オーバードライブ・ユア・ソング

津田ぴぴ子

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二部

第二十八話(後)

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体育館前の廊下は昨日ほど混雑しておらず、擦れ違う一般人も疎らだった。二人の女子生徒がすぐ横を駆け抜けて、体育館の中へと入っていく。それに続くように、吹奏楽部を観に来たらしい人々が次々と陽たちの隣を通っていった。
更衣室の扉に寄り掛かるように立っている前川と時藤が、嬉々として劇の感想を話しているのを聞いている。初がそれに同調して、陽もまた頷いた。
四人とも感想と言うよりは延々最上を褒めちぎっているだけなのだが、ステージの上の最上はそれに値する活躍ぶりを見せていたのだ。主役ではなかったもののかなり印象に残る役柄で、最上の普段のキャラクターとは全く異なる人物だった。普段の気怠げな雰囲気はどこへやら、そこにいるのは最上では無く、別の男だった。
「本当、化けるもんだよなあ」
心底感心したように前川が腕を組んだ。だね、と時藤が同意した時、体育館の扉から最上が顔を覗かせた。化粧はしたままだが、ウィッグはとうに外されている。衣装の上に長袖のジャージを羽織った彼は陽たちを見とめるとはにかむように笑って、ありがとね、と言った。
「悠!」
いつものように飛びかかりに行った前川を両手で制して、最上は体育館から出てその横に並ぶ。片付けなどは閉会式の後で、他の部員は裏口を通って先に部室に戻ってしまったらしい。
「疲れたあ……」
その場にずるずると屈み込んだ最上の頭を雑に引っ掻き回して、前川は先程陽たちと話していたことをそのまま本人に話し出した。最上は暫く黙ってそれを聞いていたが、やがて若干頬を染めて俯いてしまう。いつも淡々と話す彼らしくなく、その語気は酷く弱い。
「褒める以外の感想は無いの……?」
「ない!」
「ないね」
「な、ない、……」
「ないだろ」
「ああ、そう……ありがとう」
ほぼ同時に発せられた前川を始めとする四人の返答に、最上は頬を両手で挟んで溜息を吐いた。体育館の分厚い扉の奥から拍手が聞こえる。吹奏楽部の準備が整ったのだろう。
吹奏楽部は部員の人数が桁違いに多い。各種大会には選抜された生徒のみが出場するが、定期公演会や文化祭ではほぼ全ての部員に出番が与えられるようだ。曲ごとにメンバーを入れ替える、と言うことになるため、曲数もそこそこ多ければ持ち時間も長い。
軽音部の出番まで、後一時間半ほどの余裕がある。
「この次軽音部でしょ、頑張ってよね」
言いながら立ち上がった最上が、陽と初の背中を叩いた。
「お前らこの後どうすんの?」
「俺は一旦部室に戻って着替えるよ、化粧も落としたいし。そしたら颯紀と瑞樹くんと合流するつもり」
陽の問いに答えた最上を肯定するように時藤が頷いて、がんばってね、と笑う。前川がそれに続いて、待ちきれないと言った様子で口を開いた。
「絶対手振るからな!」
「い、良い場所取れるかな……?」
「取れるかなじゃなくて取るんだよ、瑞樹くん」
「ひえっ……」
妙に凄味のある最上の言葉に時藤が短い悲鳴を上げた時、陽のブレザーのポケットの中で携帯が震えた。液晶を数回叩くと、母からのメッセージが表示されている。
あと十分くらいで着くね、と書かれたそれに返事を打って、陽は初を見遣った。
「着くって」
「……──そう」
静かに頷いた初が、微妙に引き攣った笑みを浮かべる。前川たちがいる手前、露骨に嫌そうな顔は出来ないらしい。
陽と初は一旦第二視聴覚室に戻ることにして三人と別れ、一年生の教室が並ぶ廊下を歩き出した。もうじき始まってしまう本番に気がはやって、勝手に早足になってしまうのが分かる。
自らの教室を過ぎたところで、陽はふと初を呼んだ。
「別に戻んなくても、校門の辺りで待ってる?このまま」
「嫌」
「即答かよ」
「先輩たちには声掛けた方が良いでしょ、探されても困るし」
立ち止まりもせずに淡々とそう言って、いつもの通りに職員室前を突っ切っていく初の背中を陽は追い掛けた。織と惺に連絡するだけなら別にメッセージを送れば良いのではと口を開きかけたが、余計な火種は撒くまいと考え直す。
二人が階段の一段目に足を乗せた時、聞き慣れた声がふたつ下りてくることに気が付いた。
「あれ」
「あ」
踊り場で一瞬立ち止まった織と惺は、自分たちを見上げる二人を視界に入れるなり階段を駆け下りてくる。初の肩に腕を回した織が、その頬を摘んで思い切り引っ張った。
「はーくん顔険しすぎんよ、本番前なのに」
「気のせいじゃないですか」
「自分で気付いてないの、ほら」
眉間のあたりをぐりぐりと押された初は一層顔を顰めたが、自分の心理状態を自覚しているのか、それ以上の抵抗はしなかった。ただ暫く俯いて、蚊の鳴くような声ですいません、と呟く。それを聞いた織はこともなげに首を振って、初の頭に手を置いた。
そのまま何を言うでもなく子供を宥めるようにゆっくりと彼の髪を撫でて、そうしながら陽の方を見る。
「部室戻るとこだった?」
「そんな感じっす。親がもうすぐ着くって言うんで、先輩に言ってから迎えに行こうと思って」
「あー、……一応挨拶だけしとくか」
「別に気遣わなくて良いっすよ」
「一応だよ、一応」
「織先輩って、そういうとこはちゃんとしてますよね」
「外面は良いんだよねえ」
初が放った一言に惺が頷く。笑った織は初の頭をぽんぽんと叩くと、悪態つく元気があって何よりだよ、と言った。彼の指は流れるように惺の額を人差し指で軽く小突いて、ついでとばかりに陽の頭を撫でる。
迎えに行くとは言ったものの、校庭が駐車場になっている都合上、上級生の昇降口で待っていた方が良いだろう。外部から来る人間は職員用玄関から入ることになっているが、少し話すだけなら昇降口でも事足りる。陽は母親にその旨のメッセージを送信して、目の前にある一年生の昇降口に向き直った。外履きに履き替えなければならない億劫さが先に立って、サンダルをぺたぺたと鳴らす。
「靴履き替えんのめんどくさ、……」
「そのままでも良いでしょ、ちょっとくらい」
「え」
織ならともかく、惺がそういうことを言うのは少し意外で、まじまじとその顔を見詰めてしまった。彼は悪戯っぽく微笑んで、陽のブレザーの袖を僅かに引いて外を指差した。
「早く行かないと、入れ違いになっちゃうんじゃない?」
「あ!そうっすね」
上級生の昇降口に向かおうと歩き出した陽は、初を追い抜きざまに行くぞ、と声を掛ける。初は織や惺と話したことで先程よりも少し元気を取り戻したのか、幾分穏やかに頷いた。
他愛のない話をしながら職員室の前を通り過ぎた。一年生の教室が並ぶ廊下を、数人の生徒が体育館の方向に歩いていくのが見える。
二、三年生の下駄箱を横目に、サンダルのまま昇降口の扉を開けた。目玉である吹奏楽部の発表が既に始まっているからか、校舎の中も外も比較的静かだ。この様子だと、陽と初の家を除いた保護者はもう来校し尽くしているに違いない。壁に寄りかかった織が、ぼんやりと空を見上げながら惺を呼んだ。
「何時?今」
「もう、自分で見たら良いじゃないですか、……十四時にじ半過ぎたとこですよ」
溜息を吐きながらポケットから携帯を取り出した惺は、ほら、と言いながらその液晶を織に向ける。織の腕に手を掛けてそれを見上げた陽は、織と惺の顔を交互に覗き込んだ。
「あと一時間っすね」
「あのねえ陽ちゃん、吹部絶対押すから。賭けてもいいよ」
「織ちゃん先輩何賭けます?」
「順当に昼飯」
「えー俺今月のお小遣い使っちゃったもん……」
「陽さあ、もっと計画性持った方が良いよ」
「初が物欲無さすぎんだし!」
「あっはは!耳が痛いですねえ、オリ先輩」
そんなことを話していると、不意に織が校門の方を見た。
車の音がして、一台の比較的大きな普通乗用車が入ってくる。深い青色の車体とナンバープレートで、陽は一目で父親の車だと分かった。運転席でハンドルを握る父は陽を見とめると、にっこりと笑って手を振る。
初は不審そうに校庭に入っていく車を見送って、陽に小声で喋り掛けた。
「車、あれだけ?」
「うちの車でかいし、一緒に乗ってきたんじゃね?」
「いや、そんなわけ──」
陽と初が校庭の方を見る。幸運にも昇降口にほど近い場所が空いていたようで、陽の父の車はすっぽりとそこに収まった。助手席、運転席の順番でドアが空いて、助手席からは陽の母が降りてくるのが見える。スライド式の後部座席のドアから昊が勢い良く飛び出してきて、それに続いて初の両親と、上品な可愛らしいワンピースを着た妹が顔を出した。陽の家族は普段出掛ける時と変わらないラフな服装だが、初の両親はスーツに身を包んでいる。昊と初の妹は既に打ち解けているらしく、にこにこしながら何事か話していた。
「明日槍でも降るんじゃないの……」
初が信じられないと言った様子でそう言った時、こちらに気が付いたらしい昊がぶんぶんと手を振って、初の妹の手を握ったまま物凄い勢いで駆け寄ってきた。昊が学校の敷地全域に響き渡るほどの大声で呼んだのは兄である陽ではなく初の名前で、陽は思わず苦笑してしまう。
半ば突進するように初の元に飛び込んだ昊の手からようやっと解放された初の妹は一瞬呆気に取られた後、心細げに陽の方を見た。彼女は控えめにぺこりと頭を下げて、おずおずと口を開く。
「お、お兄ちゃんが、いつもお世話になってます、……香西、仁奈です」
「え!?ああ、こちらこそ……」
小学生にしてはあまりにも出来過ぎている挨拶に面食らった後、陽ははっとしたように隣の初にへばり付いたままの昊を引き剥がした。
「昊!人のお兄ちゃんにベタベタすんなって、お前のお兄ちゃんは!俺!」
「そうだった!ごめんね、仁奈ちゃん」
昊はいとも容易く陽の方に鞍替えして、早くも身体によじ登ろうとしてくる。本番前に制服が汚れてはたまらないとそれをどうにか躱した陽は、お兄ちゃんこれからギター弾くんだから、と言いながらちらりと初と仁奈の方を見た。
少しの間黙って仁奈を見ていた初だったが、彼女の視線に合わせるように屈んで微笑む。
「……ありがとうね、仁奈」
「……!──うん!」
がんばってね、お兄ちゃん。
はにかむように笑ってそう言った仁奈の後ろに、初の両親が立った。ぽつぽつと会話をしているようだが、その声は一緒に歩いて来た陽の母のそれに掻き消されてしまう。その後に続くようにビデオカメラを手にした父もやって来て、昊を抱きかかえた。父はこの機会だからとビデオカメラを新調したらしく、ばっちり撮ってやるからな、と張り切っている。陽はそんな父の肩に手を置いて、恥ずかしいから程々にして、と言った。
「息子の晴れ舞台だぞ、程々になんて出来ないよ。なあ、お母さん」
「本人より張り切ってどうするの……」
「昊ねえ、楽しみで眠れなかった!」
昊がそう声を張り上げた時、陽の母が陽の背後に向かって軽く頭を下げた。ざり、と言う二人分の足音がして、すぐに織と惺だと分かる。陽よりも先に振り返った初が、両親と妹に二人を紹介していた。母親二人は電話で織と話したことがあるが、実際に会うのは初めてだ。
織と惺は二人の両親と当たり障りない、殆ど定型文のような挨拶を交わした。陽の両親は、晴のことには触れない。
織は両親たちと話している間ずっと愛想の良い笑みを浮かべていて、惺の言う通り外面が良いのだと思う。息子が迷惑を掛けていやしないかと言う母親たちの言葉を、彼は穏やかに一蹴した。
「いいえ?良い子ですよ、二人とも」
大人びていると言うか、実際に大人なのだ。

ふと携帯の液晶を確認した初が、背後の惺にそろそろ、と声を掛けた。
吹奏楽部は絶対に時間を押す、と先程織は言っていたが、第二視聴覚室にギターやら水やらを取りに行き、それから外を通って定期公演会と同じステージ横の倉庫──控室へ向かう時間を考えると、もう移動を始めた方が良いのかもしれない。陽と初はそれぞれの家族に職員玄関から学校に入ること、今は吹奏楽部の発表中で、それが終われば客の入れ替えが行われることを伝えた。
「頑張んなさいよ!陽!」
「俺、今日だけ敏腕カメラマンになるからな」
「昊ねえ、手振るからね!」
全く同じことを言っていた友人を思い出して吹き出しそうになりながら、陽は頷いた。初ちゃんにも、と笑った昊の頭を撫でて、初はじゃあ、と言って自らの家族に背を向ける。
「初」
今の今まで喋らなかった初の父が、ようやっと口を開いた。無言で振り返った初に、彼はただ一言こう言う。
「……頑張りなさい」
「……──言われなくても」
そう返した初の顔には、織に向けるものよりも余程挑発的な笑みが浮かべられていた。初の父はそれを見ても何も言うことは無く、初もまたそれ以上のことは言わなかった。行くよ、と呟いた初が、織と惺を追い抜いて先に昇降口の扉を開ける。織と惺が二人の両親に会釈して、昊と仁奈に微笑み掛けて軽く手を振った。織に襟首を引かれた陽は初の両親に頭を下げて、自らの家族に行ってくる、と告げて背を向ける。

サンダルの底に付着したであろう砂粒を落とすのもそこそこに、職員室の前を早足で抜けた。別に急ぐ必要はどこにも無いのに、無意識に階段を駆け上がってしまう。殆ど一段飛ばしのようにして三階に辿り着いて、四人は第二視聴覚室まで続く真っ直ぐな廊下をばたばたと走った。
「……ははっ」
初が走りながら堪え切れないとばかりに笑い出したので、陽は思わずそちらを見る。
「あはは!ざまあみろ!」
「ねえ先輩!初おかしくなっちゃった!」
「さと、これ殴ったら治る?」
「昔のテレビじゃないんだから無理でしょ!」
窓の外はよく晴れて、鬱蒼とした木々の隙間から青い空がちらちらとこちらを覗き見ている。第二視聴覚室の扉を勢い良く開けると、スタンドに立て掛けられたサーフグリーンのストラトキャスターが、待ちくたびれたとばかりにこちらを見ていた。







数多の管楽器の音が、倉庫の中の空気を震わせている。数多くいる吹奏楽部員のうち、大方の部員の出番は終わり、今は大会選抜メンバーによる演奏が行われている。扉の隙間から体育館を覗き見た陽と惺は、その人の多さにおお、と声を漏らした。暗がりではあるが、後ろの方まで人で埋まっているのが見える。
自らの背後で扉の外を見る惺の手が肩に置かれているのを感じて、陽は口を開いた。
「すごい人っすねえ、すし詰めって感じ」
「中途半端なこと出来なくなっちゃったね、これだけいると、……」
「俺らもすごいっすよ!」
「……ふふ、そうだね、…そうだった」
惺の言葉を背に、陽は倉庫内に疎らに置かれたパイプ椅子に勢い良く腰掛けて辺りを見渡した。強気なことを言ってはみたものの、心臓はいつもよりも早く脈を打っている。パイプ椅子を引き寄せて陽の向かいに座った惺が、それを察したように、大丈夫?と尋ねて来た。それに頷きながら、縋るように惺のブレザーの裾を掴む。
初と織はと言うと、陽の横に並んで座って携帯の液晶を睨んでいた。初の指の動きに合わせてぴこぴこと言う軽い電子音が鳴っているので、ゲームでもしているのだろう。
「あー、緊張する、……」
「陽さあ、定演の時もガチガチだったよね」
携帯をポケットに仕舞い込みながら顔を上げた初の言葉に、陽は更に言い募った。
「お前の方向いてやっていい?」
「絶対笑うやつじゃん?それ」
想像したのか、心底可笑しそうに笑いながら初が言う。陽はパイプ椅子にずるずると全体重を掛けると、天井を見上げながら両手で顔を覆い、態とらしくおいおいと声を上げる。
「もう織ちゃん先輩が歌ってよお……」
「俺はベースで忙しいの、……陽ちゃん、ちょっと面貸してよ」
「オリ先輩、言い方」
「暴力っすか!」
両方の頬を手で挟み込んだ陽が惺の後ろに隠れるよりも前に、伸びてきた織の細い手指が陽の頬をぐにぐにと捏ねた。緊張のために凝り固まった表情筋が徐々に解れていく。
されるがままになっている陽を、織が笑いながら呼んだ。
「陽ちゃん」
「ひゃあい」
「パン生地みたいなほっぺたしてるね」
「ぱん!」
悪口っすか、と続けようとした陽の耳に、割れんばかりの拍手が届く。どうやら吹奏楽部の発表が終了したらしい。そこから間も無くして、会場がざわめきに包まれる。織は陽の頬から手を離してその背中を軽く叩き、口角を上げた。
「行こう」
「、……っす」
心臓の鼓動を鎮めるために深呼吸して、陽は三人を追ってステージへ続く短い階段を登った。煌々と灯るライトによって、よく磨かれた床に濃い影が落ちる。深い赤色の緞帳は下ろされているため、その向こうの様子は窺い知れない。ただざわざわと言う多数の人の声が行ったり来たりしているのが聞こえて、陽は思わず息を呑んだ。
ステージ奥のカーテンに隠されていた機材類を出すのに、そこまでの時間は掛からない。自分の楽器のセッティングをしている三人を横目にギターのストラップを肩に掛けて、シールドコードをアンプに挿し込んだ。ギターに挿す方が途中で抜けてはいけないからと、一度コードをストラップに通す。最初のライブ──定期公演会の時、織に教わったことだ。

アンプのスイッチを入れて、ぷつん、と言う音を聞いた。弦と指と指板とが擦れ合う音が、歪になってアンプから漏れて来る。どっ、どっ、とうるさい心臓の音が初たちにまで聞こえてしまいそうで嫌だった。ギターのボリュームノブをゼロにして、マイクスタンドの前に立つ。高さは問題ない。歌う時に少し背伸びをする癖があるから、少し高いくらいが良いのだ。自分では全く無自覚で、惺に指摘されて初めて気が付いたことだった。
「陽!」
不意に聞こえた初の声に振り返る。彼はいつの間にか一度倉庫に戻っていたようで、ドラムの元に歩み寄りながら陽に何かを投げ渡した。その正体を把握する間も無くどうにかそれを受け取ってみると、それは水の入ったペットボトルだった。飲みかけの中身が揺れて、天井からの照明にきらきらと反射する。こちらへ出て来る時、倉庫に忘れて来てしまっていたらしい。
水も飲まずに五曲歌い切れる自信はどこにも無かったし、仮に歌い切れたとしても今の陽ではパフォーマンスが大きく減退してしまっていただろう。すんでのところで命拾いした、と言うわけだ。
水を一口飲んで、ペットボトルをアンプの上に置く。ブレザーのポケットに入れていたピックを一枚取り出し口に咥えて、ギターのヘッドに付いたチューナーのスイッチを入れた。ギターの乾いた、ごく小さな生音を聞く。

助けられてばかりだな、と思った。
晴のこともバンドのことも、織や惺、初がいなければ駄目だった。誰か一人が欠けても、今このステージに立つことは無かっただろう。選択を間違えていたら、最悪の結末に転がっていたかもしれない。そういう分岐点がいくつもあったような気がする。思い返せば切りがない。その中で、自分は少しでも皆の役に立てていただろうか。陽、と言う名前の通りの人間になれていただろうか。当時は必死でそんなことを考えている余裕も無かったが、今になって、らしくなく後悔してしまう。

チューニングを終えて陽が顔を上げようとした時、ふとその頭にぬるい手が乗せられた。
「……織ちゃん先輩?」
「陽ちゃん、聞こえる?」
「?」
織は緞帳に遮られた体育館の方を指差した。客の入れ替えはもう終わってしまったようで、あとはこちらの準備を待つだけ、と言った様子だ。向こう側の話し声は未だに途切れず、その大きさや数から推測するに、相当の数の人間がいることは明らかだった。吹奏楽部と同じくらいか、もしくは、それよりも。
呆然とする陽の空いた方の肩に手を置いた惺が、楽しげに微笑んでこちらを覗き込んでくる。
「軽音部みたいだね、何か」
「軽音部、ですよ」
初の声が聞こえたと同時に、陽の背中に軽い衝撃と暖かさが伝わる。振り向いたわけではないが、寄り掛かられたのだ、と分かった。初が小さな声でぽつぽつと話し出す。
「……全部、陽のお陰だよ」
「初」
「あの時、陽が僕のこと軽音部に誘ってくれなかったら、……ううん、あの時ゲーセンに連れてってくれなかったら、こんなに楽しいことがあるんだって知らないまま、大人になってた。そんなの、つまんないじゃん」
「……」
この学校に入学した時よりも幾分表情が豊かになった初は、そう言って笑った。右隣にいた織がそれに同調するように頷く。懐かしむように目を閉じた惺もまた、静かな口調で織に続いた。
「俺も惺もさ、二人が来なかったらずっとあそこに引き籠りだっただろうし?だから、……昨夜も言ったけど、ありがとうね」
「陽くんの好きにやりな。おれも先輩も、初くんも、ちゃんとついてくから」
「……泣いちゃいそうっす、……」
声が震えて、三人を見る目が瞬く間に霞む。ブレザーの袖で目元を拭って陽は笑った。これから歌うと言うのに、泣いていてはどうしようもないのだ。三人はそれぞれの楽器の元に戻って、織がステージ袖の生徒会長に合図を出した。
耳を劈くようなブザーが鳴って、緞帳が巻き上げられる音がする。織がブザーの音に紛れて、全員に聞こえるように声を上げた。
「これが上がったらすぐ始めるよ、はーくん」
「いつでも!」
上機嫌そうな初の声が、鼓膜を掠める。
上がっていく緞帳の隙間から、徐々に沢山の人影が現れた。先程まで早く脈打っていた鼓動は今やすっかり落ち着いて、平常通りのものに戻っている。並んだパイプ椅子、家族席の一番前に、陽と初の家族が座っているのが見えた。
緞帳が上がりきる直前、陽は初を振り返る。一瞬だけ目を合わせて頷いた。それだけで充分だった。後方から差すスポットライトの眩しさに目を細めて、ギターのボリュームノブを目一杯捻る。
間髪入れずに初がスティックを打った。ふわふわとした気持ちが、このままどこかへ飛んで行きそうだった。
少しだけ背伸びをして、す、と息を吸い込む。



「えっと、──」
大きな拍手の合間を、陽の声が擦り抜けていく。
三曲目を終えて頬を伝った汗を、袖で拭った。きん、と言う僅かなハウリングに焦って、マイクから一歩だけ離れる。
クールダウンのために三曲目と四曲目の間にMCを入れると言う話にはなっていたが、その実、観客に向けて伝えたいことなど何も無かった。真っ白になった頭で、どうにか言葉を掻き集める。これだけ多くの人間に向けて何かを喋るのは初めてて、少しでも腹から力を抜くと声が震えそうだ。
「ありがとう、ございました、……Sugar×gazer、って言います」
割れんばかりの拍手が、主に体育館の後方を中心に広がる。良く目を凝らすと、前川がぶんぶんと両手を振っているのが見えた。それに少し笑って、次の言葉がするすると流れるように落ちてくる。
「次の曲の前に、少しだけ話します。次の曲は、俺と、初、──ドラムの奴とで作った曲、で、……最後の曲は、俺と初が軽音部に入った時、初めてみんなで合わせた曲です。
先輩は来年の三月で卒業、します。正直、まだ、先輩がいない学校なんて考えられない。すっごい寂しいし、何なら一緒に卒業したいし、この話しただけでも、ちょっと、泣きそうになるくらい、なんです、けど」
その時、体育館の後方から、誰のものともつかない頑張れ、と言う叫び声が聞こえてくる。それに小さく礼を言って、陽は再び真っ直ぐ前を見た。
「でも、時間は待ってくれないから。だから、どうせなら、楽しい方が良いかなって思って。笑って見送れないかもしれないけど、それでも、楽しかったことを覚えていられたら、それだけで前に進めるから。俺はずっと忘れないし、みんなも、……出来たら、ちょっとだけでも覚えといてくれたら、嬉しいです。あと二曲、目一杯楽しんでってください!」
そう叫んだ陽は初の方を見て、笑って頷いた。初も微笑んで、スティックを頭上に掲げる。この曲は歌から始まるのだ。陽が曲を付けて、初が歌詞を書いた。
「……──」
沢山泣いて、それよりもずっと多く笑ったと思う。
楽しかった。そして多分、これからも楽しい。
ちらりと覗き見た家族席にいる昊と仁奈のきらきらとした目が、真っ直ぐにこちらを見上げていた。
ピアノの旋律とベースの重低音が絡んで、陽の歌に重なるように織が歌う。ふと目が合うと、織は楽しげに笑った。惺の方を見ると彼も同じように目を細めて、口元だけで楽しいね、と言う。
ずっとこうしていたいと思った。体育館の後方に揺れる携帯の液晶のライトが、まるでサイリウムのように輝いている。



「ありがとうございました!」
最後の曲の最後のコードが鳴った直後、陽のその叫びに、体育館は拍手の渦に包まれた。緞帳が下がってくる。ギターをスタンドに立て掛けた陽は、片付けの前に汗を拭こうと元いた倉庫に引っ込んだ。織がわしわしと頭を撫でてきて、興奮冷めやらぬと言った様子で口を開く。
「陽ちゃんすっごい良いこと言うじゃん、練習したの?」
「いや、もう、何言ったかも覚えてないっす」
陽はその場に座り込んで、数度肩で息をした。惺が差し出したペットボトルを受け取って、中身を一気に飲み干す。大きく息を吐いたところで、陽はふと体育館へと意識を向けた。拍手は鳴り止んでいない。この展開には覚えがある。
四人が顔を見合わせた時、それを肯定するかのようにステージから生徒会長の古宮が飛び込んできた。
「方保田、もう一曲出来る?」
「だってさ、部長」
どうする?と織は口の端を釣りあげて笑う。立ち上がった陽が初と惺を見ると、二人とももう答えは決まっているようだった。
それは、陽も変わらない。
「やる!」
緞帳が静かに上がったが、今度はブザーは鳴らない。ステージの中心で陽がギターを肩に掛けると、一層大きな拍手と歓声が上がる。それに少したじろぎつつも、陽はマイクのスイッチを入れた。次にやる曲はもう決まっていた。定期公演会でも演奏したが、あの時はMCなどしなかった。何だか妙に新鮮な気持ちで、マイクスタンドの前に立つ。
もう、振り返らなくても大丈夫だ。
「ありがとう、ございます、……えっと、…これは、Sugar×gazerとして作った、一番最初の曲です。作ったのは殆ど織ちゃん先輩なんですけど、……大事な、歌です。すごく楽しい曲なので、みんな、最後の最後、音が消えるまで、楽しんでくれればいいなって思います!それじゃあ、聴いてください」
踵を上げて、僅かに背伸びをする。一度目を閉じて深呼吸の後、ゆっくりと瞼を開いた。今はもう、頬を滑り落ちる汗の感触すら心地が良い。
指板が指と擦れる微かな音が鼓膜を掠めて、それを合図にしたように、陽は笑う。

「──オーバードライブ・ユア・ソング!」





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