蒼い春も、その先も、

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蒼い春も、その先も、

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「よく来てくれたね、穂希君」

 椿の父親に出迎えられ、慣れた玄関に足を踏み入れる。暫くの間千冬の家に預けられていたというモカも、嬉しそうに飛び付いてきた。

「穂希君?」

 どこからか、椿の声が聞こえてくる。彼の自室がある、二階からではなさそうだ。立ち尽くしていると、父親が前方に立って言った。

「椿の部屋、一階に移動したんだ。ついてきて」

 頷き、後ろに続く。とある部屋に近付いたところで漸く、クラシック音楽が鳴っていることに気付いた。

「此処だよ」
「……椿、入るね」

 慎重に部屋のドアを開けると、椿は病室に居た時と同じように、ベッドの上で上体を起こしていた。

「椿、穂希君と二人でも大丈夫そうかな?」
「うん」
「また何かあったらすぐに呼んでくれ」

 少しの間椿をよろしくね、と父親が言い残し、静かに戸が閉まった。

 ――――彼の新しい部屋は、以前よりもさらに家具や物が減り、生活感すら感じられなくなっていた。
 机上に整然と並んでいた筆記用具も、勉強道具も、壁面を埋め尽くしていた書物さえも、この部屋には無い。

 きっと椿は、今この瞬間だって泣きたいくらい、辛い思いをしていることだろう。

「穂希君、こっちに来て」

 不意に声を掛けられて、ハッと息を吸い込む。
 そろりと近付き、ベッドの縁に腰掛けると、彼は僅かに微笑んだ。

「ねぇ穂希君、他に誰か居る?」
「ううん、俺たちだけだよ。お父さんは多分リビングにいるし、……モカは廊下を走り回ってるかな。どうかした?」
「……キスしたい」

 急に小さくなった声が、何だか愛おしい。

「いいよ、しよっか」

 穂希は傷を隠す為に着ていたカーディガンを脱いで、体をぐっと捻った。縮まった距離とは離れた場所で、椿の右手は数秒間宙を探っていた。
 一声掛けてから右手を取り、何と無しに自身の肩に導く。

「……俺からする」

 そうは言ってみたものの、妙な緊張感で躊躇ってしまう。
 自分からキスをするのが初めてだからと言うよりも、視力を失った椿を驚かせてしまわないか心配だった。

 改めて向き直り、ゆっくりと顔を寄せる。そして、神経質に触れ合わせた唇を、柔らかく重ねた。
 椿の肩が僅かに跳ねたが、すぐに全身の力が抜けていくのが分かった。

「唇乾燥してる」

 嬉しそうな笑声を含んだ声で、椿が囁く。冬季程ではないものの、彼の言うとおり唇は乾いていた。この切れた唇が好きな椿の為に、もう一度口付けをする。
 椿は手探りで体の曲線をなぞった。やがて穂希の腕に辿り着いた指が、出来たばかりの傷を撫で始めた。

「……もう、全部変わってしまったような気がしてたけど、こうしてると何も変わっていないように思えるよ」

 彼が切なげに微笑む。切創に触れる指先の動きが、やけに優しかった。

 ――――やはり椿は、無意識の中で“傷”を求めている。
 最初から最後まで、自分に出来る事など、たった一つしか無かったのだ。

 視力の殆どを失った椿の弱音は、心地好く胸に溶けていく。

 穂希は再び唇を重ねて、彼の吐息を塞いだ。眼鏡が無い分、以前よりも口唇は密接し、我知らずと身体の距離も近くなる。

 視界も言葉も無いまま、仄かに熱を帯びた時間は穏やかに流れていった。
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