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一部
第十五話
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随分長い間、沈黙がこの空間を支配している。
誰も何も喋らない。ページを捲っていた陽と、その机を囲むようにしていた他の三人は皆例外無く硬直し、そのノートを凝視している。
遠くから聞こえる管楽器、風によって木々が揺すられる音。それら全てが夢の中にいるような響きを持って、まるでこの空間だけが世界から切り離されているのではと言う錯覚を覚えた。浅くなった自らの呼吸すら、ずっと遠くの方から聞こえるような気がする。
頭が痛い。
「──すごいでしょう」
鉛のように重たい静寂を平然と破って、島村はまたにやりと笑った。それに返事をしなければと思うのに、視線は下に固定され、手と喉が震えて声が出て来ない。
日誌の締めのページを掴んだまま凍りついたように動かない陽の手をそっと解しながら、惺は陽の顔を覗き込んで、大丈夫?と問い掛けた。そう言う惺も、酷く疲れたような顔をしている。極度の緊張からか声が掠れて、陽の手を掴んだ彼の華奢な手もまた震えていた。織は酷く気分が悪そうに口元を押さえている。
惺の問い掛けに何度も頷いて、陽はようやっと口を開いた。吸い込んだ酸素が喉に引っかかって、咳き込みかける。
「あ、の」
それだけで精一杯だった。
恐らく島村以外の誰もこの日誌を理解出来ていないし、したくもない。一回読んだだけではわからない。しかしもう二度と読みたくない。
これの意味を、結末を知ってしまったら、織も惺も、陽も、正気でいられるかどうか分からない。
陽は空いた方の手で、無意識に隣に座る初のシャツを掴んでいた。
「島村先輩」
それまで黙っていた初が、唐突に島村を呼んだ。その声には芯が通り、未だ重たい第二視聴覚室の空気を切り裂くように響く。陽は驚いて隣の初を見上げるが、その目は真っ直ぐに島村を射抜いていた。
島村は予想通りだとばかりに微笑んで、初に視線を向ける。
「これ、どこから出て来たんですか?」
「ああ、それはね」
結局、日誌は如月の実家にあった。
その実家は、豊永から別の路線に乗り換えて二十分ほど揺られて下車し、その駅から徒歩で十五分ほどの場所にある、やたらと大きな一軒家だった。
部活の後輩だと言うと、如月の母親は島村を快く家に招き入れてくれた。リビングに通されて、一頻り如月の近況について聞かされた。医者が言うには回復の見込みは薄いと言う。
島村は、実は如月が部活の備品を持っていってしまったかもしれない、それが無いと少し困るので、如月の部屋を検めさせてくれないかと率直に申し入れた。多少不審がられても、背に腹は変えられない。
母親は意外なほどすんなりとそれを許諾した。そもそも、如月の両親はオカルトや心霊に対して全くの門外漢だった。息子が廃墟や心霊スポットに行っていると言うことも知らなかったらしい。両親は如月がおかしくなって以降、あまりの不気味さから彼の部屋に近寄れなくなってしまった。近々中のものを全て処分してしまおうかと夫と話していたから、部活の役に立つようなものは持っていってもらって構わない、と母親は言った。
「厄介払いじゃありませんか、それ」
「あの口ぶりからすると、お母様本人はそのつもりだったのかもしれないね。でもぼくにとっては、宝の山の中心に放り込まれたようなものだよ」
初の言葉に心底愉快そうに返しながら、島村は話を続ける。
如月の部屋は二階の奥にあった。母親は島村をそこまで案内すると、必要でしょうから、と言って数枚の紙袋を差し出してくる。島村が愛想良く礼を言ってそれを受け取ると、彼女はそそくさと階下へと戻って行った。
如月の部屋の中は、その人格を表すように整頓されていた。カーテンが締め切られているため、どこかじめじめと湿っているように感じる。島村の身長よりも少し小さい本棚には実話怪談の書籍がずらりと整列し、一昔前にコンビニで売られていたようなDVDが付録の心霊雑誌が年代順に積まれていた。ベッド横の壁に貼られた大きな日本地図には、所々に赤いバツ印と日付が書かれ、それに覆い被さるようにポラロイド写真が貼られている。行った場所、と言うことだろう。
窓際に置かれた、暗い茶色の学習机に目を向ける。小学生の頃から使っていたのか、所々色が変わっていた。どの引き出しにも、鍵は掛かっていない。全て開けたが、大学や企業の資料、小中高の教科書、板書のノート以外は入っていなかった。
次に島村は、本棚に並んだ書籍類を片っ端から紙袋に突っ込んだ。オカルト研究部の部室で見たことがあるものもあったが、持って帰ったところで無駄にはならない。そこにも、特にそれらしいものは無かった。ベッドの下、クローゼットの中、あらゆる場所を探したが、日誌らしきものは見つからない。
もう処分してしまったのかと思った島村は、苛立ちのままに思い切りカーテンを開けた。降り注いだ太陽光が視界を真っ白に塞いで、思わず目を細める。それから逃れるために後ろを向いた。空っぽになった本棚の横に、姿見が置かれている。
何とは無しに、その姿見の裏を見た。
黒いゴミ袋に、上から執拗にガムテープを巻いたものがべったりと貼り付けられている。
日誌は、その袋の中にあった。
「危ないところだったよ。もしぼくが行くのがもう少し遅ければ、あれは姿見ごと処分されていたかもしれない」
日誌を見つけた時点で、もう如月の部屋に用は無い。紙袋に詰め込まれた本も置いて行こうかと考えたが、彼の両親があまりにも不憫で持って帰ることにしたと言う。
善行は積んでおくに限るよね、と島村は笑った。
大きな紙袋を二つ抱えて如月の家を後にした。日誌は黒いゴミ袋を被せたまま、鞄の中に入れる。島村はその後学校には戻らず家に帰り、先に日誌を読んだ。そして今日、ここに持ってきたのだと言う。
話を終えたらしい島村に、初が質問を投げ掛ける。その視線と声音は変わらず凛として、少しの動揺も見受けられなかった。
「その如月さんっていう人は、どうしてこれを持っていたんですか?どこにも名前が書いてなかったと思うんですけど」
「如月は怪談同好会の会員ではあったけれど、当時彼は成績不良でね。活動から距離を置いていたんだ。七不思議の検証が始まる少し前に、井塚から言われたらしいよ。記録を残そうと思うから、自分にもしものことがあったら、後は頼む、って。
井塚は、検証の後半ごろから定期的に自分の居場所をメールで送信していた。もし自分が学校にいる時に九十分以上連絡が途切れたら、その時は、…そういうことだから、ってね。だから連絡が途切れた時点で、如月は律儀にも、あらゆる交通手段を使って学校に駆けつけた。これは、井塚の机の上に閉じた状態で置かれていたそうだよ。だから、……少し、見難いところがある」
島村は日誌に目を落としたかと思うと、最後から二ページほど前の、井塚が書いたであろう部分を開いた。
見難い、と言うのは、かなり優しい表現だ。
このノートは全体的にぼろぼろで埃っぽく、由来不明の汚れが所々に付着している。
しかしそのページだけ、どう考えても異様な量の赤黒い飛沫で覆われていた。それはからからに乾いていて、幸運なことに陽の指はその染みには一切触れていない。
文字が溶けるように滲んで、あるいは完全に隠れてしまっているお陰で、全体を判読するのが難しかった。恐らく飛沫が乾かないうちにノートが閉じられたために紙同士がくっ付いてしまい、剥がすのに難儀したのだろう。無理矢理ページ同士を剥がしたその跡が、余計に読み難さに拍車を掛けていた。
「これって」
陽は島村を見て、このノートを覆う汚れや飛沫の正体について言及する。自分の思っていることがただの物騒な妄想であって欲しいと願いながら。
しかし陽のそのささやかな願いは、島村によって一蹴された。
「まあ、血だろうね」
島村はきっぱりとそう断言すると、陽の手元からノートを取り上げた。彼は間髪入れずに、朗々と語り出す。誰も、そこに口を挟むことなど出来なかった。
「動機はともかくとして、恐らく切っ掛けを作ったのはこの加賀とか言う女だね。井塚は終盤に、七不思議は付属物だったのかと考察していたけれど、ぼくの解釈は少し違う。……香西くん」
「はい、」
突然呼ばれたことに驚いたのか、初が一瞬目を丸くする。
「きみ、提灯鮟鱇は知ってる?」
「深海魚ですか?」
「そう、頭の突起を発光させて獲物を誘き寄せて食べる。そのさまが提灯に似ているから、提灯鮟鱇と呼ばれるようになったんだね。……きみは賢いから、ぼくが何を言いたいのか、分かるでしょう」
再び沈黙が落ちてくる。初は暫く考え込んだ後、顔を上げた。
「……──七不思議は、本体じゃなくて、餌……?」
その一言に、島村は一層その微笑みを深くして、正解、と言った。蛇のような目がぎらりと光って、この場にいる全員を見ている。
「七不思議や、鏡を割ると願いが、なんて噂はあくまでも擬似餌だ。人を誘き寄せるためのね。その餌に一番最初に引っ掛かったのは加賀だった。彼女が放送室の鏡を割ったことによって、七不思議の奥にいる何らかのスイッチが入ったんだろう。彼女の願いは色恋の成就だったようだし、……それは拡散者として、偶然鏡に映っていたお兄さんの方を選んだんだね。彼が抱えていたものと、その奥にいる何かの相性が良かったのかなあ。ああ、まるで寄生虫だよ。
放送室の時点で、お兄さんは既に魅入られていたんだと思うよ。だから、倉庫Bの鍵を外したのもお兄さんだし、加賀が言っていた倉庫内の人の気配、何かが映ったような気がしたと言う記述……あれも、お兄さんのことで間違い無さそうだね。ついでみたいに加賀と三石のことも食って、それはどんどん成長して行った。お兄さんの中の憎悪と一緒に。だから、…井塚が異変に気付いて声を掛けた時には、もう遅かったんだよ。その頃には、お兄さんは井塚を邪魔者だと認識するようになっていたんだからね。そうして──これを書いている井塚を、後ろから」
「やめて!」
惺の殆ど絶叫のような声が、島村の言葉を遮った。惺はカーディガンの袖で耳を塞いで身を縮こめながら、こう泣き叫んでいる。
「晴先輩はそんなこと出来る人じゃない!あの人は、そんなこと、…しない、……」
声は徐々に小さくなって、やがて小さな嗚咽だけが残される。陽や初、織ですら、そんな惺を前に何も言えない。しかし島村はまるで気にした様子も無く、子供に言い聞かせるかのように言葉を返す。
「和泉先輩、言っておくけど。これはあくまでぼくの憶測。最悪の状態を想定した場合のね。怪異に魅入られて人格が変わって、別人のようになってしまうこともある。全面的に怪異のせいにしたっていい。そうするだけの理由はある。ただ、火のないところに煙は立たないよ。隙間があるから、そこに入り込まれる」
島村は少しも躊躇う様子を見せず、こう続けた。
「本当に他人が憎いと思った時、死んでしまえばいいと思った時、どうなってしまうか?それは、先輩たちが一番良く知ってるんじゃないの」
がたん、と大きな音を立てて、惺が立ち上がる。彼は暫く大きく震えた呼吸を漏らした後、真っ直ぐ第二視聴覚室の扉に向かって歩いて、ドアノブに手を掛けた。
さと、と言う織の呼び掛けに反応した惺は、ごく小さな声で呟く。
「頭冷やしてくる」
大きな音を立てて扉が閉まって、それと同時に織が立ち上がる。彼はそのまま惺の後を追うように第二視聴覚室から出て行った。初は心配そうに、ぴったりと閉じた扉を見詰めている。
俯く陽の中を、言いようのない不安が満たしていくのが分かった。島村の言うことが正しいとすれば、この呪いの儀式は完了している。だから、晴の担任や元クラスメイトは次々に命を落としているのだろう。しかしその大元となった怪談同好会のメンバーや晴本人の行方に関しては、未だ不明瞭だ。
もう答えは目の前にある気がするけれど、どうしてもそれを視界に入れたくなかった。
これを島村に聞いたところで仕方がない。そう分かってはいても、聞かずにはいられない。怪異がどうとか、晴の人格がどうとかよりも、もっと根本的な問題だ。
視界が滲んで、唇が震える。
「島村先輩」
「どうしたの、御子柴くん」
「……兄ちゃんは、生きてるんですかね」
「陽」
初が泣きそうな顔で陽の名前を呼んだ。問われた島村は手にした日誌と陽を交互に見て、口を開く。
「それは、否定も肯定も出来ないな。まずどこにいるのかもわからない。結局、日誌にはお兄さんの行方に繋がることは書かれてなかったし」
期待させてごめんね、と言う島村の言葉に、陽は首を振った。一瞬の感情の波を見送ってしまえば頭は妙に冷えていて、思考は止めどなく回っている。
続いて陽が他に何か手掛かりになりそうなことはないかと尋ねると、島村は暫く唸って、やがてこう言った。
「うーん、お兄さんの周辺はもう殆ど調べ尽くしたし、…あとは、大元を探るしかないね」
「大元?……七不思議なら、この人たちがもう」
「ううん、もっと前だよ」
「前?」
「菖蒲ヶ崎高校になる前の話。この学校にそう言う話が異様に多い理由は土地にあるのかもしれないって、前から思ってたんだ。他のことに忙しくて調べられてないけどね。かなり遠回りになるかもしれないけど、それを掘り起こせば、……何か見えてくるかも」
土地。
それを聞いた陽は、あの選択授業のことを思い出した。陽たちのグループは、時藤の祖父母にこの土地の歴史を聞くと言う活動内容になっている。訪問がいつになるかは分からないが、その時に何がしかのヒントが得られるかもしれない。時藤の祖父母は昔からこの辺りに住んでいると言うし、何も知らないと言うことはない筈だ。その思考に至ったのは初も同じだったらしく、二人は顔を見合わせて頷く。
その様子を見た島村は微笑んで、立ち上がった。
「さて、ぼくは他にも調べることがあるし、……これもじっくり読み込みたいから、もうお暇しようかな。先輩たちにもよろしく言っておいてくれる?」
緩やかに手を振りながら扉の前まで歩いて行った島村が、ふと立ち止まって振り返った。
「それと、和泉先輩のこと、ちょっと気を付けてあげてね。さっきも言ったけど、
──隙間があると、入り込まれるよ」
じゃあね、と告げて、島村は第二視聴覚室を出て行った。
その意図について陽と初が掴みかねていると、先程閉まったばかりの扉が再び開いた。織に手を引かれるようにして、泣き腫らした目の惺が入室する。島村がいないことに気が付いたのか、織が初に尋ねた。
「島村は?」
「あ、何か調べ物があるとかで……惺先輩、大丈夫ですか」
「うん、……大丈夫、ごめんね、こないだからこんなんばっかで」
「さとちゃん先輩」
陽は椅子に腰掛けた惺の元に駆け寄って、その場にしゃがみ込んだ。
「会いたい?兄ちゃんに」
「……っ会いたい、よお」
惺の目が瞬く間に潤んで、ぼろぼろと涙が落ちてくる。陽は惺の腰に抱きつくように腕を回して、滲む視界を止めようと必死で何度も瞬きをした。
「俺も」
やっとのことでそう呟いて、そこからはもう駄目だった。これまで見て見ぬ振りをしてきた寂しさが内側から一気に溢れ出てきて、涙となって溢れてくる。それは惺も同じだと思った。
四階で見た晴の呆れたような笑顔が、鮮明に脳裏に浮かぶ。死んでいても構わないから、もう一度晴と話がしたかった。
陽と惺の嗚咽を掻き消すように、夕方のチャイムが校内に響く。
誰も何も喋らない。ページを捲っていた陽と、その机を囲むようにしていた他の三人は皆例外無く硬直し、そのノートを凝視している。
遠くから聞こえる管楽器、風によって木々が揺すられる音。それら全てが夢の中にいるような響きを持って、まるでこの空間だけが世界から切り離されているのではと言う錯覚を覚えた。浅くなった自らの呼吸すら、ずっと遠くの方から聞こえるような気がする。
頭が痛い。
「──すごいでしょう」
鉛のように重たい静寂を平然と破って、島村はまたにやりと笑った。それに返事をしなければと思うのに、視線は下に固定され、手と喉が震えて声が出て来ない。
日誌の締めのページを掴んだまま凍りついたように動かない陽の手をそっと解しながら、惺は陽の顔を覗き込んで、大丈夫?と問い掛けた。そう言う惺も、酷く疲れたような顔をしている。極度の緊張からか声が掠れて、陽の手を掴んだ彼の華奢な手もまた震えていた。織は酷く気分が悪そうに口元を押さえている。
惺の問い掛けに何度も頷いて、陽はようやっと口を開いた。吸い込んだ酸素が喉に引っかかって、咳き込みかける。
「あ、の」
それだけで精一杯だった。
恐らく島村以外の誰もこの日誌を理解出来ていないし、したくもない。一回読んだだけではわからない。しかしもう二度と読みたくない。
これの意味を、結末を知ってしまったら、織も惺も、陽も、正気でいられるかどうか分からない。
陽は空いた方の手で、無意識に隣に座る初のシャツを掴んでいた。
「島村先輩」
それまで黙っていた初が、唐突に島村を呼んだ。その声には芯が通り、未だ重たい第二視聴覚室の空気を切り裂くように響く。陽は驚いて隣の初を見上げるが、その目は真っ直ぐに島村を射抜いていた。
島村は予想通りだとばかりに微笑んで、初に視線を向ける。
「これ、どこから出て来たんですか?」
「ああ、それはね」
結局、日誌は如月の実家にあった。
その実家は、豊永から別の路線に乗り換えて二十分ほど揺られて下車し、その駅から徒歩で十五分ほどの場所にある、やたらと大きな一軒家だった。
部活の後輩だと言うと、如月の母親は島村を快く家に招き入れてくれた。リビングに通されて、一頻り如月の近況について聞かされた。医者が言うには回復の見込みは薄いと言う。
島村は、実は如月が部活の備品を持っていってしまったかもしれない、それが無いと少し困るので、如月の部屋を検めさせてくれないかと率直に申し入れた。多少不審がられても、背に腹は変えられない。
母親は意外なほどすんなりとそれを許諾した。そもそも、如月の両親はオカルトや心霊に対して全くの門外漢だった。息子が廃墟や心霊スポットに行っていると言うことも知らなかったらしい。両親は如月がおかしくなって以降、あまりの不気味さから彼の部屋に近寄れなくなってしまった。近々中のものを全て処分してしまおうかと夫と話していたから、部活の役に立つようなものは持っていってもらって構わない、と母親は言った。
「厄介払いじゃありませんか、それ」
「あの口ぶりからすると、お母様本人はそのつもりだったのかもしれないね。でもぼくにとっては、宝の山の中心に放り込まれたようなものだよ」
初の言葉に心底愉快そうに返しながら、島村は話を続ける。
如月の部屋は二階の奥にあった。母親は島村をそこまで案内すると、必要でしょうから、と言って数枚の紙袋を差し出してくる。島村が愛想良く礼を言ってそれを受け取ると、彼女はそそくさと階下へと戻って行った。
如月の部屋の中は、その人格を表すように整頓されていた。カーテンが締め切られているため、どこかじめじめと湿っているように感じる。島村の身長よりも少し小さい本棚には実話怪談の書籍がずらりと整列し、一昔前にコンビニで売られていたようなDVDが付録の心霊雑誌が年代順に積まれていた。ベッド横の壁に貼られた大きな日本地図には、所々に赤いバツ印と日付が書かれ、それに覆い被さるようにポラロイド写真が貼られている。行った場所、と言うことだろう。
窓際に置かれた、暗い茶色の学習机に目を向ける。小学生の頃から使っていたのか、所々色が変わっていた。どの引き出しにも、鍵は掛かっていない。全て開けたが、大学や企業の資料、小中高の教科書、板書のノート以外は入っていなかった。
次に島村は、本棚に並んだ書籍類を片っ端から紙袋に突っ込んだ。オカルト研究部の部室で見たことがあるものもあったが、持って帰ったところで無駄にはならない。そこにも、特にそれらしいものは無かった。ベッドの下、クローゼットの中、あらゆる場所を探したが、日誌らしきものは見つからない。
もう処分してしまったのかと思った島村は、苛立ちのままに思い切りカーテンを開けた。降り注いだ太陽光が視界を真っ白に塞いで、思わず目を細める。それから逃れるために後ろを向いた。空っぽになった本棚の横に、姿見が置かれている。
何とは無しに、その姿見の裏を見た。
黒いゴミ袋に、上から執拗にガムテープを巻いたものがべったりと貼り付けられている。
日誌は、その袋の中にあった。
「危ないところだったよ。もしぼくが行くのがもう少し遅ければ、あれは姿見ごと処分されていたかもしれない」
日誌を見つけた時点で、もう如月の部屋に用は無い。紙袋に詰め込まれた本も置いて行こうかと考えたが、彼の両親があまりにも不憫で持って帰ることにしたと言う。
善行は積んでおくに限るよね、と島村は笑った。
大きな紙袋を二つ抱えて如月の家を後にした。日誌は黒いゴミ袋を被せたまま、鞄の中に入れる。島村はその後学校には戻らず家に帰り、先に日誌を読んだ。そして今日、ここに持ってきたのだと言う。
話を終えたらしい島村に、初が質問を投げ掛ける。その視線と声音は変わらず凛として、少しの動揺も見受けられなかった。
「その如月さんっていう人は、どうしてこれを持っていたんですか?どこにも名前が書いてなかったと思うんですけど」
「如月は怪談同好会の会員ではあったけれど、当時彼は成績不良でね。活動から距離を置いていたんだ。七不思議の検証が始まる少し前に、井塚から言われたらしいよ。記録を残そうと思うから、自分にもしものことがあったら、後は頼む、って。
井塚は、検証の後半ごろから定期的に自分の居場所をメールで送信していた。もし自分が学校にいる時に九十分以上連絡が途切れたら、その時は、…そういうことだから、ってね。だから連絡が途切れた時点で、如月は律儀にも、あらゆる交通手段を使って学校に駆けつけた。これは、井塚の机の上に閉じた状態で置かれていたそうだよ。だから、……少し、見難いところがある」
島村は日誌に目を落としたかと思うと、最後から二ページほど前の、井塚が書いたであろう部分を開いた。
見難い、と言うのは、かなり優しい表現だ。
このノートは全体的にぼろぼろで埃っぽく、由来不明の汚れが所々に付着している。
しかしそのページだけ、どう考えても異様な量の赤黒い飛沫で覆われていた。それはからからに乾いていて、幸運なことに陽の指はその染みには一切触れていない。
文字が溶けるように滲んで、あるいは完全に隠れてしまっているお陰で、全体を判読するのが難しかった。恐らく飛沫が乾かないうちにノートが閉じられたために紙同士がくっ付いてしまい、剥がすのに難儀したのだろう。無理矢理ページ同士を剥がしたその跡が、余計に読み難さに拍車を掛けていた。
「これって」
陽は島村を見て、このノートを覆う汚れや飛沫の正体について言及する。自分の思っていることがただの物騒な妄想であって欲しいと願いながら。
しかし陽のそのささやかな願いは、島村によって一蹴された。
「まあ、血だろうね」
島村はきっぱりとそう断言すると、陽の手元からノートを取り上げた。彼は間髪入れずに、朗々と語り出す。誰も、そこに口を挟むことなど出来なかった。
「動機はともかくとして、恐らく切っ掛けを作ったのはこの加賀とか言う女だね。井塚は終盤に、七不思議は付属物だったのかと考察していたけれど、ぼくの解釈は少し違う。……香西くん」
「はい、」
突然呼ばれたことに驚いたのか、初が一瞬目を丸くする。
「きみ、提灯鮟鱇は知ってる?」
「深海魚ですか?」
「そう、頭の突起を発光させて獲物を誘き寄せて食べる。そのさまが提灯に似ているから、提灯鮟鱇と呼ばれるようになったんだね。……きみは賢いから、ぼくが何を言いたいのか、分かるでしょう」
再び沈黙が落ちてくる。初は暫く考え込んだ後、顔を上げた。
「……──七不思議は、本体じゃなくて、餌……?」
その一言に、島村は一層その微笑みを深くして、正解、と言った。蛇のような目がぎらりと光って、この場にいる全員を見ている。
「七不思議や、鏡を割ると願いが、なんて噂はあくまでも擬似餌だ。人を誘き寄せるためのね。その餌に一番最初に引っ掛かったのは加賀だった。彼女が放送室の鏡を割ったことによって、七不思議の奥にいる何らかのスイッチが入ったんだろう。彼女の願いは色恋の成就だったようだし、……それは拡散者として、偶然鏡に映っていたお兄さんの方を選んだんだね。彼が抱えていたものと、その奥にいる何かの相性が良かったのかなあ。ああ、まるで寄生虫だよ。
放送室の時点で、お兄さんは既に魅入られていたんだと思うよ。だから、倉庫Bの鍵を外したのもお兄さんだし、加賀が言っていた倉庫内の人の気配、何かが映ったような気がしたと言う記述……あれも、お兄さんのことで間違い無さそうだね。ついでみたいに加賀と三石のことも食って、それはどんどん成長して行った。お兄さんの中の憎悪と一緒に。だから、…井塚が異変に気付いて声を掛けた時には、もう遅かったんだよ。その頃には、お兄さんは井塚を邪魔者だと認識するようになっていたんだからね。そうして──これを書いている井塚を、後ろから」
「やめて!」
惺の殆ど絶叫のような声が、島村の言葉を遮った。惺はカーディガンの袖で耳を塞いで身を縮こめながら、こう泣き叫んでいる。
「晴先輩はそんなこと出来る人じゃない!あの人は、そんなこと、…しない、……」
声は徐々に小さくなって、やがて小さな嗚咽だけが残される。陽や初、織ですら、そんな惺を前に何も言えない。しかし島村はまるで気にした様子も無く、子供に言い聞かせるかのように言葉を返す。
「和泉先輩、言っておくけど。これはあくまでぼくの憶測。最悪の状態を想定した場合のね。怪異に魅入られて人格が変わって、別人のようになってしまうこともある。全面的に怪異のせいにしたっていい。そうするだけの理由はある。ただ、火のないところに煙は立たないよ。隙間があるから、そこに入り込まれる」
島村は少しも躊躇う様子を見せず、こう続けた。
「本当に他人が憎いと思った時、死んでしまえばいいと思った時、どうなってしまうか?それは、先輩たちが一番良く知ってるんじゃないの」
がたん、と大きな音を立てて、惺が立ち上がる。彼は暫く大きく震えた呼吸を漏らした後、真っ直ぐ第二視聴覚室の扉に向かって歩いて、ドアノブに手を掛けた。
さと、と言う織の呼び掛けに反応した惺は、ごく小さな声で呟く。
「頭冷やしてくる」
大きな音を立てて扉が閉まって、それと同時に織が立ち上がる。彼はそのまま惺の後を追うように第二視聴覚室から出て行った。初は心配そうに、ぴったりと閉じた扉を見詰めている。
俯く陽の中を、言いようのない不安が満たしていくのが分かった。島村の言うことが正しいとすれば、この呪いの儀式は完了している。だから、晴の担任や元クラスメイトは次々に命を落としているのだろう。しかしその大元となった怪談同好会のメンバーや晴本人の行方に関しては、未だ不明瞭だ。
もう答えは目の前にある気がするけれど、どうしてもそれを視界に入れたくなかった。
これを島村に聞いたところで仕方がない。そう分かってはいても、聞かずにはいられない。怪異がどうとか、晴の人格がどうとかよりも、もっと根本的な問題だ。
視界が滲んで、唇が震える。
「島村先輩」
「どうしたの、御子柴くん」
「……兄ちゃんは、生きてるんですかね」
「陽」
初が泣きそうな顔で陽の名前を呼んだ。問われた島村は手にした日誌と陽を交互に見て、口を開く。
「それは、否定も肯定も出来ないな。まずどこにいるのかもわからない。結局、日誌にはお兄さんの行方に繋がることは書かれてなかったし」
期待させてごめんね、と言う島村の言葉に、陽は首を振った。一瞬の感情の波を見送ってしまえば頭は妙に冷えていて、思考は止めどなく回っている。
続いて陽が他に何か手掛かりになりそうなことはないかと尋ねると、島村は暫く唸って、やがてこう言った。
「うーん、お兄さんの周辺はもう殆ど調べ尽くしたし、…あとは、大元を探るしかないね」
「大元?……七不思議なら、この人たちがもう」
「ううん、もっと前だよ」
「前?」
「菖蒲ヶ崎高校になる前の話。この学校にそう言う話が異様に多い理由は土地にあるのかもしれないって、前から思ってたんだ。他のことに忙しくて調べられてないけどね。かなり遠回りになるかもしれないけど、それを掘り起こせば、……何か見えてくるかも」
土地。
それを聞いた陽は、あの選択授業のことを思い出した。陽たちのグループは、時藤の祖父母にこの土地の歴史を聞くと言う活動内容になっている。訪問がいつになるかは分からないが、その時に何がしかのヒントが得られるかもしれない。時藤の祖父母は昔からこの辺りに住んでいると言うし、何も知らないと言うことはない筈だ。その思考に至ったのは初も同じだったらしく、二人は顔を見合わせて頷く。
その様子を見た島村は微笑んで、立ち上がった。
「さて、ぼくは他にも調べることがあるし、……これもじっくり読み込みたいから、もうお暇しようかな。先輩たちにもよろしく言っておいてくれる?」
緩やかに手を振りながら扉の前まで歩いて行った島村が、ふと立ち止まって振り返った。
「それと、和泉先輩のこと、ちょっと気を付けてあげてね。さっきも言ったけど、
──隙間があると、入り込まれるよ」
じゃあね、と告げて、島村は第二視聴覚室を出て行った。
その意図について陽と初が掴みかねていると、先程閉まったばかりの扉が再び開いた。織に手を引かれるようにして、泣き腫らした目の惺が入室する。島村がいないことに気が付いたのか、織が初に尋ねた。
「島村は?」
「あ、何か調べ物があるとかで……惺先輩、大丈夫ですか」
「うん、……大丈夫、ごめんね、こないだからこんなんばっかで」
「さとちゃん先輩」
陽は椅子に腰掛けた惺の元に駆け寄って、その場にしゃがみ込んだ。
「会いたい?兄ちゃんに」
「……っ会いたい、よお」
惺の目が瞬く間に潤んで、ぼろぼろと涙が落ちてくる。陽は惺の腰に抱きつくように腕を回して、滲む視界を止めようと必死で何度も瞬きをした。
「俺も」
やっとのことでそう呟いて、そこからはもう駄目だった。これまで見て見ぬ振りをしてきた寂しさが内側から一気に溢れ出てきて、涙となって溢れてくる。それは惺も同じだと思った。
四階で見た晴の呆れたような笑顔が、鮮明に脳裏に浮かぶ。死んでいても構わないから、もう一度晴と話がしたかった。
陽と惺の嗚咽を掻き消すように、夕方のチャイムが校内に響く。
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どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
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すべて実話
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ホラー
タイトル通り全て実話のホラー体験です。
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フルーツパフェ
大衆娯楽
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