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二部
第二十八話(前)
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睡眠の波に乗り遅れて浮上した意識が、寝袋越しの床の硬さをはっきりと捉えている。慣れない場所だからか、それとも精神が高揚しているからかもしれない。頼りない腹筋を頼りにむくりと起き上がると、僅かに上半身が軋んで唇の端から呻き声が漏れた。
頭を覆っていた寝袋が、ずるりと肩に落ちる。開きっ放しのカーテンから遠慮なしに雪崩れ込む朝日が目に滲みるようで、陽は思わず極限まで顔を顰めた。朝特有の緩慢さでもって横を見る。寝袋に埋もれて穏やかな寝息を立てている三人を、陽は暫くの間ぼんやりと眺めていた。
起きた瞬間は薄開きだった目と脳味噌とが徐々に冴えて、早朝の、どこかきらきらとした空気が身体の中を循環していく。時計は六時半を指していて、起きるにはまだ早い。が、二度寝と言う考えはどこにも無かった。何となく外の空気が吸いたくなって、陽はゆっくりと寝袋のファスナーを下ろす。そろそろと立ち上がって、横に脱ぎ散らかしていたサンダルに爪先を入れた。
扉を少しだけ開けて隙間から身体を通し、なるべく音を立てないようにそっと閉じた。早朝であるし、泊まり込んでいる生徒たちも寝ているからか、校内はいやに静かだ。第二視聴覚室を出てすぐの窓を開けると、冬の気配を纏った冷たい風が頬を撫でていく。
目の前の鬱蒼とした森林がそれに合わせて揺れて、陽は少し背伸びをして窓枠に両の肘をついた。
晴と怪談研究会のメンバーの白骨死体が山の中で見つかってから、三ヶ月と少しが経つ。過ぎてしまえばあっと言う間だった。あの日、森の中で自分を手招いていた晴の姿を、自分を呼んでいた声を、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「……」
小さく鼻を啜って、陽は窓を閉めた。もう晴のことでは泣かないと決めているから、涙は出て来ない。思い切り頭を振って、頬を両の手で挟み込むようにして数度叩く。
その背後で、がちゃりと扉が開く音がした。
「いた」
寝起きであるからか、いつもよりも少し低い声に振り返る。そこには至極眠そうに目を擦って、半分だけ開いた扉の隙間から顔を出す初の姿があった。彼は今起きましたとばかりに大きな欠伸と数度の瞬きをした後、まじまじと陽を見て、その頭部を指差した。
「陽」
「?」
「頭爆発してる」
「──……あ」
陽が自らの頭に数度触れると、その度にぱち、ぱちと言う何かが弾けるようなごく軽い音がする。髪がふわふわと逆立っていて、いつもは視界に入る前髪がすっかり消えていることに今更気が付いた。剥き出しになった額を両手で押さえて、陽は思わず声を上げる。
「静電気!」
それを聞いた初は呆れたように笑って、陽を第二視聴覚室の中へと手招いた。その後を追うように額を覆ったまま扉の隙間をくぐり抜けてすぐ、寝袋から上体を起こして伸びをした織と目が合う。髪を下ろした姿は、未だに見慣れない。若干掠れた声でおはよ、と微笑んだ彼は、慣れた手付きで髪を括った。
その横で、織に背を向ける形で丸まっている惺はどうやらまだ夢の中にいるらしい。顔の殆どが寝袋の中に入り込んでしまっているために表情は伺い知れないが、深く上下する肩を見ても熟睡していることは明らかだ。
「さとちゃん先輩まだ寝てんすか」
起こしては悪いからと、気持ち声が小さくなる。陽の問いに頷いた織は、身体の下半分を寝袋に入れたままで惺の頭があるであろう場所を突いた。呻き声と共に織の方を向いた惺だったが、それでも起きることはない。いつもこうだと笑った織は寝袋から抜け出して、机の上に置かれていたヘアピンで前髪を留めた。
惺の側に屈み込んだ初が、微笑ましげにその様子を見詰めて声を潜める。
「よく寝てますね」
「大声出しても起きないから、普通に喋っていいよ」
慣れた様子の織はベースを手に椅子に腰掛けて、基礎練習を始めた。長く形の良い左の指先が指板を這って、右指が弦を弾くたびに乾いた低音が微かに響く。それにつられるようにして、陽はギターを肩に掛けながら織の正面に座った。昨晩の続きのように、今日のセットリストを上からなぞっていく。何も考えずとも口から滑り落ちてくる歌を、小声で口ずさんだ。初の手で机の上に積み上げられた数冊の雑誌と教科書が、スティックで打たれるたびに軽い音を立てている。
「……おれもまぜて、」
くぐもった、半分以上呻きのような声が聞こえた。床に転がっていた寝袋がもぞりと動いて、そこから惺が這い出てくる。彼は暫くその場に座り込んで俯いていたが、やがてふらふらと立ち上がってキーボードの方へ向かった。その足取りがあまりにも危なっかしいので、三人は思わず彼を凝視してしまう。
陽は机から身を乗り出して、惺に向かって言った。
「さとちゃん先輩、大丈夫?起きてる?」
「だいじょぶ、だんだんおきるから」
キーボードのスイッチを入れながら掠れた声で返事をした惺が顔を上げて、ふにゃふにゃとした笑みを浮かべた。それを見た初が織を呼んで、もうおっきい音出しちゃいます?と提案をした。陽は間髪入れずに右手を真っ直ぐ上げて初に同調して、織に向かって首を傾げた。
「いいでしょ?織ちゃん先輩。やろうよ」
「──やっちゃおっか」
口の端を吊り上げて織が笑う。こういう時の彼は、本当に極悪人のような笑い方をするのだ。
三人は立ち上がって、それぞれの楽器の準備をする。当然のことながら早朝に練習を始めるのは初めてで、それだけで勝手に口角が上がった。窓から見える空の色味が違うというだけなのに、こんなにも感情が上を向く。
寝起きで乾いていた喉にすっかり温くなった水を流し込んで、陽はギターを構えた。
*
息を切らせて体育館のステージに腰掛けた陽は、体育館の前半分に等間隔に敷き詰められたパイプ椅子を眺めている。席の配置は、定期公演会と全く同じだ。演劇部、吹奏楽部、合唱部は、昨晩のうちにリハーサルを済ませてしまっているらしい。軽音部とダンス部は当日のリハーサルで、軽音部は八時十五分、ダンス部はその後だった。発表の順番は、あまり関係がないのだろうか。
搬入作業は相変わらず過酷で、陽は早々にブレザーを脱いでしまった。捲られた長袖のシャツから伸びる自らの腕に、若干汗が滲んでいるのがわかる。他の三人も似たようなもので、初ですらネクタイを緩めていた。
起き抜けの練習に夢中になるあまり、気が付いた時には既に搬入開始の時刻だった。朝食だと言うパンが詰められた袋を片手にやって来た篠と共にばたばたと機材類を一階に下ろして、体育館に運んで、セッティングをする。リハーサルそのものの時間が少ないために、もたついている暇はどこにもない。篠は一通りの力仕事を終えると、楽しみは本番までに取っておくよと言って職員室に戻って行った。
ドラムやアンプ類をいちいち出したり引っ込めたりするのは面倒なので、他の部の出番中はステージの奥に寄せてカーテンで隠すらしい。
朝食を食べ損ねたお陰でぐるぐると唸り始める腹を宥めるように撫でて、陽は天井に向かって声を上げる。
「腹減ったー!」
「朝ご飯のこと、忘れてたね」
「うっかりしてたっすよお」
一通りの準備を終えて横に屈み込んだ惺の言葉に、陽は頷いた。
第二視聴覚室の机の上に放ってきた惣菜パンのことを思うと、本格的に空腹感が根を張り始める。早朝から起きているせいで軋みを上げながらぎこちなく回転する脳味噌は、自制などとは無縁に口を動かした。
「俺の焼きそばパン……」
「リハ終わったら食べればいいでしょ、……ちょっと早いけど、始めるよ」
「はーい」
陽の真後ろに立った初が、呆れ顔で腰に手を当てて覗き込んでくる。陽は身を反らせて彼を見上げ、惺と声を揃えて返事をした。立ち上がって、スタンドに立てたギターの元に歩み寄る。ネックを掴んで持ち上げて、ストラップに頭を潜り込ませて肩に掛けた。後方に置かれたアンプの電源を入れると、ぷつん、と言う音と共に指が弦を擦る音が響く。
マイクスタンドの前に立った時、ふと背後から織に肩を叩かれた。
「陽ちゃん」
「っす」
「ストラップ捻れてる、ギター持って」
言われた通りに陽がギターのボディを持ち上げると、織の手が肩の辺りに触れた。ストラップの捩れが取れたからか、少しだけ動き易くなった気もする。
織の温い手が、ぽんと陽の背中を叩いた。
「おっけ」
「あざっす!」
前を見る。体育館の半分を覆ったパイプ椅子が、じっとこちらを見詰めているようだった。三人を振り返って、陽は口を開く。
「最初のやつだけっすよね?」
「うん、さっさと済ませて朝飯食おうよ。俺も腹減った」
織の返答に陽が笑った時、体育館の扉の向こうから話し声が聞こえた。聞き覚えのあるそれに、陽はマイクのスイッチを入れて声を張り上げる。
「さっちゃん?」
きぃん、と僅かに耳に障るハウリングから少し間があいて、ぴったりと閉じられた体育館の扉がゆっくりと開いた。その隙間から気不味そうに顔を出した前川が、その長身を極限まで縮こめてステージの下まで駆けてくる。
その様子を見た初が、スティックを右手に纏めて陽の隣に立った。前川は律儀にも織と惺にそれぞれ会釈をして、陽と初を手招く。
「これからリハ?」
「そうだけど、何?忘れ物?」
眠気と空腹も手伝ってか若干不機嫌そうな初のどこか棘のある返答にも全く怯む様子のない前川は、口の横に手を添えて声をひそめた。
「いや、あのさ、本番さ、俺ら後ろからしか見れないだろ?この辺家族席とかだし、……だから、今だけ、一番前で見せてくんないかなーなんつって……」
定期公演会とは違って、文化祭には外側からの人間が入る。入場はそちらが優先されることになるし、人気がある部活の発表時、基本的に生徒は後ろで立ち見になると言うことは聞いていた。尤もそれは吹奏楽部などの話で、軽音部はその限りでは無い。バンドと言う理由で敬遠する保護者は少なからずいるだろうし、そうなれば生徒が前の方で見ることも可能になる。
とは言え、特に断る理由もないのだけれど。
「別にいいんじゃない?一曲くらい聴かしてあげれば?」
不意に背後から響いた惺の言葉に陽と初が反応する間もなく、彼はキーボードの側を離れて、ステージの際に屈みながら織の方を振り返った。
「ねえ?先輩」
ベースのボディに両腕を置いて一連の流れを眺めていた織は、前川の方をじっと見て、ひとり?と尋ねる。分かり易く緊張した様子の前川が声を裏返しながら言い淀んで、それを見越していたかのように体育館の扉の方に視線を投げた。
「良いよ。客はいっぱいいたほうが良いからね」
そう微笑んだ織が踵を返して、アンプの上に乗せられていたペットボトルの蓋を開ける。その中に揺れている水を一口飲んだ彼は口の端をシャツの袖で拭うと、陽と初に視線だけで準備をするように促した。
ぱっと顔を明るくした前川が、背後の扉を振り返って声を張り上げる。
「良いって!」
前川の声が体育館全体に響いて間もなく、扉がゆっくりと開いた。その隙間から数人の生徒が入ってくる。最上と時藤、次いで山野。そしてその後ろに隠れるように、見知らぬ女子生徒がひとり。ネクタイの色からして一年生だ。山野は彼女の手を引いて一直線にステージに駆け寄ると、織と惺にそれぞれ会釈をする。そして陽と初に向かって、顔の前で両手を合わせた。
「ごめんね、体育館の前に前川くんが張り付いてたから、乗っかっちゃった」
「物凄い勢いで教室に走って来たかと思ったらさ、軽音部がリハやるっぽいから見にいこって」
「お、俺も、ついて来ちゃった……楽しそうだと思ったから、」
最上が溜息を吐きながらそう言って、続いて時藤が照れたように笑う。体育館の前に着いて、声を掛けるべきか、それともこのまま外で漏れ聞こえる音を聞いているべきか悩んでいるところに、陽が前川を呼んだと言うわけだ。
「ところでさあ山野、その子、友達?」
山野の後ろに隠れていた女子生徒が、陽の言葉にびくりと肩を震わせる。山野はひとつ頷いて、自分よりも少し背の低い彼女の手を促すように引いた。
「A組のね、えいみちゃ──木築瑛実ちゃんって言うんだけど、定演の時からファンなんだって。軽音部の!」
「ふぁん」
「陽ちゃん」
呆気に取られている陽の襟首を、いつの間にか真後ろに来ていた織の手が鷲掴みにして引き上げる。
「あんまりお客さん待たせんのも悪いでしょ、さっさとやるよ」
そう言った織は陽をマイクスタンドの前まで引き摺り戻すと、ステージの下に立ち呆けている前川たちに向かって軽く手を振ってみせた。それを見た惺も同じようにして、どこか楽しげにキーボードのところへ戻って行く。
ドラムのもとに戻ろうとした初が、織に耳打ちをしているのが聞こえた。
「良いんですか、」
「別に古宮だって怒んないよ、このくらい、……はーくん」
「はい」
「もしかして、クラスの子の前だと緊張する?」
「……んなわけないでしょ、見ててくださいよ」
態とらしく声のトーンを落とした織に、初が口の端を吊り上げて目を細めた。彼は織とほんの少しの間挑発し合うように視線を交わした後、織に背を向けてドラムセットの中心に入り込み、椅子に腰掛けて息を吐く。
陽は先程と同じように三人を振り返って、ひとつだけ頷いた。ドラムスティックが初の頭上に掲げられる気配がする。
ステージの下でこちらを見上げる木築と目が合った。ファンだなどと言われた照れ臭さから勝手に口角が上がって、思わず笑いかける格好になってしまう。
カウントが聞こえる。
*
本来であれば三限目の終わりを告げるチャイムが、心なしかいつもよりも高らかに響いた。午前十一時を回りかけている時計が一瞬視界の端を掠めていく。普段なら空腹になり始める時間帯だが、朝食が遅かったせいか胃袋は未だ大人しい。カーテンを開け放しているために剥き出しになった第二視聴覚室の窓からは、校舎の向かい側ではしゃぐ生徒たちと、パンフレットを片手に移動する一般客の姿が見える。文化祭の二日目である本日は文化部の展示や発表が主であるので、運動部に所属する生徒たちは完全に自由だ。とは言え出席日数にはきっちり数えられるので、登校しないで良いというわけでは無い。
ギターの乾いた生音と自らの鼻歌を聴きながら、陽は室内を右往左往している。織と惺は、十分ほど前に偵察だと言って体育館へと向かった。
自らの定位置でやたらと分厚い本を読んでいた初が鬱陶しげに視線を上げて、あのさあ、と口を開く。
「緊張するのは分かるけど、ちょっと落ち着いたら」
「し、してねえし、緊張とか」
溜息混じりのそれに言い返して、陽は机の横に置かれたスタンドにギターを立てて初の横に腰掛けた。それを確認した初はまた本に視線を戻して、こう言った。
「リハは上手く行ったじゃん」
「リハっていうかライブだったけどな」
「はは、言えてる」
リハーサルと言うよりは小規模ライブに近い様相を呈していたそれは、結果として成功に終わった。時間の関係上たった一曲だけではあったが、前川を始めとする友人たちや山野、その友人の木築は非常に満足したようで、惜しみのない拍手を陽たちに送った。彼らは興奮気味に本番のライブも観に来ると言って、駆け足で体育館を後にした。
他のファンの子に自慢出来ます、と控え目に微笑んでいた木築の言葉を思い出して、リハーサルの時に感じたような気恥ずかしさが再び込み上げてくる。行き場を無くした指先が、忙しなく動いて机の上を這った。
どうにもじっとしていられずに、陽は初の手元を覗き込む。
「何の本?それ──うわ!英語!」
返答を待たず、陽は声を上げて顔を両手で覆い隠した。既に真ん中程まで読まれたその本は全文英語で書かれているようで、ページを所狭しと覆い尽くす細かいアルファベットに目が回りそうだ。
顔を覆って仰け反ったまま、もごもごと初に問い掛ける。
「読めんの?」
「読めなかったら意味無いでしょ」
視線を本に落としたまま、初はまた一枚ページを捲った。
その平然とした様子に陽は頬を膨らませる。先程初に言い返した、緊張していないなどと言うのは勿論嘘だ。きっと歌い出すその瞬間まで、そわそわと心は落ち着かないままだろう。定期公演会の時もそうだった。
陽が自らの頬を両手のひらでぺちんと打った時、第二視聴覚室の扉が音を立てて開いた。入室してくる織と惺を、陽は両手で頬を挟み込んだまま見遣る。ようやっと本から目を離した初がおかえりなさい、と言って、次いで織の手にぶら下がったビニール袋に注目した。
「何ですか?それ」
「穂積ちゃんから差し入れ。これ食って頑張れよってさ」
「あの人意外とマメだよねえ」
惺の言葉に笑いながら袋を机に置いた織は、椅子を引いてそこに腰掛ける。惺もまた同じようにして、袋の中身を机に出した。目の前に置かれる所謂コンビニスイーツと呼ばれるような小さいパフェやロールケーキ、チョコレートの類に、初の表情が徐々に輝いていくのが分かる。
机に肘をついてその様子を見ていた織が、徐にそれらを指差した。
「はーくん、好きなの取っちゃいなよ」
「いや、でも」
両手を胸の前で広げていつもの調子で遠慮しようとした初だったが、間髪入れずに惺が言う。
「初くんが一番こういうの好きでしょ」
「……それはそうですけど、…じゃあ、これで」
初は暫く迷ってから、比較的大きなプリンを手に取った。山のように盛られたホイップクリームの天辺に、粉砂糖が振りかけられた苺が鎮座している。全く予想通りすぎて吹き出しそうになった陽だったが、それをどうにか抑え込んで彼にプラスチックのスプーンを手渡した。
「じゃあ俺はこれー」
言いながら、陽は手のひらほどのサイズのパウンドケーキの袋を取る。封を切って中身を頬張る陽に、織がゼリーの蓋を開けながら尋ねた。
「演劇部観に行くの?」
「行くっす!」
最上が所属する演劇部は昼休憩のすぐ後、十三時から一時間程度の枠だった。午前中のプログラムには特に滞り無く、スケジュール通りに進んでいると言う。多少のズレはあるのだろうが、それを昼休憩で調整する心算なのだろう。
演劇部の公演を直に見るのは、定期公演会以来になる。
「混んでましたか?体育館」
「ま、それなりって感じかな」
初の問いに答えた織が、手にした小さなプラスチックのスプーンをゆらゆらと揺らしながら窓の外を見た。それにつられて視線を右側に向けた陽のブレザーのポケットの中で、携帯が僅かに震える。
読んでいた本について惺と話している初を横目に液晶を数度叩くと、そこには母の名前と、たった今届いたメッセージが表示されていた。そこに書かれていた内容を見て、思わず初の腕を突く。
「初、」
「?」
「みて」
母からのメッセージには、大体十四時半には学校に着くように向かうこと、着いたら連絡すること、その前に初の家族と昼食を食べることが絵文字付きの能天気な文章で記されていた。それを読んだ初は盛大な溜息を吐いて、マジかよ、と呟く。家族と、と言うからには、初の父と妹も含まれているに違いないのだ。彼は眉をひそめた後、声のトーンを幾分下げて項垂れる。
「今から言っとくけど、何か変なこと言ってたらごめんね、……」
「いや大丈夫だって」
「や、昊くんとかさ」
「昊?全然大丈夫だろ、あいつ誰にでもあんな感じだしさ、それに──」
不安げなその肩を叩いて、陽はパウンドケーキの最後の一口を飲み込んだ。母にメッセージを返して携帯をポケットに仕舞うと、机に突っ伏すようにして初の顔を覗き込む。
「子供の相手くらい慣れてんじゃん?医者だったら」
「どうだか」
吐き捨てるように言った初は昔のことを思い出したのか、憎々しげにプラスチックのスプーンに歯を立てた。ばき、と言う割れるような音がする。彼は慌てて口からそれを離して、罅の入ったそれを見詰めて一層顔を顰めた。想定していたよりも力が入ってしまっていたらしい。
初の幼少期から最近までの家庭環境を思えば無理からぬことで、それを不寛容だと責めることは出来なかった。初の父が多少心を入れ替えたところで、今までの出来事が消えて無くなるわけではない。
「許せない?」
妙に澄んだ惺の声がして、陽はそちらを向いた。机に肘をついた彼が初を見て微笑み、首を傾げている。
初はそれに迷うことなく頷いて、そりゃあそうでしょ、と言った。
「十六年ですよ」
「うん」
「それがちょっと優しくなったくらいでチャラになるわけないでしょ」
「うん」
「簡単に救われて良いわけ無いんだから、あの人も、……僕も」
「うん、だから許さなくて良いよ」
顔を上げた初の頭を、惺がゆるゆると撫でる。彼のそれは、織にされるよりも少しばかり柔らかい。
惺の口から平然と言い放たれた言葉に驚いたらしい初は暫く呆然として正面を見ていたが、やがて唇を強く噛み締めて俯き、声を震わせながら呟く。
「本当にそう思いますか」
「おれもそうだから」
そう言った惺が、一瞬ちらりと隣を見た気がした。その意味は陽には分からない。それを考えるよりも前に、惺が静かにこう続けた。
「無理に許さなくても良いんだよ」
ね、といつもと変わらず穏やかに微笑んだ惺に、初が小さく頷く。ブレザーの袖で目を拭うと顔を上げて、絶対後悔させてやりますよ、と戯けたように笑った。
一連のやり取りを黙って見ていた織は一つ息を吐いて笑うと、先程惺がそうしたように初の髪を掻き回す。暫く大人しくしていた初だったが、やがてその手を掴んで不満そうに織を見た。
「いつまでそうしてんですか」
「いやあ可愛いものは撫でたくなるじゃんか」
「僕そういうキャラじゃないんで」
「可愛い後輩には違いないでしょ」
織のその言葉に言い返せなくなってしまったらしい初は、少し口を噤んだ後にそれを振り払うように声を上げた。
「練習!」
頭を覆っていた寝袋が、ずるりと肩に落ちる。開きっ放しのカーテンから遠慮なしに雪崩れ込む朝日が目に滲みるようで、陽は思わず極限まで顔を顰めた。朝特有の緩慢さでもって横を見る。寝袋に埋もれて穏やかな寝息を立てている三人を、陽は暫くの間ぼんやりと眺めていた。
起きた瞬間は薄開きだった目と脳味噌とが徐々に冴えて、早朝の、どこかきらきらとした空気が身体の中を循環していく。時計は六時半を指していて、起きるにはまだ早い。が、二度寝と言う考えはどこにも無かった。何となく外の空気が吸いたくなって、陽はゆっくりと寝袋のファスナーを下ろす。そろそろと立ち上がって、横に脱ぎ散らかしていたサンダルに爪先を入れた。
扉を少しだけ開けて隙間から身体を通し、なるべく音を立てないようにそっと閉じた。早朝であるし、泊まり込んでいる生徒たちも寝ているからか、校内はいやに静かだ。第二視聴覚室を出てすぐの窓を開けると、冬の気配を纏った冷たい風が頬を撫でていく。
目の前の鬱蒼とした森林がそれに合わせて揺れて、陽は少し背伸びをして窓枠に両の肘をついた。
晴と怪談研究会のメンバーの白骨死体が山の中で見つかってから、三ヶ月と少しが経つ。過ぎてしまえばあっと言う間だった。あの日、森の中で自分を手招いていた晴の姿を、自分を呼んでいた声を、まるで昨日のことのように鮮明に思い出せる。
「……」
小さく鼻を啜って、陽は窓を閉めた。もう晴のことでは泣かないと決めているから、涙は出て来ない。思い切り頭を振って、頬を両の手で挟み込むようにして数度叩く。
その背後で、がちゃりと扉が開く音がした。
「いた」
寝起きであるからか、いつもよりも少し低い声に振り返る。そこには至極眠そうに目を擦って、半分だけ開いた扉の隙間から顔を出す初の姿があった。彼は今起きましたとばかりに大きな欠伸と数度の瞬きをした後、まじまじと陽を見て、その頭部を指差した。
「陽」
「?」
「頭爆発してる」
「──……あ」
陽が自らの頭に数度触れると、その度にぱち、ぱちと言う何かが弾けるようなごく軽い音がする。髪がふわふわと逆立っていて、いつもは視界に入る前髪がすっかり消えていることに今更気が付いた。剥き出しになった額を両手で押さえて、陽は思わず声を上げる。
「静電気!」
それを聞いた初は呆れたように笑って、陽を第二視聴覚室の中へと手招いた。その後を追うように額を覆ったまま扉の隙間をくぐり抜けてすぐ、寝袋から上体を起こして伸びをした織と目が合う。髪を下ろした姿は、未だに見慣れない。若干掠れた声でおはよ、と微笑んだ彼は、慣れた手付きで髪を括った。
その横で、織に背を向ける形で丸まっている惺はどうやらまだ夢の中にいるらしい。顔の殆どが寝袋の中に入り込んでしまっているために表情は伺い知れないが、深く上下する肩を見ても熟睡していることは明らかだ。
「さとちゃん先輩まだ寝てんすか」
起こしては悪いからと、気持ち声が小さくなる。陽の問いに頷いた織は、身体の下半分を寝袋に入れたままで惺の頭があるであろう場所を突いた。呻き声と共に織の方を向いた惺だったが、それでも起きることはない。いつもこうだと笑った織は寝袋から抜け出して、机の上に置かれていたヘアピンで前髪を留めた。
惺の側に屈み込んだ初が、微笑ましげにその様子を見詰めて声を潜める。
「よく寝てますね」
「大声出しても起きないから、普通に喋っていいよ」
慣れた様子の織はベースを手に椅子に腰掛けて、基礎練習を始めた。長く形の良い左の指先が指板を這って、右指が弦を弾くたびに乾いた低音が微かに響く。それにつられるようにして、陽はギターを肩に掛けながら織の正面に座った。昨晩の続きのように、今日のセットリストを上からなぞっていく。何も考えずとも口から滑り落ちてくる歌を、小声で口ずさんだ。初の手で机の上に積み上げられた数冊の雑誌と教科書が、スティックで打たれるたびに軽い音を立てている。
「……おれもまぜて、」
くぐもった、半分以上呻きのような声が聞こえた。床に転がっていた寝袋がもぞりと動いて、そこから惺が這い出てくる。彼は暫くその場に座り込んで俯いていたが、やがてふらふらと立ち上がってキーボードの方へ向かった。その足取りがあまりにも危なっかしいので、三人は思わず彼を凝視してしまう。
陽は机から身を乗り出して、惺に向かって言った。
「さとちゃん先輩、大丈夫?起きてる?」
「だいじょぶ、だんだんおきるから」
キーボードのスイッチを入れながら掠れた声で返事をした惺が顔を上げて、ふにゃふにゃとした笑みを浮かべた。それを見た初が織を呼んで、もうおっきい音出しちゃいます?と提案をした。陽は間髪入れずに右手を真っ直ぐ上げて初に同調して、織に向かって首を傾げた。
「いいでしょ?織ちゃん先輩。やろうよ」
「──やっちゃおっか」
口の端を吊り上げて織が笑う。こういう時の彼は、本当に極悪人のような笑い方をするのだ。
三人は立ち上がって、それぞれの楽器の準備をする。当然のことながら早朝に練習を始めるのは初めてで、それだけで勝手に口角が上がった。窓から見える空の色味が違うというだけなのに、こんなにも感情が上を向く。
寝起きで乾いていた喉にすっかり温くなった水を流し込んで、陽はギターを構えた。
*
息を切らせて体育館のステージに腰掛けた陽は、体育館の前半分に等間隔に敷き詰められたパイプ椅子を眺めている。席の配置は、定期公演会と全く同じだ。演劇部、吹奏楽部、合唱部は、昨晩のうちにリハーサルを済ませてしまっているらしい。軽音部とダンス部は当日のリハーサルで、軽音部は八時十五分、ダンス部はその後だった。発表の順番は、あまり関係がないのだろうか。
搬入作業は相変わらず過酷で、陽は早々にブレザーを脱いでしまった。捲られた長袖のシャツから伸びる自らの腕に、若干汗が滲んでいるのがわかる。他の三人も似たようなもので、初ですらネクタイを緩めていた。
起き抜けの練習に夢中になるあまり、気が付いた時には既に搬入開始の時刻だった。朝食だと言うパンが詰められた袋を片手にやって来た篠と共にばたばたと機材類を一階に下ろして、体育館に運んで、セッティングをする。リハーサルそのものの時間が少ないために、もたついている暇はどこにもない。篠は一通りの力仕事を終えると、楽しみは本番までに取っておくよと言って職員室に戻って行った。
ドラムやアンプ類をいちいち出したり引っ込めたりするのは面倒なので、他の部の出番中はステージの奥に寄せてカーテンで隠すらしい。
朝食を食べ損ねたお陰でぐるぐると唸り始める腹を宥めるように撫でて、陽は天井に向かって声を上げる。
「腹減ったー!」
「朝ご飯のこと、忘れてたね」
「うっかりしてたっすよお」
一通りの準備を終えて横に屈み込んだ惺の言葉に、陽は頷いた。
第二視聴覚室の机の上に放ってきた惣菜パンのことを思うと、本格的に空腹感が根を張り始める。早朝から起きているせいで軋みを上げながらぎこちなく回転する脳味噌は、自制などとは無縁に口を動かした。
「俺の焼きそばパン……」
「リハ終わったら食べればいいでしょ、……ちょっと早いけど、始めるよ」
「はーい」
陽の真後ろに立った初が、呆れ顔で腰に手を当てて覗き込んでくる。陽は身を反らせて彼を見上げ、惺と声を揃えて返事をした。立ち上がって、スタンドに立てたギターの元に歩み寄る。ネックを掴んで持ち上げて、ストラップに頭を潜り込ませて肩に掛けた。後方に置かれたアンプの電源を入れると、ぷつん、と言う音と共に指が弦を擦る音が響く。
マイクスタンドの前に立った時、ふと背後から織に肩を叩かれた。
「陽ちゃん」
「っす」
「ストラップ捻れてる、ギター持って」
言われた通りに陽がギターのボディを持ち上げると、織の手が肩の辺りに触れた。ストラップの捩れが取れたからか、少しだけ動き易くなった気もする。
織の温い手が、ぽんと陽の背中を叩いた。
「おっけ」
「あざっす!」
前を見る。体育館の半分を覆ったパイプ椅子が、じっとこちらを見詰めているようだった。三人を振り返って、陽は口を開く。
「最初のやつだけっすよね?」
「うん、さっさと済ませて朝飯食おうよ。俺も腹減った」
織の返答に陽が笑った時、体育館の扉の向こうから話し声が聞こえた。聞き覚えのあるそれに、陽はマイクのスイッチを入れて声を張り上げる。
「さっちゃん?」
きぃん、と僅かに耳に障るハウリングから少し間があいて、ぴったりと閉じられた体育館の扉がゆっくりと開いた。その隙間から気不味そうに顔を出した前川が、その長身を極限まで縮こめてステージの下まで駆けてくる。
その様子を見た初が、スティックを右手に纏めて陽の隣に立った。前川は律儀にも織と惺にそれぞれ会釈をして、陽と初を手招く。
「これからリハ?」
「そうだけど、何?忘れ物?」
眠気と空腹も手伝ってか若干不機嫌そうな初のどこか棘のある返答にも全く怯む様子のない前川は、口の横に手を添えて声をひそめた。
「いや、あのさ、本番さ、俺ら後ろからしか見れないだろ?この辺家族席とかだし、……だから、今だけ、一番前で見せてくんないかなーなんつって……」
定期公演会とは違って、文化祭には外側からの人間が入る。入場はそちらが優先されることになるし、人気がある部活の発表時、基本的に生徒は後ろで立ち見になると言うことは聞いていた。尤もそれは吹奏楽部などの話で、軽音部はその限りでは無い。バンドと言う理由で敬遠する保護者は少なからずいるだろうし、そうなれば生徒が前の方で見ることも可能になる。
とは言え、特に断る理由もないのだけれど。
「別にいいんじゃない?一曲くらい聴かしてあげれば?」
不意に背後から響いた惺の言葉に陽と初が反応する間もなく、彼はキーボードの側を離れて、ステージの際に屈みながら織の方を振り返った。
「ねえ?先輩」
ベースのボディに両腕を置いて一連の流れを眺めていた織は、前川の方をじっと見て、ひとり?と尋ねる。分かり易く緊張した様子の前川が声を裏返しながら言い淀んで、それを見越していたかのように体育館の扉の方に視線を投げた。
「良いよ。客はいっぱいいたほうが良いからね」
そう微笑んだ織が踵を返して、アンプの上に乗せられていたペットボトルの蓋を開ける。その中に揺れている水を一口飲んだ彼は口の端をシャツの袖で拭うと、陽と初に視線だけで準備をするように促した。
ぱっと顔を明るくした前川が、背後の扉を振り返って声を張り上げる。
「良いって!」
前川の声が体育館全体に響いて間もなく、扉がゆっくりと開いた。その隙間から数人の生徒が入ってくる。最上と時藤、次いで山野。そしてその後ろに隠れるように、見知らぬ女子生徒がひとり。ネクタイの色からして一年生だ。山野は彼女の手を引いて一直線にステージに駆け寄ると、織と惺にそれぞれ会釈をする。そして陽と初に向かって、顔の前で両手を合わせた。
「ごめんね、体育館の前に前川くんが張り付いてたから、乗っかっちゃった」
「物凄い勢いで教室に走って来たかと思ったらさ、軽音部がリハやるっぽいから見にいこって」
「お、俺も、ついて来ちゃった……楽しそうだと思ったから、」
最上が溜息を吐きながらそう言って、続いて時藤が照れたように笑う。体育館の前に着いて、声を掛けるべきか、それともこのまま外で漏れ聞こえる音を聞いているべきか悩んでいるところに、陽が前川を呼んだと言うわけだ。
「ところでさあ山野、その子、友達?」
山野の後ろに隠れていた女子生徒が、陽の言葉にびくりと肩を震わせる。山野はひとつ頷いて、自分よりも少し背の低い彼女の手を促すように引いた。
「A組のね、えいみちゃ──木築瑛実ちゃんって言うんだけど、定演の時からファンなんだって。軽音部の!」
「ふぁん」
「陽ちゃん」
呆気に取られている陽の襟首を、いつの間にか真後ろに来ていた織の手が鷲掴みにして引き上げる。
「あんまりお客さん待たせんのも悪いでしょ、さっさとやるよ」
そう言った織は陽をマイクスタンドの前まで引き摺り戻すと、ステージの下に立ち呆けている前川たちに向かって軽く手を振ってみせた。それを見た惺も同じようにして、どこか楽しげにキーボードのところへ戻って行く。
ドラムのもとに戻ろうとした初が、織に耳打ちをしているのが聞こえた。
「良いんですか、」
「別に古宮だって怒んないよ、このくらい、……はーくん」
「はい」
「もしかして、クラスの子の前だと緊張する?」
「……んなわけないでしょ、見ててくださいよ」
態とらしく声のトーンを落とした織に、初が口の端を吊り上げて目を細めた。彼は織とほんの少しの間挑発し合うように視線を交わした後、織に背を向けてドラムセットの中心に入り込み、椅子に腰掛けて息を吐く。
陽は先程と同じように三人を振り返って、ひとつだけ頷いた。ドラムスティックが初の頭上に掲げられる気配がする。
ステージの下でこちらを見上げる木築と目が合った。ファンだなどと言われた照れ臭さから勝手に口角が上がって、思わず笑いかける格好になってしまう。
カウントが聞こえる。
*
本来であれば三限目の終わりを告げるチャイムが、心なしかいつもよりも高らかに響いた。午前十一時を回りかけている時計が一瞬視界の端を掠めていく。普段なら空腹になり始める時間帯だが、朝食が遅かったせいか胃袋は未だ大人しい。カーテンを開け放しているために剥き出しになった第二視聴覚室の窓からは、校舎の向かい側ではしゃぐ生徒たちと、パンフレットを片手に移動する一般客の姿が見える。文化祭の二日目である本日は文化部の展示や発表が主であるので、運動部に所属する生徒たちは完全に自由だ。とは言え出席日数にはきっちり数えられるので、登校しないで良いというわけでは無い。
ギターの乾いた生音と自らの鼻歌を聴きながら、陽は室内を右往左往している。織と惺は、十分ほど前に偵察だと言って体育館へと向かった。
自らの定位置でやたらと分厚い本を読んでいた初が鬱陶しげに視線を上げて、あのさあ、と口を開く。
「緊張するのは分かるけど、ちょっと落ち着いたら」
「し、してねえし、緊張とか」
溜息混じりのそれに言い返して、陽は机の横に置かれたスタンドにギターを立てて初の横に腰掛けた。それを確認した初はまた本に視線を戻して、こう言った。
「リハは上手く行ったじゃん」
「リハっていうかライブだったけどな」
「はは、言えてる」
リハーサルと言うよりは小規模ライブに近い様相を呈していたそれは、結果として成功に終わった。時間の関係上たった一曲だけではあったが、前川を始めとする友人たちや山野、その友人の木築は非常に満足したようで、惜しみのない拍手を陽たちに送った。彼らは興奮気味に本番のライブも観に来ると言って、駆け足で体育館を後にした。
他のファンの子に自慢出来ます、と控え目に微笑んでいた木築の言葉を思い出して、リハーサルの時に感じたような気恥ずかしさが再び込み上げてくる。行き場を無くした指先が、忙しなく動いて机の上を這った。
どうにもじっとしていられずに、陽は初の手元を覗き込む。
「何の本?それ──うわ!英語!」
返答を待たず、陽は声を上げて顔を両手で覆い隠した。既に真ん中程まで読まれたその本は全文英語で書かれているようで、ページを所狭しと覆い尽くす細かいアルファベットに目が回りそうだ。
顔を覆って仰け反ったまま、もごもごと初に問い掛ける。
「読めんの?」
「読めなかったら意味無いでしょ」
視線を本に落としたまま、初はまた一枚ページを捲った。
その平然とした様子に陽は頬を膨らませる。先程初に言い返した、緊張していないなどと言うのは勿論嘘だ。きっと歌い出すその瞬間まで、そわそわと心は落ち着かないままだろう。定期公演会の時もそうだった。
陽が自らの頬を両手のひらでぺちんと打った時、第二視聴覚室の扉が音を立てて開いた。入室してくる織と惺を、陽は両手で頬を挟み込んだまま見遣る。ようやっと本から目を離した初がおかえりなさい、と言って、次いで織の手にぶら下がったビニール袋に注目した。
「何ですか?それ」
「穂積ちゃんから差し入れ。これ食って頑張れよってさ」
「あの人意外とマメだよねえ」
惺の言葉に笑いながら袋を机に置いた織は、椅子を引いてそこに腰掛ける。惺もまた同じようにして、袋の中身を机に出した。目の前に置かれる所謂コンビニスイーツと呼ばれるような小さいパフェやロールケーキ、チョコレートの類に、初の表情が徐々に輝いていくのが分かる。
机に肘をついてその様子を見ていた織が、徐にそれらを指差した。
「はーくん、好きなの取っちゃいなよ」
「いや、でも」
両手を胸の前で広げていつもの調子で遠慮しようとした初だったが、間髪入れずに惺が言う。
「初くんが一番こういうの好きでしょ」
「……それはそうですけど、…じゃあ、これで」
初は暫く迷ってから、比較的大きなプリンを手に取った。山のように盛られたホイップクリームの天辺に、粉砂糖が振りかけられた苺が鎮座している。全く予想通りすぎて吹き出しそうになった陽だったが、それをどうにか抑え込んで彼にプラスチックのスプーンを手渡した。
「じゃあ俺はこれー」
言いながら、陽は手のひらほどのサイズのパウンドケーキの袋を取る。封を切って中身を頬張る陽に、織がゼリーの蓋を開けながら尋ねた。
「演劇部観に行くの?」
「行くっす!」
最上が所属する演劇部は昼休憩のすぐ後、十三時から一時間程度の枠だった。午前中のプログラムには特に滞り無く、スケジュール通りに進んでいると言う。多少のズレはあるのだろうが、それを昼休憩で調整する心算なのだろう。
演劇部の公演を直に見るのは、定期公演会以来になる。
「混んでましたか?体育館」
「ま、それなりって感じかな」
初の問いに答えた織が、手にした小さなプラスチックのスプーンをゆらゆらと揺らしながら窓の外を見た。それにつられて視線を右側に向けた陽のブレザーのポケットの中で、携帯が僅かに震える。
読んでいた本について惺と話している初を横目に液晶を数度叩くと、そこには母の名前と、たった今届いたメッセージが表示されていた。そこに書かれていた内容を見て、思わず初の腕を突く。
「初、」
「?」
「みて」
母からのメッセージには、大体十四時半には学校に着くように向かうこと、着いたら連絡すること、その前に初の家族と昼食を食べることが絵文字付きの能天気な文章で記されていた。それを読んだ初は盛大な溜息を吐いて、マジかよ、と呟く。家族と、と言うからには、初の父と妹も含まれているに違いないのだ。彼は眉をひそめた後、声のトーンを幾分下げて項垂れる。
「今から言っとくけど、何か変なこと言ってたらごめんね、……」
「いや大丈夫だって」
「や、昊くんとかさ」
「昊?全然大丈夫だろ、あいつ誰にでもあんな感じだしさ、それに──」
不安げなその肩を叩いて、陽はパウンドケーキの最後の一口を飲み込んだ。母にメッセージを返して携帯をポケットに仕舞うと、机に突っ伏すようにして初の顔を覗き込む。
「子供の相手くらい慣れてんじゃん?医者だったら」
「どうだか」
吐き捨てるように言った初は昔のことを思い出したのか、憎々しげにプラスチックのスプーンに歯を立てた。ばき、と言う割れるような音がする。彼は慌てて口からそれを離して、罅の入ったそれを見詰めて一層顔を顰めた。想定していたよりも力が入ってしまっていたらしい。
初の幼少期から最近までの家庭環境を思えば無理からぬことで、それを不寛容だと責めることは出来なかった。初の父が多少心を入れ替えたところで、今までの出来事が消えて無くなるわけではない。
「許せない?」
妙に澄んだ惺の声がして、陽はそちらを向いた。机に肘をついた彼が初を見て微笑み、首を傾げている。
初はそれに迷うことなく頷いて、そりゃあそうでしょ、と言った。
「十六年ですよ」
「うん」
「それがちょっと優しくなったくらいでチャラになるわけないでしょ」
「うん」
「簡単に救われて良いわけ無いんだから、あの人も、……僕も」
「うん、だから許さなくて良いよ」
顔を上げた初の頭を、惺がゆるゆると撫でる。彼のそれは、織にされるよりも少しばかり柔らかい。
惺の口から平然と言い放たれた言葉に驚いたらしい初は暫く呆然として正面を見ていたが、やがて唇を強く噛み締めて俯き、声を震わせながら呟く。
「本当にそう思いますか」
「おれもそうだから」
そう言った惺が、一瞬ちらりと隣を見た気がした。その意味は陽には分からない。それを考えるよりも前に、惺が静かにこう続けた。
「無理に許さなくても良いんだよ」
ね、といつもと変わらず穏やかに微笑んだ惺に、初が小さく頷く。ブレザーの袖で目を拭うと顔を上げて、絶対後悔させてやりますよ、と戯けたように笑った。
一連のやり取りを黙って見ていた織は一つ息を吐いて笑うと、先程惺がそうしたように初の髪を掻き回す。暫く大人しくしていた初だったが、やがてその手を掴んで不満そうに織を見た。
「いつまでそうしてんですか」
「いやあ可愛いものは撫でたくなるじゃんか」
「僕そういうキャラじゃないんで」
「可愛い後輩には違いないでしょ」
織のその言葉に言い返せなくなってしまったらしい初は、少し口を噤んだ後にそれを振り払うように声を上げた。
「練習!」
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