馬鹿犬は高嶺の花を諦めない

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忠犬、馬鹿犬、貴方のために

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 壁際に立っていた人に着替えを手伝わせながら、師匠が指だけでちょいちょいと俺を呼んでいる。その呼び方格好いい。師匠だからだと思うけど。他の人がやってても、たぶん気付かない。
 いい子にしてろって言われてたから、素直に立ち上がって師匠のところに行く。

「次はお前の採寸だ。何も抵抗せずに、大人しく立ってろ。出来るな?」
「はい、師匠」

 師匠の着替えを手伝っているのと別の人が近寄ってきて、俺の服を脱がせ始めた。別に自分で脱げるんだけど、子供じゃなくても、ここでは人に手伝ってもらわないといけないらしい。壁際にいたり、部屋に何か持ってきてくれたりするような人たちは、そういうのが仕事だそうだ。世の中には、俺の考えたこともない仕事があるみたいだ。そんなのが本当に必要なのかちょっとよくわからないけど、たまにどうやって着るのかわからないような服もあるし、師匠に言われたから手伝ってもらうようにしてる。

「あら……お弟子さまもいいお体ですのね……」
「ひっ」

 仕立屋の視線が俺に向いて、思わず声が出た。ウィルマさんに見られた時と同じような、逃げるかぶった切るか迷う危ない表情だ。けどいい子にしてたら師匠が後で遊んでくれるから、じっとしておく。べたべた触られたりメジャーを当てられたりしながら、肩回りとか胸囲とか足の長さとかを測られる。何も抵抗せずに大人しく立ってろって言われた。耐える。逃げない。本当は殴り倒したい。
 師匠はちょっと離れたところの椅子に座って、淹れられたお茶を飲んでいる。何となく嗅いだことのあるにおいだから、ウィルマさんの薬草茶か何かだと思う。ここでは煙草が吸いづらいらしくて、飲み物はほぼ、薬草茶にしているらしい。家に行った時出してもらった真っ赤な薬湯ほどの効果はないけど、体内の魔力を減らせるやつだ。それをちゃんと出してくれるということは、ここの人たちは師匠の味方なんだろう。だから、なるべく噛み付かないで大人しくしていないといけない。

「体格も申し分なし、筋肉の付き方も悪くない……うふふふふ……」

 そうやって別のことでも考えていないと、傍で聞こえるセリフが怖くて仕方ない。絶対危ない人だ。仕立屋ってこういう感じなのか。だったら新しい服なんかいらないし、古着で充分だ。今回はどうしても作らなきゃいけないらしいけど。

「し、師匠……っ」

 何も抵抗せずに大人しくしてろって言われたから、殴り飛ばすわけにはいかない。それに、どれくらいの力加減なら怪我させずに仕立屋を引き離せるのかわからない。助けてほしくて呼んだら、優雅にカップを置いて師匠が立ち上がった。

 そのままこっちに近付いて仕立屋の腰を抱き込んで、顎に手を添えて視線を上げさせる。めちゃくちゃ体が密着している上に、顔が近い。
 え、羨ましい。場所変わってほしい。

「ベティ、お前の腕は良く知ってる。期待してるぞ?」
「……は、い……」

 師匠が手を離したら、仕立屋がへなへなと床に座り込んだ。周りに控えていた人たちも、どことなく顔が赤い。
 気持ちはとても良くわかる。急に師匠にあんなことされたら、照れるどころじゃない。腰が砕けてしばらく立ち上がれないと思う。しかも実力を認めている、期待している、なんて言葉を掛けられたわけだ。喜びは計り知れない。

 俺もあんなこと言われてみたい、と思っていたら、床にくずおれていた仕立屋がばっと立ち上がって、ものすごい勢いで荷物を纏め始めた。呆気に取られる俺や周りの人たちを余所に、師匠は穏やかな笑みを浮かべたまま、黙ってそれを眺めている。
 勢いを緩めずに全部を大きめのトランクに片付けた仕立屋は、僅かな距離さえもどかしいように、半ば走るような速さでドアの前に立った。

「このベティ・ハウエル! 必ずやご満足頂けるお衣装をお持ち致しますわ!」

 そして返事も聞かずに出て行った。
 脱がされた格好のまま呆然としていた俺に、少し早く立ち直ったのか、着替えを手伝ってくれる人が服を着せかけてくれる。

「……師匠、あれ、何」
「ああやっとくと、早さも出来も良くなんだよ、あいつ」

 理解した。これが悪どい人誑しだ。
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