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第二十話
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「行ってきます」
「今日終業式でしょ?遅くなるの?」
「うん、終わったらそのまま遊び行くから」
頭上を走る電線の周りで、家の庭で、鳥が鳴いている。朝だと言うのにすっきりと冴えた頭は、そうするのが当たり前かのように母に嘘を吐いた。見送りに出て来た母と昊に普段と変わらない笑顔で手を振って、迎えに来た初と共に家を出る。
いつも背中を占領しているギターのギグバッグとその中身のレスポールは、今日に限っては自室で大人しく陽を見送っていた。玄関の扉が閉まる音を背後で聞いて、陽は何も言わずに隣の初と目を合わせる。
知濃山に侵入する日を終業式の後と定めた翌日から、陽たちは放課後、何度も現場の下見と当日の段取りを話し合った。体育館の裏よりは、一年生の昇降口付近から入った方が校舎の陰になって見つかり難い。張られたロープを超えてしまえば、後は生い茂った雑草や木々が目隠しになってくれるだろう。
山の中には一度も入ったことが無い。未知の場所に足を踏み入れるのは不安だ。しかしそれよりも恐怖を掻き立てるのは、あの日誌の最後に書かれていた「こっちにくるな」と言う文言。だが陽がそれを思い出した時には、既に手遅れだった。晴がそこにいるかもしれないなら、行くしかない。そういう使命感の方がずっと強く、まるで根を張るように脳味噌の中心に居座っていた。
「初」
「うん?」
前を歩く数人の学生を追うようにして、二人は駅に向かう。陽が歩きながら蚊の鳴くような声で初を呼ぶと、彼はそれをしっかりと捉えて陽の顔を覗き込んだ。
陽は、暫く俯いていた。昨日までは絶対に晴を見つけると言う意気込みの方が勝っていたが、先程玄関で初の顔を見た瞬間、妙に怖くなった。軽音部の中で初だけは、晴と大きな関わりを持っていない。ただ自分の幼馴染であると言うだけで、ここまで巻き込んでしまうのが正しいのか分からない。断りきれないから、仕方なく付き合ってくれているだけかもしれない。十年以上も一緒にいたのに、こんな感情になったのは今日が初めてだった。
「今日さ、お前、…別に、帰ってもいいよ」
「なんで?」
「何でって、だって、……初は、兄ちゃんとそんな喋ったことねえじゃん」
歯切れの悪い、辿々しい陽の話を、初は黙って聞いている。
「……巻き込んでるだけなんじゃないかって、思って、だから」
「そうだねえ」
普段と変わらず穏やかなその声音は、しかし陽の懸念を肯定した。びくりと肩を震わせて、思わずその場に立ち止まってしまう。後ろを歩いていた通行人が、次々と陽を追い越していった。
数歩歩いたところで、初が振り返る。
「確かに僕は晴さんとは挨拶くらいしかしたことないけど、でも、陽のことは小さい頃から知ってるよ。織先輩と惺先輩とも、ちょっとは仲良くなれたじゃん……それだけで充分、ついてく理由になるよ」
言いながら陽の目の前まで歩み寄った初は、ね、と言って首を傾げて見せた。それに陽は更に言い募ろうとしたが、その前に思い切り頬を抓られてしまう。
「しつこいなあ、いい加減僕も怒るよ?」
「ひゃい」
「僕のことじゃなくて、見つかった時の言い訳でも考えてな」
そこまで言うと、初は行こう、と言って踵を返した。陽が小走りでそれに追い付いた時、目の前の歩行者信号が青に変わる。ぞろぞろと歩き出す周りの人々と共に、二人は駅構内に向かった。改札の隅で話していた織と惺は、陽たちを見つけるとそれぞれ手を振る。小走りでそこに駆け寄って、四人で自動改札を抜けた。
三番線に向かいながら、後ろを歩く織と初が他愛のない話をしているのを聞いている。
「陽くん」
惺に呼ばれて、陽は顔を上げた。大丈夫?と問われたので、それに何度も頷く。その言葉を、そっくりそのまま返したかった。時藤の大伯父の話と陽の夢の話を聞いて、知濃山に入ると最初に言い出したのは惺だ。その後も彼は妙に積極的で、半ば引き摺られるようにして今日を迎えてしまったところがある。もし陽たちが反対していたとしても、惺は一人で山に入ってしまっていただろう。
この言い知れぬ不安感には覚えがあった。
織の時と同じだ。手を離した瞬間に遠い場所に行ってしまいそうな危うさが、ここ最近の惺には付き纏っている。夏本番では無いにせよ、毎日そこそこに暑い。それなのにも関わらず、惺はずっと薄手のカーディガンを羽織っていた。
その袖を、少しだけ引く。
「さとちゃん先輩」
「なあに」
陽の声に返事をした惺が、優しく微笑んだ。
最後に話した晴の笑顔がそこに重なって、陽は泣きそうになってしまう。そういえば陽は一度、惺を晴と見間違えている。それが初対面だった訳だが、あの時急に掴みかかった理由を、まだ話していなかった。
三番線のホームに立っていつもの列車を待ちながら、後ろで雑談している初と織の方に一瞬視線だけを向ける。陽は惺だけに聞こえるように、あの、と口を開いた。
「初めて会った時のこと、覚えてます?」
「ん?うん、覚えてるよ」
「あれ、……あの、さとちゃん先輩が、兄ちゃんと似てて」
「晴先輩と?」
ひとつ頷いて、陽は続けた。
「だからって訳じゃないけど……さとちゃん先輩のこと、心配だよ、俺」
「……大丈夫」
「でも」
「大丈夫だよ、陽くん、──」
甲高い列車のブレーキ音が、惺の声を掻き消す。陽が聞き返すよりも、人の列が動く方が早かった。どうにか確保出来た空席に座って、頭の端で島村が言っていたことを思い出している。
惺の口は確かに、ごめんね、と動いていた。それを押し込めるようにして、陽は隣に座った惺のカーディガンを強く握った。
*
教室のドアを開けると、既に半分ほどの生徒が登校していた。陽の席の周辺に集まっていた前川と最上、そして時藤は、陽と初に気がつくと手を振ってみせる。それに返事をしながら陽は真っ直ぐそちらへ向かい、初は自らの席に鞄だけを置いて、すぐに陽たちの元にやって来た。
陽はリュックを机の横に引っ掛けて、時藤を見る。
「瑞樹、もういいの」
「う、うん、……色々ごめんね、心配かけて、……」
数日前、時藤の大伯父が死んだ。
陽たち三人が訪問して数時間後、大伯父の容体が急変して救急搬送された。彼はそのまま昏睡状態に陥り、一週間と少しの間ずっと眠っていたと言う。回復を期待して医師達は手を尽くしたが、結局のところ、それが功を奏することは無かった。
その葬儀で、時藤は今日までの数日間学校を休んでいた。
大伯父のことに関しては気の毒だ。少なくとも陽たちに話を聞かせている最中の大伯父はまともに見えたし、意思の疎通も出来ていた。時藤のことも認識していて、だから学校に帰った後も、時藤はずっと嬉しそうにしていたのだと思う。
しかし、あのボイスレコーダーから流れてきた、おいでと呼ぶ声。あれは間違い無く大伯父のものだった。もしも島村がいなければ、時藤は、あのまま大伯父の元に行っていたのかもしれない。
島村は、隙を作ったね、と言っていた。その意味は分からなかったが、恐らく精神的な隙間のことを言っているのだろう。そこに入り込まれれば、呼ばれる。
「みーなーみ!」
「へっ!?」
左右の耳を貫通するように、前川の大声が響いた。肩を大きく揺すられて、陽は我に返る。
「え、あ、なに?呼んでた?」
「呼んでた!」
時藤の祖父母宅を陽たちが訪れている頃、前川のバスケ部、最上の演劇部ともに、地区大会を優秀な成績を残して突破していた。夏休み中はその先の大会に向けての練習や合宿が予定されているらしい。
全員の予定が合う日に五人で遊ぼう、と言った前川は、夏休みのスケジュールについて尋ねてくる。今日の放課後のことに集中するあまり、その後のことを全く考えていなかったことに気が付いて、陽と初は顔を見合わせて苦笑した。軽音部の夏休みの練習は織や惺に聞いてみなければ分からないが、彼らも受験生であるから、何かと忙しいだろう。陽は暫く考えて、いつでもいいよ、と返した。この場合、最も融通が利かなそうな二人に合わせるのが一番良い。
予鈴が鳴るのと同時に、渡利が挨拶と共に教室に入ってくる。ばらばらと席に戻るクラスメイトたちを眺めながら、陽は窓の外、やたらと晴れた空を見上げた。
終業式の退屈さは、どの学校でも変わらない。体育館の床は酷く硬く、体育座りを長時間続けていると尾骶骨が痛む。後ろに座る前川が大きな欠伸を漏らして、それにつられたかのように出かけた欠伸を噛み殺した。眠いわけではないのに、脳に酸素が行っていないのかもしれない。
永遠に続くかと思われた校長の話は、いい夏休みを、と言う至極平凡な締めで幕を閉じた。号令と共に立ち上がると、腰が僅かに軋む。前に立った生徒指導の増田が、この後の予定について相変わらず大きな声でがなっていた。元気が無い、と言う話を聞いたことがあったが、どうも本当に一時的なものだったらしい。その背後には、何も見えなかった。
完全下校は十二時半、事務員も今日は早上がり。教師達は多目的室に缶詰めで会議。
それを聞いていた違うクラスの生徒が、知ってるよ、とばかりに溜息を吐いたのが見えた。そう、そんなことはとっくに知っている。
だから、今日しか無い。
教室に戻って早々に配られた成績表を、陽はじっと見ていた。思っていたよりも悪くない。少なくとも親に見せるのを躊躇うような内容では無かった。それに安堵の溜息を吐いて、教卓の前に立つ渡利の話を聞いている。
「部活がある人も、ない人も、怪我には気を付けて生活してください。遊ぶのもいいけど、あんまり羽目を外し過ぎないように、…各科目から課題が出ているだろうから、それも忘れないようにね。夏休み明けのテストもあるから、気を抜かないで、勉強も頑張ってね」
そう言って渡利がクラス全体を見渡して頷くと、それを合図にしたように今日の日直の生徒の号令が聞こえる。陽の心臓の鼓動は、多数の椅子を引く音の中に紛れていった。
前川と最上は、この後それぞれの部活のメンバーと遊びに行くらしい。絶対遊ぼう、連絡するから、と言った前川に頷いて、早々に教室から出て行く二人を見送る。黒板は特に使われていないため、日直の生徒は朝のうちに書き終えていたらしい日誌だけを片手に職員室へと向かった。
完全下校まで三十分ほどしかない為、皆どこか急ぎ足だ。
「瑞樹、」
陽は机の横からリュックを拾い上げて肩に掛けると、自らの席で教科書を鞄に詰めている時藤に歩み寄った。陽の手には、先日彼の大伯父に貰った小さな赤いお守り袋が握られている。こちらを見て首を傾げる時藤に、陽はお守りを差し出した。
「これ、やっぱりお前が持ってた方がいいよ」
必ず君を助けてくれる。
そう言って大伯父は眠ってしまった。詳しい事情は分からないが、もしかしたらそれが最期の言葉だったかもしれない。そう思うと、時藤に対する申し訳なさが頭をもたげてくる。時藤は小さな頃から大伯父のことを慕っていたようだし、このお守りは本来時藤が持つべきなのではと考えていた。
しかし時藤は首を振って、陽の手を握ってお守りを閉じ込めてしまう。
「これはね、陽くんが貰ったものだよ」
「でもさあ、……」
「ありがとうね、でも、いいの。……これは、必ず、陽くんのこと助けてくれるから」
ね、と悲しげに笑う時藤に、陽はそれ以上何も言えなかった。無言でそれに頷いて、スラックスのポケットにお守りをしまい込む。そのまま時藤と別れて、陽と初の二人は事前の打ち合わせ通りに第二視聴覚室へと向かった。
幸いにも、その道中で教師とかち合うことは無かった。
*
本来であれば五限目の開始を告げるチャイムが響く。心なしかいつもよりも低く聞こえるその音を、陽はじっと座って聞いていた。それまで他愛のない雑談をしていた織と初の表情が、瞬く間に張り詰めていく。
お互いに目配せをしてひとつ頷いて、陽が第二視聴覚室の扉をゆっくりと開けた。
出来るだけ音を立てないように廊下を歩いて、階段を下りる。覗き込んだ一階の廊下は酷く静かで、足音や話し声のひとつも聞こえなかった。
この近辺には誰もいない。
そう確信すると、四人は静かに階段を下り切って、一年生の昇降口へ向かう。織と惺の靴は、前もって陽と初の下駄箱に移動してあった。少し古い下駄箱の蝶番がきい、と鳴る音に、陽はいちいち身体を強張らせた。
どうにか四人分のサンダルをしまい終えて靴を履き、辺りを見回しながら外に出る。教師達がいるからか、校門は開け放たれたままだ。校庭や職員室の窓からは、人の気配は少しも感じられなかった。一番後ろにいた惺が、そっと昇降口の扉を閉める。
そして陽たちは右側の奥まったところにある知濃山の入り口までにじり寄ると、膝ほどの高さのロープを超えて山の中に入った。そのまま獣道を少し走って、校舎が木々に覆い隠されたところで立ち止まる。
陽は盛大な溜息を吐いて、その場に屈み込んだ。
「やっとまともに息できた……」
「悪いことしてますって感じ、……しょうがないけどね」
初が木々を見回しながら言う。周囲は木や雑草に覆われて、昼間だと言うのに薄暗かった。ざわざわと風と葉が擦れる音が鼓膜を揺すって、言いようの無い不安感を煽る。この山の奥から鳥や虫の鳴き声が一切聞こえて来ないのも、余計にその不気味さに拍車を掛けていた。
陽は少し息を整えると立ち上がって三人を振り返り、行こう、とだけ言って歩き出す。
並ぶ大木たちを見上げながら、十分ほど歩いただろうか。周囲は薄暗さを増して、携帯電話の電波は圏外では無いにせよ、あまりにも頼りない。木の一本一本に目を凝らしてここまで来たが、晴自身は勿論、その痕跡すら見当たらなかった。
そもそも本当に首を吊ってしまっていたとして、二年も放置されれば骨になってしまうのではないだろうか。兄の白骨死体を見て、自分は、惺と織は、果たして正気でいられるのか。その自信は、どうしても持てない。
悶々とする陽の隣にやってきた初が、こう尋ねてきた。
「どこ探すの?」
「わかんないけど」
「だよねえ」
初が苦笑しながら頷いて、ふと真上を見る。陽もそれにつられて上を向いた。先程まで晴れていた空はどんよりと曇り、灰色の重たい雲が今にも落ちてきそうなほど近い。
「やだなあ、雨降りそう、……長袖着てくればよかったかも」
その初の言葉に、陽は今更自分の無計画さに気が付き始めた。山の中に晴がいるにしても、どこを探せばいいのか分からない。と言うか、今初めて入った山で人を探すなど、その道のプロでも無い限り難しいのではないか。晴が失踪した当時、警察は山の中も検めた筈だ。
それでも見つからなかったものを、自分たちが見つけられる可能性は、殆ど無い。
しかし大人に夢で見たから探してくれなどと言っても、きっとまともに取り合ってくれないだろう。それは火を見るよりも明らかだった。
奥に進みながら俯きかけた陽の肩を、織が叩く。
「暗くなる前に一通り探そう。そんなに大きい山じゃ無いから、この道だけならそんなに時間はかかんないよ」
「そうですね、とりあえず、……陽の夢と、池って言うのを探して見ましょうか」
「陽ちゃんが夢で見たとこって、どんな感じだった?」
織の言葉に、陽は歩みを止めずに必死に記憶を辿った。
「何かすごい、目の前が、うねうねってしてて、……暗くて」
「池っぽいのは?あった?」
「いや、それらしいのはなかっ」
「……惺?」
織の声に、陽と初は立ち止まった。
一番後ろを歩いていたはずの惺の姿が、いつの間にか獣道から消えている。いつからいなかったのかも分からない。そもそも惺は山に入ってから、一言も喋っていない。瞬く間に空気が凍りついていくのが分かって、陽は息を呑んだ。
織が短く舌打ちをしたのと同時に、先程の初の心配を肯定するように灰色の空からぽたぽたと雨が落ちてくる。今は小雨ではあるが、これから酷くなるかもしれない。
しかし今は、そんなことは瑣末な問題だった。
「いつからいなかった?」
「いやわかんないです、先行きました?」
らしくなく慌てふためいているのか、初は忙しなく周囲を見回している。
先に行ったのなら、陽たちを追い抜いて行ったことになる。三人はずっと話を続けながらも、歩みは止めていなかった。追い抜かれたとして、気が付かないはずがない。
陽の頭の中にずっと染み付いていた嫌な予感が、瞬く間に増幅していく。
隙があると、入り込まれる。教室での時藤が、正にその状態だった。自分を呼ぶ大伯父の声に素直に従って、そこに行こうとしていた。
惺を呼ぶのは、晴だろうか?
その時、来た道を振り返っていた織が声を上げる。
「いた、」
陽たちが立ち止まった場所から数メートル、獣道から逸れた森の中。その木の隙間から、ふらふらと奥に向かっていく惺の姿が見えた。織は本日二度目の舌打ちと溜息を漏らして、陽と初を振り返る。
「陽ちゃんとはーくんは、晴くん探すの続けてて。俺は惺のとこ行くから」
「一人で大丈夫なんですか?」
「大丈夫、あいつ軽いし、……捕まえたら陽ちゃんたちのこと追っかけるよ」
初の問いにこう答えた織は、陽たちに背を向けて惺の後を追った。二人はその後ろ姿を暫く見詰めていたが、やがて初が息を吐いて、陽を促す。
「行こう、ここで待ってたってしょうがないよ」
「……うん」
前を向いて、どこまでも続いていきそうな獣道を睨む。ポケットの中のお守りを握り締めて、陽はまた歩き出した。
「さと!」
木の間を抜けながら惺を呼ぶ自分の声が吸い込まれていく。外から見る分には小さな山だったが、その中は存外広く、鬱蒼としていた。こちらがどの方向なのかも分からない。何もかもを呑み込んでしまいそうな薄暗い森に何度も立ち止まりかける。本能が、これ以上奥に行ってはいけないと警鐘を鳴らしていた。それを振り切ってどうにか足を動かして、惺の背中から目を離さないように前だけを見据える。
何だか、酷く寒かった。
連れて来なければよかった、山に入ると惺が言った時点で反対しておけばよかった、晴の話題を徹底的に避けておけばよかった。そんな後悔を、木の根元に落ちた細い枝と一緒に踏み潰した。
今更、何を言っても仕方がない。
惺が晴のことを特別に慕っているのは知っていた。惺が一年生の時、ピアノしか出来ないと言う彼を引き摺って中古のギターを選びに行ったし、下駄箱に落書きをされていればそれを落としてやった。全部、晴が言い出したことだ。晴も惺のことを何かと気に掛けていたようで、良く二人で出掛けていたのも覚えている。
それでも、晴は惺を本当の意味で救い出せなかった。彼は、ただ誰にでも分け隔てなく優しいと言うだけだった。晴先輩、晴先輩、と晴に寄っていく惺を見る度に、それを苦々しく見ていたことを思い出す。晴はそんな織の心情など知らず、こう言って笑っていた。
──俺が卒業したら、惺のこと、頼んだよ。
「あんたに言われなくても、分かってるよ、そんなこと……!」
吐き捨てるように織が言った時、急に道が開けた。どうやら、別の獣道に出たようだ。どのくらい走ったのか、息はすっかり切れている。惺はその道を左に曲がって、相変わらず覚束ない足取りでどこかへ向かっている。
「惺!」
歩いている人間に走って追い付くのは容易だった。距離は瞬く間に詰まり、織はその細い腕を掴む。周囲の景色を気にしている暇など無かったために全く気が付かなかったが、惺の数歩先には淀んだ池が口を開けていた。
もし数秒捕まえるのが遅ければ、惺はこの池に入っていただろう。そんな確信に悪寒がする。顳顬を伝う水滴が、雨なのか汗なのか分からない。
「──おり、せんぱ」
「お前、本当に何やってんの!?」
涙を堪えながら怒鳴って、帰るよ、と惺の腕を引いた。
しかし、惺はその場を動かない。
「……ごめんなさい」
「さと、」
「ねえ、おれ、やっぱりだめだ」
「何──」
「やっぱり晴先輩のこと、」
池から、何かが這い上がってくる。
陽と同じ色の髪、濃緑色のネクタイ。織よりも少し大きいそれは、池から上がり切るとじっとこちらを見て、酷く耳に馴染む懐かしい声で、さとる、と言って、笑った。
「首痛くなってきた」
「だろうね」
陽が首を左右に動かすと、ぱきぱきと嫌な音が鳴る。
織と別れてから十数分ほど経ったが、惺がいなくなった場所からはそう離れていない。前に進むだけでなく、左右に広がる森の奥などにも目を凝らした方がいいのでは、と言う初の提案を採用した形になる。
奥の方を目を細めて見ていた初が、ふと不安げに後ろを振り返った。
「……織先輩、遅いよね」
「だよなあ」
陽も初と同じように、後ろを振り向いた。この山自体がどういう構造になっているかも分からないのに、彼を一人にしてしまったのは失敗だったかもしれない。胸の奥にざわざわと広がる不安に従った陽は、戻ろう、と言った。それに初も頷いて、来た道を戻る。
惺がいなくなったと思われる場所まで戻って来ては見たものの、周囲を見渡しても木以外何も見えない。雨は先程よりも少し酷くなりつつある。大声で呼んでもみたが、やはり返事は無かった。
「学校に戻る?」
「先生に言うしかないよ、怒られてもしょうがないじゃん」
恐怖心に押し負けそうになっていたのは、陽も初も同じだった。教師に怒られるのが怖くないわけでは無かったが、織と惺に何かあったらと思うと、そちらの方がずっと怖い。
初と顔を見合わせて頷いて、学校の方に踵を返した、その時。
「陽、」
名前を呼ばれた気がして、陽は立ち止まって辺りを見回す。
左手の森の中に、晴が立っているのが見えた。こちらを見て手を振っていた彼は、陽が自分を見つけたことに気が付くと、手招きをするように動きを変える。
「兄ちゃん、」
陽は初に、自分は晴を追い掛けること、初は学校に戻って教師に知らせてほしいことを告げた。初は少しの間一緒に行こうと抵抗したが、陽の意志が覆らないことを悟ると、わかった、と小さく呟いて走って行った。その背中が見えなくならないうちに、陽は獣道を外れて、木々の中に飛び込む。
晴を呼びながら、森の中を走った。濡れた地面が足に絡みついて、数度転びそうになる。全力で走っているつもりなのに、決して晴には追い付けない。そのもどかしさに、涙が出てくる。
晴は、いつの間にかどこかに消えていた。ぜえぜえと肩で息をしながら周囲を見渡すと、数十メートル先の木々の隙間に池が見える。その辺りから、織のものらしき声が聞こえた。何を言っているかは分からないが、ここまで聞こえるということはそこそこ大きな音量で叫んでいるのだ。陽は迷わず池の方向に走って、織を呼んだ。
池に近付くにつれて木も少なくなっていって、声も景色も鮮明になる。
何とも言い難い色に淀んだ池のほとりで、織が惺を抱き抱えるようにして地面に膝をついている。その腕の中の惺からは完全に力が抜けていて、ぐったりと織に身を預けているようだった。
その正面に、赤黒くぶくぶくに膨れた人間のようなものが立っている。それは、何人もの子供の嬌声や絶叫をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた声を上げていた。見るからにこの世のものではないそれを晴くんと呼んで、織はこう懇願している。
「お願い、惺を連れて行かないで、晴くん」
繰り返す織の声に、陽は血が出そうなほど強く唇を噛み締めた。走りながらポケットの中に手を入れて、ずっしりと重いお守り袋を右手に握る。
大声で織と惺を呼んで、右腕を振り上げた。
「──そいつは兄ちゃんじゃない!」
陽の声と共に、赤い小さなお守り袋は真っ直ぐに、織と惺の正面に立っていたものに飛んでいった。そしてそれが赤黒くじゅくじゅくと腐敗した身体に当たったかと思うと、そこが大きく抉れて向こう側の風景が見える。
それは、蜘蛛の子を散らすように霧散して、消えた。
「織ちゃん先輩!さとちゃん先輩!」
「……陽ちゃん、…」
「大丈夫!?」
陽は織と惺の前に屈み込んで、二人を交互に見た。織は青ざめた表情で頷いて、惺の華奢な肩を抱えた腕に力を込める。どうやら二人とも怪我は無いらしい。
「陽!」
初の泣きそうな声がしたかと思うと、その音源を探る暇も無く初が走ってくる。それは、陽が来たのとは全く違う方向だった。こちらに駆け寄る彼の後ろから、澄んだ声がする。
「ああ、やっぱりここだったね」
木の影から抜けた島村の整った顔が、木漏れ日に照らされている。いつの間にか雨は止んでいた。どうしてここに、と口を開きかける陽を手だけで制すると、島村はいつもと変わらない調子で詳しいことは後、と言った。
「もうすぐ先生が来るよ。怒られたく無かったら、さっさとここを出よう」
抜け道を知ってるんだ、と続けて、彼はさっさと池の反対側へ歩いていく。初が織を立たせて、惺を背負うのが横目に見えた。本当に軽いな、と初が呟いたのが聞こえる。
結局、晴は見つからなかった。
陽は何度も背後を振り返ったが、晴の姿はどこにも無い。
*
島村の後ろを歩いていると、やがて体育館の裏に出た。島村があまりにも堂々と校庭を歩くので、見つかってしまわないかと問い掛けると、彼は心配ないよと笑ってみせる。
二、三年生の昇降口から校内に入った。一年生の下駄箱に、四人分のサンダルを取りに行く。その間教師とは擦れ違わなかったし、話し声も聞こえなかった。
島村は四人を保健室の前に導いて、そのドアを開ける。
そこには、時藤と篠の姿があった。
時藤は陽たちを見とめると、座っていたベッドから下りて駆け寄ってくる。篠は普段養護教諭が座っているキャスター付きの椅子に腰掛けて、右手を上げた。彼は初に背負われている惺を見ると一瞬表情を曇らせたが、彼をベッドに寝かせて一頻り呼吸などの問題が無いことを確認すると、安堵したように胸を撫で下ろした。
篠を見た瞬間、怒られる、と目を瞑った陽だったが、その不安は的中すること無く通り過ぎていく。
「どうして篠先生がここに」
呆然とする初の言葉に、篠がそれはこっちの台詞だと返す。確かにそうだ。時計はすでに十四時半を指していて、今日の完全下校を二時間近く過ぎている。その言い訳に初が四苦八苦していると、島村が助け舟を出すように口を開いた。
「うちの助っ人ってことで、書類書き換えておいてよ。そのくらいできるでしょ?」
「簡単に言ってくれるよお……」
聞けば、オカルト研究部は何週間も前から今日の居残りを申し出ていたと言う。その理由は単純で、部室の大掃除をしたいからと、それだけだった。大量にある資料や怪談本の類を整理し、足の踏み場もない部室を片付けること。どう聞いても怪しすぎる理由だが、島村が生徒指導の増田を上手いこと言いくるめて、今日の居残りが許可された。
「まあ、ちょっとだけ催眠術も使ったけど、概ね素直に納得してくれたよ。……あいつの単純なところは本当に長所だね。全然羨ましく無いけど」
そう愉快そうに笑った島村は、陽の方をちらりと見る。
「それはそうと御子柴くん」
「はい……?」
「あの山が立ち入り禁止って校則、もう無効になってるから、安心していいよ」
「へ?」
まるで陽の心中を見透かしたかのような島村の言葉に、間が抜けた声が出てしまう。
知濃山に立ち入ってはいけないと言う校則は、どうもここ最近になって撤廃されたらしい。と言うのも、あの獣道は運動部の走り込みに打って付けだった。これまでも練習場所に困った運動部がこそこそと獣道を走っていた事例があったそうで、池周辺に近付かなければ山に入っても良い、と言う風に書き換えられたと言う。
看板とロープに関しては、単純に撤去するのを忘れていたようだ。
本当に仕事が雑だなと、陽はがっくりと肩を落とした。これまでの自分の心労を返してほしいと、心の底から教師たちに悪態をつく。
「今日の職員会議だって、あの山の使い道の話だったんでしょ?」
「お前本当、そういうの、どこから聞いてくるんだよ……」
観念したように、篠がぽつぽつと話し出した。
今日の職員会議は、知濃山を切り開いて武道場、合宿所を新設する旨の説明で始まった。地域住民の反対はあるが、結局利便性には敵わない。あの獣道も整備する予定なのだと言う。
一頻り会議を終えると、教師たちは連れ立って山の中へ入っていった。建設場所や費用の打ち合わせも入っているために、外部の人間も数人含まれているらしい。
俺は留守番、と言って、篠はへらりと笑った。
篠の話が終わると、島村は再び陽に向かって微笑みかける。
「御子柴くんの探しものも、ちゃんと見つかるんじゃないかな」
「それって──」
どういうことですか、と陽が続けようとした時、廊下をばたばたと走る音がする。保健室の扉が勢い良く開かれて、音楽を担当する女性教師が篠を呼んだ。大層慌てている。彼女は陽たちを見て一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに我に返ったように篠を保健室の外へ手招いた。
「篠先生、すぐお戻りになってください!大変なんです!」
「どうかしました?そんなに慌てて」
何だか、妙に外が騒がしかった。ざわざわと色々な人間の怒号と悲鳴、動揺に満ちた声が聞こえる。警察、と言う増田の叫びが、より大きく響いた。廊下で篠と話しているらしい女性教師の声がする。
「今、山の中で、うちの制服を着た白骨死体が何人も出て──」
ああ、と陽は声にならない息を吐き出した。瞬く間に視界が滲んで、ぼろぼろと涙が溢れる。どれだけ噛み締めても、唇の震えは止まらない。
篠と女性教師の足音が遠ざかっていく。
島村は窓枠に肘をついて、外の喧騒を眺めていた。
「惺、」
不意に飛び込んできた織の声に、陽と初はベッドに駆け寄った。うっすらと目を開けた惺は視線だけで周囲を見渡すと、ゆっくりと上体を起こす。
「……晴先輩の、夢、見た」
「夢?」
「晴先輩、笑って、おまえはだめだよ、こっちにくるなって言って、そしたら……オリ先輩の、声が、して」
その骨の浮いた手を握った織の手指に、惺の目から涙が落ちてくるのが見えた。段々と細切れになるその声は、殆ど言葉になっていない。
陽は惺の腕にしがみつくようにしてカーディガンに顔を埋めると、彼を呼んだ。
「あのね、さとちゃん先輩。……兄ちゃん、見つかった、って」
「……そっか、…よかった、……ほんとに、よかっ、た…」
本当は、頭の隅では分かっていた。
晴がもう生きていないこと。
それは陽だけでは無く、惺も織も、両親もそうだったのだろう。それをどうしても認めたくなくて、皆がその事実に蓋をしていた。ずっと近くにいたのに見えない振りをして、晴を遠くにやってしまっていた。
しかしもう、それも出来ない。
パトカーのサイレンはけたたましく、陽と惺の嗚咽を覆い隠した。
「今日終業式でしょ?遅くなるの?」
「うん、終わったらそのまま遊び行くから」
頭上を走る電線の周りで、家の庭で、鳥が鳴いている。朝だと言うのにすっきりと冴えた頭は、そうするのが当たり前かのように母に嘘を吐いた。見送りに出て来た母と昊に普段と変わらない笑顔で手を振って、迎えに来た初と共に家を出る。
いつも背中を占領しているギターのギグバッグとその中身のレスポールは、今日に限っては自室で大人しく陽を見送っていた。玄関の扉が閉まる音を背後で聞いて、陽は何も言わずに隣の初と目を合わせる。
知濃山に侵入する日を終業式の後と定めた翌日から、陽たちは放課後、何度も現場の下見と当日の段取りを話し合った。体育館の裏よりは、一年生の昇降口付近から入った方が校舎の陰になって見つかり難い。張られたロープを超えてしまえば、後は生い茂った雑草や木々が目隠しになってくれるだろう。
山の中には一度も入ったことが無い。未知の場所に足を踏み入れるのは不安だ。しかしそれよりも恐怖を掻き立てるのは、あの日誌の最後に書かれていた「こっちにくるな」と言う文言。だが陽がそれを思い出した時には、既に手遅れだった。晴がそこにいるかもしれないなら、行くしかない。そういう使命感の方がずっと強く、まるで根を張るように脳味噌の中心に居座っていた。
「初」
「うん?」
前を歩く数人の学生を追うようにして、二人は駅に向かう。陽が歩きながら蚊の鳴くような声で初を呼ぶと、彼はそれをしっかりと捉えて陽の顔を覗き込んだ。
陽は、暫く俯いていた。昨日までは絶対に晴を見つけると言う意気込みの方が勝っていたが、先程玄関で初の顔を見た瞬間、妙に怖くなった。軽音部の中で初だけは、晴と大きな関わりを持っていない。ただ自分の幼馴染であると言うだけで、ここまで巻き込んでしまうのが正しいのか分からない。断りきれないから、仕方なく付き合ってくれているだけかもしれない。十年以上も一緒にいたのに、こんな感情になったのは今日が初めてだった。
「今日さ、お前、…別に、帰ってもいいよ」
「なんで?」
「何でって、だって、……初は、兄ちゃんとそんな喋ったことねえじゃん」
歯切れの悪い、辿々しい陽の話を、初は黙って聞いている。
「……巻き込んでるだけなんじゃないかって、思って、だから」
「そうだねえ」
普段と変わらず穏やかなその声音は、しかし陽の懸念を肯定した。びくりと肩を震わせて、思わずその場に立ち止まってしまう。後ろを歩いていた通行人が、次々と陽を追い越していった。
数歩歩いたところで、初が振り返る。
「確かに僕は晴さんとは挨拶くらいしかしたことないけど、でも、陽のことは小さい頃から知ってるよ。織先輩と惺先輩とも、ちょっとは仲良くなれたじゃん……それだけで充分、ついてく理由になるよ」
言いながら陽の目の前まで歩み寄った初は、ね、と言って首を傾げて見せた。それに陽は更に言い募ろうとしたが、その前に思い切り頬を抓られてしまう。
「しつこいなあ、いい加減僕も怒るよ?」
「ひゃい」
「僕のことじゃなくて、見つかった時の言い訳でも考えてな」
そこまで言うと、初は行こう、と言って踵を返した。陽が小走りでそれに追い付いた時、目の前の歩行者信号が青に変わる。ぞろぞろと歩き出す周りの人々と共に、二人は駅構内に向かった。改札の隅で話していた織と惺は、陽たちを見つけるとそれぞれ手を振る。小走りでそこに駆け寄って、四人で自動改札を抜けた。
三番線に向かいながら、後ろを歩く織と初が他愛のない話をしているのを聞いている。
「陽くん」
惺に呼ばれて、陽は顔を上げた。大丈夫?と問われたので、それに何度も頷く。その言葉を、そっくりそのまま返したかった。時藤の大伯父の話と陽の夢の話を聞いて、知濃山に入ると最初に言い出したのは惺だ。その後も彼は妙に積極的で、半ば引き摺られるようにして今日を迎えてしまったところがある。もし陽たちが反対していたとしても、惺は一人で山に入ってしまっていただろう。
この言い知れぬ不安感には覚えがあった。
織の時と同じだ。手を離した瞬間に遠い場所に行ってしまいそうな危うさが、ここ最近の惺には付き纏っている。夏本番では無いにせよ、毎日そこそこに暑い。それなのにも関わらず、惺はずっと薄手のカーディガンを羽織っていた。
その袖を、少しだけ引く。
「さとちゃん先輩」
「なあに」
陽の声に返事をした惺が、優しく微笑んだ。
最後に話した晴の笑顔がそこに重なって、陽は泣きそうになってしまう。そういえば陽は一度、惺を晴と見間違えている。それが初対面だった訳だが、あの時急に掴みかかった理由を、まだ話していなかった。
三番線のホームに立っていつもの列車を待ちながら、後ろで雑談している初と織の方に一瞬視線だけを向ける。陽は惺だけに聞こえるように、あの、と口を開いた。
「初めて会った時のこと、覚えてます?」
「ん?うん、覚えてるよ」
「あれ、……あの、さとちゃん先輩が、兄ちゃんと似てて」
「晴先輩と?」
ひとつ頷いて、陽は続けた。
「だからって訳じゃないけど……さとちゃん先輩のこと、心配だよ、俺」
「……大丈夫」
「でも」
「大丈夫だよ、陽くん、──」
甲高い列車のブレーキ音が、惺の声を掻き消す。陽が聞き返すよりも、人の列が動く方が早かった。どうにか確保出来た空席に座って、頭の端で島村が言っていたことを思い出している。
惺の口は確かに、ごめんね、と動いていた。それを押し込めるようにして、陽は隣に座った惺のカーディガンを強く握った。
*
教室のドアを開けると、既に半分ほどの生徒が登校していた。陽の席の周辺に集まっていた前川と最上、そして時藤は、陽と初に気がつくと手を振ってみせる。それに返事をしながら陽は真っ直ぐそちらへ向かい、初は自らの席に鞄だけを置いて、すぐに陽たちの元にやって来た。
陽はリュックを机の横に引っ掛けて、時藤を見る。
「瑞樹、もういいの」
「う、うん、……色々ごめんね、心配かけて、……」
数日前、時藤の大伯父が死んだ。
陽たち三人が訪問して数時間後、大伯父の容体が急変して救急搬送された。彼はそのまま昏睡状態に陥り、一週間と少しの間ずっと眠っていたと言う。回復を期待して医師達は手を尽くしたが、結局のところ、それが功を奏することは無かった。
その葬儀で、時藤は今日までの数日間学校を休んでいた。
大伯父のことに関しては気の毒だ。少なくとも陽たちに話を聞かせている最中の大伯父はまともに見えたし、意思の疎通も出来ていた。時藤のことも認識していて、だから学校に帰った後も、時藤はずっと嬉しそうにしていたのだと思う。
しかし、あのボイスレコーダーから流れてきた、おいでと呼ぶ声。あれは間違い無く大伯父のものだった。もしも島村がいなければ、時藤は、あのまま大伯父の元に行っていたのかもしれない。
島村は、隙を作ったね、と言っていた。その意味は分からなかったが、恐らく精神的な隙間のことを言っているのだろう。そこに入り込まれれば、呼ばれる。
「みーなーみ!」
「へっ!?」
左右の耳を貫通するように、前川の大声が響いた。肩を大きく揺すられて、陽は我に返る。
「え、あ、なに?呼んでた?」
「呼んでた!」
時藤の祖父母宅を陽たちが訪れている頃、前川のバスケ部、最上の演劇部ともに、地区大会を優秀な成績を残して突破していた。夏休み中はその先の大会に向けての練習や合宿が予定されているらしい。
全員の予定が合う日に五人で遊ぼう、と言った前川は、夏休みのスケジュールについて尋ねてくる。今日の放課後のことに集中するあまり、その後のことを全く考えていなかったことに気が付いて、陽と初は顔を見合わせて苦笑した。軽音部の夏休みの練習は織や惺に聞いてみなければ分からないが、彼らも受験生であるから、何かと忙しいだろう。陽は暫く考えて、いつでもいいよ、と返した。この場合、最も融通が利かなそうな二人に合わせるのが一番良い。
予鈴が鳴るのと同時に、渡利が挨拶と共に教室に入ってくる。ばらばらと席に戻るクラスメイトたちを眺めながら、陽は窓の外、やたらと晴れた空を見上げた。
終業式の退屈さは、どの学校でも変わらない。体育館の床は酷く硬く、体育座りを長時間続けていると尾骶骨が痛む。後ろに座る前川が大きな欠伸を漏らして、それにつられたかのように出かけた欠伸を噛み殺した。眠いわけではないのに、脳に酸素が行っていないのかもしれない。
永遠に続くかと思われた校長の話は、いい夏休みを、と言う至極平凡な締めで幕を閉じた。号令と共に立ち上がると、腰が僅かに軋む。前に立った生徒指導の増田が、この後の予定について相変わらず大きな声でがなっていた。元気が無い、と言う話を聞いたことがあったが、どうも本当に一時的なものだったらしい。その背後には、何も見えなかった。
完全下校は十二時半、事務員も今日は早上がり。教師達は多目的室に缶詰めで会議。
それを聞いていた違うクラスの生徒が、知ってるよ、とばかりに溜息を吐いたのが見えた。そう、そんなことはとっくに知っている。
だから、今日しか無い。
教室に戻って早々に配られた成績表を、陽はじっと見ていた。思っていたよりも悪くない。少なくとも親に見せるのを躊躇うような内容では無かった。それに安堵の溜息を吐いて、教卓の前に立つ渡利の話を聞いている。
「部活がある人も、ない人も、怪我には気を付けて生活してください。遊ぶのもいいけど、あんまり羽目を外し過ぎないように、…各科目から課題が出ているだろうから、それも忘れないようにね。夏休み明けのテストもあるから、気を抜かないで、勉強も頑張ってね」
そう言って渡利がクラス全体を見渡して頷くと、それを合図にしたように今日の日直の生徒の号令が聞こえる。陽の心臓の鼓動は、多数の椅子を引く音の中に紛れていった。
前川と最上は、この後それぞれの部活のメンバーと遊びに行くらしい。絶対遊ぼう、連絡するから、と言った前川に頷いて、早々に教室から出て行く二人を見送る。黒板は特に使われていないため、日直の生徒は朝のうちに書き終えていたらしい日誌だけを片手に職員室へと向かった。
完全下校まで三十分ほどしかない為、皆どこか急ぎ足だ。
「瑞樹、」
陽は机の横からリュックを拾い上げて肩に掛けると、自らの席で教科書を鞄に詰めている時藤に歩み寄った。陽の手には、先日彼の大伯父に貰った小さな赤いお守り袋が握られている。こちらを見て首を傾げる時藤に、陽はお守りを差し出した。
「これ、やっぱりお前が持ってた方がいいよ」
必ず君を助けてくれる。
そう言って大伯父は眠ってしまった。詳しい事情は分からないが、もしかしたらそれが最期の言葉だったかもしれない。そう思うと、時藤に対する申し訳なさが頭をもたげてくる。時藤は小さな頃から大伯父のことを慕っていたようだし、このお守りは本来時藤が持つべきなのではと考えていた。
しかし時藤は首を振って、陽の手を握ってお守りを閉じ込めてしまう。
「これはね、陽くんが貰ったものだよ」
「でもさあ、……」
「ありがとうね、でも、いいの。……これは、必ず、陽くんのこと助けてくれるから」
ね、と悲しげに笑う時藤に、陽はそれ以上何も言えなかった。無言でそれに頷いて、スラックスのポケットにお守りをしまい込む。そのまま時藤と別れて、陽と初の二人は事前の打ち合わせ通りに第二視聴覚室へと向かった。
幸いにも、その道中で教師とかち合うことは無かった。
*
本来であれば五限目の開始を告げるチャイムが響く。心なしかいつもよりも低く聞こえるその音を、陽はじっと座って聞いていた。それまで他愛のない雑談をしていた織と初の表情が、瞬く間に張り詰めていく。
お互いに目配せをしてひとつ頷いて、陽が第二視聴覚室の扉をゆっくりと開けた。
出来るだけ音を立てないように廊下を歩いて、階段を下りる。覗き込んだ一階の廊下は酷く静かで、足音や話し声のひとつも聞こえなかった。
この近辺には誰もいない。
そう確信すると、四人は静かに階段を下り切って、一年生の昇降口へ向かう。織と惺の靴は、前もって陽と初の下駄箱に移動してあった。少し古い下駄箱の蝶番がきい、と鳴る音に、陽はいちいち身体を強張らせた。
どうにか四人分のサンダルをしまい終えて靴を履き、辺りを見回しながら外に出る。教師達がいるからか、校門は開け放たれたままだ。校庭や職員室の窓からは、人の気配は少しも感じられなかった。一番後ろにいた惺が、そっと昇降口の扉を閉める。
そして陽たちは右側の奥まったところにある知濃山の入り口までにじり寄ると、膝ほどの高さのロープを超えて山の中に入った。そのまま獣道を少し走って、校舎が木々に覆い隠されたところで立ち止まる。
陽は盛大な溜息を吐いて、その場に屈み込んだ。
「やっとまともに息できた……」
「悪いことしてますって感じ、……しょうがないけどね」
初が木々を見回しながら言う。周囲は木や雑草に覆われて、昼間だと言うのに薄暗かった。ざわざわと風と葉が擦れる音が鼓膜を揺すって、言いようの無い不安感を煽る。この山の奥から鳥や虫の鳴き声が一切聞こえて来ないのも、余計にその不気味さに拍車を掛けていた。
陽は少し息を整えると立ち上がって三人を振り返り、行こう、とだけ言って歩き出す。
並ぶ大木たちを見上げながら、十分ほど歩いただろうか。周囲は薄暗さを増して、携帯電話の電波は圏外では無いにせよ、あまりにも頼りない。木の一本一本に目を凝らしてここまで来たが、晴自身は勿論、その痕跡すら見当たらなかった。
そもそも本当に首を吊ってしまっていたとして、二年も放置されれば骨になってしまうのではないだろうか。兄の白骨死体を見て、自分は、惺と織は、果たして正気でいられるのか。その自信は、どうしても持てない。
悶々とする陽の隣にやってきた初が、こう尋ねてきた。
「どこ探すの?」
「わかんないけど」
「だよねえ」
初が苦笑しながら頷いて、ふと真上を見る。陽もそれにつられて上を向いた。先程まで晴れていた空はどんよりと曇り、灰色の重たい雲が今にも落ちてきそうなほど近い。
「やだなあ、雨降りそう、……長袖着てくればよかったかも」
その初の言葉に、陽は今更自分の無計画さに気が付き始めた。山の中に晴がいるにしても、どこを探せばいいのか分からない。と言うか、今初めて入った山で人を探すなど、その道のプロでも無い限り難しいのではないか。晴が失踪した当時、警察は山の中も検めた筈だ。
それでも見つからなかったものを、自分たちが見つけられる可能性は、殆ど無い。
しかし大人に夢で見たから探してくれなどと言っても、きっとまともに取り合ってくれないだろう。それは火を見るよりも明らかだった。
奥に進みながら俯きかけた陽の肩を、織が叩く。
「暗くなる前に一通り探そう。そんなに大きい山じゃ無いから、この道だけならそんなに時間はかかんないよ」
「そうですね、とりあえず、……陽の夢と、池って言うのを探して見ましょうか」
「陽ちゃんが夢で見たとこって、どんな感じだった?」
織の言葉に、陽は歩みを止めずに必死に記憶を辿った。
「何かすごい、目の前が、うねうねってしてて、……暗くて」
「池っぽいのは?あった?」
「いや、それらしいのはなかっ」
「……惺?」
織の声に、陽と初は立ち止まった。
一番後ろを歩いていたはずの惺の姿が、いつの間にか獣道から消えている。いつからいなかったのかも分からない。そもそも惺は山に入ってから、一言も喋っていない。瞬く間に空気が凍りついていくのが分かって、陽は息を呑んだ。
織が短く舌打ちをしたのと同時に、先程の初の心配を肯定するように灰色の空からぽたぽたと雨が落ちてくる。今は小雨ではあるが、これから酷くなるかもしれない。
しかし今は、そんなことは瑣末な問題だった。
「いつからいなかった?」
「いやわかんないです、先行きました?」
らしくなく慌てふためいているのか、初は忙しなく周囲を見回している。
先に行ったのなら、陽たちを追い抜いて行ったことになる。三人はずっと話を続けながらも、歩みは止めていなかった。追い抜かれたとして、気が付かないはずがない。
陽の頭の中にずっと染み付いていた嫌な予感が、瞬く間に増幅していく。
隙があると、入り込まれる。教室での時藤が、正にその状態だった。自分を呼ぶ大伯父の声に素直に従って、そこに行こうとしていた。
惺を呼ぶのは、晴だろうか?
その時、来た道を振り返っていた織が声を上げる。
「いた、」
陽たちが立ち止まった場所から数メートル、獣道から逸れた森の中。その木の隙間から、ふらふらと奥に向かっていく惺の姿が見えた。織は本日二度目の舌打ちと溜息を漏らして、陽と初を振り返る。
「陽ちゃんとはーくんは、晴くん探すの続けてて。俺は惺のとこ行くから」
「一人で大丈夫なんですか?」
「大丈夫、あいつ軽いし、……捕まえたら陽ちゃんたちのこと追っかけるよ」
初の問いにこう答えた織は、陽たちに背を向けて惺の後を追った。二人はその後ろ姿を暫く見詰めていたが、やがて初が息を吐いて、陽を促す。
「行こう、ここで待ってたってしょうがないよ」
「……うん」
前を向いて、どこまでも続いていきそうな獣道を睨む。ポケットの中のお守りを握り締めて、陽はまた歩き出した。
「さと!」
木の間を抜けながら惺を呼ぶ自分の声が吸い込まれていく。外から見る分には小さな山だったが、その中は存外広く、鬱蒼としていた。こちらがどの方向なのかも分からない。何もかもを呑み込んでしまいそうな薄暗い森に何度も立ち止まりかける。本能が、これ以上奥に行ってはいけないと警鐘を鳴らしていた。それを振り切ってどうにか足を動かして、惺の背中から目を離さないように前だけを見据える。
何だか、酷く寒かった。
連れて来なければよかった、山に入ると惺が言った時点で反対しておけばよかった、晴の話題を徹底的に避けておけばよかった。そんな後悔を、木の根元に落ちた細い枝と一緒に踏み潰した。
今更、何を言っても仕方がない。
惺が晴のことを特別に慕っているのは知っていた。惺が一年生の時、ピアノしか出来ないと言う彼を引き摺って中古のギターを選びに行ったし、下駄箱に落書きをされていればそれを落としてやった。全部、晴が言い出したことだ。晴も惺のことを何かと気に掛けていたようで、良く二人で出掛けていたのも覚えている。
それでも、晴は惺を本当の意味で救い出せなかった。彼は、ただ誰にでも分け隔てなく優しいと言うだけだった。晴先輩、晴先輩、と晴に寄っていく惺を見る度に、それを苦々しく見ていたことを思い出す。晴はそんな織の心情など知らず、こう言って笑っていた。
──俺が卒業したら、惺のこと、頼んだよ。
「あんたに言われなくても、分かってるよ、そんなこと……!」
吐き捨てるように織が言った時、急に道が開けた。どうやら、別の獣道に出たようだ。どのくらい走ったのか、息はすっかり切れている。惺はその道を左に曲がって、相変わらず覚束ない足取りでどこかへ向かっている。
「惺!」
歩いている人間に走って追い付くのは容易だった。距離は瞬く間に詰まり、織はその細い腕を掴む。周囲の景色を気にしている暇など無かったために全く気が付かなかったが、惺の数歩先には淀んだ池が口を開けていた。
もし数秒捕まえるのが遅ければ、惺はこの池に入っていただろう。そんな確信に悪寒がする。顳顬を伝う水滴が、雨なのか汗なのか分からない。
「──おり、せんぱ」
「お前、本当に何やってんの!?」
涙を堪えながら怒鳴って、帰るよ、と惺の腕を引いた。
しかし、惺はその場を動かない。
「……ごめんなさい」
「さと、」
「ねえ、おれ、やっぱりだめだ」
「何──」
「やっぱり晴先輩のこと、」
池から、何かが這い上がってくる。
陽と同じ色の髪、濃緑色のネクタイ。織よりも少し大きいそれは、池から上がり切るとじっとこちらを見て、酷く耳に馴染む懐かしい声で、さとる、と言って、笑った。
「首痛くなってきた」
「だろうね」
陽が首を左右に動かすと、ぱきぱきと嫌な音が鳴る。
織と別れてから十数分ほど経ったが、惺がいなくなった場所からはそう離れていない。前に進むだけでなく、左右に広がる森の奥などにも目を凝らした方がいいのでは、と言う初の提案を採用した形になる。
奥の方を目を細めて見ていた初が、ふと不安げに後ろを振り返った。
「……織先輩、遅いよね」
「だよなあ」
陽も初と同じように、後ろを振り向いた。この山自体がどういう構造になっているかも分からないのに、彼を一人にしてしまったのは失敗だったかもしれない。胸の奥にざわざわと広がる不安に従った陽は、戻ろう、と言った。それに初も頷いて、来た道を戻る。
惺がいなくなったと思われる場所まで戻って来ては見たものの、周囲を見渡しても木以外何も見えない。雨は先程よりも少し酷くなりつつある。大声で呼んでもみたが、やはり返事は無かった。
「学校に戻る?」
「先生に言うしかないよ、怒られてもしょうがないじゃん」
恐怖心に押し負けそうになっていたのは、陽も初も同じだった。教師に怒られるのが怖くないわけでは無かったが、織と惺に何かあったらと思うと、そちらの方がずっと怖い。
初と顔を見合わせて頷いて、学校の方に踵を返した、その時。
「陽、」
名前を呼ばれた気がして、陽は立ち止まって辺りを見回す。
左手の森の中に、晴が立っているのが見えた。こちらを見て手を振っていた彼は、陽が自分を見つけたことに気が付くと、手招きをするように動きを変える。
「兄ちゃん、」
陽は初に、自分は晴を追い掛けること、初は学校に戻って教師に知らせてほしいことを告げた。初は少しの間一緒に行こうと抵抗したが、陽の意志が覆らないことを悟ると、わかった、と小さく呟いて走って行った。その背中が見えなくならないうちに、陽は獣道を外れて、木々の中に飛び込む。
晴を呼びながら、森の中を走った。濡れた地面が足に絡みついて、数度転びそうになる。全力で走っているつもりなのに、決して晴には追い付けない。そのもどかしさに、涙が出てくる。
晴は、いつの間にかどこかに消えていた。ぜえぜえと肩で息をしながら周囲を見渡すと、数十メートル先の木々の隙間に池が見える。その辺りから、織のものらしき声が聞こえた。何を言っているかは分からないが、ここまで聞こえるということはそこそこ大きな音量で叫んでいるのだ。陽は迷わず池の方向に走って、織を呼んだ。
池に近付くにつれて木も少なくなっていって、声も景色も鮮明になる。
何とも言い難い色に淀んだ池のほとりで、織が惺を抱き抱えるようにして地面に膝をついている。その腕の中の惺からは完全に力が抜けていて、ぐったりと織に身を預けているようだった。
その正面に、赤黒くぶくぶくに膨れた人間のようなものが立っている。それは、何人もの子供の嬌声や絶叫をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせた声を上げていた。見るからにこの世のものではないそれを晴くんと呼んで、織はこう懇願している。
「お願い、惺を連れて行かないで、晴くん」
繰り返す織の声に、陽は血が出そうなほど強く唇を噛み締めた。走りながらポケットの中に手を入れて、ずっしりと重いお守り袋を右手に握る。
大声で織と惺を呼んで、右腕を振り上げた。
「──そいつは兄ちゃんじゃない!」
陽の声と共に、赤い小さなお守り袋は真っ直ぐに、織と惺の正面に立っていたものに飛んでいった。そしてそれが赤黒くじゅくじゅくと腐敗した身体に当たったかと思うと、そこが大きく抉れて向こう側の風景が見える。
それは、蜘蛛の子を散らすように霧散して、消えた。
「織ちゃん先輩!さとちゃん先輩!」
「……陽ちゃん、…」
「大丈夫!?」
陽は織と惺の前に屈み込んで、二人を交互に見た。織は青ざめた表情で頷いて、惺の華奢な肩を抱えた腕に力を込める。どうやら二人とも怪我は無いらしい。
「陽!」
初の泣きそうな声がしたかと思うと、その音源を探る暇も無く初が走ってくる。それは、陽が来たのとは全く違う方向だった。こちらに駆け寄る彼の後ろから、澄んだ声がする。
「ああ、やっぱりここだったね」
木の影から抜けた島村の整った顔が、木漏れ日に照らされている。いつの間にか雨は止んでいた。どうしてここに、と口を開きかける陽を手だけで制すると、島村はいつもと変わらない調子で詳しいことは後、と言った。
「もうすぐ先生が来るよ。怒られたく無かったら、さっさとここを出よう」
抜け道を知ってるんだ、と続けて、彼はさっさと池の反対側へ歩いていく。初が織を立たせて、惺を背負うのが横目に見えた。本当に軽いな、と初が呟いたのが聞こえる。
結局、晴は見つからなかった。
陽は何度も背後を振り返ったが、晴の姿はどこにも無い。
*
島村の後ろを歩いていると、やがて体育館の裏に出た。島村があまりにも堂々と校庭を歩くので、見つかってしまわないかと問い掛けると、彼は心配ないよと笑ってみせる。
二、三年生の昇降口から校内に入った。一年生の下駄箱に、四人分のサンダルを取りに行く。その間教師とは擦れ違わなかったし、話し声も聞こえなかった。
島村は四人を保健室の前に導いて、そのドアを開ける。
そこには、時藤と篠の姿があった。
時藤は陽たちを見とめると、座っていたベッドから下りて駆け寄ってくる。篠は普段養護教諭が座っているキャスター付きの椅子に腰掛けて、右手を上げた。彼は初に背負われている惺を見ると一瞬表情を曇らせたが、彼をベッドに寝かせて一頻り呼吸などの問題が無いことを確認すると、安堵したように胸を撫で下ろした。
篠を見た瞬間、怒られる、と目を瞑った陽だったが、その不安は的中すること無く通り過ぎていく。
「どうして篠先生がここに」
呆然とする初の言葉に、篠がそれはこっちの台詞だと返す。確かにそうだ。時計はすでに十四時半を指していて、今日の完全下校を二時間近く過ぎている。その言い訳に初が四苦八苦していると、島村が助け舟を出すように口を開いた。
「うちの助っ人ってことで、書類書き換えておいてよ。そのくらいできるでしょ?」
「簡単に言ってくれるよお……」
聞けば、オカルト研究部は何週間も前から今日の居残りを申し出ていたと言う。その理由は単純で、部室の大掃除をしたいからと、それだけだった。大量にある資料や怪談本の類を整理し、足の踏み場もない部室を片付けること。どう聞いても怪しすぎる理由だが、島村が生徒指導の増田を上手いこと言いくるめて、今日の居残りが許可された。
「まあ、ちょっとだけ催眠術も使ったけど、概ね素直に納得してくれたよ。……あいつの単純なところは本当に長所だね。全然羨ましく無いけど」
そう愉快そうに笑った島村は、陽の方をちらりと見る。
「それはそうと御子柴くん」
「はい……?」
「あの山が立ち入り禁止って校則、もう無効になってるから、安心していいよ」
「へ?」
まるで陽の心中を見透かしたかのような島村の言葉に、間が抜けた声が出てしまう。
知濃山に立ち入ってはいけないと言う校則は、どうもここ最近になって撤廃されたらしい。と言うのも、あの獣道は運動部の走り込みに打って付けだった。これまでも練習場所に困った運動部がこそこそと獣道を走っていた事例があったそうで、池周辺に近付かなければ山に入っても良い、と言う風に書き換えられたと言う。
看板とロープに関しては、単純に撤去するのを忘れていたようだ。
本当に仕事が雑だなと、陽はがっくりと肩を落とした。これまでの自分の心労を返してほしいと、心の底から教師たちに悪態をつく。
「今日の職員会議だって、あの山の使い道の話だったんでしょ?」
「お前本当、そういうの、どこから聞いてくるんだよ……」
観念したように、篠がぽつぽつと話し出した。
今日の職員会議は、知濃山を切り開いて武道場、合宿所を新設する旨の説明で始まった。地域住民の反対はあるが、結局利便性には敵わない。あの獣道も整備する予定なのだと言う。
一頻り会議を終えると、教師たちは連れ立って山の中へ入っていった。建設場所や費用の打ち合わせも入っているために、外部の人間も数人含まれているらしい。
俺は留守番、と言って、篠はへらりと笑った。
篠の話が終わると、島村は再び陽に向かって微笑みかける。
「御子柴くんの探しものも、ちゃんと見つかるんじゃないかな」
「それって──」
どういうことですか、と陽が続けようとした時、廊下をばたばたと走る音がする。保健室の扉が勢い良く開かれて、音楽を担当する女性教師が篠を呼んだ。大層慌てている。彼女は陽たちを見て一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに我に返ったように篠を保健室の外へ手招いた。
「篠先生、すぐお戻りになってください!大変なんです!」
「どうかしました?そんなに慌てて」
何だか、妙に外が騒がしかった。ざわざわと色々な人間の怒号と悲鳴、動揺に満ちた声が聞こえる。警察、と言う増田の叫びが、より大きく響いた。廊下で篠と話しているらしい女性教師の声がする。
「今、山の中で、うちの制服を着た白骨死体が何人も出て──」
ああ、と陽は声にならない息を吐き出した。瞬く間に視界が滲んで、ぼろぼろと涙が溢れる。どれだけ噛み締めても、唇の震えは止まらない。
篠と女性教師の足音が遠ざかっていく。
島村は窓枠に肘をついて、外の喧騒を眺めていた。
「惺、」
不意に飛び込んできた織の声に、陽と初はベッドに駆け寄った。うっすらと目を開けた惺は視線だけで周囲を見渡すと、ゆっくりと上体を起こす。
「……晴先輩の、夢、見た」
「夢?」
「晴先輩、笑って、おまえはだめだよ、こっちにくるなって言って、そしたら……オリ先輩の、声が、して」
その骨の浮いた手を握った織の手指に、惺の目から涙が落ちてくるのが見えた。段々と細切れになるその声は、殆ど言葉になっていない。
陽は惺の腕にしがみつくようにしてカーディガンに顔を埋めると、彼を呼んだ。
「あのね、さとちゃん先輩。……兄ちゃん、見つかった、って」
「……そっか、…よかった、……ほんとに、よかっ、た…」
本当は、頭の隅では分かっていた。
晴がもう生きていないこと。
それは陽だけでは無く、惺も織も、両親もそうだったのだろう。それをどうしても認めたくなくて、皆がその事実に蓋をしていた。ずっと近くにいたのに見えない振りをして、晴を遠くにやってしまっていた。
しかしもう、それも出来ない。
パトカーのサイレンはけたたましく、陽と惺の嗚咽を覆い隠した。
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