オーバードライブ・ユア・ソング

津田ぴぴ子

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二部

第二十七話

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この第二視聴覚室は、喧騒から一番遠い。
文化祭一日目のいつになく浮かれた空気感からようやっと逃れて、陽と初は机に突っ伏していた。時計は十五時半を指していて、いっとき溢れていた校舎内の人々は徐々に散り始めている。
吹奏楽部の練習の音が、遠くの方から聞こえた。
隙間無くぴったりと閉じられた黒いカーテンを陽が手探りで掴んで、引く。一気に雪崩れ込んできた刺すような太陽の光に忌々しそうに呻いた初が、閉めてよ、と掠れた声を出しながら身動いだ。
「お前寝るだろ」
「頑張ったもん」
「ずっとパンケーキ焼いてたもんなあ」
言いながら、陽は初の頭をゆるゆると撫でる。

一年B組の出し物であった模擬店は、そこそこの盛況さを保ったまま幕を下ろした。
クラスを一周するように割り当てられた当番の時間帯の殆どを動き回って過ごして、ふらふらと教室を出たのが今から三十分ほど前になる。先程制服に着替える時に脱ぎ散らかしたセーラー服がそのまま床に放置されているが、疲れ切った初はそれを咎める気にもなれないらしい。
模擬店が終了した時の前川が椅子に仰反るように座って呆然と天井を眺めている光景を思い出して、陽は吹き出しそうになる。人生で一番疲れた、真夏の走り込みよりきつい、と呟く前川の顔を、最上が至極面倒そうに下敷きで仰いでいた。
その最上は陽よりも動いていた割に元気で、自らの当番が終わると早々に着替えて演劇部の部室へと向かった。本番が明日に差し迫った今、疲れている暇など無いのだろう。
「悠さあ、めちゃくちゃ元気だったよな」
「ドーパミン出てたんじゃないの」
「ド?」
「何でもない、ごめん難しいこと言って」
「馬鹿にした?今」
「してない」
ぼんやりと大層眠たげに話す初の肩をつついて、陽は机から身を起こして天井を見上げる。
接客に客引きにと、走り回っているうちにいつの間にか割り当てられた時間を回っていた。慣れないスカートで膝に感じていたむず痒さも、後半には慣れきってしまった。このセーラー服はクリーニングに出した後学校に持ってくる予定だが、この服の出所がどこなのか、陽は知らない。いつの間にか用意されて、いつの間にか着ることになっていた。どこかの中学校の制服と言う訳では無さそうだし、コスプレ用の衣装か何かだろうか。
「初、」
「何」
「これさあ、この服、誰に返せば良いの?」
「洲崎くん」
「これ委員長のなの!?」
「そうだよ、悠くんのメイド服は演劇部から借りたやつだし、瑞樹くんのやつは野々上さんの自前だけどね」
陽の大声に顔を顰めながら、逆に知らなかったの?と気怠げに起き上がった初が、床に放られたセーラー服を手慣れた様子で丁寧に畳む。それをぼんやりと眺めていた陽の前に畳み終えたそれを置いて、初は大きく伸びをした。深く息を吐きながら肩を落とした彼が、振り返って時計を見上げる。
初の考えていることは手に取るように分かったが、それを言葉にするようなことはしない。代わりに、横に置いたギグバッグからギターを取り出して、抱えた。一曲目のイントロにあたるフレーズを弾きながら、陽は隣に座る初を見る。
「MC何喋る?やっぱりコント?」
「芸人かよ」
「だってさあ、さとちゃん先輩が、陽くんは普通に喋ってるだけで面白いよって──」
言うから、と続けようとした陽の声は、第二視聴覚室の扉が軋む音によって途切れた。陽と初が勢い良くそちらを見ると、幾分疲れた様子の織と惺が入室してくる。二人はよろよろと自らの席に近寄って、崩れるように椅子に腰掛けた。
一日中動き回ったのは、彼らも同じらしい。
先程の陽たちと同じように机に額をつけた織が、そのままで陽を呼ぶ。
「陽ちゃん」
「っす」
「歌って」
「ええ?」
「はーくんもだよ」
「はあ」
一番だけっすよと笑って、陽は織が一番最初に軽音部に作ってきた曲のイントロを弾き始めた。コード進行はすっかり指先に馴染んで、何も考えなくてもするすると口から歌が出てくる。いちいち覚えてはいないけれど、この曲を弾き語り形式で演奏するのは初めてのような気がした。
いつもよりも柔らかい自らの歌声と、それにぴったりと寄り添ってくる初のコーラスが、何だか妙に擽ったい。
サビの部分の歌詞が、特に好きだった。

最後のコードを弾き終えた時、ずっと机に伏せていた織が起き上がってひとつ息を吐く。惺は微笑んで肘をつき、隣を見遣った。
「癒された……」
「何ですか、それ」
織の言葉に苦笑した初が徐に立ち上がって、奥の部屋に入って行く。暫くして戻ってきた彼は、その手に紙コップと大きなペットボトル、そして高級そうなクッキーの缶を抱えていた。
「これ、毎年伯父さんちがくれるんですけど。部活のみんなで食べてーって、親が」
そう言って笑った初は、大きな葡萄の写真が印刷された見慣れない銘柄のペットボトルの蓋を開けて、その中身を紙コップに注いだ。次いで缶の蓋を開けると、個別に包装された様々なクッキーが顔を出す。どちらも父方の親戚が送って寄越したものだと言うが、見るからに高級品だ。
その中のひとつを手に取ってまじまじと眺めていた織が、ふと口を開く。
「これ高価たかいやつじゃないの?」
「そうなんですか?値段は聞いたことないですね」
「金持ちなんだ、その伯父さんって」
「って言うか、これ伯父さんの会社なんですよ」
初の言葉に驚いて声を上げる織を横目に、陽は端のチョコチップクッキーを取って袋を破り、その中身を全て口に入れた。多少大きかったので、頬が膨らむ。チョコレートの優しい苦味とバターの香りが鼻から抜けて、思わず顔が綻んだ。美味しい?と言う惺の問いに陽が何度も頷くと、惺も手にしていたジャムクッキーの袋を開けた。中央に乗せられた透明感のある赤いジャムが、蛍光灯に反射してきらきらと光っている。
織と話していた初はふと何かに気付いたようにその動きを止めて、申し訳なさそうな顔で上級生二人を見た。
「すいません、練習しないといけないのに」
それを聞いた織は惺と顔を見合わせて首を横に振り、悪戯っぽく口の端を釣り上げた。
「大丈夫、時間はいっぱいあるからね」
「織ちゃん先輩、忙しすぎて時間の感覚まで狂っちゃったの?」
そう言いながら、陽はもう何枚目かも知れないクッキーを口に放り込む。その額を織の人差し指が小突いて、陽は口をもごもごと動かしながらそこを押さえた。
そんな陽の目の前に、織は鞄から取り出した一枚のプリントを突き出す。
「部長、これ書いて」
校内宿泊申請書、と題されたそれをそのまま読み上げて、陽は紙面を見る。この書類の存在は軽音部に入った直後に聞いた気がするが、実物を見るのは初めてだった。既に織と惺の名前は記入されていて、後は陽と初が署名をするのみだ。これを顧問か生徒指導に提出して初めて、学校への宿泊が認められる。
「俺も惺もすっかり鈍っちゃったし、付き合って貰うよ」
織がぱきぱきと肩を鳴らしながら言ったのと同時に、陽と初は携帯を取り出していた。前もって言ってくださいよ、などと小言を漏らしつつも嬉しそうな初は、母親が電話に出るなり早口で事情を話している。
そんな初を微笑ましげに見ながら、織が陽を見て首を傾げた。
「また俺が説明してもいいけど?」
「お母さん織ちゃん先輩のファンになっちゃうでしょ」
陽が母の携帯に掛けた電話も、数コールの後に取られた。
「もしもし?お母さん?あのさあ、今日──」



ありがとうお母さん、と言う初の声が、いつになく跳ねている。
結局どちらの母親に対しても、織に電話を代わって詳しいことを説明して貰った。彼の面白いほどの愛想の良さと余所行きの声は相変わらずで、陽は笑い声が漏れないように必死で口を両手で塞いでいた。
親からの宿泊許可が下りたところで、陽と初は先程の宿泊申請書類に名前を書いた。それを篠に渡しに行こうとしたところで、陽は織と惺を振り向く。
「でも俺、シャワーくらいは浴びたいっすよ」
「あ、それは僕も」
季節柄そこまで気温は上がらないとは言え、陽も初も模擬店で走り回った影響で多少なりとも汗をかいている。そのまま学校で夜を明かすのはどうにも気持ちが悪かった。
それは織と惺も同じだったようで、織は暫く考え込んだ後こう言った。
「うちでシャワー浴びて、晩ご飯とか買って戻って来よ」
「いいんですか?お邪魔しても」
「良いって、今更じゃん?」
初の遠慮を一蹴した織は、決まりだとばかりに携帯で列車の時刻表を検索し始めた。丁度良いものが見つかりはしたが、それに乗るには今すぐにでも学校を出なければならないと言う。
陽たちは携帯と財布を各々の鞄に放り込んで、急ぎ足で第二視聴覚室を出た。楽器が置きっ放しになっているので、念の為に鍵を閉めていく。
「これ、もうほっちゃん先生に出しちゃう?」
陽は他の三人に向けて、宿泊申請書をひらひらと振ってみせた。学校に戻って来てから出しても構わないのだろうが、この手の書類は早めに出すのが良いだろう。校門が何時に閉まるかも分からないし、自分たちが出掛けていると言うことを顧問に知っておいて貰わないと後々困るかも知れない。楽器を置いたまま締め出しを喰らうのは御免だった。
職員室に向かいながら、階段を下りていた織が呟く。
「穂積ちゃん、車出してくれたりしないかなあ」
「めちゃくちゃ可愛く頼んだらいけんじゃないすか」
最後の二段を飛び降りて、陽は勢いに任せてくるりと回った。初の前に立ち止まって、口元に手を当てて彼を見上げる。
数度瞬きした後に、きゅ、と喉を締めた。
「お願いせんせぇ、車出して?」
「……」
「なーんて!……いひゃいいひゃいいひゃい」
初が陽の頬を目一杯抓って、良いから早く出してきて、と眉根を寄せた。やっとの思いでその指から抜け出した陽は、抓られた箇所を押さえて声を上げ、一気に職員室の前まで走って初を振り返る。
「なんで!可愛くなかった?今の」
「下心が見えすぎて駄目」
ちぇ、と漏らした陽が職員室のドアに向き直ると、目の前のそれが勝手に開いた。すっかり見慣れてしまった薄汚れた白衣が現れて、陽は思わず面食らう。首を上に向けると、そこには呆れ顔の篠が立っていた。
彼は陽の頭をぽんぽんと軽く叩き、後頭部をがりがりと掻きながら苦笑する。
「お前本当、声がでかいんだよ」
全部聞こえてるぞ、と続けた篠に、陽は宿泊申請書を手渡した。それを受け取って中身を確認し終えると、彼は白衣のポケットから車の鍵を取り出して職員室を出た。
全く予想していなかったその行動に、陽が声を掛ける。
「ほんとに車出してくれんすか?」
「俺も煙草買いに行きたいから、ついでだよ。つ、い、で」
人差し指に引っ掛けた鍵をくるくると回して、早く行くぞ、と篠は言った。惺と顔を見合わせて笑った織が、職員玄関の下駄箱を開ける篠を呼ぶ。
「穂積ちゃん」
「?」
「ありがとうね!」
「いーよ、茶くらいは飲まして貰うけどな」
篠のその言葉に頷いて、織と惺は職員室を突っ切って三年生の昇降口へと向かった。
それにつられるように、陽と初も一年生の昇降口に駆け出す。流れるようにサンダルを脱いで下駄箱に投げ込んで、スニーカーに足を滑り込ませた。
踵を履き潰したまま外に出て、沈みかけた夕日に陽は目を細める。







完全下校時刻を知らせる童謡は、第二視聴覚室に満ちる音によって隠れてしまう。
篠の車で織と惺の住む賃貸マンションに行きシャワーを浴びて、その帰りにコンビニで夕食や菓子を買い込んだ。学校に戻ったのは十七時を過ぎた頃で、それからずっと音楽に浸かっている。買ってきた弁当や菓子類は、袋に入ったままで机の上に放られていた。
一時間ほど明日のセットリストを繰り返しているが、初のドラムは全く乱れない。織も惺も個人練習は欠かしていなかったらしく、前よりも精度が上がっているように感じた。
陽も、四人で練習出来ない時間をただ無為に過ごしてきたわけではない。
仕上がりは上々で、定期公演会の時よりも間違いなく息が合っているように思う。
最後の曲を演奏し終えて、残滓のような音の粒が空気に溶け切った時、惺が溜息を吐いて腕を前に伸ばした。
「そろそろご飯食べちゃわない?疲れたし」
「俺もう腹ぺこっすよ」
言いながら、陽はギターを肩から下ろしてスタンドに立て掛け、床に転がっていた水のペットボトルを取り上げた。蓋を開けて一気に飲み干すと、冷えた水が乾いた喉を通り過ぎていく。織と初が曲について話しながら自らの席に戻っていくのをぼんやりと眺めて、陽も後を追った。
初の伯父から送られて来たというクッキーの缶を机の中心に置いたままにして、それぞれの弁当を手に取る。唐揚げ弁当の蓋の周囲を包んでいたビニールを剥ぎ取った陽は、正面でサンドイッチを口いっぱいに詰め込んでいる織に向かって尋ねた。
「今日泊まる人って結構いるんすかねえ」
口を押さえて数度頷いた織は、やっとのことで口の中のものを飲み込んだ。そうして、卵が大量に挟まっているサンドイッチに手をつけながら、こう答える。
「明日発表予定の文化部は一通り泊まるみたいだよ、朝早くにリハやるからね。……陽ちゃんたちのクラスに演劇部の子いたでしょ、何も聞いてない?」
「えっと」
陽は、横で一心不乱に苺のクリームが挟まったパンを食べている初に目をやった。その視線に気が付いたらしい初が陽を見て、次いで織を見て、首を真横に振った。彼は口を手で塞ぎながら、そういう話するの忘れました、と言う。もごもごと喋る初に織は笑って、サンドイッチを持った方の手で机に肘をついて惺の頭を突いた。
少し小さめの弁当のみだった惺は、既に食事を終えて明日の予定表を眺めている。
「さと」
「なあに」
「それだけで足りる?飯」
「お菓子もあるし、こんなもんじゃないですか」
「お前さあ、家だとそこそこ食うのに」
「先輩のご飯ですからね」
その惺の言葉に、織は一瞬言葉に詰まる。そうなんだ、と小さな声で返した彼の僅かに上がった口角と若干染まった頬を、陽と初は見逃さない。
「織ちゃん先輩照れてる!」
「照れてるね」
「照れてない!」
織はそういうと顔を背けて、サンドイッチを口に入れた。
その時、第二視聴覚室の扉が叩かれる音がする。そこから数秒と経たずに扉が開いて、疲れ切った様子の篠が何かを両脇に抱えるようにして入室してきた。丁度パンを食べ終えたらしい初が立ち上がって、篠に駆け寄る。
「持ちますよ」
「おお、ごめんなあ香西、重くて参っちゃうよ」
「ほっちゃん先生、それ何?」
陽の問いに、篠は腕に抱えたものを広げて、寝袋、と言った。どうやら学校の備品としてあるものを持って来てくれたらしい。それは黒い、暖かそうな厚手の寝袋だった。
まず寝る時のことなど微塵も考えていなかった自分に気がついて陽ははっとするが、恐らくそれは他の三人もそうだろう。
皆、どこか浮かれているのだ。
放射状に敷かれた四つの寝袋のうちの一つの上に、陽はサンダルを脱いで寝転がった。中に入った綿のようなものがふわりと全身を包み込んで、布団の上に寝ているようで心地が良い。このままでは寝返りは打てそうにないが、中に入ってしまえばそれも解決するだろう。
陽は寝袋の上に身を起こして、篠を見上げて小刻みな拍手をした。
「ありがとうほっちゃん先生、気が利く!」
「そうとも、もっと褒めてくれてもいいんだぜ。大人は承認に飢えがちだからなあ」
「流石!最高!イケメン!」
「本当お前は良い奴だよ御子柴ぁ、褒め上手は出世するぞ」
大きな手で陽の髪を雑に掻き回して立ち去ろうとした篠を、惺が呼び止めた。彼は篠に小さな袋に入ったチョコレートを差し出して、にこりともせずに言う。
「これ、持ってってください」
「和泉……」
「明日の機材運搬の前払いも兼ねてますから」
惺は篠に限ってはとんでもなく無愛想だが、嫌っている、と言う訳では無いのだ。
篠は席に腰掛けてその様子を見ていた織と目を合わせて微笑むと、惺の手からチョコレートを受け取る。勿体無くて食べられないなあ、と冗談めかして言いながら、篠は第二視聴覚室を出て行った。
ばたん、と扉が閉まったとほぼ同時に、惺が半ば照れ隠しのように三人を見渡して声を上げた。
「練習!」
それに笑った織が立ち上がって、惺の肩に腕を回す。それに誘われるように陽も惺に寄り添った。その華奢な肩に手をかけて、織と二人で惺の顔を覗き込む。
「別に照れなくても良いのに」
「照れてないから!」
「そうだよお、さとちゃん先輩もほっちゃん先生のこと好きっすもんね」
「初くん、何とかしてよこれ」
惺が助けを求めるように初を見たが、初はにっこりと笑ってこう言った。
「そういう惺先輩もかわいいので全然大丈夫ですよ!」
「ねえ話聞いてた!?」
そうこうしている間にすっかり太陽は沈んでしまって、辺りは暗闇に覆われている。陽はふと、窓から校舎の向かい側を見た。そこかしこの教室から煌々と蛍光灯の灯りが漏れていて、中ではしゃぐ生徒たちの影が見える。
窓を開ければ、その笑い声が聞こえて来そうだ。

机の上に散らばった空っぽの弁当の容器やパンの袋などのゴミの片付けもそこそこに、陽はギターを肩に掛けてボリュームノブを捻り、勢い良く右腕を振り下ろして、笑った。
「もうちょっとやりましょ、練習!」





電気消すよ、と言う惺の声に返事をして、陽は寝袋に潜り込んだ。学校指定のジャージで寝た経験は無かったために若干落ち着かないが、そんなことは気にならないくらいに眠たい。
二十一時を回った時点で、キーボード以外はアンプを切って生音での練習に切り替えた。初は奥の部屋に押し込まれていた雑誌と自らの教科書を積み上げて、それを叩いていた。高さの調整に教科書を持ち出したことに陽は心底驚いたが、初はにやりと口角を釣り上げて、こういう時くらい良いでしょ、と唇に人差し指を当てた。こういう時の初の表情は、どことなく織と似ている。
ごくごく小さな音量のピアノ、ベースとギターの乾いた生音、スティックが雑誌を叩く気の抜けた音。
それが内緒話のようで、妙に楽しかった。
結局四人ともが夢中になってしまい、気がついた時には深夜二時を回っていた。そろそろ寝ないとまずいですよ、と言う初の言葉が無ければ、恐らく朝方までこうしていたに違いない。
一気に暗くなった室内に、時計の秒針の音だけが響いている。陽はそっと、隣で寝ている初の方に身を捩った。
「初」
「何」
「起きてる?」
「寝てる」
「起きてんじゃん」
「寝言だよ」
「マジか」
その二人のやりとりを聞いてか、織と惺が吹き出した。くつくつと静かに笑う気配が暫く空気を揺らした後、また静かになる。
どうにも目が冴えてしまって寝付けない。緊張しているのか、それとも興奮しているのか。あるいは疲れ過ぎているのかもしれない。
「初」
「何って」
「何だっけ、あの、ドンパッパみたいなやつ」
「は?」
「ほら、悠がさあ」
「ドーパミン?」
「それ」
先程よりもずっと大きい弾けるような笑い声がして、陽は思わずうつ伏せになって身を起こす。目を凝らさずとも、暗闇の中で惺が身体を縮こめているのが分かった。勘弁して、と震えた声で呟く惺の背中を、織が寝袋から腕だけを出して叩いている。
「陽ちゃんさあ、MCそれでいいんじゃない」
「ドンパッパ?」
「そんなおめでたい頭してないでしょ皆」
「あ、はーくん、それ悪口?」
「違いますけど」
どうやらその単語自体が惺のツボに嵌ってしまったらしく、三人が話している間にもその笑い声は収まる気配が無い。ゆっくりと息をしながらどうにか平静を取り戻した惺が、はあ、と一際大きく溜息を吐いた。
「この四人でいると笑い過ぎて表情筋が痛いんだよなあ」
「良いことじゃありませんか、どんどん痛めていきましょ」
「はーくんぶっ壊れて来てない?」
「どうしよう織ちゃん先輩、俺ね、もう一曲作れそうっす」
「気のせいだから寝て」
「えーケチ」
そこからまた一頻り四人で笑って、やっと静かになったタイミングで陽は目を閉じた。
呼吸音だけが暫くの間続いて、ふと、掠れた織の声が陽と初を呼ぶ。眠り掛けていたら拾えていなかったかもしれない、ごく小さな声だった。また何かあるのかと身を起こそうとしたが、目瞑って聞いて、と止められた。
初と惺の方からは、穏やかな寝息が聞こえる。
「全部、陽ちゃんとはーくんのお陰だよ」
「……」
「ありがとうね、俺と惺のこと、ここまで連れて来てくれて」
「……織ちゃん先輩」
「何」
「抱き着いてもいっすか」
「やだよ」
「ケチ」
おやすみ、と言う織に、おやすみっす、と返した。目を閉じて深く息をしていると、段々と意識が下の方に沈んでいく。明日のことを考えると益々眠れなくなってしまいそうで、陽はただかちこちと刻む秒針の音に耳を傾けていた。
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