87 / 88
蒼い春も、その先も、
20-5
しおりを挟む
「よく来てくれたね、穂希君」
椿の父親に出迎えられ、慣れた玄関に足を踏み入れる。暫くの間千冬の家に預けられていたというモカも、嬉しそうに飛び付いてきた。
「穂希君?」
どこからか、椿の声が聞こえてくる。彼の自室がある、二階からではなさそうだ。立ち尽くしていると、父親が前方に立って言った。
「椿の部屋、一階に移動したんだ。ついてきて」
頷き、後ろに続く。とある部屋に近付いたところで漸く、クラシック音楽が鳴っていることに気付いた。
「此処だよ」
「……椿、入るね」
慎重に部屋のドアを開けると、椿は病室に居た時と同じように、ベッドの上で上体を起こしていた。
「椿、穂希君と二人でも大丈夫そうかな?」
「うん」
「また何かあったらすぐに呼んでくれ」
少しの間椿をよろしくね、と父親が言い残し、静かに戸が閉まった。
――――彼の新しい部屋は、以前よりもさらに家具や物が減り、生活感すら感じられなくなっていた。
机上に整然と並んでいた筆記用具も、勉強道具も、壁面を埋め尽くしていた書物さえも、この部屋には無い。
きっと椿は、今この瞬間だって泣きたいくらい、辛い思いをしていることだろう。
「穂希君、こっちに来て」
不意に声を掛けられて、ハッと息を吸い込む。
そろりと近付き、ベッドの縁に腰掛けると、彼は僅かに微笑んだ。
「ねぇ穂希君、他に誰か居る?」
「ううん、俺たちだけだよ。お父さんは多分リビングにいるし、……モカは廊下を走り回ってるかな。どうかした?」
「……キスしたい」
急に小さくなった声が、何だか愛おしい。
「いいよ、しよっか」
穂希は傷を隠す為に着ていたカーディガンを脱いで、体をぐっと捻った。縮まった距離とは離れた場所で、椿の右手は数秒間宙を探っていた。
一声掛けてから右手を取り、何と無しに自身の肩に導く。
「……俺からする」
そうは言ってみたものの、妙な緊張感で躊躇ってしまう。
自分からキスをするのが初めてだからと言うよりも、視力を失った椿を驚かせてしまわないか心配だった。
改めて向き直り、ゆっくりと顔を寄せる。そして、神経質に触れ合わせた唇を、柔らかく重ねた。
椿の肩が僅かに跳ねたが、すぐに全身の力が抜けていくのが分かった。
「唇乾燥してる」
嬉しそうな笑声を含んだ声で、椿が囁く。冬季程ではないものの、彼の言うとおり唇は乾いていた。この切れた唇が好きな椿の為に、もう一度口付けをする。
椿は手探りで体の曲線をなぞった。やがて穂希の腕に辿り着いた指が、出来たばかりの傷を撫で始めた。
「……もう、全部変わってしまったような気がしてたけど、こうしてると何も変わっていないように思えるよ」
彼が切なげに微笑む。切創に触れる指先の動きが、やけに優しかった。
――――やはり椿は、無意識の中で“傷”を求めている。
最初から最後まで、自分に出来る事など、たった一つしか無かったのだ。
視力の殆どを失った椿の弱音は、心地好く胸に溶けていく。
穂希は再び唇を重ねて、彼の吐息を塞いだ。眼鏡が無い分、以前よりも口唇は密接し、我知らずと身体の距離も近くなる。
視界も言葉も無いまま、仄かに熱を帯びた時間は穏やかに流れていった。
椿の父親に出迎えられ、慣れた玄関に足を踏み入れる。暫くの間千冬の家に預けられていたというモカも、嬉しそうに飛び付いてきた。
「穂希君?」
どこからか、椿の声が聞こえてくる。彼の自室がある、二階からではなさそうだ。立ち尽くしていると、父親が前方に立って言った。
「椿の部屋、一階に移動したんだ。ついてきて」
頷き、後ろに続く。とある部屋に近付いたところで漸く、クラシック音楽が鳴っていることに気付いた。
「此処だよ」
「……椿、入るね」
慎重に部屋のドアを開けると、椿は病室に居た時と同じように、ベッドの上で上体を起こしていた。
「椿、穂希君と二人でも大丈夫そうかな?」
「うん」
「また何かあったらすぐに呼んでくれ」
少しの間椿をよろしくね、と父親が言い残し、静かに戸が閉まった。
――――彼の新しい部屋は、以前よりもさらに家具や物が減り、生活感すら感じられなくなっていた。
机上に整然と並んでいた筆記用具も、勉強道具も、壁面を埋め尽くしていた書物さえも、この部屋には無い。
きっと椿は、今この瞬間だって泣きたいくらい、辛い思いをしていることだろう。
「穂希君、こっちに来て」
不意に声を掛けられて、ハッと息を吸い込む。
そろりと近付き、ベッドの縁に腰掛けると、彼は僅かに微笑んだ。
「ねぇ穂希君、他に誰か居る?」
「ううん、俺たちだけだよ。お父さんは多分リビングにいるし、……モカは廊下を走り回ってるかな。どうかした?」
「……キスしたい」
急に小さくなった声が、何だか愛おしい。
「いいよ、しよっか」
穂希は傷を隠す為に着ていたカーディガンを脱いで、体をぐっと捻った。縮まった距離とは離れた場所で、椿の右手は数秒間宙を探っていた。
一声掛けてから右手を取り、何と無しに自身の肩に導く。
「……俺からする」
そうは言ってみたものの、妙な緊張感で躊躇ってしまう。
自分からキスをするのが初めてだからと言うよりも、視力を失った椿を驚かせてしまわないか心配だった。
改めて向き直り、ゆっくりと顔を寄せる。そして、神経質に触れ合わせた唇を、柔らかく重ねた。
椿の肩が僅かに跳ねたが、すぐに全身の力が抜けていくのが分かった。
「唇乾燥してる」
嬉しそうな笑声を含んだ声で、椿が囁く。冬季程ではないものの、彼の言うとおり唇は乾いていた。この切れた唇が好きな椿の為に、もう一度口付けをする。
椿は手探りで体の曲線をなぞった。やがて穂希の腕に辿り着いた指が、出来たばかりの傷を撫で始めた。
「……もう、全部変わってしまったような気がしてたけど、こうしてると何も変わっていないように思えるよ」
彼が切なげに微笑む。切創に触れる指先の動きが、やけに優しかった。
――――やはり椿は、無意識の中で“傷”を求めている。
最初から最後まで、自分に出来る事など、たった一つしか無かったのだ。
視力の殆どを失った椿の弱音は、心地好く胸に溶けていく。
穂希は再び唇を重ねて、彼の吐息を塞いだ。眼鏡が無い分、以前よりも口唇は密接し、我知らずと身体の距離も近くなる。
視界も言葉も無いまま、仄かに熱を帯びた時間は穏やかに流れていった。
20
お気に入りに追加
46
あなたにおすすめの小説
学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語
紅林
BL
『桜田門学院高等学校』
日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する野球ドーム五個分の土地が学院としてなる巨大学園だ
しかし生徒数は300人程の少人数の学院だ
そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語である
空は遠く
chatetlune
BL
素直になれないひねくれ者同士、力と佑人のこじらせ同級生ラブ♥ 高校では問題児扱いされている力と成績優秀だが過去のトラウマに縛られて殻をかぶってしまった佑人を中心に、切れ者だがあたりのいい坂本や落ちこぼれの東山や啓太らが加わり、積み重ねていく17歳の日々。すれ違いから遠のいていく距離。それでもやっぱり惹かれていく。
病んでる僕は、
蒼紫
BL
『特に理由もなく、
この世界が嫌になった。
愛されたい
でも、縛られたくない
寂しいのも
めんどくさいのも
全部嫌なんだ。』
特に取り柄もなく、短気で、我儘で、それでいて臆病で繊細。
そんな少年が王道学園に転校してきた5月7日。
彼が転校してきて何もかもが、少しずつ変わっていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
最初のみ三人称 その後は基本一人称です。
お知らせをお読みください。
エブリスタでも投稿してましたがこちらをメインで活動しようと思います。
(エブリスタには改訂前のものしか載せてません)
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。

モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)
夏目碧央
BL
兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。
ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?
孤独な蝶は仮面を被る
緋影 ナヅキ
BL
とある街の山の中に建っている、小中高一貫である全寮制男子校、華織学園(かしきのがくえん)─通称:“王道学園”。
全学園生徒の憧れの的である生徒会役員は、全員容姿や頭脳が飛び抜けて良く、運動力や芸術力等の他の能力にも優れていた。また、とても個性豊かであったが、役員仲は比較的良好だった。
さて、そんな生徒会役員のうちの1人である、会計の水無月真琴。
彼は己の本質を隠しながらも、他のメンバーと各々仕事をこなし、極々平穏に、楽しく日々を過ごしていた。
あの日、例の不思議な転入生が来るまでは…
ーーーーーーーーー
作者は執筆初心者なので、おかしくなったりするかもしれませんが、温かく見守って(?)くれると嬉しいです。
学生のため、ストック残量状況によっては土曜更新が出来ないことがあるかもしれません。ご了承下さい。
所々シリアス&コメディ(?)風味有り
*表紙は、我が妹である あくす(Twitter名) に描いてもらった真琴です。かわいい
*多少内容を修正しました。2023/07/05
*お気に入り数200突破!!有難う御座います!2023/08/25
*エブリスタでも投稿し始めました。アルファポリス先行です。2023/03/20
切なくて、恋しくて〜zielstrebige Liebe〜
水無瀬 蒼
BL
カフェオーナーである松倉湊斗(まつくらみなと)は高校生の頃から1人の人をずっと思い続けている。その相手は横家大輝(よこやだいき)で、大輝は大学を中退してドイツへサッカー留学をしていた。その後湊斗は一度も会っていないし、連絡もない。それでも、引退を決めたら迎えに来るという言葉を信じてずっと待っている。
そんなある誕生日、お店の常連であるファッションデザイナーの吉澤優馬(よしざわゆうま)に告白されーー
-------------------------------
松倉湊斗(まつくらみなと) 27歳
カフェ・ルーシェのオーナー
横家大輝(よこやだいき) 27歳
サッカー選手
吉澤優馬(よしざわゆうま) 31歳
ファッションデザイナー
-------------------------------
2024.12.21~

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる