……」
「聞こえましたよー?」
今度は博巳がヤクザの真似をする。
「んー?」
「言ってないもん! 何にも言ってないもん! バイちゃ!」
きーん。
茹でダコみたいに真っ赤になった瞳さんは、両手を広げて逃げていった。
それ以来、瞳さんが浮気を疑うことはなくなった。
……
その日、バスは来なかった。
運休だろうか。
みーんみんみん。
みーんみんみん。
八月。
十一時二十分。
燦々と降り注ぐ太陽。
八王子市の夏は暑い。
鉄板の上で焼かれてお好み焼きにされるような暑さだ。
あんまり暑いから焼けるようなアスファルトに顔を近づけると逃げ水が見えた。
そしてその時に急にそんな事を言われて振り返ったから。
瞳さんの……可愛い水色のぱんつが見えた。
「えっち! 不潔! さいてー!」
「へええっ?」
つーん。
瞳さんは日傘と旅行カバンを持ったままそっぽを向いてしまった。
身に覚えのない濡れ衣に、博巳は、情けない声を出すのが精一杯だった。
「誰ですか、つばきさんって」
「ふっふっふー。とぼけてもムダだよ、ワトソンくん」
なにか、パイプを吹かすような仕草をして、ふうっ、と息を吐いた。
ワトソン……シャーロック・ホームズの真似だろうか。
なら、たぶん、そこに入るのはワトソンじゃなくて犯人の名前だ。
「いや、瞳さん、何を言ってるのか」
「いーえ! あたしは見ましたよ、ええ。金野つばきさん。巨乳で童顔で、茜坂病院に入院する全ての患者さんのアイドル! その豊満な胸を、いやらしい視線でまったりと眺めるボクちゃんを!」
博巳は途方に暮れる。
(えー……金野……金野……居たっけ、そんな看護婦さん……)
そういえば、入院してるはずなのに、看護婦さんの顔が一人も浮かばない。
博巳には瞳さんがいる。
だから、他の人なんて気にしたことがない。
……そのせいだと思った。
でも……
(一人も浮かばないのは、何でだ? おかしい)
毎日ベッドにお薬を運んでくるのは?
毎日ベッドで検温してくれているのは?
毎日ベッドに……ご飯をとどけてくれるのは?
ぐにゃり。
(あれ……)
視界が歪む。
「もうボクのことなんて知らないもん! バイちゃ! きーん!」
(ああ、待って。行かないで、瞳さん。行かないで)
……
「あら、こんにちは」
病院の廊下を歩いている博巳に声をかけたのは、肩まである髪をゆるめにひとつに結んだ、童顔で優しい顔をの看護婦さんだ。
左目に涙ぼくろがある。
「金野」と、名札に書いてある。
(わ……胸、大っきいなあ……いやいや、違う、そんなことを考えている場合では無い)
「病棟? わかんなくなっちゃったかな? ふふ。……迷路みたいだから、迷っちゃうよね」
ふふふ。
笑顔のまま、右手で渡り廊下の方を指さした。
「あそこに症状別の患者さんの病棟の案内と地図があるよ」
「あ……いや……あの。白血病の人のいる病棟、探してるんですけど」
「あら。それならここで合ってるよ。……もしかして、君が『ひろみくん』かしら?」
(あ。そうだ、僕がひろみだ)
そして、その名前で呼ぶのは、一人しかいない。
「あの、逢沢……瞳さんの病室はどちらですか?」
「そっか。君が、逢沢さんの、瞳ちゃんの想い人さんだったの……」
「会いたいんです。どこに行けば会えますか」
「……今は、とっても忙しいの。会えないわ」
金野さんはとてもすまなそうに、目をうるませた。
「どうしてですか。約束したんです。連れていくって。バスに乗って、瞳さんの行きたいところまで」
「……もう、瞳ちゃんはバスには乗れないわ」
「なんでですか。約束したんですよ。毎日、毎日一緒にバス停まで行って……」
「そか、婦長さんがやたら怒ってたのは、君のことだったのね……」
金野さんは下を向いて暫く俯く。
そして、ゆっくりと、口を開いた。
「いい? この茜坂病院はね。命の最前線なの。君は、幸運にも今こうして生きている。でもね。でも……」
溢れる涙を堪えながら、言った。
「そうならなかった子も、たくさん、たくさん居るの」
「瞳さんが、そうでなかった、って言うんですか」
「……ええ」
「嘘だ! 嘘だ、嘘だ!」
「ひろみくん! 嘘じゃないの。聞いて。聞いて!」
金野さんがしゃがんで、博巳の目を見た。
両手で肩を抱いて。
「逢沢瞳さんは、昨日、白血病が悪化して■■■ったの」
「そんな……だって、僕は……僕は、約束したんだ。連れていくって。連れていくって。連れて……」
ぐにゃり。
視界が歪む。
博巳はその場に崩れ落ちた。
(ああ、待って。行かないで、瞳さん。行かないで)
「ひろみくん! ひろみくん──大変──待っててね、今応援を呼んでくるから──」
……
「ダメよ、しっかり食べなきゃ。今日も一口も食べてないじゃない」
見知らぬ看護婦さんが怒っている。
博巳は布団を被ったまま、食事に見向きもしない。
「倉敷くん? 倉敷くん! ……あ、金野さん」
「どう? 食べてる?」
「それが……もうかれこれ……」
……
「おはよ、倉敷くん」
金野さんがにこにこしながら──それは布団を被る博巳には見えなかったが──博巳のベッドの隣の席に座った。
「今日は食べてもらうまで帰らないからねえ」
ごく自然にウインクしたが、もちろん博巳には見えない。
(別に見たくない。見なくなんか、ない。要らない。ご飯なんか。食べなくない。生きていたくない。連れてって欲しい。あのバスに乗って、瞳さんの待つ所に)
瞳さん。
瞳さん……
ふわり。
トマトの匂い。
お肉の匂い。
茹で上がった小麦粉の……パスタの匂い。
『かくまって。お願い』
(瞳さん?)
声がした。
四月から七月まで、毎日聞いていた、あの愛おしい声が。
(瞳さん。瞳さん!)
「瞳さん!」
がばっ。
博巳は布団をはね上げて起き上がった。
「はーい、私の勝ちね」
金野さんがにっこり笑う。
ミートソースの……スパゲッティだった。
「起きたからには今日こそは食べて……」
博巳には、金野さんの声は聞こえていない。
ただ、ただ、また聞きたいのだ。
あの声を。
大好きだったあの声を。
無我夢中でスパゲッティに食らいついて、飲み込んだ。
『ワガハイの辞書に不可能は無いのだー!』
『にひひ! 似てるね! 『ひろみ』に『ひとみ』。何かの縁かしら?』
『バイちゃ! きーん!』
(瞳さん。瞳さん。瞳さん……)
「……言うまでもなかったかな?」
ほっ、と金野さんが表情を和らげる。
博巳は泣きながら、ただひたすらスパゲッティを口に運んだ。
「そんなに、ミートソースが好きなのかな?」
金野さんが優しく笑う。
「……なんです……」
「ん?」
金野さんが耳を近づけた。
「初めてあった日のお昼に、食べたんです……瞳さんに……」
「そう……だったのね……」
涙を零し続ける博巳を見て、金野さんも声を詰まらせる。
「そうだったのね……そんなに逢沢さんが……好きだったのね……」
金野さんが優しく博巳の頭を撫でた。
あ。
飛んだミートソースが、金野さんの胸に、豊かなバストにシミて付いてしまっている。
……
「ほらー! 思い出したー?」
はっ。
気がつくと、また、バス停前に蹲っている。
もうサビ付いて字も読めない、あのバス停に。
「思い出したって……見てたって、あの時の、あのスパゲッティのシミのこと……?」
「あたぼーよぉ! 瞳さんは、大事なカレシの動向は、逐一チェックしてますからね!」
瞳さんが鼻息を荒くする。
「許しませんよー、あんな、不埒な目で見ちゃってさ!」
「でも瞳さん……」
「あーん?」
瞳さんがヤクザみたいな目で見てくる。
「いま、カレシって……」
かっ。
瞳さんは耳まで真っ赤になった。
「い、言ってない、言ってないよ、オジサンは!」
「いーえ、僕には聞こえました。カレシって、確かに、今!」
「いっ、いっ、いっ……」
「聞こえましたよー?」
今度は博巳がヤクザの真似をする。
「んー?」
「言ってないもん! 何にも言ってないもん! バイちゃ!」
きーん。
茹でダコみたいに真っ赤になった瞳さんは、両手を広げて逃げていった。
それ以来、瞳さんが浮気を疑うことはなくなった。
……
その日、バスは来なかった。
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