ひとこま ~三千字以下の短編集~

花木 葵音

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優しい温もり

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「みぃ、行ってくるよ」


 私、相原泉美あいはらいずみはいつものように飼い猫のみぃに声をかけた。
 そのみぃと言えばまたいつものように知らんぷりだ。後片付けをしている母の足元で寝転んだままこちらを向こうともしない。


「もう。みぃはお母さんにばかり懐いて……。私が拾ってきたのに」
「いつものことじゃない。ほら、早くしないと遅刻するわよ」
「はーい。お母さん、行ってきます!」


 私はがっかりしながらドアの横の自転車を引いて、外に出る。今日は曇り。入学したばかりの時は綺麗に咲いていた桜もすっかり散ってしまっていて、段々学校に行く道のりも退屈になってきた今日この頃。
 せめてみぃが私を送り出してくれたら気分も変わるのにと思いながら私は自転車にまたがっていつものようにすいと漕ぎ出した。


 みぃは私が小学生の6年生の時に公園に捨てられていたのを拾ってきた猫だ。その時はまだ子猫だったのに、今では母に溺愛されてすっかり大きくなっただけでなくまんまるに太っている。
 それでも自分の飼い猫は可愛い。だから事あるごとに構っているのに、なぜか私には懐かない。
 まあ、その我儘なところも可愛いんだけれどね。と思う私は重傷かもしれない。


***


 中学の時には授業が眠いと感じたことはなかったのに、高校生になって急に授業が退屈になった。
 今は五限目。私はうとうとしながらさっぱり分からない数学の授業を子守歌代わりに聞いていた。

 その時だ。

「相原」

 数学教師の園田ではなく、クラス担任の山添が教室の引き戸の前に立って手招きしていた。

 眠っていたのを注意されるのかとどきどきしながら慌ててドアの前に行く。山添は私が廊下に出るとドアを閉めた。

「相原。落ち着いて聞いてほしい。相原のお母さんが職場で倒れたと連絡があった。病院はさくら中央病院だ」
「え?!」
「早退したいなら、早退しても構わないが、相原、どうする?」

 私の父は他界している。私にはもう母とみぃしかいないのに。

「早退します!」

 私は言うと、教室に戻って鞄に教科書類を詰め込み、駐輪場まで駆け出した。


***


 自転車でどうやって駅まで走ったのか覚えていない。
 私はすぐさま電車に乗った。

 さくら中央病院の最寄りの駅まで5つ。いつもはスマホを見ていればすぐに経ってしまう時間だが、今日は気が遠くなるほど長く感じた。

 お母さん。朝はいつも通りだったのに。どうしたんだろう。倒れたって何か病気なの?

 不安でいっぱいになる。

 駅に着くと私は全速力で病院まで走った。


 受付で母の病室を聞いて、走りたいのを我慢しながら早歩きで病室に行った。

「お母さん!」

 病室のドアを開けて呼ぶと、同室の患者さんたちが一斉にこちらを向いた。

「泉美。静かに」

 母は一番手前のベッドに横たわっていた。顔色はよくなかったが、声は普段通りだった。
 私は母のベッドのわきに座ると母の手を握った。母は大丈夫だからというようにその手を握り返す。その腕には点滴がされていた。

「ベッドを少し起こしてくれる?」

 私は母に言われて、ベッドの角度を調節した。

「急に眩暈がして、意識を失ってしまったのよ。貧血と過労が主な原因だそうだけれど、念のため検査入院をすることになったの」
「眩暈? お母さん、最近多かったの? 眩暈が起こること」
「少しのふらつきはね。今回みたいなことは初めてだけれど。学校を早退するほどのことじゃなかったのに」
「だって、心配だったんだもん」

 私は思ったよりも元気な母に安堵して涙腺が緩んでしまい、涙をこぼした。

「あらあら、泣くようなことじゃないのに」

 母はもう一度ぎゅっと私の手を握った。

「大丈夫だから、家に帰りなさい。みぃも待っているわよ」

 私はそれでも一時間ほど母のそばに居てから家に帰った。


***


 真っ暗な家に帰るのは初めてかもしれない。いつもは母が仕事から帰ってきていて、ご飯を作るいい香りがしていた。

 鍵を開けて家に入る。しんとした静寂に心が折れそうになる。

「みぃ? いないの?」

 電気をつけて靴を脱ぐ。
 みぃは普段母が立っている台所のカーペットの上で丸くなっていた。

「みぃ」

 ほっとしてそばに行ってみぃを撫でた。
 みぃは撫でられるたびに目を大きくしたり小さくしたりしながらされるがままになっていた。でも喉を鳴らして自分から私のそばに来ないのがみぃらしい。

「みぃ。今日はお母さん帰ってこないんだよ。病院にいるから。私たち二人だけ」

 私はみぃに話しかける。

「お腹すいたよね。ちょっと待ってね」

 みぃにキャットフードをあげて私は自分用にカップラーメンを用意した。

「お風呂入ろう」

 いつもはお湯が入れてある浴槽。湯気がないだけでなんだか寒々としている。
 お湯を今から入れる気になれず私はシャワーだけかかって済ませた。

 髪を乾かして、まだ出したままのこたつに足を入れ、テレビをつけた。なんだか内容が頭に入ってこない。私はパチンとテレビの電源を切った。

 明日の時間割を見て、教科書類を鞄に入れる。予習をしないといけないけれど、そんな気分になれない。

 私はもう寝てしまおうと布団をしいた。


 いつもは母の布団が隣にしいてあるけれど今日は私の布団だけ。入ってすぐは布団が冷たい。
 寒さに寝返りを何度もうちながら母のことを考える。

 検査入院と言ってたけど、どこか悪い可能性があるのだろうか。
 眩暈といったら、脳だろうか。もし母が長期に入院することになったら……。それならまだいい。手術することになったら……。死んでしまったら……。

 悪いほうにばかり考えてしまう。いつの間にか涙がこぼれていた。
 そのとき、肩の所に柔らかな温もりを感じた。

 驚いて見ると、みぃが布団の中に入ろうとしていた。普段は母の方に入って、私のところに来たことはないのに。

「みぃ。お前もお母さんがいなくて不安なんだね」

 布団を少し上げるとみぃが中に入ってきた。そして私のお腹の上に陣取る。

「みぃ、重いよ。ダイエットしたほうがいいよ」

 お腹がふんわり温かい。
 みぃを撫でているとなんだか眠たくなってきた。

「みぃ。お母さん大丈夫だよね」

 私はそう言って、重たい目を閉じた。


***


 翌日。

 なんだかお腹が重くて目が覚めて、みぃがまだそこにいるのが分かった。
 みぃは健やかな寝息をたてて寝ている。なんだか口元がほころんだ。

 大丈夫。きっとお母さんは大丈夫。

「ほら、みぃ。起きるよ」

 私が体を動かすと、みぃはのっそりと布団から出てきた。

「おはよう」

 私が話しかけてもやっぱりしらんぷりでみぃは台所の方へ歩いていく。

「ご飯あげるから待っててね」

 私はみぃにまたキャットフードを上げると、いつもより早めに支度を整えた。

「みぃ、行ってくるよ」

 みぃは結局玄関まで来てはくれなかったけれど、にゃあと返事をした。私はそれに満足して自転車にまたがった。

 朝ご飯と昼ご飯をコンビニで買って学校に行った。


 授業は今日もさっぱり分からなかったけれど、なるべく聞くようにした。
 今更だけれど、母が働いたお金で学校に行っているのだ。倒れるほど無理させて、なのに授業中に寝てちゃ母に申し訳ない。

「泉美、今日お弁当じゃないの? 珍しいね」
「うん。お母さん倒れちゃって」
「まじで? 大丈夫なの?」
「検査入院中」
「そっか。大丈夫だといいね」
「うん」

 いつもお弁当を作ってもらっていることがどれだけありがたいかもわかった。

 ごめんね、お母さん。無理させて。

 部活を休んで母の病院に行くことにした。母に今回買いたいと思ったものを買って、私は電車に乗った。


「お母さん?」

 注意されないように今度は小さな声で呼んでベッドを覗く。でもそのベッドは空だった。

 私はもたげてくる不安に気づかないふりをして、ナースセンターの看護師さんに聞く。

「あの、相原聡子の病室は402じゃなかったですか?」
「ああ、相原さんのお嬢さん? 相原さんなら先程退院されましたよ」
「! そうなんですね。ありがとうございました!」

 よかった! お母さん退院したんだ!

 私は来た時と同じように早歩きで院内を歩いて、その後は走って駅まで行った。


「ただいま~! お母さん、退院したならそう言ってよ」
「あらお帰り。退院だから言わなくてもいいかなと思ったのよ。病院行ったの?」

 靴をそろえて台所に行くと、母はシンクの前で夕飯の支度をしていて、その足元にはみぃがいた。

「行ったよ。お母さんに買ったものもあるんだから」
「そうなの? それは悪かったわね」
「それよりお母さん、大丈夫なの? 寝てたほうがいいんじゃない?」
「病院で嫌になるほど寝たから大丈夫よ。お薬は飲んだしね」
「何の薬?」
「貧血の薬」

 私は制服から家着に着替えると、嫌がるみぃをどかせて母の横に立った。

「手伝う」
「ふふふ。珍しいわね、泉美が手伝うなんて」
「お母さん無理しすぎなんだよ。お弁当もきついときは作らなくていいからね?」
「はいはい。ありがとう」

 近くで見る母はなんだか小さくなったように感じた。私が年をとるということは母も年をとるということなのだ。

「お母さん、長生きしてね」
「なあに、突然。あ、それより、何を買ってくれたの」

 母の問いに私は少し躊躇って、

「……湯たんぽ」

 と答えた。

「え? 湯たんぽ?」
「だって、お母さん、病院で一人で寂しいと思って」
「それで湯たんぽ? よくわからないけれどありがとう」
「うん……。昨日ね、みぃが私の布団の中に入ってきたの。すごく不安な夜だったからその温もりにとても癒された」
「ああ、それで」
「でも、退院したから要らないよね。いつもお母さんのところにみぃ入るし」

 私の言葉に、母は「そうねえ」と笑う。

「でも、なんだか嬉しいから、湯たんぽ使わせてもらうわ」



 今日は私の隣に母の布団がある。みぃはというと、母の足元に入れた湯たんぽのところにうずくまっている。

「あらあら、誰のための湯たんぽか分からないわね」

 お風呂から上がってきた母が苦笑した。私は嫌がるみぃを自分の布団の中に入れた。

「みぃは私の湯たんぽになって」

 にゃあああ~と嫌そうに鳴いたみぃだったけれど、その日から時々みぃは私の布団に入ってくるようになった。

                                 了

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