彼は誰

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六話

6-1

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 深い溜め息を吐く。飲み会が終わる頃には、真っ暗だった空が白んでいた。
 しかし、衣知に伝えたよりも大分早く帰ることが出来そうだ。恐らく彼はまだ眠っているだろうが、待っているものが声ではなく寝息だとしても、幸福であることに変わりはなかった。

「ただいま……」

 声を潜めつつドアを開け、近所迷惑にならぬよう、足音を殺して部屋まで向かう。

「衣知……」

 ゆっくりと開いたドアの隙間から、背中を丸めて座り込む衣知が見えた。 
 焦燥感に満ちた瞳だけが、こちらを見据えている。

「……何やってんの?」
「これは……」

 朝陽は衣知の肩に手をかけ、強引に彼を向き直らせた。
 そして唖然とする。

 彼のために購入した首輪は無残にも環状が崩れ、首元で不安定に揺れていた。

 人為的であることは明らかだ。簡単には千切れないはずの革が、力任せに切り裂かれている。 
 言葉を失っていると、思い出したように衣知が首を手で覆った。当然、意識はそちらに向いた。

「何隠した?」

 僅かな苛立ちで、鼓動が音を変えた。
 衣知の前にしゃがみ込む。と同時に、コツンと膝に何かが当たった。

「鋏……? まさか!」

 首元を覆っていた彼のか細い手首を掴むと、指先と、そして隠されていた部分に血液が付着していた。まだ新しい血だった。
 如何やら逆光で、気が付かなかったらしい。

「……違うんだ、これは……その……」

 言い訳が見つからないのか、衣知が目を泳がせる。
 瞳が濡れて、揺らいでいた。

「泣かなくていいよ衣知、昨日は薬飲んでないもんな。だから眠れなかったんだろ? ほんとにお前は、いつになったら睡眠薬なしで眠れるようになるんだろうな。いい加減この生活にも慣れてもらわなきゃ俺が悲しいよ」

 子供をあやすように、朝陽は穏やかに一笑した。
 腰を抜かしている衣知を余所に、救急箱を引っ張り出して、血を拭き取る。刃先で勢い良く引っ掻いたような、線状の傷が浮かび上がった。

「血止まってないじゃん。ガーゼしとこうか」

 普段よりも早い呼吸音が聞こえてくる。まるで痙攣しているように震える衣知の体が、随分と冷え切っていた。

「……何しようとしてたのかは分からないけど、鋏を手の届くところに置いておいた俺が悪いんだ。衣知は気にしなくていい」
「あ、あさ……」
「まだ泣いてるのか? 大丈夫、許してやる」

 衣知は今、俺にこの上なく感謝している事だろう。きっとそのお礼に尤も適した言葉を探しているのだ。
 相思相愛もここまでくると恐ろしくなる。

 だが何故か、何時ものように諦めがつかなかった。
 強がり、照れ隠し、躊躇い。
 今回の行動はそのどれにも該当しない気がした。

 ――――体の中、何かが煮え滾っている。
 今はただ、笑顔と理性を保つ事だけに意識を集中させた。
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