オーバードライブ・ユア・ソング

津田ぴぴ子

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第十一話

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僅かに開いた教室の窓から吹き込んでくる弱々しい風が、締め切られたアイボリー色のカーテンを揺らしていた。雲一つ無い空の天辺に我が物顔で居座る太陽が時折ちらちらとこちらを覗き込む。目に突き刺さるようなその眩さに眉を顰めつつも、陽は手元の教科書に青いマーカーで線を引いた。眩暈がするような数式と教師の声が、六限目の脳内に子守唄のように浸みてくる。
教室内を見渡せば、何人かの生徒は既に夢の中にいた。陽の前方に座る前川も、完全に落ちてこそいないが、うつらうつらと船を漕いでいる。
初と時藤の席に目をやった。二人とも眠そうな気配は一切なく、その視線は教師の言葉に合わせて黒板と教科書を行ったり来たりしていて、この状況で集中力を保てるのは凄いことだと陽は感心してしまう。
「ようし、少し難しいかもしれないが、これを問いて貰おうかな。じゃあ……」
教師がぐるりと教室内を見渡した途端、張り詰めたような緊張感が周囲を満たす。出席番号順や席順などで当ててくる教師が殆どだが、この数学教師の指名は完全にランダムだ。皆、何度も不意を突かれて慌てふためいたことがある。それは陽も例外では無く、思わず前川の影に隠れるように身を竦めた。
「んー……じゃあ、……香西にしようか」
「はい、」
初の苗字が呼ばれた瞬間、教室内の空気が一気に緩む。自分でなくて良かったと言う本音が、口に出さずとも見えるようだった。
当の初は席を立って、黒板の前で教師からチョークを受け取る。解けそうか、と尋ねた教師に対して大丈夫だと思いますと愛想の良い笑みを浮かべて、初は全く迷うことも無く黒板に数式を書き連ねていく。
当てられなかったことに安堵したからか、月曜日独特の怠さが今日何度目かの波を起こした。

惺の父の死を知らされたのは先週の木曜日で、その日の初は様子がおかしかった。陽が第二視聴覚室を出ている間に織と二人きりになって、そこからだ。何かを考え込んでいるが、何かあったのかと問うと何でもないと返ってくる。そして終いにはぼろぼろと泣き出して、陽は大層驚いた。
初は幼い頃からとにかく我慢強いと言うか、滅多なことでは泣かない。
陽が覚えている限り、初が泣いたのは一度だけだ。小学生の頃、陽が近所の上級生と遊具を巡って大喧嘩をして、派手に転ばされた時。それを見た初は周囲が心配するほど泣き喚き、結局怪我をしている陽の方が初の手を引いて家まで連れ帰った。
それ以来、初の涙など見たことが無かった。

結局、先週の木曜日は初の申し出で陽の家に泊まらせたのだが、いつもと変わらず、弟の昊と遊んでゲームをして、後は他愛のない部活の話をして、寝てしまった。だから今日に至るまで、初が織と何を話したのか、陽は知らない。問い詰めたところで、はぐらかされて終わるだろう。
初は、自分の為に泣かない。いつだったかそれを指摘すると、だって泣いたって何にも変わらないから、と笑って返されたのを鮮明に覚えている。
初が泣くとすれば、それは近しい他人のためだ。帰り際に織が初を呼び止めて言った言葉が、陽の脳内を通り過ぎていく。
──誰にも迷惑かけないから。
一体初は織と何を話して、何を聞いたのだろうか。

「いやあ、すごいな!完璧だよ」
陽の頭をぐるぐると渦巻く疑問は、大きな感嘆の声によって弾け飛んだ。いつの間にか数式を解き終えたらしい初が、控えめに笑いながら席に戻っていく。嬉々とした様子の教師が、指示棒を片手に初の書いた数式を解説し始めた。
陽は机に突っ伏して目を閉じる。吹き込んできた一層強い風が、教科書をぱらぱらと捲り上げて行った。





「陽!」
大声と共に肩を揺すられて、勢い良く顔を上げた。ぼやける目を擦って声のした方を見ると、そこには初が呆れたような顔で立っている。前川はこちらを向いて椅子に肘をつきながら、やっと起きた?と笑った。
「全然起きねえんだもん、もうHR終わったぜ」
最上と時藤は先に部活へ向かったらしい。前川は立ち上がってスポーツバッグを肩に掛けると、陽と初に手を振って体育館へと駆けて行った。その背中を寝ぼけ眼で見送った陽は、初を見上げる。
「寝てたんだ、俺」
「今更?」
思い切り伸びをして、数度瞬きをして辺りを見渡す。クラスメイトの姿は疎らで、初と陽を含めると数人しか残っていなかった。机に散らばったままの数学の教科書やノートを机の中に突っ込むと、陽は立ち上がってギターのギグバッグを背負う。ペンケースをリュックの中に投げ込んで、その肩ベルトを二本まとめて右肩に掛けた。前に抱えると間が抜けて見えると言う理由で、最近はこうしている。

教室を出て、第二視聴覚室に向かう。先程の授業のことを初に振ると、彼は曖昧に笑った。
「あれねえ、応用だよ。誰でも出来るって」
「俺でも?」
「うーん……多分、…多分ね、出来ると、……思います」
「歯切れ悪」
階段を上りながら、話題は惺のことに移った。織の話では、惺は他県の親戚の家に世話になっているらしい。葬儀や諸々の事情があってのことだろうが、そうなると当分戻って来れないのではないか。確か惺の本当の母親は彼が小さい頃に家を出ていて、自宅に住んでいるのは義理の母、と言うことになる。その女には連れ子がいて、更に惺の父との間に子供がいたはずだ。どちらもまだ小さいだろうし、事情が事情なだけに修羅場になっていてもおかしくはない。
そして惺自身の処遇も、不透明だ。
「さとちゃん先輩さ、転校とか、しないよな……?」
「うーん……三年生だし、それはないと思うけど、……その親戚の家って、他県なんでしょ?ないとは言い切れない、かも」
初の言葉に、陽は一層その足を早めた。第二視聴覚室へ行っても惺がいないのは知っているが、今は一刻も早く軽音部と言う空間に飛び込みたかった。ドアノブに手を掛けて思い切り引く。
扉は開かなかった。
「あれ?」
「開かないの?」
初の言葉に頷いて、数度ドアノブをがちゃがちゃと動かしてみても、結果は変わらない。やはり鍵が掛かっている。この部屋の鍵を持っているのは織だけだ。まだ来ていないのだろうかと周囲を見回しても、辺りはしんと静かで、足音も聞こえない。
「織ちゃん先輩、まだ来てないんだあ」
「珍しいね、……ちょっと待ってよっか」
初は左手の窓に腕を掛けて、外を眺める。第二視聴覚室のすぐ横の階段を眺めていた陽は、意を決して初に向かって口を開いた。
「初」
「何?」
「あのさ、先週の話なんだけど、お前本当にどうしたの」
振り返った初の顔から、徐々に笑みが消えていく。はぐらかす隙を与えてはいけないと、陽は更に言い募った。
「織ちゃん先輩と何話したの?さとちゃん先輩のこと?」
「そ、れは」
分かりやすく動揺する幼馴染に、罪悪感が生まれる。しかしそれで手を緩めては、結局今までと変わらない。陽にとって隠し事をされていると言うのは、信用されていないこと、仲間外れにされていることと同義だった。
「俺には言えないこと?俺のこと、信用出来ねえんだ?」
「そうじゃない!」
声を荒げた初の目にうっすらと涙が浮かぶ。何かを躊躇うように俯いた彼の手は、血が出そうなほど強く握り込まれていた。
暫くそうしていた初だったが、やがて少し鼻を啜って顔を上げると、途切れ途切れに話し始める。
「……あの、…あのね、実は」

その時、ばたばたと階段を上ってくる足音が聞こえた。
「ごめん遅くなった!」
ベースを背負った織が、息を荒げながら三階まで駆け上がってくる。初が口を噤んだのを見て、陽はもうこれ以上は聞けないと悟った。二人きりの時に聞いた方が良さそうだと思い直した陽は、第二視聴覚室の鍵を開ける織の後ろをついていく。
「珍しいっすね、寝坊っすか?」
「まあ、そんな感じだよ」
「え」
自分の適当な予想が当たったことに、陽は驚いた。
織は朝学校に来てからさっきまで、ずっと保健室で寝こけていたらしい。目を覚ますと放課後で、慌ててここまで走ってきたと言う。それを聞いた初が、机に鞄を置きながら心配そうに尋ねる。
「保健室って、……体調悪いんですか?」
「いや?……ちょっと、何だろう、寝不足的な……」
そう言っている間も、仕切りに目を擦って眠そうにしている。走ってきて疲れてしまったのか、あるいは気が抜けたのか、織はベースと鞄を床に置くと、椅子に崩れ落ちて机に伏せた。陽は織に駆け寄って、その背中を摩る。
何だか、少し痩せたような気がした。
「大丈夫っすか織ちゃん先輩、帰って寝たほうが」
「んーん、大丈夫よ」
「でも」
「今、一人になりたくない、っから……」
一瞬苦しげに咳き込んでから顔を上げた織の首元を、焼け爛れた二本の手が締め上げている。今にも剥がれそうな爪、指先が食い込むほど強い力で掴まれているのに、初も、織本人さえ、それを認識していないらしい。陽が一瞬息を詰まらせると、その気配を察したのか織が振り向いた。
「どうした?」
「いや、──」
何でも、と陽が反射的に答えようとした時、第二視聴覚室の扉が開く音がした。皆が一斉にそちらを向いて、いの一番に陽が声を上げた。

「さとちゃん先輩!」
扉の隙間から顔を覗かせた惺はひらひらと手を振って入室し、いつもの場所に鞄を置いた。水色のシャツに、グレーのカーディガンを羽織っている。見慣れない黒いスラックスが目についた。制服では無い。陽が惺に飛びつくと、久し振りなどと言いながら頭を撫でてくる。その様子を呆然と見ていた織に、惺が笑いかけた。
「そんな幽霊に会ったみたいな顔しないでくださいよ」
「いつ帰ってきたの、聞いてないんだけど」
「そりゃあ言ってないし」
直系家族の不幸であったから、最低でも一週間は休むものだと思っていた。まさか土日含めて三日休んだだけで復帰してくるのは、陽にとっても、初と織にとっても全くの予想外だった。
椅子に腰掛けて一息ついた惺に初が恐る恐ると言った様子で、大丈夫なんですか、と聞いた。それにいつもと変わらず微笑み返して、彼は頷いた。
「帰ってきたのはさっきなんだけどね」
親戚からの呼び出しを受けて織に病院に送り届けられた後、惺は二つほど隣の県にある伯父夫婦の家──父の実家に移動した。警察絡みの手続きが済み次第、葬儀はその実家で執り行われることになったが、遺体をそのまま搬送することはせず、火葬を済ませて骨壷に入れた状態で改めて葬儀を行ったのだそうだ。
義理の母とその連れ子、そして父との間に出来た子も葬儀にはやってきたようだが、伯父夫婦の計らいによって惺は彼女たちと顔を合わせることは無かった。結構修羅場だったみたいだよ、と、惺は他人事のように言う。
父が再婚したこと、連れ子がいること、子供を作ったこと、惺に対して暴力を振るっていたことを伯父夫婦は知っていた。彼らは繰り返し惺に詫びて、これからは困ったことがあれば遠慮なく自分たちを頼ると良いと言った。
そして一頻りの葬儀を終えた昨日、惺に転校の話が持ち上がる。惺を元々住んでいた団地に帰そうと言う気は伯父夫婦には毛頭無く、かと言って一人暮らしをさせるのも心配だと言う。それならば実家近辺の高校に編入して、そこで大学を目指した方が良いのでは無いか、と言う話だった。

先程初が言ったことと全く同じ展開を辿っていて、陽は泣きそうになってしまう。
「さとちゃん先輩、やっぱり転校しちゃうんすか……?」
「ううん、断ったもんそれ」
さも当然のように言い放った惺は、話を続けた。
あの学校でやりたいことがあるから転校はしない、大学の学費も奨学金を借りる。諸々の保証人になって貰う必要はあるが、困ったらすぐに連絡するから、その時は助けて欲しい。
それを聞いた伯父夫婦は暫く考え込んで、家はどうする、頼れる人はいるのか、と尋ねてきた。惺自身ももう団地に戻るつもりは無かったし、一人暮らしも難しい。
そうなると、もう選択肢は一つしか無かった。
「それで、先輩の家に置いて貰うから、大丈夫ですって、……言っちゃった」
惺はそう言うと、大層申し訳なさそうに織を見た。結論が出たのが今日の朝だったため、連絡する暇もなかったと言う。
織とその伯父は病院で一度会っているため、人物の説明は容易だった。父の暴力から逃れるために、一年生の頃から度々世話になっていた旨を話すと、伯父夫婦は織の家に転がり込むことを認めた。惺が大学を卒業するまで、毎月一定額を振り込んでくれるとも言っていた。
そして先程、伯父が車で惺を学校まで送り届けてくれた。何かあったらすぐに連絡してと何度も念押しして、伯父は帰宅して行った。
「オリ先輩、あの、おれバイトとかもするし、色々手伝うから、だから」
惺が次の言葉を言う前に、その頭に織の手が伸びる。経験則からか反射的に身を縮こめた惺の髪を、織は優しく撫でた。織の首元にへばり付いていた先程の腕は、いつの間にかどこかに消えている。
「今までとおんなじでしょ、何も変わんないよ」
仕送りあるならバイトとかも無理にしないで良いから、勉強と部活だけで十分忙しいよと織が言うと、惺は俯いて何度も頷いた。暫く彼は黙って織に撫でられていたが、やがてその顔を上げて、陽と初の方を見た。
「陽くんと初くんも、オリ先輩から聞いてたんでしょ?うちのお父さんのこと」
「はい、……その、一応」
初の煮え切らない返事に頷いた惺は、気遣わせちゃってごめんねと詫びた。そして視線を落として、ぽつぽつと溢すように話し始める。
「──ほんとは分かってたよ、お父さんが、もうおれのこと好きじゃないんだって。もう、前みたいに話してくれないんだって」
降り始めた雨のように次々と吐き出されるそれを、陽たちはただ聞いていた。誰も、何も言えなかった。
「お父さんが死んだって聞かされた時、──もう、…殴られなくて、済むんだって、思って」
だから、おれももうとっくにお父さんのこと、嫌いだったのかも。
そこまで言って言葉を切った惺の机の上に乗せられた骨の浮いた手に、透明な雫が落ちてくる。陽は立ち上がって惺のところまで回り込むと、その華奢な身体を思い切り抱き締めた。
「さとちゃん先輩、俺、こう言う時気の利いたこと言えないんすけど、でも、さとちゃん先輩のこと、絶対一人にしないから、だから、えっと」
段々と自分が何を言いたいのか分からなくなってきて、陽の頭の中が回り始める。腕の中の惺はまた痩せたようで、ただでさえ薄い肩には骨が浮いて来ていた。
「だから、ご飯はちゃんと食べたほうが良いと、思います……?」
陽の言葉に吹き出した惺が、何それ、と笑う。その赤く腫れた目元を、織の指が拭って行った。それを見ていた初が席を立って、陽の横に立つ。少し拗ねた様子で、彼はこう呟いた。
「仲間外れにしないでくださいよ」
「初さあ、もしかしてやきもち?」
「違うから!」
そこから一頻り笑い合うと、四人は内緒話をするような距離で、誰からともなく今後のことを話し始めた。他の部は夏休みに合宿をするらしいから軽音部もどこかに泊まりに行こうだとか、文化祭で演奏する曲、三学期の定期公演会。惺と織が卒業するまでに、出来ることは全てやっておきたかった。
「僕、バラードも良いと思うんですよ」
「ああ、意外と合うかもね、陽くんにも」
「意外とって何すか、悪口です!?」
「違う違う、ギャップがあるよねって。ねえ?オリ先輩」
「そ、──っ」
答えようとした織の声が一瞬途切れる。
その直後、彼は口元を押さえて何度も強く咳き込んだ。咳自体は数秒で治って、肩を上下させながら呼吸を整えている。その薄く開かれた唇からは、ひゅ、ひゅ、と言う浅く短い呼吸音が聞こえた。
惺が織の背中を摩って、初も心配そうにそちらを見ている。
「織先輩、やっぱり具合悪いんじゃないですか」
「そうなの?」
「今日ずっと保健室いたって」
「何で学校来たの、……昨日ちゃんと寝ました?」
そんな初と惺の会話は、陽の耳には一切入って来なかった。
織が咳き込み始めた瞬間から、その首元にあの腕が絡まっている。大きさの違う腕が一本ずつだったのが、今度はそれぞれ二本。しなやかな細い腕と、がっしりとした腕。指の先まで焼け爛れたそれが織の髪を掴んで、首を鷲掴みにしていた。
「陽、今日はもう帰ろ。織先輩と惺先輩はタクシー呼ぶって」
「え、あ、うん」
初の声で我に返った。これまでは一瞬目を離すと消えていたそれは、いつまで経ってもいなくならない。それについて尋ねてみようかとも思ったが、今の織に余計な負担は掛けられないと考えて黙っていることにした。
暫くすると織は落ち着きを取り戻したが、惺の手によってタクシーに押し込まれ、一緒に帰宅して行った。走り去って行くタクシーを初と見送りながら、陽は先程の光景を思い返す。グロテスクなものは苦手だとか、そんなことは言っていられない。
あれが単純な体調不良でないことは、どう見ても明らかだった。陽以外の誰にも、織本人にすら見えていなかったあの腕と、織の家の仏間で陽が見たものは同一人物だ。織はあれを親だと言った。あの時彼は何もしてこないと言ったけれど、無害なものがあんな声で織を──息子を呼ぶことは、恐らく、無い。

家に帰してはいけなかった。

ざわざわとした嫌な予感が、瞬く間に陽の中で増殖を始めていた。





思った以上に早い。

運転手に軽く礼を言ってタクシーを降りた織を、惺が覗き込む。大丈夫ですか、と問う彼に笑って頷いて、黒い門を開けて数歩歩く。玄関の扉に鍵を差し込みながら、そっとカーテンの締め切られた南側の窓を覗き見た。そこにも、嵌め込まれた磨り硝子の向こうにも、何も見えない。
誰もいない家の中は静かで、時計の針の音がやたら大きく聞こえた。微かな物音も気になって震えてしまいそうになるのを、唇を強く噛み締めて押さえ込む。この家の全てが、泣き出しそうになるほど怖かった。

惺は何も知らない。何も、知らなくて良い。

靴を脱いだ惺はキッチンに直行すると、冷蔵庫の中身を見てああでもないこうでもないと唸っている。織もその後を追って、冷蔵庫を覗き込んだ。
「お前ちゃんとご飯食べてた?」
「正直あんまりでしたね」
「晩飯何食いたいの」
「いや寝ててくださいよ病人は」
「だから平気だって」
──すすすす、す、とん。
閉じたリビングの扉の向こうから音が聞こえて、織は思わず硬直する。障子戸が開く音だ。隣の惺にも聞こえていたようで、固まって扉の方を凝視していた。木製の扉に縦に二枚嵌め込まれた、玄関のものよりも荒い磨り硝子。その向こうから、声が聞こえる。

ただいまー。

ぬ、と磨り硝子に張り付いた赤黒い二つの影が、がちゃがちゃとドアノブを動かす。何かが焦げたような匂いが織の鼻腔を掠めて、ただいまー、織、ただいまー、と言う両親の声がする。機械のようにそればかりを繰り返して、声音も耳障りに歪んでいたが、それでも両親の声だと分かった。
あの時、燃え盛る車内から聞こえてきた声と、同じだ。

帰ってきた。
迎えにきた。
お父さんと、お母さんが。
「オリ先輩!」
惺の大声で、織ははっと我に返った。織の手はリビングのドアノブに掛けられていて、それを止めようと織の制服を掴む惺の目には涙が浮かんでいた。ドアの向こうの影はいつの間にか消えていたし、確かに開くような音がしたはずの障子戸も、ぴったりと閉じられていた。
「惺、」
「先輩、今の」
「見えた?」
「ばっちり見えたし聞こえましたよ」
ああ、もう、駄目だと思った。
第二視聴覚室での陽を思い出す。陽が織の肩に触れた時、自分が突然咳き込んだ時、彼は青ざめた顔で織の首の辺りをじっと見ていた。今までも度々陽が自分の肩や首を凝視していることがあったが、あれは確実に見えていたのだろう。陽は元々幽霊が見える人間であるから、そう言うこともあるかと思っていた。
この家に陽を連れて来た時、彼は「呼ばれて」障子戸を開けかけた。
そして今度は、霊感など欠片も無いはずの惺にも見えるようになった。

もう時間がない。
お父さんとお母さんのところに、行かなきゃ。





耳元で響いたけたたましい着信音が、陽を眠りの底から引き摺りあげた。目覚ましかと誤認して跳ね起きて、窓の外に目をやる。外は明るいが、太陽は昇っていない。鳥の声を遠くに聞きながら寝惚けた頭で必死に状況を解読して、未だ震え続ける枕元の携帯を手に取った。
「ええ……?」
液晶に表示されていた名前を見て首を傾げると、通話ボタンを押す。陽がもしもし、と言う前に、電話の向こうから殆ど言葉になっていない、嗚咽めいた惺の声がした。

「オリ先輩、いなくなっちゃった」
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