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裕司は華の病室の前にいた。入院したあの日から、久しぶりにこの場所にやってきた。何度も扉の前で逡巡し、やっと扉を叩く。大きく息を吐いてから扉を開いた。
「久しぶりだな、華。体調は、大丈夫か?」
ベッドに横たわる華の顔は青白い。体も痩せた気がする。
「…あんまり、食欲がなくて」
華は体を起こそうとするが、細い腕が心もとない。そのままでいいと裕司は華を寝かせる。何か悪い病気なのではないだろうか。裕司は不安になるが、華の症状はつわりの一部らしい。
「体調悪いとこ、ごめん。今日は、話があって来た。華のお母さんに会って、妊娠のこと、伝えてきた」
「お母さん、に?」
「元気そうだった。問題なく生活できてるって。華に、会いたがってた」
華の目に少しだけ輝きが戻った。森之宮の家に華の母が来たことはない。裕司も幼い頃に姿を見たきりだった。手紙で連絡を取っていたようだが、お互い当たり障りのないことしかやり取りしてこなかったようだ。
「僕も、お母さんに会いたい…ごめんね、僕も、行くべきだったよね」
「今度ここに来てもらうよ。あと、子供のことは、俺達の意志を尊重するって」
裕司は意を決した。医師の言葉が頭をよぎる。
『霧島さんは妊娠を望んでいませんでした。今回は諦めるという方法もあります。ただ、それには期限があります』
「子供の、ことなんだけど」
華の大きな瞳が不安げに揺れる。裕司は床に膝をついてベッドに横たわる華に視線を合わせた。裕司は華の手を握りしめて言葉を吐き出した。
「華の意志を尊重したい。ただ、俺は、子供を産んで欲しい」
今華の中に宿る命は裕司と華の子供だ。裕司はこの子を諦めることはしたくなかった。出産で苦しむのは華だが、その後のことは全て裕司が責任をとる。責任を、取らせて欲しい。
華が引き取るのであれば、二人が不自由なく生活していけるように支援する。もしかしたら、望まない形でできてしまった子供の顔を、華は見たくもないかもしれない。その時は裕司が子供を引き取り、育てるつもりだ。
華に、出産という大きな負担をかけてしまう。
産んでほしいと伝えるべきか、何度も迷い悩んだ。何度悩んでも出る結論は同じだった。
お腹の子を、産んでやって欲しい。子供が生きていくために必要なことならなんだってする。自分ができることなら何を使っても華と子供を守る。
どうか、自分と華の子供を、この世界に連れてきてあげて欲しい。
裕司は震えそうになる手を、腹に力を込めて堪えた。
華が裕司の手を握り返して頷く。
「聞こえる?赤ちゃんの、声」
裕司は華のかすかな声が、最初何を言っているのか理解ができなかった。華は苦しそうに小さく笑う。
「毎日、他の部屋から、泣き声…僕が諦めたら、この子、泣くことも、笑うことも、…」
裕司は言葉に詰まった。ここは産科病棟だ。産まれてくる命が多くある。その泣き声は、華を追い詰めてしまったのではないだろうか。
華が口元を抑える。ベッドを降りてどこかに向かおうとしていた。裕司が支え、立ち止まりながら向かった先のトイレで、華は何度もえづいて嘔吐した。裕司がナースコールを押すと、男性看護師が部屋に入ってきた。
「大丈夫っすか、菊島さん。吐き気止めの点滴します?」
華は吐きながら何度も頷く。看護師が立ち去る前に、裕司は、彼の腕を掴んだ。
「突然、すげぇ吐いて、」
「菊島さん、時々つわり重くなっちゃうみたいっすね。波が激しいみたいで…背中をさすってあげて下さい。大丈夫っすよ、病気じゃないんで」
看護師は笑顔を残し裕司の肩を叩いて去っていった。裕司は本当に病気じゃないのかと不安に思ったが、言われた通り華の背中をさする。
「ごめん、今日は、かえって」
嘔吐の合間、華は荒い呼吸を繰り返していた。戻ってきた看護師に華を任せ、裕司は部屋を出る。
本当に、この選択で良かったのだろうか。
この病院に華を連れてきたこと。産んでほしいと伝えたこと。
期限があるとしても、華が肉体的にも精神的にも追い詰められている。今このタイミングで選択を迫ったこと。
答えの出ない問いが、裕司の頭の中を埋め尽くした。
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