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闘犬、番犬、躾けられてお預け
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「……なるほど?」
俺の話を聞き終えて、師匠は三本目くらいの煙草を灰皿に突っ込んだ。話しているうちに俺も少し落ちついたけど、名前がないなんて思ってもいなかったから、動転が落ち込む方に傾いた。
「クロイチっつーのは結局何なんだ」
「仲間内だけの呼び名で……黒い髪の、一人目だから、クロイチ」
孤児なんてごろごろいたから名前が被ることもあって、髪の色と数字を組み合わせていたわけだ。ニールをアカシというのも、赤髪の四人目だからアカシ、なだけ。アカヨンだとちょっと間抜けだったから。
もしかしたら姉は俺の名前を知っていたかもしれないけど、俺は呼ばれた記憶がないし、アカシも覚えていなかった。たった五日間の記憶なんて、その後数年の積み重ねで簡単に消えてしまう。アカシも姉の顔が美人だった、と覚えているだけで、声も名前もわからないらしい。そもそも、彼女が名乗ったかどうかも怪しい。
そういうことを話すと、師匠は新しい煙草に火を点けた。そんなに吸って、足りなくならないだろうか。次の町にモンドール商会の店があったかどうか、今は思い出せない。
「で、テメェは何を焦ってんだ」
「……だって」
考えるだけでじわじわ悲しくなってきて、師匠の宝石みたいな目を見つめる。金色の滲む碧の瞳を見ていたらいつも幸せになるのに、今日は悲しい方が強いみたいだ。
「師匠、人は名前で識別するって言った。だから、名前がなかったら、師匠俺のことわかんなくなっちゃう……」
「…………ハァ?」
声は出ていないのに「何言ってんだテメェ」と聞こえた気がしたけど、不安で不安で仕方なくて、師匠に詰め寄った。ぎょっとした顔をされるが、師匠に認識してもらえないことの方が辛い。
「師匠、俺は師匠がいい、馬鹿犬でも駄犬でも何でもいいけど、師匠と一緒がいい」
「……待て馬鹿犬、落ちつけ」
「名前ないと識別、できないって師匠言ってたから、でも、俺名前なくて、ししょグエッ」
思いっきり腹を蹴り飛ばされた。痛い。吐きそうなのは何とか堪えて、腹を押さえて立ち上がる。
「目ェ覚めたか」
「…………お陰さまで」
師匠の口角が上がった。顔は正統派の王子様なのに、その笑い方はどう見ても悪役だ。
「来い。遊んでやる」
煙草を灰皿に投げ、剣を取った師匠が部屋を出ていく。慌てて俺も後を追いかけた。蹴られた腹は痛いけど、師匠と立ち合えるのは嬉しい。ここのところ聖女候補一行の護衛に掛かりきりだったから、あんまり師匠に構ってもらえなかった。合間に習ったことを一人でさらってはいたけど、素振りと実戦では違う。
町を出て少し離れたところに移動して、振り返った師匠に剣を抜いて切り付ける。難なくかわされて足が伸びてきた。また蹴られるのは嫌だから逃げる。下りた地面を蹴ってさらに横にずれて、腹を貫くつもりで突進する。剣を蹴り上げられて前が空くのは想定内で、師匠の体を掴もうと手を伸ばす。踵で叩き落とされた。その反動のまま剣を振り下ろしたけど、ひょいと体をずらされる。
全然届かない。悔しい。楽しい。
師匠は剣を使ってくれない。つまり、俺はまだまだ師匠が「遊んでやる」くらいの力量しかない。剣を取ったということは切り結んでくれるのかと思ったけど、今日は本当に遊ばれるみたいだ。何度剣を向けても、軽くかわされて足でいなされる。師匠の剣は、鞘に納められて腰に提げられたままだ。
「余所見か」
声が聞こえた瞬間に思いっきり地面に叩き付けられた。
「ッ、てぇ……!」
師匠の剣を見ていたのは一瞬のはずなのに、気付けば背後を取られて腹から地面に落とされた。顔が大地とこんにちはして痛い。起き上がって土を払っていたら、こんこんと鞘で頭を叩かれた。
「俺に覚えられたきゃ、好きに噛み付いてきな」
それは。
「……名前、なくても?」
剣帯に剣を戻し、師匠が欠伸をして踵を返す。
「俺が誰かに名前を聞いたことがあったか?」
置いて行かれないように後ろにくっついて、思い返してみる。師匠が誰かに名前を聞く前に、相手の方から名乗ってくることの方が圧倒的に多かった。そしてそれを師匠が覚えているかどうかというと。
「……なかった、気がする」
「名前なんぞただのラベルだ。ラベルじゃ中身は決まらねぇ」
師匠の教え方は難しかったけど、俺に名前がなくても、師匠は俺を知っててくれることがわかって、安心した。
俺の話を聞き終えて、師匠は三本目くらいの煙草を灰皿に突っ込んだ。話しているうちに俺も少し落ちついたけど、名前がないなんて思ってもいなかったから、動転が落ち込む方に傾いた。
「クロイチっつーのは結局何なんだ」
「仲間内だけの呼び名で……黒い髪の、一人目だから、クロイチ」
孤児なんてごろごろいたから名前が被ることもあって、髪の色と数字を組み合わせていたわけだ。ニールをアカシというのも、赤髪の四人目だからアカシ、なだけ。アカヨンだとちょっと間抜けだったから。
もしかしたら姉は俺の名前を知っていたかもしれないけど、俺は呼ばれた記憶がないし、アカシも覚えていなかった。たった五日間の記憶なんて、その後数年の積み重ねで簡単に消えてしまう。アカシも姉の顔が美人だった、と覚えているだけで、声も名前もわからないらしい。そもそも、彼女が名乗ったかどうかも怪しい。
そういうことを話すと、師匠は新しい煙草に火を点けた。そんなに吸って、足りなくならないだろうか。次の町にモンドール商会の店があったかどうか、今は思い出せない。
「で、テメェは何を焦ってんだ」
「……だって」
考えるだけでじわじわ悲しくなってきて、師匠の宝石みたいな目を見つめる。金色の滲む碧の瞳を見ていたらいつも幸せになるのに、今日は悲しい方が強いみたいだ。
「師匠、人は名前で識別するって言った。だから、名前がなかったら、師匠俺のことわかんなくなっちゃう……」
「…………ハァ?」
声は出ていないのに「何言ってんだテメェ」と聞こえた気がしたけど、不安で不安で仕方なくて、師匠に詰め寄った。ぎょっとした顔をされるが、師匠に認識してもらえないことの方が辛い。
「師匠、俺は師匠がいい、馬鹿犬でも駄犬でも何でもいいけど、師匠と一緒がいい」
「……待て馬鹿犬、落ちつけ」
「名前ないと識別、できないって師匠言ってたから、でも、俺名前なくて、ししょグエッ」
思いっきり腹を蹴り飛ばされた。痛い。吐きそうなのは何とか堪えて、腹を押さえて立ち上がる。
「目ェ覚めたか」
「…………お陰さまで」
師匠の口角が上がった。顔は正統派の王子様なのに、その笑い方はどう見ても悪役だ。
「来い。遊んでやる」
煙草を灰皿に投げ、剣を取った師匠が部屋を出ていく。慌てて俺も後を追いかけた。蹴られた腹は痛いけど、師匠と立ち合えるのは嬉しい。ここのところ聖女候補一行の護衛に掛かりきりだったから、あんまり師匠に構ってもらえなかった。合間に習ったことを一人でさらってはいたけど、素振りと実戦では違う。
町を出て少し離れたところに移動して、振り返った師匠に剣を抜いて切り付ける。難なくかわされて足が伸びてきた。また蹴られるのは嫌だから逃げる。下りた地面を蹴ってさらに横にずれて、腹を貫くつもりで突進する。剣を蹴り上げられて前が空くのは想定内で、師匠の体を掴もうと手を伸ばす。踵で叩き落とされた。その反動のまま剣を振り下ろしたけど、ひょいと体をずらされる。
全然届かない。悔しい。楽しい。
師匠は剣を使ってくれない。つまり、俺はまだまだ師匠が「遊んでやる」くらいの力量しかない。剣を取ったということは切り結んでくれるのかと思ったけど、今日は本当に遊ばれるみたいだ。何度剣を向けても、軽くかわされて足でいなされる。師匠の剣は、鞘に納められて腰に提げられたままだ。
「余所見か」
声が聞こえた瞬間に思いっきり地面に叩き付けられた。
「ッ、てぇ……!」
師匠の剣を見ていたのは一瞬のはずなのに、気付けば背後を取られて腹から地面に落とされた。顔が大地とこんにちはして痛い。起き上がって土を払っていたら、こんこんと鞘で頭を叩かれた。
「俺に覚えられたきゃ、好きに噛み付いてきな」
それは。
「……名前、なくても?」
剣帯に剣を戻し、師匠が欠伸をして踵を返す。
「俺が誰かに名前を聞いたことがあったか?」
置いて行かれないように後ろにくっついて、思い返してみる。師匠が誰かに名前を聞く前に、相手の方から名乗ってくることの方が圧倒的に多かった。そしてそれを師匠が覚えているかどうかというと。
「……なかった、気がする」
「名前なんぞただのラベルだ。ラベルじゃ中身は決まらねぇ」
師匠の教え方は難しかったけど、俺に名前がなくても、師匠は俺を知っててくれることがわかって、安心した。
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