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1 side佳奈多
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同級生の、幼なじみの視線に恐怖を抱くようになったのは、いつの頃からだっただろう。藤野佳奈多は過去に思いを巡らせる。
幼なじみの佐藤大翔とは幼稚園からずっと一緒だった。どちらかといえば大人しい佳奈多は、いつも大翔と一緒にいた。大翔はとても活発で元気で、佳奈多と比べるとコミュニケーション能力の高い少年だった。彼の周りにはいつでも誰かしら友達がいた。佳奈多が小学校を受験し合格したとき、佳奈多は幼稚園で大泣きした。クラスメイトの中で大翔だけが近くの公立小学校へ通うことになっていたからだ。幼稚園を卒園したら離れ離れになってしまう。
「ひろ君と同じとこがいい、バイバイ、やだ」
呼吸困難を起こすほど泣く佳奈多の頭を、大翔は優しく撫でくれた。
「大丈夫。かなちゃんに会いに行くから。俺たち、ずっと友達。な?」
笑う大翔に、佳奈多は首を横に振った。友達で、大好きで、離れたくなかった。会いに来てくれるだけでは嫌だった。傍にいてほしかった。卒園生のほとんどが佳奈多と同じ学園に進学する。その中に大翔がいない。
佳奈多は悲しくて不安で、涙が止まらなかった。泣き虫な佳奈多は一度泣き出すと中々泣き止まない。それをわかっている大翔は泣き止まない佳奈多を、辛抱強く慰めてくれていた。
卒園が間近になったあの日、大翔の母が亡くなった。母子家庭だった大翔は一人になり、遠い親戚に引き取られる話も出たようだ。葬式の席で、涙も流せずに青ざめている大翔のそばから佳奈多は離れなかった。大翔も、佳奈多の手を握ったまま離さなかった。泣かない大翔が悲しくて、朗らかな大翔の母にもう会えないことがあまりにも辛くて、佳奈多はずっとそばで泣いていた。
葬儀の後しばらくして、大翔が同じ学園に通うことになったと母から教えられた。学園は大翔の父が懇意にしていたそうだ。大翔の父はこの地方の銀行の一番偉い人で権力があり、学園に多額の寄付金を納めているらしい。
「大翔君はすごい子なの。だからもっと仲良くしなさい」
母は喜々として話した。子供の佳奈多に難しいことはよくわからなったが、ただ同じ小学校に通えることが嬉しかった。
「ひろくんと一緒。うれしい」
大翔に伝えると、大翔はしばらく固まったまま動かなかった。聞こえなかったのかと思ったが、大翔は見たことのない大人びた顔で笑って頷いた。
佳奈多と大翔は同じ学園に入学した。大翔の名字は『佐藤』から『松本』に変わった。
明るく元気でヤンチャだった大翔は、母の死を境に纏う空気が大きく変わってしまった。落ち着いていて、他のクラスメイトと比べると随分大人びて見える。先生からも同級生からも信頼が厚かった。
「かなちゃん、俺達、ずっと一緒だよ」
言葉の通り、進級しても佳奈多と大翔はいつも一緒だった。進級ごとにクラス替えがあり、一学年数クラスある学校なのに、なぜか毎回同じクラスになった。
運動会の競技も何をするにも大翔と一緒だった。入学したばかりのころは心強かったが、他の友達と思うように遊べず佳奈多はクラスメイトに距離を感じていた。
休み時間、佳奈多の前の席に座る大翔の元に、何人かクラスメイトがやってくる。
「松本君、外に遊びに行こうよ!」
「みんなで鬼ごっこしよ!」
「ちょっと待って。かなちゃん、外行く?」
クラスメイトの誘いに大翔は佳奈多を見る。友達との距離を縮めるなら、一緒に遊んだほうがいい。きっと大翔は一緒に来てくれる。勇気を出そうと顔を上げると、大翔の向こうにいるクラスメイトは佳奈多を見ていた。
『佳奈多の体育の評価が低いのはお前のせいだ、お前に似たからだ!』
父親の怒号が頭に響いた。母親を殴りつけた手で、父は佳奈多の頭を撫でる。
『佳奈多、頑張ればもっと体育でいい点が取れる。死ぬ気でやりなさい。できないならいっそ、何もしなくていいんだぞ』
みっともない姿を見せるなと父が微笑む。その後ろで、母が、すがるような目で佳奈多を見ていた。この場にいるはずのない父の姿が見える。
ちゃんとできないなら、お前はいらない。
そう言われている気がして、佳奈多は俯く。運動が苦手な佳奈多は外遊びが得意ではない。足手まといになるのが目に見えている。きっとみんなに嫌われてしまう。
「ぼ、僕、教室…ご本、読む」
「…じゃあ一緒に見よ。俺、行かない」
大翔の言葉に、クラスメイトはため息をついて行ってしまった。佳奈多が動かなければ大翔も動かない。クラスメイトも佳奈多自身も知っていることだ。それでも佳奈多が行ってきてと言えば、大翔はクラスメイトと外遊びに行ったかもしれない。
(皆と遊びたいけど、怖い。ひとりぼっちも、嫌)
佳奈多は大翔に置いていかれたくなかった。元々引っ込み思案で臆病な佳奈多は何かとすぐに大翔を頼ってしまう。何事も佳奈多を優先する大翔に、佳奈多はいつも甘えてしまっていた。大翔は佳奈多を一人にしない。佳奈多とばかり一緒にいる大翔は徐々にクラスメイトから誘われなくなっていく。
大翔は絶対に佳奈多から離れては行かない。それがわかっていて、佳奈多はずるい方法で大翔をつなぎとめている。
いっそ大翔と二人だけの世界で満足していればいいのに、それは良くないのではないか、他の子とも仲良くしたほうが良いのではないかと不安で胸がいっぱいになる。もしも、万が一、大翔がクラスメイトと遊ぶ楽しさに気づいて佳奈多から離れてしまったら。佳奈多は間違いなくクラスで一人ぼっちになってしまう。
それに、佳奈多の両親は佳奈多が大翔と友達でいることを望んでいる。
『松本頭取の息子さんと仲良くしなさい。粗相のないようにな』
笑顔を向けてくれる父親に、佳奈多は頷いた。大翔と仲良くすれば、父は笑ってくれる。佳奈多を求めてくれる。
(汚くてひきょうで、嫌な人間だ)
佳奈多は自分自身をそう思っていた。
大人びて人気のある大翔を独り占めしている佳奈多に対して、嫉妬心をむき出しにする者もいる。佳奈多はますます大翔以外の友達が出来づらくなっていた。大翔は甲斐甲斐しく佳奈多の世話をしてくれた。なにをするにも佳奈多を気にかけ、佳奈多を優先してくれる。同級生はそれが面白くなく、佳奈多はいじめを受けたことがあった。
「藤野、お前学校来んなよ。お前がいると、松本君と遊べない」
「そーだよ。お前、いらないから。もう帰れよ」
休み時間、大翔は教師に呼ばれて職員室に行っていた。佳奈多はトイレに行こうと席を立った所だった。教室の後ろで、珍しく一人になった佳奈多を囲み、クラスメイト達は『帰れ、帰れ』と騒ぎ立てた。みんなの言う通り、帰ったほうがいいのだろう。しかし佳奈多はこれほどの敵意を向けられて、恐怖で動けなかった。声も出せずに棒立ちでいる佳奈多に苛立ったクラスメイトが足を出す。
「聞いてんのかよ、藤」
言い終わる前に、佳奈多を蹴ろうとしていたクラスメイトが目の前からいなくなった。彼は床に横たわっていた。
「なにしてんの?」
聞いたこともない冷たい大翔の声が耳元でして、佳奈多は飛び上がってしまった。気づいたら、佳奈多は大翔に抱きしめられていた。クラスメイトは大翔に蹴り飛ばされたらしい。腹を抱えてうずくまっている。
「大丈夫?かなちゃん」
佳奈多は頷く。クラスメイトの蹴りは佳奈多に届かなかった。周りの嘲笑も今は止んでいる。佳奈多は怖かったが、特に害は受けていない。恐ろしいほど教室内は静かで、倒れたクラスメイトの呻く声が、きっとその場にいる全員に聞こえた。大翔は佳奈多から離れてしゃがみこむ。佳奈多を蹴ろうとしたクラスメイトの髪をつかんで引き上げた。
「ねぇ。なにしたの?かなちゃんに」
「うぎ、い、痛、松、本、く」
「聞いてんだから、答えろよ」
あまりにも冷たい大翔の声に佳奈多は震えが止まらなくなった。佳奈多の足を生暖かい液体が伝っていく。
「ぁ、」
教室内の誰かが小さく声をあげる。振り返った大翔は佳奈多を見て目を丸くしていた。
佳奈多は失禁してしまった。
声もなく涙を流して足元を汚す佳奈多に、大翔は自分の体操服を取り出して佳奈多の足と床を拭った。
「かなちゃん、大丈夫だよ。保健室行こう。歩ける?」
震えて動けない佳奈多を抱えて大翔は教室を出た。抱えられた佳奈多は震えが止まらなかった。教室中からの敵意が怖かった。
しかしそれ以上に大翔が怖かった。
他人に暴力をふるった。あんなに冷たい声を出す大翔を、佳奈多は初めて見た。
「ごめんね、もう離れないから」
保健室で事情を説明し、養護教諭が替えの服を準備してくれている間、大翔は佳奈多を離さなかった。大翔の服も汚れてしまっている。さっきは佳奈多の足と床を拭くために体操服も汚してしまった。長椅子に座る大翔の膝の上に座らされた佳奈多は謝ろうと大翔を見上げる。大翔はじっと佳奈多を見ていた。
「かなちゃん…」
佳奈多は大翔の瞳から顔を背けた。大翔は目を潤ませて佳奈多を見ていた。佳奈多の見たことのない顔だった。うつむいた先、汚れたズボンが目に入る。大翔の指が濡れた場所を這う。佳奈多は首を振った。大翔の指が汚れてしまう。
「我慢してた?…おもらし、しちゃったね」
大翔の熱っぽい声が耳に吹き込まれてくる。佳奈多は全身が怖気立った。恥ずかしさと恐怖で体の震えは止まらなかった。
「かなちゃんを、こんなにして、…許せないなぁ」
熱っぽい声が、最後はまた冷たい声になった。こんな大翔は見たことがない。こんな大翔は知らない。養護教諭が声をかけてくるまで、佳奈多は息を殺して震えていた。
幼なじみの佐藤大翔とは幼稚園からずっと一緒だった。どちらかといえば大人しい佳奈多は、いつも大翔と一緒にいた。大翔はとても活発で元気で、佳奈多と比べるとコミュニケーション能力の高い少年だった。彼の周りにはいつでも誰かしら友達がいた。佳奈多が小学校を受験し合格したとき、佳奈多は幼稚園で大泣きした。クラスメイトの中で大翔だけが近くの公立小学校へ通うことになっていたからだ。幼稚園を卒園したら離れ離れになってしまう。
「ひろ君と同じとこがいい、バイバイ、やだ」
呼吸困難を起こすほど泣く佳奈多の頭を、大翔は優しく撫でくれた。
「大丈夫。かなちゃんに会いに行くから。俺たち、ずっと友達。な?」
笑う大翔に、佳奈多は首を横に振った。友達で、大好きで、離れたくなかった。会いに来てくれるだけでは嫌だった。傍にいてほしかった。卒園生のほとんどが佳奈多と同じ学園に進学する。その中に大翔がいない。
佳奈多は悲しくて不安で、涙が止まらなかった。泣き虫な佳奈多は一度泣き出すと中々泣き止まない。それをわかっている大翔は泣き止まない佳奈多を、辛抱強く慰めてくれていた。
卒園が間近になったあの日、大翔の母が亡くなった。母子家庭だった大翔は一人になり、遠い親戚に引き取られる話も出たようだ。葬式の席で、涙も流せずに青ざめている大翔のそばから佳奈多は離れなかった。大翔も、佳奈多の手を握ったまま離さなかった。泣かない大翔が悲しくて、朗らかな大翔の母にもう会えないことがあまりにも辛くて、佳奈多はずっとそばで泣いていた。
葬儀の後しばらくして、大翔が同じ学園に通うことになったと母から教えられた。学園は大翔の父が懇意にしていたそうだ。大翔の父はこの地方の銀行の一番偉い人で権力があり、学園に多額の寄付金を納めているらしい。
「大翔君はすごい子なの。だからもっと仲良くしなさい」
母は喜々として話した。子供の佳奈多に難しいことはよくわからなったが、ただ同じ小学校に通えることが嬉しかった。
「ひろくんと一緒。うれしい」
大翔に伝えると、大翔はしばらく固まったまま動かなかった。聞こえなかったのかと思ったが、大翔は見たことのない大人びた顔で笑って頷いた。
佳奈多と大翔は同じ学園に入学した。大翔の名字は『佐藤』から『松本』に変わった。
明るく元気でヤンチャだった大翔は、母の死を境に纏う空気が大きく変わってしまった。落ち着いていて、他のクラスメイトと比べると随分大人びて見える。先生からも同級生からも信頼が厚かった。
「かなちゃん、俺達、ずっと一緒だよ」
言葉の通り、進級しても佳奈多と大翔はいつも一緒だった。進級ごとにクラス替えがあり、一学年数クラスある学校なのに、なぜか毎回同じクラスになった。
運動会の競技も何をするにも大翔と一緒だった。入学したばかりのころは心強かったが、他の友達と思うように遊べず佳奈多はクラスメイトに距離を感じていた。
休み時間、佳奈多の前の席に座る大翔の元に、何人かクラスメイトがやってくる。
「松本君、外に遊びに行こうよ!」
「みんなで鬼ごっこしよ!」
「ちょっと待って。かなちゃん、外行く?」
クラスメイトの誘いに大翔は佳奈多を見る。友達との距離を縮めるなら、一緒に遊んだほうがいい。きっと大翔は一緒に来てくれる。勇気を出そうと顔を上げると、大翔の向こうにいるクラスメイトは佳奈多を見ていた。
『佳奈多の体育の評価が低いのはお前のせいだ、お前に似たからだ!』
父親の怒号が頭に響いた。母親を殴りつけた手で、父は佳奈多の頭を撫でる。
『佳奈多、頑張ればもっと体育でいい点が取れる。死ぬ気でやりなさい。できないならいっそ、何もしなくていいんだぞ』
みっともない姿を見せるなと父が微笑む。その後ろで、母が、すがるような目で佳奈多を見ていた。この場にいるはずのない父の姿が見える。
ちゃんとできないなら、お前はいらない。
そう言われている気がして、佳奈多は俯く。運動が苦手な佳奈多は外遊びが得意ではない。足手まといになるのが目に見えている。きっとみんなに嫌われてしまう。
「ぼ、僕、教室…ご本、読む」
「…じゃあ一緒に見よ。俺、行かない」
大翔の言葉に、クラスメイトはため息をついて行ってしまった。佳奈多が動かなければ大翔も動かない。クラスメイトも佳奈多自身も知っていることだ。それでも佳奈多が行ってきてと言えば、大翔はクラスメイトと外遊びに行ったかもしれない。
(皆と遊びたいけど、怖い。ひとりぼっちも、嫌)
佳奈多は大翔に置いていかれたくなかった。元々引っ込み思案で臆病な佳奈多は何かとすぐに大翔を頼ってしまう。何事も佳奈多を優先する大翔に、佳奈多はいつも甘えてしまっていた。大翔は佳奈多を一人にしない。佳奈多とばかり一緒にいる大翔は徐々にクラスメイトから誘われなくなっていく。
大翔は絶対に佳奈多から離れては行かない。それがわかっていて、佳奈多はずるい方法で大翔をつなぎとめている。
いっそ大翔と二人だけの世界で満足していればいいのに、それは良くないのではないか、他の子とも仲良くしたほうが良いのではないかと不安で胸がいっぱいになる。もしも、万が一、大翔がクラスメイトと遊ぶ楽しさに気づいて佳奈多から離れてしまったら。佳奈多は間違いなくクラスで一人ぼっちになってしまう。
それに、佳奈多の両親は佳奈多が大翔と友達でいることを望んでいる。
『松本頭取の息子さんと仲良くしなさい。粗相のないようにな』
笑顔を向けてくれる父親に、佳奈多は頷いた。大翔と仲良くすれば、父は笑ってくれる。佳奈多を求めてくれる。
(汚くてひきょうで、嫌な人間だ)
佳奈多は自分自身をそう思っていた。
大人びて人気のある大翔を独り占めしている佳奈多に対して、嫉妬心をむき出しにする者もいる。佳奈多はますます大翔以外の友達が出来づらくなっていた。大翔は甲斐甲斐しく佳奈多の世話をしてくれた。なにをするにも佳奈多を気にかけ、佳奈多を優先してくれる。同級生はそれが面白くなく、佳奈多はいじめを受けたことがあった。
「藤野、お前学校来んなよ。お前がいると、松本君と遊べない」
「そーだよ。お前、いらないから。もう帰れよ」
休み時間、大翔は教師に呼ばれて職員室に行っていた。佳奈多はトイレに行こうと席を立った所だった。教室の後ろで、珍しく一人になった佳奈多を囲み、クラスメイト達は『帰れ、帰れ』と騒ぎ立てた。みんなの言う通り、帰ったほうがいいのだろう。しかし佳奈多はこれほどの敵意を向けられて、恐怖で動けなかった。声も出せずに棒立ちでいる佳奈多に苛立ったクラスメイトが足を出す。
「聞いてんのかよ、藤」
言い終わる前に、佳奈多を蹴ろうとしていたクラスメイトが目の前からいなくなった。彼は床に横たわっていた。
「なにしてんの?」
聞いたこともない冷たい大翔の声が耳元でして、佳奈多は飛び上がってしまった。気づいたら、佳奈多は大翔に抱きしめられていた。クラスメイトは大翔に蹴り飛ばされたらしい。腹を抱えてうずくまっている。
「大丈夫?かなちゃん」
佳奈多は頷く。クラスメイトの蹴りは佳奈多に届かなかった。周りの嘲笑も今は止んでいる。佳奈多は怖かったが、特に害は受けていない。恐ろしいほど教室内は静かで、倒れたクラスメイトの呻く声が、きっとその場にいる全員に聞こえた。大翔は佳奈多から離れてしゃがみこむ。佳奈多を蹴ろうとしたクラスメイトの髪をつかんで引き上げた。
「ねぇ。なにしたの?かなちゃんに」
「うぎ、い、痛、松、本、く」
「聞いてんだから、答えろよ」
あまりにも冷たい大翔の声に佳奈多は震えが止まらなくなった。佳奈多の足を生暖かい液体が伝っていく。
「ぁ、」
教室内の誰かが小さく声をあげる。振り返った大翔は佳奈多を見て目を丸くしていた。
佳奈多は失禁してしまった。
声もなく涙を流して足元を汚す佳奈多に、大翔は自分の体操服を取り出して佳奈多の足と床を拭った。
「かなちゃん、大丈夫だよ。保健室行こう。歩ける?」
震えて動けない佳奈多を抱えて大翔は教室を出た。抱えられた佳奈多は震えが止まらなかった。教室中からの敵意が怖かった。
しかしそれ以上に大翔が怖かった。
他人に暴力をふるった。あんなに冷たい声を出す大翔を、佳奈多は初めて見た。
「ごめんね、もう離れないから」
保健室で事情を説明し、養護教諭が替えの服を準備してくれている間、大翔は佳奈多を離さなかった。大翔の服も汚れてしまっている。さっきは佳奈多の足と床を拭くために体操服も汚してしまった。長椅子に座る大翔の膝の上に座らされた佳奈多は謝ろうと大翔を見上げる。大翔はじっと佳奈多を見ていた。
「かなちゃん…」
佳奈多は大翔の瞳から顔を背けた。大翔は目を潤ませて佳奈多を見ていた。佳奈多の見たことのない顔だった。うつむいた先、汚れたズボンが目に入る。大翔の指が濡れた場所を這う。佳奈多は首を振った。大翔の指が汚れてしまう。
「我慢してた?…おもらし、しちゃったね」
大翔の熱っぽい声が耳に吹き込まれてくる。佳奈多は全身が怖気立った。恥ずかしさと恐怖で体の震えは止まらなかった。
「かなちゃんを、こんなにして、…許せないなぁ」
熱っぽい声が、最後はまた冷たい声になった。こんな大翔は見たことがない。こんな大翔は知らない。養護教諭が声をかけてくるまで、佳奈多は息を殺して震えていた。
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