オーバードライブ・ユア・ソング

津田ぴぴ子

文字の大きさ
上 下
30 / 34
二部

第二十六話

しおりを挟む
何処からか吹き込んだ風が、剥き出しになった脚の間を通り抜けていく。与えられたベージュのカーディガンは若干袖が余るので、そこから指先だけを出した。椅子に座らされた後に目を閉じろと命じられて、かれこれ二十分は経っているだろうか。時計が見えないから、時間の感覚がいまいち掴めない。空腹の具合から、今が四限目であることだけは確かだった。
文化祭前日の木曜日。
朝から浮かれたような慌ただしさが学校中に満ちていて、それは時間が経つほど大きくなる。当然ながら、このクラスも例外ではない。
いつまでこのままなんだと痺れを切らして、陽は目の前にいるであろう初に口を開いた。
「なあ、まだ目開けちゃ駄目?」
「もうちょっとだから大人しくしてて」
「さっきもそれ言ったじゃん……」
陽の顔を、ふわふわと毛羽だった何かが弱々しく叩いていく。次いで頬に柔らかい手が触れて、思わず肩が震えた。
「御子柴くん、ちょっとだけアイシャドウ塗るから、絶対目開けないでね」
山野の声がする。あいしゃどう、と彼女が言ったことをそのまま繰り返している間に、上瞼をスポンジのようなものが滑っていった。次いで目尻、下瞼と、目に入るか入らないかの距離を移動していくそれが、陽は心底恐ろしかった。人生で経験したことがない種類の恐怖感に苛まれる陽の心境を察してか、山野が再び喋り掛けてくる。
「肌すごい綺麗だね、洗顔何使ってるの?」
「あんま気にしたことないけど」
「そうなの!?羨ましいなあ、……」
ふと、陽の両方の膝に誰かが触れて、ぐ、と力を込めた。離れていた膝がくっついて、陽は大人しく目を閉じたまま抗議の声を上げる。
「何!誰!?」
「僕だよ、……陽さあ、スカートなんだから脚閉じてくれる?」
初がそこまで言った時、満足げに息を吐いた山野が、よし、と呟いたのが聞こえた。前髪を留めていた大きなピンが外されて、重力に従ってぱらぱらと落ちてくるそれは、陽の髪では無い。
「お待たせ、目開けていいよ」
その山野の声に、陽は恐る恐る目を開けた。机や椅子が殆ど退けられてがらんどうになった教室で、クラスメイトたちが談笑しながらそれぞれに割り当てられた仕事を楽しげにこなしている。目の前には初と椅子に腰掛けた山野がいて、彼女は机に散らばった多数の化粧品に埋もれたそこそこ大きな鏡を陽に差し出す。
それに映った自分の姿に、陽は言葉を失った。
最初に被せられたウィッグは黒髪で、高めの位置でツインテールに括られていた。化粧のお陰か、目はいつもよりも多少大きく見える。赤とも紫ともつかない色が薄く僅かに塗られた下瞼によって潤んで見える相貌が、じっと陽を見つめ返した。
紺色のセーラー服の襟元、白いスカーフを、横から初が直してくる。
「初」
「何?」
「俺ってもしかしてかわいいのかな……?」
「うわ、変なスイッチ入った」
「緑里ー、御子柴くん終わったー?」
前もって決めた位置に置かれた向かい合わせの机にテーブルクロスを掛けていた村井が、山野を呼びながらこちらに歩いてきた。山野はどこか自慢げに、陽の肩に触れる。
「うん!こんな感じでどう?」
「めっちゃかわいいじゃん!天才!」
「でしょう?頑張っちゃった」



遡ることひと月前、文化祭一日目のクラスの出し物を決める学級会が行われた。
委員長の洲崎と副委員長の村井を中心に話し合いは進み、結果としてパンケーキや飲み物を提供する模擬店をやることに決まる。それだけではいまいちつまらないからコスプレをしようと村井が提案して、そこからどう話が捩れたのか、女子以外にも比較的背丈の低い男子に女装して貰おう、ということになってしまった。真っ先に名前が上がった陽を筆頭に、最上、時藤、委員長の洲崎もその中に含まれている。
初や前川などは裏方として、注文されたものを用意したり足りなくなったものを買い出しに行ったりすると言う。

前日である今日は、教室内の飾り付けと衣装合わせだ。黒板にはメニューが書かれた大きな模造紙が貼られて、そこかしこに配置された机と椅子には可愛らしい布が被せられている。調理も教室内で行うために、客席は精々十数人分が関の山だった。とは言え他のクラスも似たような模擬店をやるようだし、B組にばかり客が集中することは無いはずだ。
「陽」
「悠、お前はどう──」
聞き慣れた声で名前を呼ばれて顔を上げた陽は、目の前の人物を見て硬直してしまった。
西洋の屋敷か城で働く女が着るようなクラシカルなメイド服に身を包んだ金髪の美少女がそこに立っていて、陽を見下ろしている。揺れる長いスカート、控えめなフリルがあしらわれた白いエプロンに、らしくなくしゃんと伸びた背筋。長い睫毛の向こうの濃い緑色の瞳が、こちらに向かって微笑んだ。
「どちらさま……?」
「最上ですけど?」
自らを差した陽の指を退けながら、最上は自分が着ている服をまじまじと見る。
「メイド服とかありがちだなって思ったけど、悪くないね」
顔をよく見れば最上だと分かるが、何も知らない人間が見れば完全に女だと誤認してしまうだろう。いつもの気怠さはどこへ行ってしまったのか、立ち振る舞いまで完璧だ。
「ただいまー」
近所の商店へ急遽買い出しに行っていた前川が教室のドアを開ける。彼は大層疲労した様子で右手に下げていた袋を村井に手渡すと、こちらを見て固まった。
その様子を見た最上が一瞬悪どい笑みを浮かべたのを、陽は見逃さない。彼は音も立てずにスカートを波打たせながら前川に近寄ると、その手を取って小さく首を傾けた。
「おかえりなさい」
「お前悠なの!?」
声を聞くまで最上だと気が付かなかったらしい前川は、顔を真っ赤に染めて目を逸らした。最上がすかさずその頬を鷲掴みにして、無理矢理正面を向かせる。
「何で目逸らすの」
「何でってお前、ちょ、近いんだって」
顔の前で両手を振っている前川の腰が、妙に引けている。陽が初の方を見ると、彼もまたこちらに視線を寄越した。
「照れてる」
「照れてるね」
陽はふと思い立って、最上の隣まで歩み寄って前川を見上げた。プリーツスカートの裾が膝に当たってくすぐったい。空気が太腿の辺りを撫でていくのも、どうにも落ち着かなかった。セーラー服と同じ色のハイソックスには、いかにも初が好きそうな猫の模様が一匹だけ刺繍されている。
「さっちゃん」
「うわかわい、……お前!陽じゃん!?」
かわいい、と言いかけた前川は、目の前に来たのが陽だと認識した瞬間に口を両手で塞いだ。最上は心底おかしそうに腹を抱えて笑っている。
陽は窓際に寄りかかっている初を振り返って、ぱたぱたと小走りで彼の元まで走り寄った。
「なあ初!お前は?」
「何?」
「どう?かわいい?俺」
態とらしく首を傾げて、初を覗き込んで数回瞬きをして見せる。
初は暫く黙ってこちらを見た後、僅かに微笑んで陽の頭に手を置いた。
「はいはい、かわいいかわいい」
「適当!」
昔からかわいいと言われるのはあまり好きでは無かったが、こういう状況に限っては悪い気がしない。
あわよくば適当な客を捕まえて二日目の軽音部の宣伝をしようなどと考えていると、今にも泣いてしまいそうなほど震えた時藤の声がした。彼の衣装合わせは、野々上と言う女子生徒の担当だ。
見ると、先程の陽と同じく椅子に座らされて金髪のウィッグを被らされた時藤が、控えめに言ってもかなり短い赤いチェックのスカートの裾を押さえて縮こまっている。
「あ、あ、あの、野々上さ、あのっ、これは流石に短くない……?」
「えーそうかな?時藤細いし、全然いけるって!髪の毛さあ、ピンクのメッシュ入れても良い?ギャルだし」
「ギャル!?む、むむ、無理だよ俺そんな」
話として成立しているのかも分からない二人のやり取りに若干苦笑して、初が助太刀に向かった。その背中を眺めながら、陽は外に目を向ける。
校庭は駐車場として使われるため、所々に白い線が引かれていた。
校内のどこもかしこも騒がしいし、軽音部のライブは明後日に迫っている。その実感は、未だに湧いてこない。

チャイムの音は、ざわついた教室内でも良く聞こえた。村井曰く、もう殆ど準備が終わってしまったので、後は他のクラスの邪魔にならない程度に、帰りのHRの時間まで自由に過ごしていいと言う。それに返事をしたクラスメイトたちは、昼食も兼ねて他所の様子を見に次々と教室を出て行った。
類に漏れず友人のところに行こうとしたらしい山野が何かを思い出したように陽を呼んで、クレンジングシート、と華美なフォントで書かれた小さな袋を差し出してくる。
「御子柴くん、これあげる」
「何これ?」
「それでメイク落とすの。そんなに濃くはしてないけど、……家に帰ったらちゃんと顔洗ってね」
「へー、さんきゅ」
陽の礼に頷くと、山野は手を振ってぱたぱたと小走りで隣のクラスへと向かった。その背中を見送って、陽はもう一度鏡を見る。普段見慣れている自分の顔とは確実に違う。少し塗っただけでここまで変わるものなのかと感心している陽の頭の中に、これをこのまま誰にも見せないのは勿体ないのでは、と言う感情が落ちてきた。
時藤と野々上の元から離れた初が、こちらへと歩いてくる。
「陽ー、それ着替えてからお昼にする?」
「初」
「何?」
「これ、織ちゃん先輩とさとちゃん先輩に見せてきて良い?」
「……そんなことだろうと思った」
そう言いながら、初が教室のドアへと向かう。その後ろを追い掛けて廊下に出て、ブレザーの裾を引いた。
「お前も来んの?」
「危ないでしょ」
「何が?別に学校の中だし」
「……何となく!」
行くなら早く行くよ、と言って階段を上っていく初は、こちらを振り向きもしない。
二階に上がると、派手に装飾された廊下が陽と初を出迎えた。教室の外に出ていた多数の上級生の視線がこちらに向くのを感じる。そんなことなどものともせず、陽は隣で立ち止まった初に声を掛けた。
「織ちゃん先輩とさとちゃん先輩のとこってさあ、何やんだっけ」
「どっちも劇って言ってなかったっけ?だから最近来るの遅かったんでしょ」
「……ふーん」
初の言う通り、文化祭が近付くにつれて、織と惺が第二視聴覚室に来る時間はどんどん遅くなっていた。クラスの出し物である劇の練習が長引いているらしく、二人が来る頃には完全下校まであと少し、と言うのもここ数日は珍しくない。
その分軽音部の練習時間は削られるわけだが、織と惺と、その他の三年生に取っては最後の文化祭だ。だから、あまり我儘を言わない方が良いと、前に初が言っていたのを思い出す。
そんなことを言ったって、面白くないものは面白くないのだ。

惺が一年生の頃からずっと続いていた苛めは、六月の定期公演会を境にどんどんとその数を減らしていった。今となっては、もう見る影もないと聞いている。
織も織で、ずっと一人でいた頃よりは今の方が遥かに楽しげに見えた。やはり切っ掛けは定期公演会であるようで、あれ以降、クラスメイトも含む色々な生徒が話し掛けて来るようになったらしい。それは周りだけでなく、織自身に変化があったことも、きっと大きい。
喜ばしいことだと思う。
本当に、そう思っている。
なのに、どうしてか陽の心はもやもやと曇り始めていた。

三年生の教室に向かおうと自らの教室を出た陽の足は、そちらには向かなかった。初は何かを察したのか、陽を呼び止めることもせずにただ後ろをついてくる。
生徒会室、校長室、保健室を突っ切った先にある三階への階段を半ば駆けるようにして上った。この先の廊下を真っ直ぐに行けば、第二視聴覚室に着く。しかしながら陽はこの格好で、第二視聴覚室の鍵は衣装合わせの前に脱いだブレザーのポケットの中だった。今あの場に行っても、重たい扉は開くことはない。
文化祭で使う予定のない三階に人気は無く、この空間だけは喧騒から離れてひっそりと静まり返っていた。
頭の中で絡まった思考を解ききるよりも前に、窓際の壁に寄りかかって顔を両手で覆った陽は、その場にずるずると崩れ落ちた。
スカートだとか脚が剥き出しだとか化粧をしているとか、そんなことはもう気にならない。
「なあ」
「何」
「俺さあ、性格悪いな」
暫くの沈黙が落ちる。
大きな溜息の後に陽の隣に座った初を指の隙間から確認して、陽は再び口を開いた。
「だってさあ、さとちゃん先輩のクラスの人とかさあ。今更じゃん」
織はともかくとして、惺は長いこと陰湿な苛めの標的にされていた。彼と初めて会った時に見た下駄箱の落書きを、陽は今でも鮮明に思い出せる。主犯格は多く見積もって数人にしても、それ以外のクラスメイトや担任は、惺を助けもしなかったのだ。父親からの暴力に埋もれてしまっていたものではあるし、惺自身が大して気にしていなかったとしても、それらを完全に無かったことにしてしまうのは、陽にとっては難しい。
膝を抱える陽のウィッグが乱れていることに気が付いたらしい初の指が、前髪を梳いていく。
「まあ、もう卒業だしね。子供じゃないんだし、そういうのはもう終わりにしないといけないでしょ」
「そんなもんでいいの」
「どういう心境の変化であれ、いま惺先輩が辛くないなら、それが一番いいじゃん。そりゃあ、……僕だって、随分都合が良いなって思わないでもなかったけど」
「……」
「人ってさあ、変わるよ」
「お前が言うと説得力ある」
「はは、そうでしょうね」
家族との蟠りが薄れてきているからか、ここ最近の初は以前よりもずっと元気だ。
織と惺も、初も、みんなそうやって変わっていく。今までもそうだったのだから、これからもきっとそうだ。それが良い方向に向かっていると分かっていても、自分だけ置いてけぼりを食らっているようで、妙に寂しい。
抱えていた膝を伸ばして、腕を前に出して自らの手の甲をぼんやりと眺めると、陽は誰にともなく呟いた。
「俺も、そのうち大人になんなきゃいけないのかなあ」
そうだねと言われる覚悟で、陽は隣に座る初をちらりと見遣る。しかし初は、意外にも首を横に振った。
「良いんじゃない、陽はそのままで」
「え」
「太陽って言うのはさ、そういうもんでしょ」
「何それ、どういう」
「何でもない!」
初はそう言うと立ち上がって、お腹空いちゃったから教室に戻ろう、と手を差し出してきた。陽は初が言ったことに首を捻りながらも、その手を取る。
窓からこちらを覗く空は、よく晴れていた。

先程上ってきた階段を下って、二階に下りる。このまま一階まで下りて、そこから教室に戻っても良かったが、この格好で職員室の前を通るのは何となく気が咎めた。来た道を戻るようにして、保健室、校長室の前を歩く。上級生のクラスが並ぶ廊下はやはり騒がしく、そちらこちらから指示を出す声や笑い声が聞こえてきた。
ふと二年A組の方を見ると、壁に寄りかかってタブレット端末を弄っている島村と目が合った。
島村は陽と初を見とめると、僅かに微笑んで二人を手招く。
「こんにちは、香西くんと、……おや、随分可愛らしい格好をしているんだね、御子柴くん」
陽の頭に被せられた黒いウィッグを、島村の白い指先が掬い上げた。すぐに自分だと見抜かれたことに驚愕しつつも、陽は僅かに頭を下げる。
「どもっす、……しまむ先輩、何か用事っすか?」
「うん、うちのクラスがお化け屋敷をやることは時藤辺りから聞いている?今完成したところだから、試しに入ってみて欲しいんだよね」
何でもデバッグや試験操業は大事でしょう、と続けて、島村は目を細めた。
島村は今事故物件に傾倒しているから、恐らくクラスの出し物もそう言った方向性になるのではないかと時藤が言っていたような気がする。島村が監修したお化け屋敷と言うだけで陽は身構えてしまうが、それは初も同じらしかった。
「瑞樹くんで良いんじゃないですか?」
初の言葉に、島村は深々と溜息を吐いて首を振る。
「あの子はねえ、ずっとぼくの近くにいるでしょう?変に慣れていて駄目なんだよ。中身も聞かれれば教えていたし、時藤がアイディアを出したものもあるからね。最初から結末が分かっている映画を見るのと一緒だ」
「新鮮なリアクションが欲しいってことですかね」
「物分かりが良くて助かるよ。大丈夫、悪いようにはしないから」
島村がそれを言うと返って不安になってしまうのだが、それを口には出さない。
導かれるままに立った二年A組の入り口は、ドアごと古ぼけたアパートのそれに変貌していた。スプレーか何かで錆を表現しているらしい。ぼろぼろのプレートには二○五と書かれていて、恐らく部屋の番号だろうと思う。
島村はクラスメイトらしい男子生徒に声を掛けて、陽たちを中に入れる旨を話した。彼は陽を見るなり目を丸くしたが、島村から事情を聞くと任して、と親指を立てて、反対側のドアから教室の中に入っていく。
島村は二人に向き直って、にやりと口角を上げた。
「守ってほしいことだけ説明するね。なあに、簡単だよ。この部屋では、振り返ってはいけない、呼ばれても返事をしてはいけない。それだけ」
いってらっしゃい、ありがとう。と言う声と共に、島村は二人の背中を押した。ありがとうって何だ、と思いながら、陽はドアに手をかける。





「めっちゃ怖いじゃないすか!大丈夫すかこれ!楽しかったっす!」
「ああ、何よりだよ」
陽が興奮気味に捲し立てるのを眺めて、島村は満足げに微笑んだ。
お化け本体を出さずに恐怖を煽る、と言うのが二年A組のお化け屋敷のテーマであるらしい。客をびっくりさせるだけのお化け屋敷は他所のクラスに任せているんだと島村は言う。
じっとりとした室内の雰囲気が、未だに肌に纏わり付いているような気さえする。何時間もあの部屋の中にいたと思うのに、実際には十分ほどしか経っていなかった。
初は感心したように教室の中を覗き込む。
「すごかったですよ、あれが伏線だなんて思いませんでした……これ、この手の知識が多ければ多いほど楽しいんでしょうね」
「まあ、流石にそれだけだと無理があったから、少し脱出ゲームの要素も入れたけどね。……事前の説明なんかも、もう少し雰囲気を出した方が良いかな」
島村はそう笑った後、廊下の端に寄せられていた段ボールから可愛らしくラッピングされた袋を二つ取り上げて、二人に手渡した。それには小さなクッキーやチョコレート、飴が数個詰められている。それを見た初は一瞬目を輝かせたが、すぐにはっとして島村を見た。
「ありがとう、助かったよ。これはお礼ね」
「配るやつじゃないんですか?」
「うん、子供にね。でも構わないよ、きみたちもお客さんだもの」
そう言うと、島村はひらひらと手を振って教室の中に入って行った。
自分がまだ怪談の類を好んでいたことに、陽は密かに安堵していた。晴から教えられたものだから、そう簡単に嫌いになりたくなかったのだ。
例え、あんなことがあっても。
「戻ろっか」
「おー」
初が島村から渡された袋をブレザーのポケットに入れたので、陽もそれをカーディガンのポケットに捩じ込んだ。
教室に戻ろうと数歩歩いたところで、ふと初が立ち止まる。その視線は、三年生の教室の前の廊下に向いているようだった。初の目線を追うようにして、陽もそちらを見る。

そこには織と惺がいて、教室の前の壁に背中を預けて談笑していた。準備が終わったのか、昼休みだからなのかは分からない。
陽が何か言うよりも前に、初はそこに向かって歩き出していた。陽は暫く迷って、結局その後ろを小走りでついていく。やがてこちらに気が付いたらしい二人は初に手を振った。
「はーくんじゃん、もう準備終わっ……」
初の後ろに隠れるように歩いていた陽を見て、織の言葉が途切れる。惺は心底驚いた様子で陽と初を交互に見て、そして、恐る恐ると言った様子でえ、え、と口を開いた。
「は、初くんの、彼女……?」
その惺の言葉を聞いた瞬間、初は声を上げて笑い出した。余程面白かったらしく、壁に寄りかかってずるずると崩れ落ちて、肩を小刻みに震わせている。
前を通る上級生たちは皆口々に軽音部?軽音部だ、などと呟きながら通り過ぎて行った。
織と惺は、どうやら目の前のセーラー服を着た人間が陽であることに気が付いていないらしい。笑いすぎだと初の肩を小突いて、陽は二人の前に立つ。
「俺っす!」
一瞬の沈黙が落ちてくる。織と惺が半ば絶叫に近い声を上げたのは、殆ど同時だった。
「陽ちゃん!?」
「陽くんなの!?」
よく通るその声に、目の前の教室から数人が顔を出したのが分かった。
織は陽の肩に腕を回してその顔をまじまじと眺めると、変わるもんだね、と呟く。惺に頭を撫でられながら、陽はぼんやりとした頭で、こうされるのも久し振りだな、などと考えていた。
「陽ちゃん」
「はいっ!?」
織に頬を突かれて、陽は我に返る。
「どうしたの、何か元気ない?」
「いや!元気っすよ!」
陽の返答に織が頷いた時、三年A組のドアが僅かに開いた。顔を覗かせたのは織のクラスメイト数名で、陽の方を見て可愛い可愛いと連呼している。
それに気が付いた織は陽を庇うように自らの方に引き寄せて、こら、と笑った。
「見せもんじゃないんだけど!」
軽口を叩き合う織とクラスメイトの様子を見ていると、それに呼ばれるようにしてB組のドアも開いた。中から顔を出した男子生徒は惺に用事があったようだが、陽を見るなりその顔を輝かせる。
「和泉の知り合い?」
「っていうか、うちの後輩だね」
「ああ!……え!?」
「かわいいでしょう」
何故か自慢げな惺が再び陽の頭を撫でて、けらけらと笑う。
結局その後、陽と初は物珍しさから集まった上級生に次々と捕まってしまい、昼休みが終わるまでそこを離れられなかった。





やっと戻った教室で陽は元の制服に着替えて、山野から貰ったクレンジングシートで化粧を落とした。ウィッグを外すと髪の毛が好き勝手に飛び跳ねていて、思わず笑ってしまう。遅い昼食を食べて、放課後になるまでいつもの五人で時間を潰した。
最上は演劇部の練習が待ちきれないと言った様子で、HRが終わるなり教室を飛び出していく。
文化祭の影響で体育館が使えないため、バスケ部は他所の学校の体育館を間借りして練習をするらしい。校門前で集まることになっているからと、前川もまた駆け足で出て行った。時藤もオカルト研究部の展示の準備があるからと、急ぎ足で島村の元へ向かった。



第二視聴覚室の開け放たれたカーテンから、雲ひとつなく晴れた空が見える。それをぼんやりと眺めながら、陽はいつもの席に腰掛けて、抱えたギターを鳴らした。初はその隣で、紙パックの苺牛乳に刺さったストローを咥えながら天井を見ている。
当然のことながら、織と惺は今日も遅いらしかった。前日であるから、恐らく昨日よりも遅い時間になってしまうかもしれない。もしかしたら、軽音部に顔を出さないと言うことだってあり得る。

その心配を吹き飛ばそうと、陽はぽつぽつと歌い出した。それに、初の小さな声が重なる。一時期よりもすっかり安定した初の声は、一緒に歌っていて心地が良い。陽がギターを持った状態で初と二人きりになると、どちらからともなく新しい曲を作るのが癖のようになっていた。わざわざそれを残すようなことはしない。
これは、今この瞬間にしか生きられない音楽だ。それで良いと思っている。
少なくとも、今は。

そこまで考えた時、ふっと陽の頭の中に何かが降ってくる。一旦ギターを止めて、初を呼んだ。
「初」
「うん?」
「俺さあ、プロになろっかな」
「はあ?」
「真剣に言ってんだけど!」
「誰とやるの?」
「一人で!シンガーソングライターってやつ?」
「まだ学校以外でライブやったことないのに?」
「それはこれからやるもん!」
それに気のない返事をした初が、どうして急に、と首を傾げた。
「うん、いやさ、だって」
「うん」
「そうして、めちゃくちゃ有名になったらさ、いつでも俺のこと見つけて貰えるじゃん。さとちゃん先輩が学者さんになって、織ちゃん先輩が先生になって、お前が、……医者になっても」
もう一度ギターを鳴らす。完全に手癖で動いていた指は、いつの間にか軽音部で一番最初に演奏した曲を奏でていた。
初が自分を呼ぶ声に頷いて、陽は更に続ける。
「これからみんなが離れても、俺、ずっと歌ってるよ。そしたら思い出になんかならないじゃん?」
自分に出来ることは、きっとそれしかないのだ。卒業して何もかもが変わってしまったとしても、このバンドのことだけはどうしても忘れたくなかったし、忘れてほしくなかった。時間の流れに乗せられていつか見えなくなってしまうものだなんて、どうしても思いたくなかったのだ。

陽の話を黙って聞いていた初だったが、やがて席を立って窓から空を見る。そして振り返って、微笑んだ。
「それなら、今度の期末テストも頑張らなきゃね」
「うっ」
痛いところを突かれたとばかりに言い淀む陽に笑いながら、初はまた窓の外に視線を向けた。
ここから太陽は見えないが、空は変わらず突き抜けるように明るい。
「──やっぱり、太陽じゃん」
「何て?」
「んーん、何でもない!」
そう笑った初は陽の隣に戻って、その頬を突いた。続けて、と言われたので、陽は再びギターを鳴らし始める。乾いた音と陽の歌を、初は目を細めて聞いていた。

ふと、第二視聴覚室の扉が音を立てる。
「織ちゃん先輩!さとちゃん先輩!」
予想よりずっと早く現れた二人を呼んで、陽はギターを持ったまま飛びついた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち

ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。 クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。 それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。 そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決! その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

すべて実話

さつきのいろどり
ホラー
タイトル通り全て実話のホラー体験です。 友人から聞いたものや著者本人の実体験を書かせていただきます。 長編として登録していますが、短編をいつくか載せていこうと思っていますので、追加配信しましたら覗きに来て下さいね^^*

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

隣の家の幼馴染は学園一の美少女だが、ぼっちの僕が好きらしい

四乃森ゆいな
ライト文芸
『この感情は、幼馴染としての感情か。それとも……親友以上の感情だろうか──。』  孤独な読書家《凪宮晴斗》には、いわゆる『幼馴染』という者が存在する。それが、クラスは愚か学校中からも注目を集める才色兼備の美少女《一之瀬渚》である。  しかし、学校での直接的な接触は無く、あってもメッセージのやり取りのみ。せいぜい、誰もいなくなった教室で一緒に勉強するか読書をするぐらいだった。  ところが今年の春休み──晴斗は渚から……、 「──私、ハル君のことが好きなの!」と、告白をされてしまう。  この告白を機に、二人の関係性に変化が起き始めることとなる。  他愛のないメッセージのやり取り、部室でのお昼、放課後の教室。そして、お泊まり。今までにも送ってきた『いつもの日常』が、少しずつ〝特別〟なものへと変わっていく。  だが幼馴染からの僅かな関係の変化に、晴斗達は戸惑うばかり……。  更には過去のトラウマが引っかかり、相手には迷惑をかけまいと中々本音を言い出せず、悩みが生まれてしまい──。  親友以上恋人未満。  これはそんな曖昧な関係性の幼馴染たちが、本当の恋人となるまでの“一年間”を描く青春ラブコメである。

処理中です...