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第一部
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「お姉様って、美幸ちゃん?」
「知り合いといっても、友達の友達くらいのつながりですけど。今はお隣さんです」
郁美の母が驚いて口を挟む。郁美と美幸との仲を、母は良く思っていない。今もそれが顔に出ている。母はキリヤが美幸の隣人と聞いて、なぜ郁美が家に入り浸っているのか納得したようだ。
「美幸ちゃんの家に、行ってたのね?もう、姉妹ごっこはやめなさいって言ったでしょう」
怒りの矛先が、また郁美に向いてしまった。面倒な母の小言をそらしたくて、郁美は聞こえなかったふりをしてキリヤに問いかける。
「ねぇ、仕事ってなにしてたの?」
キリヤの袖を引くと、察してくれたキリヤは母の怒りを遮るように話し始めた。
「建設現場で力仕事ばっかり。体きつい分、収入でかいし、楽しかったな。社長が色々免許取らせてくれたし。俺、重機の操縦できるんだよね。しかも得意」
「ショベルカーとか?やば、見てみたい」
「社長への恩返しと筋トレ兼ねて時々バイト行ってるから。今度行く?」
子供の頃に憧れた働く車を間近で見れることに、郁美は母の怒りを忘れて心を踊らせた。
まさかキリヤにそんな特技があったとは。
定職についているように見えないキリヤの収入源や、ジムに通っていないと言うわりに引き締まった体の理由がわかった。
知らなかったキリヤの一面をたくさん知った。というより、今まであまりキリヤ自身のことを聞いたことがなかった。
(もっと聞きたいな)
郁美がそう思ったとき、郁美の父が口を開いた。
「キリヤ君、たくさん、頑張ったんだね。郁美も、いい友達ができたなあ」
郁美の父はちょっと涙ぐんでいる。
「郁美も少しは見習いなさい。キリヤ君、いつでも遊びにきてちょうだいね。あ、今日晩ごはん食べてく?」
母も、すっかりキリヤを信用したようだ。実の息子を差し置いてはしゃぐ両親に、郁美はちょっと寂しくなった。
「いえ。せっかくの団らんをお邪魔してしまうので、そろそろ帰ります」
腰を上げようとするキリヤを郁美の父が引き止めた。
「あ、待って待って。キリヤ君、犬アレルギーとかないかな?郁美、大丈夫ならチロちゃん見せてあげよう。癒やされるよ~」
アレルギーはないはずと言うキリヤに、郁美は飼い犬のケージを開ける。チロの小さな体は郁美をすり抜けて、一目散にキリヤのもとへ飛んでいった。キリヤの膝の上で、彼の匂いを確認している。
「めっちゃ匂ってるけど」
「敵じゃないか確認してるんだよ。ちょっとチロ、俺は?」
久しぶりに帰ってきたご主人様そっちのけで、チロはキリヤに夢中になっている。物珍しいだけだろう。とはいえ、郁美は納得がいかない。
「かわ。尻尾ちぎれない?写真撮っていい?」
「どうぞどうぞ~チロ、郁美のお友達だぞ~」
ひとしきり匂いをかいで落ち着いたのか、チロはキリヤに頭をこすりつけて甘えている。キリヤは片手にスマホを構えてチロを撫でた。
「やば。すげー可愛いっすね。やばい」
「トイプードルの男の子でね、自慢の子なんだ」
「チロ、キリヤもう帰るんだって。バイバイしよ」
父もキリヤもデレデレとチロにかまっていて、面白くない。郁美はキリヤからチロを抱き上げる。チロは少し暴れたあと、郁美の腕の中におさまった。
「やっぱ郁美のほうが落ち着くんかな?尻尾やば。かわ」
語彙力のなくなったキリヤが、少し残念そうにしている。郁美はチロに頬を寄せた。
「俺のチロ、めっちゃ可愛いだろ」
チロを抱きしめながら、郁美は得意げにキリヤを煽った。キリヤは一瞬止まったあと、無言でスマホを向けた。
キリヤが帰ったあと、母は郁美を台所へと呼び寄せた。
「あのね、美幸ちゃんのことなんだけど」
また小言が始まるのかと思ったが、母のまとう空気に怒りはなかった。それよりも困り顔で、中々先を話してくれない。
「姉様が、なに?」
口ごもる母に、ただごとではないと察した郁美は先を促す。母は、重たい口を開いた。
「叔父さんから連絡があって。美幸ちゃん、お仕事に行ってないみたいなの。なにか知ってる?お家にはいるけど、叔父さんとは会ってくれないみたいで」
郁美からさっと血の気が引いた。郁美も、あのビデオを渡した日から美幸の姿は見ていない。
「まさか、あなたが美幸ちゃんの家に行っていたなんて。叔父さんには言ってないけど、」
母の話を最後まで聞かず、郁美は家を飛び出した。
行っても、会ってくれないかもしれない。
それでも、せめて近くにいたいと郁美は願った。
キリヤはエレベーターのボタンを押して、郁美の優しそうな両親と可愛いチロの姿を思い出す。こじんまりとした一軒家。母の趣味であろう花が飾られたリビング。リビングの窓から見える庭は色とりどりの花が咲いている。
絵に描いたような幸せな家庭。
キリヤが体験したことのない世界がそこにあった。
少しぼんやりしていて危なっかしいところはあるが、郁美は素直な良い子だ。郁美はあの家で、大切に育てられてきた。
到着したエレベーターの中で、郁美の写真を見返す。実家にいるからか、郁美はいつもより幼い顔をしている。
(ますます、手放せなくなったなぁ)
郁美のおっとりとした父親としっかり者の母親が、時々映り込んでいる。郁美は両親のどちらにも似ていた。
今日のなによりも大きい収穫は、郁美の実家の住所を知れたことだった。通っている大学、実家の住所、先日のビデオ。なにかあったときの保険はいくつあっても困らない。
エレベーターが目的階に到着した。自宅のドアの前。髪の長い女が座り込んでいた。
「どこに、行ってたの?」
髪の隙間から、じっとりと美幸が見上げてきた。
美幸の顔はやつれ、目が落ちくぼんでいる。いつも完璧に化粧をしているのに、今日はなにもしていないようだ。髪も乱れきっている。
「こっわ」
「郁美は、一緒じゃないの?」
「郁美は実家。可愛かったよ、チロちゃん」
小さな尻尾を振り回すチロを思い出して、キリヤの顔がほころぶ。チロを抱き上げて得意げな郁美は本当に可愛かった。
美幸はゆっくり立ち上がって目を見開いた。
「郁美の、家に行ったの?」
「ご両親に、謝罪を兼ねてご挨拶に」
美幸が扉から離れた。その隙に自宅に入ろうかと思ったが、美幸がキリヤに飛びついてきた。衝撃に、キリヤは一瞬、刺されたのかと思った。
キリヤの胸に、美幸がしがみつく。
「どうして?今まで、誰にも興味を持たなかったじゃない。どうして、そんな顔するの?」
どんな顔だよ
キリヤが言い返そうとする前に、美幸が金切り声をあげる。
「どうして郁美なの?どうして、私じゃないの!?私のほうが先に、あなたを」
キリヤは美幸を突き飛ばす。美幸は、郁美に手を出したキリヤを憎んでいるのだと思っていた。どうやら違ったらしい。
恋愛に後も先もない。
キリヤは美幸を見下ろした。廊下に尻もちをついた美幸がキリヤの背後を凝視している。キリヤが振り返ると、郁美が真っ青な顔でそこにいた。どこから聞いていたのか。
「郁美!」
キリヤが郁美を抱きとめる。郁美の膝から力が抜た。美幸は自室に駆け込んでいった。
「知り合いといっても、友達の友達くらいのつながりですけど。今はお隣さんです」
郁美の母が驚いて口を挟む。郁美と美幸との仲を、母は良く思っていない。今もそれが顔に出ている。母はキリヤが美幸の隣人と聞いて、なぜ郁美が家に入り浸っているのか納得したようだ。
「美幸ちゃんの家に、行ってたのね?もう、姉妹ごっこはやめなさいって言ったでしょう」
怒りの矛先が、また郁美に向いてしまった。面倒な母の小言をそらしたくて、郁美は聞こえなかったふりをしてキリヤに問いかける。
「ねぇ、仕事ってなにしてたの?」
キリヤの袖を引くと、察してくれたキリヤは母の怒りを遮るように話し始めた。
「建設現場で力仕事ばっかり。体きつい分、収入でかいし、楽しかったな。社長が色々免許取らせてくれたし。俺、重機の操縦できるんだよね。しかも得意」
「ショベルカーとか?やば、見てみたい」
「社長への恩返しと筋トレ兼ねて時々バイト行ってるから。今度行く?」
子供の頃に憧れた働く車を間近で見れることに、郁美は母の怒りを忘れて心を踊らせた。
まさかキリヤにそんな特技があったとは。
定職についているように見えないキリヤの収入源や、ジムに通っていないと言うわりに引き締まった体の理由がわかった。
知らなかったキリヤの一面をたくさん知った。というより、今まであまりキリヤ自身のことを聞いたことがなかった。
(もっと聞きたいな)
郁美がそう思ったとき、郁美の父が口を開いた。
「キリヤ君、たくさん、頑張ったんだね。郁美も、いい友達ができたなあ」
郁美の父はちょっと涙ぐんでいる。
「郁美も少しは見習いなさい。キリヤ君、いつでも遊びにきてちょうだいね。あ、今日晩ごはん食べてく?」
母も、すっかりキリヤを信用したようだ。実の息子を差し置いてはしゃぐ両親に、郁美はちょっと寂しくなった。
「いえ。せっかくの団らんをお邪魔してしまうので、そろそろ帰ります」
腰を上げようとするキリヤを郁美の父が引き止めた。
「あ、待って待って。キリヤ君、犬アレルギーとかないかな?郁美、大丈夫ならチロちゃん見せてあげよう。癒やされるよ~」
アレルギーはないはずと言うキリヤに、郁美は飼い犬のケージを開ける。チロの小さな体は郁美をすり抜けて、一目散にキリヤのもとへ飛んでいった。キリヤの膝の上で、彼の匂いを確認している。
「めっちゃ匂ってるけど」
「敵じゃないか確認してるんだよ。ちょっとチロ、俺は?」
久しぶりに帰ってきたご主人様そっちのけで、チロはキリヤに夢中になっている。物珍しいだけだろう。とはいえ、郁美は納得がいかない。
「かわ。尻尾ちぎれない?写真撮っていい?」
「どうぞどうぞ~チロ、郁美のお友達だぞ~」
ひとしきり匂いをかいで落ち着いたのか、チロはキリヤに頭をこすりつけて甘えている。キリヤは片手にスマホを構えてチロを撫でた。
「やば。すげー可愛いっすね。やばい」
「トイプードルの男の子でね、自慢の子なんだ」
「チロ、キリヤもう帰るんだって。バイバイしよ」
父もキリヤもデレデレとチロにかまっていて、面白くない。郁美はキリヤからチロを抱き上げる。チロは少し暴れたあと、郁美の腕の中におさまった。
「やっぱ郁美のほうが落ち着くんかな?尻尾やば。かわ」
語彙力のなくなったキリヤが、少し残念そうにしている。郁美はチロに頬を寄せた。
「俺のチロ、めっちゃ可愛いだろ」
チロを抱きしめながら、郁美は得意げにキリヤを煽った。キリヤは一瞬止まったあと、無言でスマホを向けた。
キリヤが帰ったあと、母は郁美を台所へと呼び寄せた。
「あのね、美幸ちゃんのことなんだけど」
また小言が始まるのかと思ったが、母のまとう空気に怒りはなかった。それよりも困り顔で、中々先を話してくれない。
「姉様が、なに?」
口ごもる母に、ただごとではないと察した郁美は先を促す。母は、重たい口を開いた。
「叔父さんから連絡があって。美幸ちゃん、お仕事に行ってないみたいなの。なにか知ってる?お家にはいるけど、叔父さんとは会ってくれないみたいで」
郁美からさっと血の気が引いた。郁美も、あのビデオを渡した日から美幸の姿は見ていない。
「まさか、あなたが美幸ちゃんの家に行っていたなんて。叔父さんには言ってないけど、」
母の話を最後まで聞かず、郁美は家を飛び出した。
行っても、会ってくれないかもしれない。
それでも、せめて近くにいたいと郁美は願った。
キリヤはエレベーターのボタンを押して、郁美の優しそうな両親と可愛いチロの姿を思い出す。こじんまりとした一軒家。母の趣味であろう花が飾られたリビング。リビングの窓から見える庭は色とりどりの花が咲いている。
絵に描いたような幸せな家庭。
キリヤが体験したことのない世界がそこにあった。
少しぼんやりしていて危なっかしいところはあるが、郁美は素直な良い子だ。郁美はあの家で、大切に育てられてきた。
到着したエレベーターの中で、郁美の写真を見返す。実家にいるからか、郁美はいつもより幼い顔をしている。
(ますます、手放せなくなったなぁ)
郁美のおっとりとした父親としっかり者の母親が、時々映り込んでいる。郁美は両親のどちらにも似ていた。
今日のなによりも大きい収穫は、郁美の実家の住所を知れたことだった。通っている大学、実家の住所、先日のビデオ。なにかあったときの保険はいくつあっても困らない。
エレベーターが目的階に到着した。自宅のドアの前。髪の長い女が座り込んでいた。
「どこに、行ってたの?」
髪の隙間から、じっとりと美幸が見上げてきた。
美幸の顔はやつれ、目が落ちくぼんでいる。いつも完璧に化粧をしているのに、今日はなにもしていないようだ。髪も乱れきっている。
「こっわ」
「郁美は、一緒じゃないの?」
「郁美は実家。可愛かったよ、チロちゃん」
小さな尻尾を振り回すチロを思い出して、キリヤの顔がほころぶ。チロを抱き上げて得意げな郁美は本当に可愛かった。
美幸はゆっくり立ち上がって目を見開いた。
「郁美の、家に行ったの?」
「ご両親に、謝罪を兼ねてご挨拶に」
美幸が扉から離れた。その隙に自宅に入ろうかと思ったが、美幸がキリヤに飛びついてきた。衝撃に、キリヤは一瞬、刺されたのかと思った。
キリヤの胸に、美幸がしがみつく。
「どうして?今まで、誰にも興味を持たなかったじゃない。どうして、そんな顔するの?」
どんな顔だよ
キリヤが言い返そうとする前に、美幸が金切り声をあげる。
「どうして郁美なの?どうして、私じゃないの!?私のほうが先に、あなたを」
キリヤは美幸を突き飛ばす。美幸は、郁美に手を出したキリヤを憎んでいるのだと思っていた。どうやら違ったらしい。
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キリヤは美幸を見下ろした。廊下に尻もちをついた美幸がキリヤの背後を凝視している。キリヤが振り返ると、郁美が真っ青な顔でそこにいた。どこから聞いていたのか。
「郁美!」
キリヤが郁美を抱きとめる。郁美の膝から力が抜た。美幸は自室に駆け込んでいった。
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