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十六話
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子供のように泣き喚く自らの声を、未汐は他人事のように聞いている。腕の中の骨壺はやはり酷く汚れていたが、そんなことは気にもならない。このぬるぬるとした不快な手触りの向こうに脩司がいると思うと、とても手放す気にはなれなかった。骨壺を撫でる度、指先から全身に電流のような痛みが走って、頬に伝った涙が擦り傷に滲みる。溢れ続ける涙を止める術を持たない未汐の髪に付いた埃を落としながら、智也は静かに口を開いた。
この家の敷地を跨いだ瞬間に消えたのは、未汐の方だったと言う。強い風に目を伏せて、引き戸が閉まるがらがらと言う音を聞いて再び前を見ると、そこにはもう未汐の姿は無かった。別宅の玄関戸は変わらずぴったりと閉じられていて、どれだけ力を込めてもびくともしない。三人は別宅を一周して別の入り口が無いか探したが、ありとあらゆる窓が板張りされていて、その努力は徒労に終わってしまった。
智也は嗣巳に電話を掛けて、捲し立てるように起こったことを話す。すると嗣巳は深々と溜息を吐いて、三人は一度家に帰れ、と言った。電話の向こうの祖父が何を言ったのか分からず聞き直す智也に、嗣巳はもう一度、強い語気で家に帰るように告げた。智也は僅かに反論したが、今お前たちに出来ることは何も無い、と一蹴されてしまう。
嗣巳は懇意にしている寺に向かう途中らしく、住職を連れて戻るから、それまで家で待っていろ、と話した。
やがて西原家に到着した寺の住職だと言う壮年の男は、十時逸見の古い友人であるらしかった。斎賀章孝と名乗った所々に白髪の目立つ彼は西原家のあらゆる部屋に見慣れない柄の札を貼り付けて、何事かを唱えた後、嗣巳と庭に出て何かを話していた。斎賀はそれを終えると、居間にいた智也たちの元にやってきて、大変だったね、と言った。
舞希は未汐の安否を尋ねたが、斎賀の答えは嗣巳と同じようなものだった。今の自分たちに出来ることは何も無い。鹿代家の前に張り込んで、別宅の扉が開くのを待つしか無いのだと。
それから嗣巳と斎賀は三人を伴って、鹿代家へと向かった。斎賀は十時逸見からこの村に起こったことの詳細を聞かされており、もしも自分に何かあれば、後のことは頼むと言われていたと言う。番がいなければ解呪も儘ならないため、自分の出番は殆ど無かったと斎賀は自嘲的に笑った。
太陽が一番高いところまで昇っても、玄関は開く気配を見せなかった。別宅とその周囲は不気味なほど静まり返っている。痺れを切らしたらしい陽祐が窓でも何でも壊して入ればいいだろ、と言うと、斎賀は黙って首を横に振って、死んでしまうよ、とだけ言った。
しかしそれから数分もしないうちに、顔を上げた斎賀が別宅の方へと歩き出した。彼が玄関扉に手を掛けて思い切り引くと、数時間前のことが嘘のようにあっさりと開いた。そして家の中に入り、智也が廊下の奥の襖を開けると、部屋の中央部の畳が大きく割れていて、その穴から少し離れた所に傷だらけの未汐が倒れていた。骨壺は、最初から彼女の横にあったと智也は言った。
「大丈夫かい、十時未汐さん」
見慣れない男が襖から顔を覗かせる。未汐は反射的に骨壺を抱き締める腕に力を込めた。顔に出したつもりは無いが、未汐の顔を見た斎賀章考は少し微笑んで、何もしないよ、と言った。
結局どれだけ探しても、未汐が地下に落ちる直前に見た大きな仏壇は無く、薄汚れた位牌の一つさえ落ちてはいなかった。智也は破けた畳から地下を覗いたが、そこは暗闇に包まれていて、何も窺い知ることは出来なかったと言う。地下に続く階段は、台所の隅にあったらしい。陽祐と嗣巳が降りて確認したが、特に変わったところは無かったようだった。時刻は十七時を回ろうとしていた。
智也が未汐を背負おうとしたが、骨壺を手離したくないと言う思いから、歩けるよ、と笑ってみせた。動く度に強烈な痛みが全身を駆け抜けて呻き声が漏れたものの、骨壺から離れるよりはその方が良かった。右の視界は変わらず真っ暗で、数度よろめいた未汐を智也が支える。外は陽が落ち掛けて薄暗い。来た時と同じように軽トラックの荷台に揺さぶられながら、未汐は腕の中の骨壺を撫で続けていた。友人たちは、何も言わなかった。
「どうして、」
どうして連れて行ってくれなかったの。
蚊が鳴くよりも小さな未汐の声を聞き届けたらしい智也が、視界の端で何かを言おうとしたように見えた。
西原家に戻ると、未汐の姿を見た恵子が悲鳴を上げながら家の奥へと駆け出し、救急箱を抱えて戻って来る。手足の傷と言う傷に消毒液を撒かれて、あまりの痛みに声も出なかった。服は、昨日ここに着てきたものに着替えた。応急処置だからすぐに医者に診てもらった方が良いと言われたが、未汐は首を横に振った。斎賀章考に視線を向けて、僅かに唇を噛んでから息を吸う。
「今から、やれるんですか」
「……うん」
そこからの動きは早かった。斎賀は後から呼び寄せたらしい若い男二人とともに、広い庭に祭壇のようなものを組み立てた。数個の細やかな果物や菓子、米と、木で出来た小さな枠組み。西原家の庭にあった盆栽や植木鉢などは、全て撤去されていた。
*
未汐は硬い木材を差し出されて、骨壺を置いて壊すようにと促される。庭には未汐と斎賀、彼が連れてきた男二人しかいなかった、友人三人と智也の祖父母は、斎賀の言いつけによって家の中へ入っている。窓とカーテンは全て締め切られていた。
情けないほど身体が震える。右目はまだ見えないために、狙いをつけるのが難しい。呼吸をするのもやっとで、脂汗が背中と頬を滑り落ちる感覚がやたらとはっきり知覚出来た。暫く小綺麗な藺草の敷物の上に置かれた目の前の骨壺を見詰めていると、生きていた頃の脩司の笑顔と、彼の骨を拾った時の記憶がフラッシュバックして叫び出しそうになる。怪我の痛みとはまた別に、脳が、心が、大きく軋みをあげていた。
やっぱり出来ないよ、と蹲み込みかけた未汐の髪を、遠くから吹いた風が揺らす。
両の肩に、誰かの手が置かれた気がした。その温かさには覚えがあったが、今度こそ駄目になりそうで、振り向けなかった。未汐が唇の動きだけで脩司を呼ぶと、その手は酷く優しく彼女の肩を押す。そのまま前へ踏み出して、痛いほど握り締めた木材を振り上げた。
湿った音と、陶器が割れる音が鼓膜を突き抜けて、脳味噌の中を反響する。勝手に溢れる涙で視界が滲んで、砕けた骨壺と自らの手の輪郭が徐々に薄れていった。全身の痛みも、今はどうでも良かった。
砕けた陶器と泥の中に、僅かに質感の違う濁った破片が見えた。それが脩司の骨であると理解して、瞬間的に手を止めそうになる。血が出るほど強く唇を噛んで、その痛みでどうにか腕を動かし続けた。
言葉にもならない嗚咽が漏れて、頬を伝った涙がかつて脩司だった残骸の上に落ちる。
何回目かはもう分からない。やがて骨壺とその中身が全て混ざって粉々になった頃、斎賀がぱん、と手を叩いた。どこまでも響くようなその音に我に返って、未汐は手を止める。ぜえぜえと肩で息をしながら、斎賀の方を振り向いた。
「お疲れ様。もう少しだから、頑張れるね」
「はい、」
斎賀と男二人は残骸を敷物で包み、その周りで木材を組み上げ始めた。小振りなキャンプファイヤーのようなそれの周りを何事かを唱えながらぐるりと一周した斎賀は、火の付いたマッチを組まれた木枠の中へと投げ込む。木に油でも塗られていたのだろうか、火は瞬く間に広がって、木枠の中の全てを塵にしていく。
瞬きのひとつも出来ずに、未汐は目の前の光景を眺めていた。音を立てて燃えていくそれは、やがて黒い煙になって虚空に溶けていく。こんな終わりかたを望んでいたわけじゃないと言う代わりにまた涙が溢れて、息が喉奥で詰まった。誰にも聞こえないように脩司を呼んで、燃え盛る炎の中へと手を伸ばした。煙は僅かに未汐の手に絡み付いて、暫くふよふよと漂っている。まるで惜しむようなそれを見て、彼女は唇を震わせながら、努めて明るい声で言った。
「わたし、がんばるから、……脩司くんが、いなくても」
だからもう、おやすみ。
涙のせいで目の周りが乾いて鬱陶しい。無理矢理上げた口角が、絞り出したせいで掠れた声が、脩司に届いていることだけを祈っていた。手に絡み付いていた煙はやがて霧散して、炎の中へと消えていく。これ以上何か言えば彼を引き留めることになる気がして、未汐は食いしばった歯の奥で、惜別の言葉を繰り返していた。
炎が消える頃、あれだけ黒く淀んでいた残骸は、遺骨とともに綺麗さっぱり消え去ってしまった。斎賀が言うには、それで正しいらしい。
呪ソは解けたのだ。
沈みかけた太陽が、だだっ広い庭で立ち竦む未汐を見ている。全ての工程を終えたらしい斎賀が、溜め息を吐きながら片付けの指示をしている。その声を脳味噌の遠くへ追いやって、未汐は目を閉じた。
*
ゆっくりと西原家の引き戸を開ける。何だか酷く疲れていた。少しでも動くと全身に出来た傷が痛んで、口の端から声が溢れた。戸が開く音を聞いてか、居間から飛び出してきた舞希は、未汐を見るなりぼろぼろと泣き出してしまった。斎賀が嗣巳に今後の後始末のことを話している。呪い自体は消えたが、暫くお清めとやらが必要らしい。
ふと、携帯の着信音が玄関に響いた。
「史緒のだよ」
智也に預けていたスマートフォンを受け取って、液晶を見る。母からの電話だった。画面をスライドして左の耳に当てる。右手は痛みのために力が入らず、どうしても持てなかった。
「もしもし、」
「みぃちゃん!お父さんがね、目を覚ましたの!」
耳の奥の腫瘍が消えていたのと興奮気味に話す母に、ああ、と未汐は声を漏らした。それに入り混じった安堵以外の色に気付かれないように、良かった、と言葉を継ぐ。本当に、良かったと思っている。嘘は無い。
母には怪我のことと、医者に行く旨を話して電話を切った。確かに酷い怪我だが、入院なんてことにはならないだろうと踏んでいる。智也の父は外科の患者も診れると言うので、父の様子を見るついでにそこで世話になることにした。
早い方がいいと言う恵子の助言で、早々に西原病院へ向かうことになった。じきに夜になってしまうが、夜間診療も行っていると言う。智也が病院へ電話を掛けて事情を説明すると、院長たる彼の父は何かの感染症に罹ってはまずいから、早く連れて来いと言ったらしい。得体の知れない汚泥の中に傷の付いた腕を突っ込んだのだから、その心配も尤もだった。
智也が車を停めた場所の近くまで嗣巳が送ってくれると言うので、それに甘えることにする。どうにか軽トラックの荷台に乗り、荷物を纏めてくると言って家の中に入った智也と舞希を、陽祐と二人で待っていた。
「……ふみ」
「なあに」
「大丈夫か」
怪我のことを言っているのだと解釈した未汐は、めちゃくちゃ痛いよと返した。だが陽祐の様子を見る限り、その予想は外れていたらしいことに気がつく。
「脩司くんが悪かったんじゃないって分かったから、もういいの」
「おまえ、」
「やっぱりわたし、あのひとのこと、ずっと」
未汐がそこまで言いかけたところで、家から舞希と智也が小走りで出て来るのが見えた。未汐は作り笑顔を浮かべて、礼を言いながら鞄を受け取る。見送りに出た恵子に、お世話になりました、と言うと、もうここに来たら駄目だよと返された。それに小さく頷いてすぐ、いつの間にか反対側にいた斎賀に呼ばれて振り返る。彼は電話番号の書かれたメモ用紙を未汐に手渡すと、色々話したいことがあるし、聞きたいこともあるだろうから、落ち着いたら連絡するように、と言った。それを受け取った瞬間に、パーカーのポケットに入ったままの手紙のことを思い出した。だがその手紙は、どれだけ探しても出てこなかった。
すっかり暗くなった集落内を、軽トラックが走る。未汐の怪我を気遣ってか、その速度は若干緩い。途中名取家と、その後ろに隠れるように柱だけになった鹿代家本宅が見えたが、脩司に繋がるものを僅かでも目に入れたら泣き喚いてしまいそうで、ついぞ視線をそちらには向けなかった。
小学校を少し過ぎたあたりの、もう使われていない古びたバス停を見ると、そこでバスを待つ脩司と鉢合わせた雨の日のことを思い出す。鼻の奥がつんと痛んで、また涙腺が緩んだ。それを抑えつけるために、怪我が治ったら四人で飲みに行こうだとか、遊びに行こうだとか、そんなことを話す。何回泣いても足りないけれど、人の前で泣くのはもう嫌だった。
智也の車の元に到着すると、嗣巳は恵子と同じことを言った。もうここに来てはいけない、忘れなさい、と。未汐はそれにも頷いたが、忘れろなんて簡単に言ってくれる、と心の中で少しだけ悪態を吐いた。嗣巳に丁重に礼を言って、智也の手を借りながらやっと助手席に乗る。エンジンがかかる時の振動で、傷の痛みが大きく波打った。
智也の車から見えなくなるまで、嗣巳はそこに立ち尽くしていた。
流れていく森林を眺めていると、強烈な眠気が未汐の身体にのしかかる。そういえば昨晩は殆ど寝ていないのだった。
「ともちゃん」
「ん」
「寝てても良い?」
「良いけど死なないでよ」
「死なんよ」
冗談めかした会話を交わして、未汐は目蓋を下ろした。走行音と控えめに流れる海外のロックバンドの曲が、徐々に遠くなっていく。
夢は、少しも見なかった。
この家の敷地を跨いだ瞬間に消えたのは、未汐の方だったと言う。強い風に目を伏せて、引き戸が閉まるがらがらと言う音を聞いて再び前を見ると、そこにはもう未汐の姿は無かった。別宅の玄関戸は変わらずぴったりと閉じられていて、どれだけ力を込めてもびくともしない。三人は別宅を一周して別の入り口が無いか探したが、ありとあらゆる窓が板張りされていて、その努力は徒労に終わってしまった。
智也は嗣巳に電話を掛けて、捲し立てるように起こったことを話す。すると嗣巳は深々と溜息を吐いて、三人は一度家に帰れ、と言った。電話の向こうの祖父が何を言ったのか分からず聞き直す智也に、嗣巳はもう一度、強い語気で家に帰るように告げた。智也は僅かに反論したが、今お前たちに出来ることは何も無い、と一蹴されてしまう。
嗣巳は懇意にしている寺に向かう途中らしく、住職を連れて戻るから、それまで家で待っていろ、と話した。
やがて西原家に到着した寺の住職だと言う壮年の男は、十時逸見の古い友人であるらしかった。斎賀章孝と名乗った所々に白髪の目立つ彼は西原家のあらゆる部屋に見慣れない柄の札を貼り付けて、何事かを唱えた後、嗣巳と庭に出て何かを話していた。斎賀はそれを終えると、居間にいた智也たちの元にやってきて、大変だったね、と言った。
舞希は未汐の安否を尋ねたが、斎賀の答えは嗣巳と同じようなものだった。今の自分たちに出来ることは何も無い。鹿代家の前に張り込んで、別宅の扉が開くのを待つしか無いのだと。
それから嗣巳と斎賀は三人を伴って、鹿代家へと向かった。斎賀は十時逸見からこの村に起こったことの詳細を聞かされており、もしも自分に何かあれば、後のことは頼むと言われていたと言う。番がいなければ解呪も儘ならないため、自分の出番は殆ど無かったと斎賀は自嘲的に笑った。
太陽が一番高いところまで昇っても、玄関は開く気配を見せなかった。別宅とその周囲は不気味なほど静まり返っている。痺れを切らしたらしい陽祐が窓でも何でも壊して入ればいいだろ、と言うと、斎賀は黙って首を横に振って、死んでしまうよ、とだけ言った。
しかしそれから数分もしないうちに、顔を上げた斎賀が別宅の方へと歩き出した。彼が玄関扉に手を掛けて思い切り引くと、数時間前のことが嘘のようにあっさりと開いた。そして家の中に入り、智也が廊下の奥の襖を開けると、部屋の中央部の畳が大きく割れていて、その穴から少し離れた所に傷だらけの未汐が倒れていた。骨壺は、最初から彼女の横にあったと智也は言った。
「大丈夫かい、十時未汐さん」
見慣れない男が襖から顔を覗かせる。未汐は反射的に骨壺を抱き締める腕に力を込めた。顔に出したつもりは無いが、未汐の顔を見た斎賀章考は少し微笑んで、何もしないよ、と言った。
結局どれだけ探しても、未汐が地下に落ちる直前に見た大きな仏壇は無く、薄汚れた位牌の一つさえ落ちてはいなかった。智也は破けた畳から地下を覗いたが、そこは暗闇に包まれていて、何も窺い知ることは出来なかったと言う。地下に続く階段は、台所の隅にあったらしい。陽祐と嗣巳が降りて確認したが、特に変わったところは無かったようだった。時刻は十七時を回ろうとしていた。
智也が未汐を背負おうとしたが、骨壺を手離したくないと言う思いから、歩けるよ、と笑ってみせた。動く度に強烈な痛みが全身を駆け抜けて呻き声が漏れたものの、骨壺から離れるよりはその方が良かった。右の視界は変わらず真っ暗で、数度よろめいた未汐を智也が支える。外は陽が落ち掛けて薄暗い。来た時と同じように軽トラックの荷台に揺さぶられながら、未汐は腕の中の骨壺を撫で続けていた。友人たちは、何も言わなかった。
「どうして、」
どうして連れて行ってくれなかったの。
蚊が鳴くよりも小さな未汐の声を聞き届けたらしい智也が、視界の端で何かを言おうとしたように見えた。
西原家に戻ると、未汐の姿を見た恵子が悲鳴を上げながら家の奥へと駆け出し、救急箱を抱えて戻って来る。手足の傷と言う傷に消毒液を撒かれて、あまりの痛みに声も出なかった。服は、昨日ここに着てきたものに着替えた。応急処置だからすぐに医者に診てもらった方が良いと言われたが、未汐は首を横に振った。斎賀章考に視線を向けて、僅かに唇を噛んでから息を吸う。
「今から、やれるんですか」
「……うん」
そこからの動きは早かった。斎賀は後から呼び寄せたらしい若い男二人とともに、広い庭に祭壇のようなものを組み立てた。数個の細やかな果物や菓子、米と、木で出来た小さな枠組み。西原家の庭にあった盆栽や植木鉢などは、全て撤去されていた。
*
未汐は硬い木材を差し出されて、骨壺を置いて壊すようにと促される。庭には未汐と斎賀、彼が連れてきた男二人しかいなかった、友人三人と智也の祖父母は、斎賀の言いつけによって家の中へ入っている。窓とカーテンは全て締め切られていた。
情けないほど身体が震える。右目はまだ見えないために、狙いをつけるのが難しい。呼吸をするのもやっとで、脂汗が背中と頬を滑り落ちる感覚がやたらとはっきり知覚出来た。暫く小綺麗な藺草の敷物の上に置かれた目の前の骨壺を見詰めていると、生きていた頃の脩司の笑顔と、彼の骨を拾った時の記憶がフラッシュバックして叫び出しそうになる。怪我の痛みとはまた別に、脳が、心が、大きく軋みをあげていた。
やっぱり出来ないよ、と蹲み込みかけた未汐の髪を、遠くから吹いた風が揺らす。
両の肩に、誰かの手が置かれた気がした。その温かさには覚えがあったが、今度こそ駄目になりそうで、振り向けなかった。未汐が唇の動きだけで脩司を呼ぶと、その手は酷く優しく彼女の肩を押す。そのまま前へ踏み出して、痛いほど握り締めた木材を振り上げた。
湿った音と、陶器が割れる音が鼓膜を突き抜けて、脳味噌の中を反響する。勝手に溢れる涙で視界が滲んで、砕けた骨壺と自らの手の輪郭が徐々に薄れていった。全身の痛みも、今はどうでも良かった。
砕けた陶器と泥の中に、僅かに質感の違う濁った破片が見えた。それが脩司の骨であると理解して、瞬間的に手を止めそうになる。血が出るほど強く唇を噛んで、その痛みでどうにか腕を動かし続けた。
言葉にもならない嗚咽が漏れて、頬を伝った涙がかつて脩司だった残骸の上に落ちる。
何回目かはもう分からない。やがて骨壺とその中身が全て混ざって粉々になった頃、斎賀がぱん、と手を叩いた。どこまでも響くようなその音に我に返って、未汐は手を止める。ぜえぜえと肩で息をしながら、斎賀の方を振り向いた。
「お疲れ様。もう少しだから、頑張れるね」
「はい、」
斎賀と男二人は残骸を敷物で包み、その周りで木材を組み上げ始めた。小振りなキャンプファイヤーのようなそれの周りを何事かを唱えながらぐるりと一周した斎賀は、火の付いたマッチを組まれた木枠の中へと投げ込む。木に油でも塗られていたのだろうか、火は瞬く間に広がって、木枠の中の全てを塵にしていく。
瞬きのひとつも出来ずに、未汐は目の前の光景を眺めていた。音を立てて燃えていくそれは、やがて黒い煙になって虚空に溶けていく。こんな終わりかたを望んでいたわけじゃないと言う代わりにまた涙が溢れて、息が喉奥で詰まった。誰にも聞こえないように脩司を呼んで、燃え盛る炎の中へと手を伸ばした。煙は僅かに未汐の手に絡み付いて、暫くふよふよと漂っている。まるで惜しむようなそれを見て、彼女は唇を震わせながら、努めて明るい声で言った。
「わたし、がんばるから、……脩司くんが、いなくても」
だからもう、おやすみ。
涙のせいで目の周りが乾いて鬱陶しい。無理矢理上げた口角が、絞り出したせいで掠れた声が、脩司に届いていることだけを祈っていた。手に絡み付いていた煙はやがて霧散して、炎の中へと消えていく。これ以上何か言えば彼を引き留めることになる気がして、未汐は食いしばった歯の奥で、惜別の言葉を繰り返していた。
炎が消える頃、あれだけ黒く淀んでいた残骸は、遺骨とともに綺麗さっぱり消え去ってしまった。斎賀が言うには、それで正しいらしい。
呪ソは解けたのだ。
沈みかけた太陽が、だだっ広い庭で立ち竦む未汐を見ている。全ての工程を終えたらしい斎賀が、溜め息を吐きながら片付けの指示をしている。その声を脳味噌の遠くへ追いやって、未汐は目を閉じた。
*
ゆっくりと西原家の引き戸を開ける。何だか酷く疲れていた。少しでも動くと全身に出来た傷が痛んで、口の端から声が溢れた。戸が開く音を聞いてか、居間から飛び出してきた舞希は、未汐を見るなりぼろぼろと泣き出してしまった。斎賀が嗣巳に今後の後始末のことを話している。呪い自体は消えたが、暫くお清めとやらが必要らしい。
ふと、携帯の着信音が玄関に響いた。
「史緒のだよ」
智也に預けていたスマートフォンを受け取って、液晶を見る。母からの電話だった。画面をスライドして左の耳に当てる。右手は痛みのために力が入らず、どうしても持てなかった。
「もしもし、」
「みぃちゃん!お父さんがね、目を覚ましたの!」
耳の奥の腫瘍が消えていたのと興奮気味に話す母に、ああ、と未汐は声を漏らした。それに入り混じった安堵以外の色に気付かれないように、良かった、と言葉を継ぐ。本当に、良かったと思っている。嘘は無い。
母には怪我のことと、医者に行く旨を話して電話を切った。確かに酷い怪我だが、入院なんてことにはならないだろうと踏んでいる。智也の父は外科の患者も診れると言うので、父の様子を見るついでにそこで世話になることにした。
早い方がいいと言う恵子の助言で、早々に西原病院へ向かうことになった。じきに夜になってしまうが、夜間診療も行っていると言う。智也が病院へ電話を掛けて事情を説明すると、院長たる彼の父は何かの感染症に罹ってはまずいから、早く連れて来いと言ったらしい。得体の知れない汚泥の中に傷の付いた腕を突っ込んだのだから、その心配も尤もだった。
智也が車を停めた場所の近くまで嗣巳が送ってくれると言うので、それに甘えることにする。どうにか軽トラックの荷台に乗り、荷物を纏めてくると言って家の中に入った智也と舞希を、陽祐と二人で待っていた。
「……ふみ」
「なあに」
「大丈夫か」
怪我のことを言っているのだと解釈した未汐は、めちゃくちゃ痛いよと返した。だが陽祐の様子を見る限り、その予想は外れていたらしいことに気がつく。
「脩司くんが悪かったんじゃないって分かったから、もういいの」
「おまえ、」
「やっぱりわたし、あのひとのこと、ずっと」
未汐がそこまで言いかけたところで、家から舞希と智也が小走りで出て来るのが見えた。未汐は作り笑顔を浮かべて、礼を言いながら鞄を受け取る。見送りに出た恵子に、お世話になりました、と言うと、もうここに来たら駄目だよと返された。それに小さく頷いてすぐ、いつの間にか反対側にいた斎賀に呼ばれて振り返る。彼は電話番号の書かれたメモ用紙を未汐に手渡すと、色々話したいことがあるし、聞きたいこともあるだろうから、落ち着いたら連絡するように、と言った。それを受け取った瞬間に、パーカーのポケットに入ったままの手紙のことを思い出した。だがその手紙は、どれだけ探しても出てこなかった。
すっかり暗くなった集落内を、軽トラックが走る。未汐の怪我を気遣ってか、その速度は若干緩い。途中名取家と、その後ろに隠れるように柱だけになった鹿代家本宅が見えたが、脩司に繋がるものを僅かでも目に入れたら泣き喚いてしまいそうで、ついぞ視線をそちらには向けなかった。
小学校を少し過ぎたあたりの、もう使われていない古びたバス停を見ると、そこでバスを待つ脩司と鉢合わせた雨の日のことを思い出す。鼻の奥がつんと痛んで、また涙腺が緩んだ。それを抑えつけるために、怪我が治ったら四人で飲みに行こうだとか、遊びに行こうだとか、そんなことを話す。何回泣いても足りないけれど、人の前で泣くのはもう嫌だった。
智也の車の元に到着すると、嗣巳は恵子と同じことを言った。もうここに来てはいけない、忘れなさい、と。未汐はそれにも頷いたが、忘れろなんて簡単に言ってくれる、と心の中で少しだけ悪態を吐いた。嗣巳に丁重に礼を言って、智也の手を借りながらやっと助手席に乗る。エンジンがかかる時の振動で、傷の痛みが大きく波打った。
智也の車から見えなくなるまで、嗣巳はそこに立ち尽くしていた。
流れていく森林を眺めていると、強烈な眠気が未汐の身体にのしかかる。そういえば昨晩は殆ど寝ていないのだった。
「ともちゃん」
「ん」
「寝てても良い?」
「良いけど死なないでよ」
「死なんよ」
冗談めかした会話を交わして、未汐は目蓋を下ろした。走行音と控えめに流れる海外のロックバンドの曲が、徐々に遠くなっていく。
夢は、少しも見なかった。
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また、小説家になろうで投稿しております短編集「『あい』を失った女」より「『おばけ』なんていない」(2018年7月3日投稿)、「『ほね』までとろける熱帯夜」(2018年8月14日投稿) 、「『こまりました』とは言えなくて」(2019年5月20日投稿)をもとに構成しております。
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