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第1話 幕開け5秒で死にかける

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 女の手はかさついて氷のように冷たく、こっちを見下ろす二つの目は、狂気に歪んでいた。


 突然なんのハナシだと思うだろう。
 うん。俺もまさにそんな感じ。


 はじめは夢でも見てるのかと思った。
 俺に馬乗りになった中年のおばさんが、親の敵を見るような憎悪を込めた目で睨み付けてきて、さらには俺の首を絞めている。

 あまりに現実味が無さ過ぎた。
 息苦しさを感じなかったのも夢だと思った理由のひとつ。

「殺さなきゃ殺さなきゃころさなきゃころさなきゃコロサナキャ」

 ぶつぶつと呟く声音がじんわりと耳朶じだに響き、背中をぞわりとしたなにかが駆け抜けた。

 とたんにその夢はリアルに変わる。
 暗い暗い空が、ガサガサと不気味な鳴き声をあげる木々の向こう側にあった。夜風に木々が揺れると、まるで空も一緒に揺れているように見えた。
 押し倒された地面の湿った土と草の匂い。
 首を絞める女の手の冷たさ。
 息苦しさと、死が忍び寄る恐怖。
 それらが、一瞬で現実となって襲いかかり、思考が状況に追い付かないまま、本能的に首を絞める手に爪をたてた。

「……っ!」

 異常なぐらい身体をビクつかせた女は、俺から手を離し飛び退いた。

 鉄の匂いがツンと鼻を掠めた。

「げふっ!ぅえ……はぁっ」

 急に肺に送られた空気に、げほげほと咳き込んだ。
 なにこれ、夢?現実?と混乱しながら、地面を引っ掻いて女から離れる。
 立ち上がろうとして失敗し、女に視線を向けたまま這いずるように距離をとった。


 女は両手を目の前で広げて、真新しい傷を見ている。
 目を見開き、軽く口を開けて、自分の手を凝視している。
 しかも、なにやらブツブツと呟いている。
 乱れた髪の毛がひとふさ、耳の横を滑り落ちて女の顔を半分隠した。
 それがまた、恐怖を増長させた。


 なんなのこのおばちゃん!
 頭いかれてんのー!
 キチですか!殺人鬼ですか!
 やべぇ、やべぇよこれっ!
 いくらノータリンでのーてんき言われまくりな坂谷さかたにくんでも、これがガチムチ俺ピンチな展開ってことくらいわかっからね!

 ちょっぴし離れたところの木の幹にすがり付いて上半身を起こしながら、熱を持った首を庇うように手を添えた。

 声が出せるか非常に不安だが、何故だか体がうまく動かせなくて、逃げられる気が微塵もしません。
 こうなったらとにかく大声でも出して、助けを呼ぶしかねぇ!とぐっと腹に力をいれた。

(だーれーかぁぁぁ!助けてー!こーろーさーれーるぅぅぅ!!!)


「メアリー……お前も、か?」


 ……ん?
 あれ?
 なんだ、これ。
 俺、おもっきし叫んだよね?
 え、え?
 俺は助けを呼ぼうとしたよな?
 それなのに何で勝手に口が動いてんの?
 メアリーって誰だよ。
 いま喋ってるの誰さ。
 いや、俺だよ?うん。俺が喋ってるよ?
 うん、俺って誰だ。
 坂谷くんだ。
 坂谷一葉さかたにかずは
 高校一年生。
 ピチピチの15歳、男子高校生の坂谷一葉です。

 両親は俺に、坂の先の谷底に立つ一本の木の枝の最後の葉っぱになれるくらいの根性を持つ子に育って欲しくて、一葉と名付けたらしい。
 めーるーへーんー!ってゆーよりとんだド根性精神だ。
 両親の望み通りなのか教育の賜物か、平均値すれっすれの頭脳と身体能力しかなくても、最後まで諦めない精神だけはメキメキ鍛えられました。

 そんな俺ですが、流石に目が血走っちゃってるおばちゃん相手に、愛と勇気だけを武器トモダチにして立ち向かう根性はありません。
 ソレ、勇気じゃなくて無謀だから。あと、言ってはみたものの愛はよくわからん。
 とにかくさ、君子危うきにってゆーじゃん?先人の教えには素直に頷いておこーぜ。
 昔の偉い人の言葉ってホントすごいよね!


 そんな感じて現在進行形で絶賛混乱中の俺だったが、俺の唇は俺の意思を無視して、再び勝手に言葉を紡いだ。

「お前も、僕の死を、望んでいるのか」

 ぽつり、と。
 静かに一粒だけ落ちた雨粒のような。
 寂しい声だった。

 って、待て、落ち着け、意味がわからない。
 なんなのこれ!なんなんだよこれ!
 いったい、いま何が起きてんの!
 それに気のせいじゃなくて、俺の声が子どもみたいに高くてかわいいんだけど、どーゆーことですか?

「……う……うふ、ふふ」

 女がぷるぷると肩を震わせて、笑い出す。

 小さな笑い声はやがて甲高い悲鳴のように大きくなって、夜の木々を揺らした。
 やべー。
 ホラー映画は苦手なんで、マジで勘弁願います。

「御存知なかったのですね。この世でソレを望まぬ者がいると思うのですか?」

 ひとしきり笑った後、女は視線を下げたままそういった。
 楽しいと言わんばかりに弾む声。
 理由もわからないまま、心がずきりと痛んだ。

「メアリーも、僕が憎いのか」

 ずきずきと胸の中心から痛みが広がって、指先がちりちりと焼けた。

 痛い痛い。
 悲しい悲しい。

「ええ。勿論です王子さま」

「お前も、僕が嫌いなのか」

 苦しい苦しい。
 寂しい寂しい。

「きらい……?ええ、そうですね、嫌いです。最初から、あなたが憎くて大嫌いでしたよ。あなたは可愛くて、恐ろしくて、可哀想で、憎らしくて、愛おしくて、気持ち悪くて、とても良い子なのに……ああ、なんてあわれな子、こんなにおちいさいのに……どうして、わたしの、わたしのお育てした、王子さま、わたしのかわいいおうじさま」

 四つん這いになった女は、服が草と土で汚れることも厭わずに、俺に近づいてきた。

 そっと、あまりに優しく首に添えられた掌が、愛情に満ち溢れている気がして、振り払うことが出来なかった。
 木を背に、彼女の顔を見上げる。
 狂気に塗り潰されているとばかり思っていた彼女の目は、透明な水で満たされていた。

 ぽたりと涙の滴が俺の頬へと落ちてくる。

 だから。
 だから、もういいと、思ったんだ。
 坂谷一葉おれは彼女の名前さえ聞き覚えがないけれど、何故だかわかってしまったから。

 頭じゃなくて心で理解した。
 この世界で、僕を愛してくれたのは彼女だけだった。
 その彼女が僕をいらないというならば、もう存在している意味もない、と。

「ああ、なんて、かわいそうな、わたしの王子さま」

 最期に彼女が【わたしの王子】と、そう呼んでくれたから、僕は永遠に僕が僕じゃなくなってもかまわないと思ったんだ。

「おやすみなさい、ナジィカ様」

 おやすみ、僕のメアリー。

 心の中で彼女に別れを告げて、静かに目を閉じた。
 そして、今度こそ、僕の命を終わらせる為に彼女が両手に力を込めて。


『止めろ!!!』


 空気を切り裂くような、怒りを含んだ声に、パチリと目を開ける。
 同時に、ぴりぴりと痺れていた手がカッと熱くなった。

「きゃぁあぁああああ!!!」

 俺の手が燃えていた。
 熱さはさほど感じないが、それは紛れもなく炎だった。

 息苦しさからか、無意識に掴んでいた彼女の手首。
 俺の首を絞めるその腕を伝い、炎は彼女を包み込んだ。


 踊るように、彼女はもがいた。
 生きたまま全身を焼かれながら、彼女は力の限り叫んでいる。
 それは平凡な人生を歩んできただけの俺にとてつもない衝撃を与え、彼女が世界の全てだった僕を悲しみで塗り潰した。

「なじぃかおうじいぃいい!!!」 

 最期に女は俺を睨み付けながら地面へと倒れ、動かなくなった。

 そして俺は肉が焼ける匂いに、胃液をぶちまけた。


 遠くからガチャガチャと何かが鳴る音と人の声が聞こえてくる。
 誰かが『いたぞー』と叫び、薄暗かった空は掲げられた松明の光で照らし出され、沢山の人の気配がまわりに増えた。

「王子、ご無事ですか」

 誰かが俺の腕を掴んでそう訊ねてきたが、吐き気の止まらない俺が答えられる訳がない。


 口の中を胃液で酸っぱくしながら、俺は思考する。
 今までにないほど、脳みそが激しく回転する。
 平凡な脳みそに、薄っぺらい知識が注がれた。

 この国の名前。
 俺の名前。
 俺の立場。

「ナジィカ・サウザンバルド……」

 それはこの国の現王の13番目の子どもで、【呪い子】と呼ばれる幼い王子の名前だ。
 それは俺だ。塔のてっぺんに幽閉されて、乳母と二人だけの世界を生きていた【僕】の名前だ。
 だけど同時に俺は、15歳の高校生でもあった。矛盾しているが、そうとしか説明が出来ない。
 そして、高校生の俺………坂谷一葉の記憶が間違っていなければ。


「ここ、びーえる小説の世界じゃん……そんなバカな」


 しかも、ナジィカ王子って、死亡キャラじゃん。


「そんなバカな」


 あまりに非現実的な現実に直面し、目の前がじわりっと暗くなる。
 地面に吸い込まれる胃液を見ながら、俺の意識はぷっつり飛んだ。

 胃液の溜まりに突っ込まなかったことを、切に願う!

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