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 思えば、その時からイスカは変わってしまったように思う。今までは何か聞けば親切に教えてくれていたはずなのだが、それくらい自分で調べろだとか、無言のまま視線を逸らされるとか、ラトシェは相手にしてもらえなくなった。
 イスカがそんな態度になると、他のフェネリの生徒たちも右に倣えというか、ラトシェに対して不親切になった。フェネリのいる前では誰もが礼儀正しいが、フェネリの目が届かなくなれば誰もが冷たい。そもそも特別に親しい友人というものもラトシェにはいなかったけれど、友人と思っていた誰もが友人ではなくなった。
 それでも、ラトシェには他に行くところもないし、帰るところもない。大金と引き換えにこの学校に来たのだ。ラトシェにしても、彫金士になる以外の道、選択肢は他にはなかった。

 ため息をつきつつフェネリの授業を終えて、ラトシェはできるだけ早くジャック・ラビットの囲いを離れた。まごまごしていると、授業の後片づけを全て押しつけられる羽目になる。素早くその場を離れて、ひっそり、彫金士学校の敷地内の森で一人で過ごすのが、ラトシェの倣いになりつつあった。
 ここなら煩わしい声も視線もないし、魔物が入ってくる危険もない。何がいけなかったのか、どうすればいいのか考えて、自分なりに次への反省をするにはちょうどいい静けさだ。

 ラトシェは相変わらず彫金に成功していなかった。イスカに魔力を呼び起こしてもらってから、常に自分の中の魔力というものは知覚できていたが、そこから糸のように練り出して網にするという次の段階を踏めずにいる。
 しかし、その辺りのこつを誰かに聞くということもできないから、こうして一人で振り返りをするしかなかった。果たしてこれでいいのかどうか、ラトシェも改善しなければいけないことは理解しているが、そちらへの解決の糸口も見つけられていない。イスカの態度が変わってしまった理由もわからないし、他の生徒の態度が冷ややかなのもそれに起因するのだろうが、修正の仕方がわからない。

 大きくため息をついて、ラトシェは木に背中を預けて目を閉じた。農家の暮らしだって楽ではなかったけれど、八方塞がりに近い今の状況だって辛い。いっそ昼寝でもして、現実から目を背けてしまいたかった。

 寝るか、と腹を決めてラトシェが体勢を整えたところで、ふいに強い風が吹いた。風が吹くこと自体が珍しいわけではないが、今のは不自然すぎる。嵐が来るような天気ではないし、あんな強い風を起こせる魔物は、彫金士学校では飼育していないはずだ。立ち上がりかけて、少しためらってから、ラトシェは宿舎の方に駆け出した。
 自分が行ったところで、という思いはある。しかし、誰もこの異変に気づいていないのだとしたら、ラトシェが知らせないわけにもいかない。この彫金士学校の全員がラトシェに親切というわけではないが、だからといってどうなってもいい人たち、というわけでもないのだ。逃げて助かる命なら、逃げてほしい。急いで走っているうちに、木々の間から空に何かが見え隠れするようになった。
 空を覆うほどの巨大な鳥が、彫金士学校の敷地の上に浮かんでいる。さすがにあれに気づかないはずもない。ラトシェは少し足を緩めた。自分が行って何とかしなければ、などといった使命感はラトシェにはないし、どうにかできるとも思えない。しかし、今頃宿舎の方では大騒ぎになっているだろうし、そこにラトシェがいないとなれば迷惑をかけるだろうことも予測はできるから、ちんたらでも戻る必要がある。行かないという選択肢はない。

 気が進まないながらも宿舎に戻ろうと走っていると、教師たちもあの巨大な鳥をどうにかしようとしているのが見えてきた。彫金士学校らしく、あの巨大な鳥すら彫金しようとしているらしい。あんな大きなものを彫金できるのだろうか。
 教師たちの魔力で足りるのか、と思ってから、ラトシェは唐突に気づいた。気づいて、今度こそ立ち止まった。今浮かんだ考えをそのまま素直に信じるほど、ラトシェも無邪気な子供ではない。だが、それがおそらく正しいだろうことが、直感として理解できた。ラトシェ以外に、もしできるとすればイスカかもしれないが、あの清流では蹴散らされるかもしれない。
 それは、だめだ。

 ラトシェは再び走り出した。イスカには邪険にされることが続いてはいるが、彼があの巨鳥に傷つけられるような、そんな光景は見たくない。教師たちの誰かが彫金に成功するとも思えなかったし、ラトシェはひた走った。けたたましい鳴き声とともに鳥が羽ばたくと、巨大な羽根が矢のように降ってくる。地面に突き刺さる音や飛び散る土くれに、肌が怖気立つ。彫金士になったらあんなものに立ち向かわなければならないなんて、恐ろしすぎる。
 教師の一人が、運悪く羽根から逃げきれず体に掠めたのが見えた。紙でも切るようにあっさりと服が裂け、赤いものが散る。周囲の人間が攻撃を避けながら何とか、建物の方へ引っ張っていった。教師だけでなく、少し年かさの生徒たちも残って対応に当たっているらしい。

「ラトシェ!?」

 フェネリの声が聞こえて、ラトシェはそちらに顔を向けた。驚いた様子のフェネリが、学校所属の魔術師と一緒に立っている。ひとまず、フェネリは怪我をしていない様子だ。
 ほっとして少しだけ気を緩めたものの、またけたたましい鳴き声が聞こえてラトシェは身をすくませた。巨鳥の方でも、ラトシェが一人ちょろちょろと走っているのに気づいているのだろう。執拗に狙われるようなことはないが、ラトシェの進む方向に羽根が飛んできたり、強い風が吹いて真っすぐ進めなかったりと妨害はされている。どこが棲み処か知らないが、人間に構わず引きこもってくれていればいいのに。

「ラトシェ! 急いで!」

 あらぬところに行きかけていた思考を呼び戻され、ラトシェは気合を入れ直した。とにかく、フェネリが無事なら彼女の受け持つ生徒たちも無事のはずで、今のところ一番危険な場所にいるのはラトシェに違いない。言われた通り、急いで合流しないと。
 まっすぐ走ることは意識して避け、教師たちや学校所属魔術師が陣取っている線を目指す。風が強く吹いて、足を取られて転びかけ、たたらを踏む。

「ラトシェ!」

 何とか踏みとどまったものの足を止めることになって、ラトシェ目がけて羽根が降ってくる。足がすくんで動けない。迫る羽軸に呆然としていたら、横から何かに体当たりされた。そのまま抱え込まれて、ごろごろと地面を転がる。どこかを擦りむいて痛い。

「バカ! 走るぞ!」

 体当たりしてきた何かにさらに怒鳴られて、体勢も整わないまま手を引かれて立ち上がる。

「……イスカ?」

 ぽけっと名を呼んだものの、返事はないまま引っ張られて走り出す。イスカの服も土で汚れているから、さっきはイスカが助けてくれたのだろう。

 どうして。

 疑問は湧くものの、今この場で聞くべきではないことくらい、ラトシェにもわかる。イスカに促されるまま走って、ふいに寒気が走って今度はラトシェがイスカを強く引っ張った。

「何すっ……!?」

 二人で後ろ向きに尻餅をついたものの、直前まで走っていこうとしていた方向に羽根が突き刺さる。

 狙われている。間違いなく。

 急いで立ち上がり、ラトシェはイスカを背に庇った。どうしてこの鳥が彫金士学校に来たのか知らないが、一方的に命の危機にさらされて、急に腹が立ってきた。おもちゃにされる謂れはない。

「高みの見物しやがって……!」

 自分の中のマグマが十二分に沸き立ったのを確かめ、塊のまま巨鳥に向けて放つ。これを練り上げて網を作って、なんて繊細な作業は、そもそもラトシェには向いていなかったのだ、おそらく。細く縒り出すなんてできないほどの勢いなら、そのままぶつけてしまえ。
 彫金士らしくなかろうが、フェネリの教えと違っていようが、ラトシェにはラトシェなりのやり方があって、たぶん、それしかできない。イスカのように、いろんな知識を取り入れて柔軟に対応してみせるなんて、そもそも向いていなかったのだと思う。村で農作業をしているときにも、お前は融通が利かないとか何とか、散々に言われていたのをラトシェは思い出した。

 自分の中から弾き出すように飛ばした魔力が、巨鳥に襲いかかって蜘蛛の巣のように絡め取っていく。巨鳥がもがいて、制御を失ったのか地面に向かって落ちてくる。

「……げっ」

 あの巨体が落ちてきたらさすがにまずくないか。
 いや、まずい、絶対まずい、どう考えてもあの大きさが落ちてきたら地面に穴が開くどころじゃない。
 そして一番危ないのは、巨鳥の一番近くにいるラトシェとイスカだ。

「い、イスカ、やばい、あぶな、にげっ、逃げないと……!」

 泡を食ってラトシェはイスカの腕を掴んだが、今度はイスカが巨鳥を見上げたまま、動かなかった。
 あんなものを見上げている場合じゃ、とラトシェも視線を空に移して、逸らせなくなった。

 にわかには信じがたいが、鳥が、縮んでいる気がする。あんな大きなものが縮んでいくことなんて、あるはずがない。
 そんなまさか、と目の前の光景を疑ってから、魔物が縮むなんてよくあることじゃないか、と思い直す。
 ただ戦って倒すだけならもちろん、魔物が縮むなどありえないが、ラトシェがいるのは彫金士を育成する場所だ。その彫金の技を使えば、魔物は小さな金属の塊まで小さくなる。ラトシェは今まで一度も彫金に成功したためしはないが、あるいは、もしかしたら、その初めての成功なのかもしれない。

 ごくりと生唾を飲み込んで、ラトシェは巨鳥が落ちていくのを見つめ続けた。空を覆っていた巨体が縮むおかげでだんだんと辺りが明るくなっていき、しゅるしゅると縮んでいく体が光沢を帯びて、ちかりと陽光を反射する。
 抑えきれなくなって、ラトシェは縮んだものが落下するであろう場所に駆け出した。あの光り方は、間違いなく金属のはずだ。あの巨大な鳥が金属の塊になったのだとしたら、ラトシェもついに、彫金に成功したことになる。巨鳥のせいででこぼこになった地面は走りにくかったが、地面に刺さったままの羽根を避けたり穴を飛び越えたりしながら、落ちてきたはずの金属を探す。こんな場所であんな小さなものを探すのは、さすがに厳しいかもしれない。せっかく、成功したかもしれないのに。

 あちこちに視線を巡らせるラトシェの目に、金属質の反射光が飛び込んでくる。ぱっとそちらに顔を向けて、ラトシェは急いでそれを拾い上げた。

 見たこともない、複雑な部品の組み合わさった、奇妙な道具だった。
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