12 / 34
一部
第九話
しおりを挟む
悪夢としか形容出来ない定期公演会から、二週間が経とうとしていた。
七月を目の前にして、夏はその気配を隠そうともしない。湿度の高い不快な暑さが続いて、今にも蝉がじりじりと鳴き出しそうな、そんな毎日だ。
バスケ部の大会を目前にした前川は、連日他の部員たちと遅くまで練習に明け暮れていた。最悪終電に間に合えば、最寄りの駅までは親が迎えに来てくれる。それに甘えることにして、今日も今日とて授業終わりから今に至るまで練習をしていた。体格の良い男性の顧問が吹く笛を合図に、全員が彼の元に集合する。ふと前川が時計を見上げると、夜の七時を回ろうとしていた。
「今日はこれで終了、片付け当番は前川か?」
「はい!」
「うん、しっかり片付けるように。終わったら職員室に寄って、鍵を返してから帰れ」
その顧問の言葉に前川は一際大きくはい、と返事をする。部活終了後にボールの片付けやバスケットゴールを畳んだり、体育館全域を軽くモップ掛けしたりするのは、代々一年生の仕事だった。
顧問の解散の一言に皆が一斉に頭を下げ、お疲れ様でした、と言う絶叫に近い声が体育館に木霊する。ぞろぞろと体育館を出た部員たちは更衣室に向かって、前川もそれの後を追った。汗だくの部員たちが十数人詰めかけているため、熱気が籠ってしまった更衣室も、慣れたものだ。ずらりと並んだ縦に長いロッカーの、一番奥から三番目が前川に割り当てられた場所だった。そこを開けて、雑に置かれた制服に着替える。その時、横で着替えていた二年生の小野に声を掛けられた。
「なあ前川、菱田の話さあ」
「お疲れっす。……菱田さん?菱田さんがどうしたんすか」
「え、お前知らねえの?」
驚きの声を上げた小野に、前川は首を傾げる。菱田と言うのは、小野と同じ二年生だ。とても練習熱心で大会メンバーにも加えられていたが、三日ほど前からその姿を見ていない。他の上級生の話では、どうやら学校自体を休んでいるらしかった。
「小野さん、前川そういう話NGっすよ」
背後でスマートフォンを弄っていた一年生の新田が、笑みを浮かべながら左右の腕でバツを作る。それを聞いた小野は悪戯を思いついた子供のようににやりと口角を上げて、そうなんだ、と言った。
前川の背中を、嫌な予感が汗と一緒に流れ落ちる。そういう話、と言うのは、この場合、間違いなく──。
「お前今日片付け当番だろ?一応な、教えといてやるよ」
半袖の水色シャツに袖を通した前川の肩に、小野が腕を回した。あのな、と言うさも神妙そうな彼の顔を見て嫌な予感が的中したことを察した前川は、内心で深々と溜息を吐いた。
菱田は、とても練習熱心で真面目な生徒だ。次期部長なのでは、と言う噂もある。
彼は大会が近くなると、他の部員が帰った後も更に遅くまで残って自主練習をしていた。一年生が片付けをする規則にはなっているが、彼が残っている時は任せて帰ってしまう。それは菱田自身がそうしてくれと言ったからだ。
そして四日前、菱田が学校に来なくなる前の晩。その日も菱田はいつものように残って練習をすることにした。ある程度片付けを終えた一年生に後はやっとくからと告げて、只管一人の体育館でシュート練習を続ける。
「そしたらな、出たんだよ」
「で、で、出た?」
「たまつきさん」
小野は前川の反応に笑いながら、今度はたまつきさんの詳細について語り始めた。
体育館に遅くまで一人で残っていると、背後からボールをつく音が聞こえる。後ろを振り返ると、確かに誰もいなかった筈なのに、バスケ部のユニフォームを着た首から上が無い男子生徒が立っていて、延々とボールをドリブルしている。それは昔試合の直前に首を切断されて殺されたバスケ部所属の生徒で、今でも彼は自分の首を探して彷徨っている、と言う話だ。
「それでなあ」
「まだなんかあるんすか」
「いやこっからが重要だよ。そのたまつきさんがついてるボールは、良く見るとボールなんかじゃなくて」
「……じゃなくて……?」
「人の首なんだってさ!」
急に大きな声を出した小野に前川は思わず悲鳴を上げて、新田の後ろに隠れる。それに腹を抱えて笑いながらも、小野は話を続けた。
──生徒にドリブルされている人の首は、目撃者本人か、あるいはその近しい人だ。その首が笑っていれば問題ないが、そうでは無かった場合、そのボールになっている人間は近いうちに首を飛ばされて死んでしまう。
菱田はそれを見たのでは無いか、と噂になっているのだそうだ。
これから一人で体育館の片付けをしなければいけない人間に何て話をするんだと、前川は心の中で憤慨した。これが上級生で無ければ本気で怒っていたが、相手は先輩であるためそう強くも出られない。
「ま、眉唾だよなあ」
いつの間にか着替えを終えた小野はそう言いながら、手を振って立ち去っていく。他の上級生や新田を含めた一年生も、それに続いた。前川を憐れむような目で見て、頑張れよ、と言い残して。
「じゃあ待っててくれたって良いだろ!」
「やだよ、電車乗れなくなるもん。じゃ、お疲れ」
薄情者、人でなし、と前川は新田に向かって叫んだが、彼は笑いながら更衣室の扉を閉めてしまった。静寂に包まれた更衣室が途端に怖くなって、前川は急いで荷物を纏めて更衣室を出た。施錠しながら、体育館の分厚い扉を睨む。その前に立って、二、三度深呼吸をした。
意を決して扉を開ける。そこにはいつもと変わらない体育館があった。ぐるりと見渡しても誰もいない。中に入って扉を閉めたところで、親に連絡していないことを思い出した。慌ててスポーツバッグから携帯を取り出して、親の携帯にメッセージを打つ。駅に着いたら連絡する、と打ち込んで、送信ボタンを押した。そのまま携帯を倉庫前の床に置いて、モップを取りにその倉庫へ入った。
バスケットゴールを畳み、散らばったボールをカゴに投げ込んで、それを倉庫の中に押し込む。がらんとした体育館をやたらと大きいモップが滑って、靴が床と擦れるたびにきゅ、きゅ、と音を立てた。
小野は眉唾だと笑っていたが、そのたまつきさんとやらの噂を一笑に伏すことは、今の前川にはできなかった。五月頃の廊下の一件、演劇部の脚本の話、それらは本当だったのだ。良くある学校の怪談、怖い噂話だと思っていたものは、紛れもなく現実だった。だとしたら、たまつきさんがただの噂話である保証も、どこにも無い。
そう思うと、たまらなく怖いじゃないか。
前川は早足で体育館の全域にモップを掛け終えると、半ば小走りで倉庫にモップを投げ込んだ。勝手に息が荒くなる。聞こえもしないボールをつく音が聞こえるような気がする。前川はスポーツバッグを持って体育館の電気を消すと、真っ暗になったそこを振り返りもせず、後ろ手に扉を閉めた。完全に扉が閉じたのを指先で確認して、振り返って施錠する。
内履きのサンダルに履き替えることも忘れて、前川は体育館の通路を一気に抜けた。左手には一年生の教室が並び、廊下がまっすぐ伸びている。右手の窓から見える外はすっかり暗くなっていて、校内の様子が昼間よりもはっきりと窓硝子に映っていた。
出来るだけ右側を見ないように、前川は廊下を早足で進む。この廊下にも「出た」のだが、あれは人がいる間は出て来ないらしい。一度出たらもうその年度は出て来ないと、時藤が言っていたことを思い出す。しかし一人でいると、それが疑わしく思えてならない。友達を疑うなんて最低だと自分に言い聞かせた、その時。
「颯紀!」
背後から名前を呼ばれて、ぎゃっ、と言う短い悲鳴が漏れた。恐る恐る振り返って、そこに友人の存在を見とめた前川を、強烈な安堵感が柔らかく包んでいく。
「悠……」
「今帰り?」
最上は前川に近付きながら尋ねた。それに頷いた前川の脳裏に、ふと定期公演会のことが過ぎる。
あの後、舞台の上から引き摺り下ろされた野辺は、学校の連絡を受けた親によって精神科に連れて行かれたらしい。彼は病院に着く頃にはすっかり正気に戻っていたが、最上や他の生徒に対する度を超えた他害行為が問題視され、一旦休学してカウンセリングを受けることになったそうだ。野辺と一緒にあの脚本の上演を推し進めた顧問は心を病みがちになり、今は休職中だ。
演劇部そのものはと言えば普通に活動していて、代理の顧問を置いて大会にも出るらしい。脚本の一件で休部なり退部していた上級生を、一年生が呼び戻した形になる。野辺と顧問がいないのであれば戻らない理由は無いと、上級生たちは快く部に復帰して、目前に差し迫った地区大会に向けて日々稽古に励んでいるようだ。
最上は数日学校を休んだ後、すっかり元気になって登校してきた。しかしあれ以来先端恐怖症気味になってしまったようで、鋭い刃物を前にすると身体が震えるようになったと笑っていた。
「そう、俺も今まで練習だよ。先輩たちもやる気でさ」
「へー、うちも大会前なんだよ」
他愛ない話をしながら廊下を進み角を曲がろうとした時、前川の中にとある疑いが生まれた。立ち止まって、制服のポケットやスポーツバッグの中を検める。その行為は、疑念を確信に変えた。訝しげな最上の視線を感じて、冷や汗が顬のあたりから流れ落ちてくる。
「……スマホ忘れた」
「はあ?」
素っ頓狂な最上の声が、誰もいない廊下に反響する。どこに、と問われたので、前川は更に小さい声で体育館、と答える。
他のものなら明日の朝取りに戻ればいいが、携帯はそう言うわけにはいかない。貴重品の類であるし、あれが無ければ親にも連絡出来ない。どう転んでも取りに戻らなければならないことに、前川は絶望に近しい感情を抱いた。あんな話を聞いてしまった後、はいわかりましたと一人で体育館に向かえる人間がいるとしたら、尊敬に値する。
前川は最上に向き直って、顔の前で手を合わせた。
「ついてきてもらってもいいですか」
思わず敬語になってしまう。最上は心底不思議そうに口を開いた。
「何で、体育館なんでしょ?待っててあげるから」
「ねえ!あんなとこ俺が一人で戻れると思う!?真っ暗だぜ!?それに──」
そこまで言って、前川は口を噤んだ。最上は演劇部の脚本にまつわる怪異の当事者であるし、現場は正にあの体育館だった。下手なことを言ってあの時のことを想起させてしまうのは、前川も本意では無い。暗いところが怖いから、と言う理由だけにしてしまった方が都合が良いのではないか。
濁流のような思考の挙句に自分を納得させた前川だったが、それは少しばかり遅かった。
「どうせ何か変な噂でも聞いたんでしょ」
最上の言葉に出鼻を挫かれた前川の口からは、え、とかあ、とか言う間の抜けた声しか出て来ない。妙に察しの良い友人は、前川の一瞬の沈黙の意味をすぐさま理解したようだ。最上は呆れたように笑いながらひとつ短い溜息を吐いて、こう言った。
「わかったよ、ついてってあげる」
「俺たちずっと友達だぞ……」
「大袈裟でしょ、早く行くよ」
新田に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい、と心底思いながら、前川は体育館の鍵を握り締めた。
どんな話を聞いたの、と最上が問うので、前川は歩きながらたまつきさんの噂を聞いたまま伝えた。その落ちを聞いても、最上は全く怯えた様子が無い。やはりあんな体験をしてしまえば、肝が据わるのだろうか。自分が特別怖がりなのは自覚しているが、前川は何とも複雑な気持ちになってしまう。
「俺だけ格好悪いじゃんか」
「別に良いんじゃない、面白いし」
「馬鹿にして」
言いながら前川は体育館の扉の前に立って、鍵を差し込んで回す。恐る恐る扉を開けると、隙間から暗闇が溢れ出してくる。消防設備の赤いランプが、ぼんやりと不気味に光っていた。まず目を瞑りながら手だけを差し込んで、手探りで電気のスイッチを押す。ぱちん、と言う軽い音と共に、天井の電気が一斉に点いた。何かいたらどうしようと言う不安で未だ目が開けられない前川に、最上の呆れ返った声が降ってくる。
「……颯紀」
「何もいない?」
「いないから」
ゆっくりと目を開けて、体育館の内部を見た。そこには最上の言う通り誰もいない。出てきた時と同じように、がらんとした広い空間が広がっているだけだった。前川は最上の袖を掴んだまま、体育館の中に入る。サンダルのままなんだけど、と抗議されたが、ちょっとくらい平気だと返した。
先程スポーツバッグを置いていた倉庫横の辺りを見ると、そこにぽつんと寂しげに置かれた携帯を見つけた。あった、と呟いた前川がそれに駆け寄ると、扉を閉めた最上が後ろを着いてくる。
「あった?」
「あったー、良かった!」
帰ろうと言う最上に頷いて、携帯をスポーツバッグに押し込んだ。
早く出てしまおうと立ち上がって、扉に手を掛ける。
──たん、たん、
背後から、ボールをつく音が聞こえた。前川が制止する間もなく振り返った最上が、息を詰まらせる気配がする。彼は縋るように前川の制服を強く掴んだ。出来ればこのまま最上の手を引いて逃げ出してしまいたかったが、あの噂の落ちにあたる部分が、前川の頭の中で何度も反響している。
ボール代わりになっている生首は、目撃者本人か、その近しい人間。その首が笑っていなかった場合、その人物は、近いうちに、何らかの事由で首を飛ばされて、死ぬ。
最上だけがそれを見ているこの状況が、前川はどうしても許せない。まるで自分だけが逃げているようで、どうしても嫌だった。数分前に自分が発した、ずっと友達、と言う言葉を、頭の中で繰り返す。
前川は覚悟を決めて、深呼吸をした。途中までゆっくり首を動かして、後は一気に振り返る。自分だったらどうしようとか、そんなことは最早頭の中にない。たださっさと後ろを確認して、横で硬直している友人の手を掴んで逃げると言う、そのシミュレーションが脳味噌を覆い尽くしていた。
「──え?」
それまでぐちゃぐちゃと渦を巻いていた思考が、一瞬にして霧散する。前川はただ呆然と、それを見ていた。
確かに噂通りだった。菖蒲ヶ崎高校のバスケ部のユニフォームを着てドリブルをする首から上が無い男子生徒。その手と床の間を弾んでいる生首。
それは自分でも、まして最上でも無い。
「お、小野、さ」
声が震える。先程前川にたまつきさんの存在を教えた小野の頭が、ぐるりとこちらを向いて、あんぐりと口を開けた。見開かれた目からは何の感情も読み取れない。笑っているとは、お世辞にも言えない。それは暫く魚のようにはくはくと唇を動かした後、はっきりとした発音で、
前川、
と言った。
「走って!」
その瞬間、前川の腕が最上によって勢いよく引っ張られる。二人は体育館の扉を閉めることも無いまま、廊下を一直線に駆け抜けた。ばたばたと言う自分たちの足音が廊下に反響している。あれが追い掛けてきているかもしれないと思うと、とても振り返れなかった。
職員室の前に差し掛かった時引き戸が勢いよく開いて、中からバスケ部の顧問が出てくる。最上が立ち止まったので、腕を掴まれたままの前川も止まらざるを得ない。前川は一瞬、怒鳴られることを覚悟した。
しかし、それは杞憂だった。
「……何か見たのか」
「え、あ、……あの、はい」
「そうか」
前川の息も絶え絶えの肯定を受け取った顧問は言葉少なに頷くと、前川の手に握られた鍵を抜き取った。謝罪とともに鍵を閉めていないことを告げると、彼は今日は自分がやっておくからお前らは早く帰れ、とだけ言って、体育館の方へ歩いて行った。
何を見たのかは、ついぞ聞かれなかった。
「颯紀」
「……本当だったんだ、でも、あれ、…小野さんが」
「良いから!…もう帰ろう」
結局その日は、家に連絡を入れた上で最上の家に泊まった。彼の両親は快く前川を迎え入れて、夕食のみならず朝食まで用意してくれた。
*
「って言うことがさ、昨日あったんだよ……」
六限目は、教師の都合により自習となっている。あまり騒ぐと教師が飛んでくるかもしれないと言う観点から、クラスメイトは真面目に自習をする者と、友人と声を抑えて談笑する者とで二分されていた。陽たちは無論後者で、席が離れている初と時藤も窓際に集まって前川と最上の話を聞いている。
酷い目に遭った、と項垂れる前川は寝不足らしく、大きな欠伸を漏らしていた。似たような状態らしい最上がふと、こんなことを呟く。
「当たり年って、本当かもね」
前川は深々と溜息を吐いて陽の机に突っ伏した。
「俺これからどんな顔して小野さんと話せば良いんだよ……」
自分が同じ状況に陥ったらと考えて、陽はぞっとする。本人に伝えるか伝えないかを考えたら、眠れなくなってしまうのも当然だろうと思った。
顔を上げた前川が、吐き捨てるように言う。
「折角スタメンのいざこざ無くなったのに」
「何かあったの?」
その言葉を拾い上げた初が首を傾げる。スタメン、と言うと、大会絡みの話だろうか。
前川の話では、完全に実力主義の大会メンバーにおいて、小野は主力から外されたらしい。その代わりとして入ったのが前川で、一年生ではただ一人だった。それが原因で暫く二人の間にはぎこちない空気が流れていたが、ここ数日で小野が急に態度を軟化させたのだと言う。大人気なかったなと謝罪までされて、激励もされた。すっかり安心しきっていたところに、昨日の出来事が起こってしまったと言う訳だ。
前川はまた机に伏せて、駄々を捏ねる子供のように悶え始めた。
陽は彼の頭をペンで突きながら、菱田と言う上級生について聞いてみることにする。
「その菱田って人は?まだ来てねえの」
「いや?今日は来てるっぽい。昼休みに購買で見たもん。遠くて喋れなかったけど」
その菱田が何を見たのかによって、話は変わってくるように思う。と言うか、見たと言う話もただの噂にしか過ぎず、病欠である可能性の方が高い。
聞けるようなら聞いてみた方がいいんじゃないか、と言う陽の提案に、前川は机に顔を埋めたままで頷いた。その時。
「──さっちゃん」
ずっと黙り込んでいた時藤が、前川を呼ぶ。呼ばれた前川はむくりと起き上がって、時藤を見た。
「あ、あのね、それ、さっちゃんのこと呼んだのって、本当?空耳とかじゃなくて?」
「いや、ちゃんと俺のこと呼んだよ。なあ悠」
「あんなにはっきり喋るかってくらいはっきりね」
「……そっか」
思い出したのか、前川は身震いをして、自分の身体を抱き締めるようにして腕を組んだ。
時藤は暫く考えた後、不意に立ち上がって自分の席へと戻っていった。見ると、ノートのページを一枚破り取ってボールペンで何かを書き付けている。書き終えたそれにふ、と短く息を吹き掛けて折り畳むと、彼はこちらへと戻ってきた。小さく畳まれた紙を、前川に手渡す。
「あの、こ、これ、出来れば、……持ち歩いて欲しい、…今日、学校にいる間だけで良いから」
いつになく真剣な眼差しと声音の時藤から受け取ったその紙をしげしげと眺めて、前川はお守り?と尋ねた。時藤は表情を和らげて、そんな感じ、と返す。
「何も無いとは思うけど、昨日の今日だから、あの、い、一応、……」
「……瑞樹」
「あ、あの、ごめんね、余計な」
「違うよ、…ありがとうな」
前川がその紙をポケットに仕舞うと、時藤は安心したように胸を撫で下ろした。その時、六限目の終了を告げるチャイムが鳴る。教師は不在であるため、クラスメイトたちはそのまま、担任が教室に来るのを待っていた。
*
帰りのHRを終えると、前川は最上と途中まで一緒に行くと言って部活動に向かっていった。陽は前川に対して、今日くらいは休んでも良いのではとも思ったが、運動部はその辺りがシビアなのかもしれない。顧問が事情を知っていても、その他の部員は何も知らない。
それよりも、陽には一つ気になることがある。
時藤が前川に渡したお守り。昨日の今日だから、と時藤は言っていたが、初と最上にはそんなものを渡している様子はなかった。軽音部に向かう道すがら、同じ方向だからと一緒に歩いていた時藤にそれについて尋ねてみる。初もそのことについては疑問に思っていたらしく、陽の質問に同意するように首を傾げて時藤を見た。
問われた彼はまた暫く黙った後、さっちゃんには絶対言わないでね、と念を押して話を始めた。
「さっちゃん、名前を呼ばれたって言ったでしょ。あれ、噂ではそんなこと語られて無いんだ。ただ笑っているかそうじゃないかって言うだけ。勿論、話になってないだけで実際は何か喋ってることだってあるんだけどさ、名前を呼ばれたってなると、ちょっと、……嫌な予感がして」
「嫌な予感って何だよ」
「一回だけ、部長から聞いたことがあるんだ。これも噂だけどね。過去、その生首を目撃して、名前を呼ばれた人がいた。見た人と生首になってた人は、同じ部活の友達だったんだけど、……首が飛んで死んだのは、前者だった。話が違うよね?」
陽の背筋に、嫌な汗が流れる。二階に上がったところで、思わず立ち止まってしまった。初も呆然と時藤を見ている。時藤も同じように止まったが、話を切る気配は無い。
「多分だけど、その小野って言う人、さっちゃんのことまだ恨んでるんじゃないかな。だから、…擦りつけようとしたんだと思う」
そこまで深刻そうな顔をしていた時藤だったが、一転してぱっ、と表情を明るくした。
「さっきの、お守りって言ったけど、呪詛返しに近いものでもあるんだよ。俺なんかのでも、無いよりかは、マシかな、って……」
子供の頃いじめられがちだった時藤に、大伯父が教えてくれたものだと言った。職業にするだけの力は無いものの、時藤もその血筋の人間であることは間違いない。だから、微力ではあるが効果は期待出来るらしい。
一頻り話し終えると、時藤はまたおどおどとしながら両指を胸の前で合わせた。
「あ、あの、でも、俺の考えすぎかもしれないし!そ、備えあれば、的な……」
じゃあ行くね、また明日、と笑って手を振った時藤に、二人は同じように手を振り返す。時藤が見えなくなった後、これは前川には言えないなとお互いに目配せをした。
三階への階段を上りながら、陽はぼんやりと呟く。
「ああ言うのが絡んだ時の瑞樹さあ、ちょっとこえーんだよな」
「島村先輩とそっくりだよねえ」
「わかる!」
初の同意が得られたことで上機嫌になった陽は、一気に階段を駆け上がった。
定期公演会は、軽音部に限って言えば予想を遥かに超える大好評で終わった。文化祭まではライブらしいライブが無いこともあって、毎日そこそこに練習をしながら曲を作り、それぞれが持ち込んだおやつを食べる。そんな穏やかな生活を続けていた。
第二視聴覚室に入ると、織がいつもの場所に腰掛けて鼻歌を歌いながら楽譜を書いているようだった。彼は陽たちに気付くと右手を上げて、ひらひらと振ってみせる。
「お疲れっすー」
「お疲れ様です」
陽は織の正面の机にリュックを置いて、横にギターを下ろした。初は陽の隣で、きょろきょろと辺りを見渡している。
「惺先輩は?日直ですか?」
いることが当たり前だと思っていたので全く気が付きもしなかったが、惺がいない。鞄も無いことを考えると、初の言う通りに日直か何かで遅れているのだろうか。三年生であるから、進路のこともあるかもしれない。
しかし、織は首を横に振った。
「惺、今日休みなの」
「え!風邪っすか?」
「……大丈夫なんですか?」
初が心配そうに眉根を寄せる。定期公演会の前日に父親から酷い暴力を受けて家を飛び出してから、もう暫く帰らないと言っていたのでは無かったか。昨日は至って普通だったし、織の家に帰った筈だ。
不安げな初の頭を、立ち上がった織が撫でる。
「大丈夫だって、はーくんが思ってるようなことじゃないよ。風邪引いたんでもない」
な、と微笑んで再び椅子に座った織に、じゃあどうして、と初が聞く。彼は少しの間考え込むように唸った後、まあいいか、と呟いた。
「死んだんだって、惺の親父」
七月を目の前にして、夏はその気配を隠そうともしない。湿度の高い不快な暑さが続いて、今にも蝉がじりじりと鳴き出しそうな、そんな毎日だ。
バスケ部の大会を目前にした前川は、連日他の部員たちと遅くまで練習に明け暮れていた。最悪終電に間に合えば、最寄りの駅までは親が迎えに来てくれる。それに甘えることにして、今日も今日とて授業終わりから今に至るまで練習をしていた。体格の良い男性の顧問が吹く笛を合図に、全員が彼の元に集合する。ふと前川が時計を見上げると、夜の七時を回ろうとしていた。
「今日はこれで終了、片付け当番は前川か?」
「はい!」
「うん、しっかり片付けるように。終わったら職員室に寄って、鍵を返してから帰れ」
その顧問の言葉に前川は一際大きくはい、と返事をする。部活終了後にボールの片付けやバスケットゴールを畳んだり、体育館全域を軽くモップ掛けしたりするのは、代々一年生の仕事だった。
顧問の解散の一言に皆が一斉に頭を下げ、お疲れ様でした、と言う絶叫に近い声が体育館に木霊する。ぞろぞろと体育館を出た部員たちは更衣室に向かって、前川もそれの後を追った。汗だくの部員たちが十数人詰めかけているため、熱気が籠ってしまった更衣室も、慣れたものだ。ずらりと並んだ縦に長いロッカーの、一番奥から三番目が前川に割り当てられた場所だった。そこを開けて、雑に置かれた制服に着替える。その時、横で着替えていた二年生の小野に声を掛けられた。
「なあ前川、菱田の話さあ」
「お疲れっす。……菱田さん?菱田さんがどうしたんすか」
「え、お前知らねえの?」
驚きの声を上げた小野に、前川は首を傾げる。菱田と言うのは、小野と同じ二年生だ。とても練習熱心で大会メンバーにも加えられていたが、三日ほど前からその姿を見ていない。他の上級生の話では、どうやら学校自体を休んでいるらしかった。
「小野さん、前川そういう話NGっすよ」
背後でスマートフォンを弄っていた一年生の新田が、笑みを浮かべながら左右の腕でバツを作る。それを聞いた小野は悪戯を思いついた子供のようににやりと口角を上げて、そうなんだ、と言った。
前川の背中を、嫌な予感が汗と一緒に流れ落ちる。そういう話、と言うのは、この場合、間違いなく──。
「お前今日片付け当番だろ?一応な、教えといてやるよ」
半袖の水色シャツに袖を通した前川の肩に、小野が腕を回した。あのな、と言うさも神妙そうな彼の顔を見て嫌な予感が的中したことを察した前川は、内心で深々と溜息を吐いた。
菱田は、とても練習熱心で真面目な生徒だ。次期部長なのでは、と言う噂もある。
彼は大会が近くなると、他の部員が帰った後も更に遅くまで残って自主練習をしていた。一年生が片付けをする規則にはなっているが、彼が残っている時は任せて帰ってしまう。それは菱田自身がそうしてくれと言ったからだ。
そして四日前、菱田が学校に来なくなる前の晩。その日も菱田はいつものように残って練習をすることにした。ある程度片付けを終えた一年生に後はやっとくからと告げて、只管一人の体育館でシュート練習を続ける。
「そしたらな、出たんだよ」
「で、で、出た?」
「たまつきさん」
小野は前川の反応に笑いながら、今度はたまつきさんの詳細について語り始めた。
体育館に遅くまで一人で残っていると、背後からボールをつく音が聞こえる。後ろを振り返ると、確かに誰もいなかった筈なのに、バスケ部のユニフォームを着た首から上が無い男子生徒が立っていて、延々とボールをドリブルしている。それは昔試合の直前に首を切断されて殺されたバスケ部所属の生徒で、今でも彼は自分の首を探して彷徨っている、と言う話だ。
「それでなあ」
「まだなんかあるんすか」
「いやこっからが重要だよ。そのたまつきさんがついてるボールは、良く見るとボールなんかじゃなくて」
「……じゃなくて……?」
「人の首なんだってさ!」
急に大きな声を出した小野に前川は思わず悲鳴を上げて、新田の後ろに隠れる。それに腹を抱えて笑いながらも、小野は話を続けた。
──生徒にドリブルされている人の首は、目撃者本人か、あるいはその近しい人だ。その首が笑っていれば問題ないが、そうでは無かった場合、そのボールになっている人間は近いうちに首を飛ばされて死んでしまう。
菱田はそれを見たのでは無いか、と噂になっているのだそうだ。
これから一人で体育館の片付けをしなければいけない人間に何て話をするんだと、前川は心の中で憤慨した。これが上級生で無ければ本気で怒っていたが、相手は先輩であるためそう強くも出られない。
「ま、眉唾だよなあ」
いつの間にか着替えを終えた小野はそう言いながら、手を振って立ち去っていく。他の上級生や新田を含めた一年生も、それに続いた。前川を憐れむような目で見て、頑張れよ、と言い残して。
「じゃあ待っててくれたって良いだろ!」
「やだよ、電車乗れなくなるもん。じゃ、お疲れ」
薄情者、人でなし、と前川は新田に向かって叫んだが、彼は笑いながら更衣室の扉を閉めてしまった。静寂に包まれた更衣室が途端に怖くなって、前川は急いで荷物を纏めて更衣室を出た。施錠しながら、体育館の分厚い扉を睨む。その前に立って、二、三度深呼吸をした。
意を決して扉を開ける。そこにはいつもと変わらない体育館があった。ぐるりと見渡しても誰もいない。中に入って扉を閉めたところで、親に連絡していないことを思い出した。慌ててスポーツバッグから携帯を取り出して、親の携帯にメッセージを打つ。駅に着いたら連絡する、と打ち込んで、送信ボタンを押した。そのまま携帯を倉庫前の床に置いて、モップを取りにその倉庫へ入った。
バスケットゴールを畳み、散らばったボールをカゴに投げ込んで、それを倉庫の中に押し込む。がらんとした体育館をやたらと大きいモップが滑って、靴が床と擦れるたびにきゅ、きゅ、と音を立てた。
小野は眉唾だと笑っていたが、そのたまつきさんとやらの噂を一笑に伏すことは、今の前川にはできなかった。五月頃の廊下の一件、演劇部の脚本の話、それらは本当だったのだ。良くある学校の怪談、怖い噂話だと思っていたものは、紛れもなく現実だった。だとしたら、たまつきさんがただの噂話である保証も、どこにも無い。
そう思うと、たまらなく怖いじゃないか。
前川は早足で体育館の全域にモップを掛け終えると、半ば小走りで倉庫にモップを投げ込んだ。勝手に息が荒くなる。聞こえもしないボールをつく音が聞こえるような気がする。前川はスポーツバッグを持って体育館の電気を消すと、真っ暗になったそこを振り返りもせず、後ろ手に扉を閉めた。完全に扉が閉じたのを指先で確認して、振り返って施錠する。
内履きのサンダルに履き替えることも忘れて、前川は体育館の通路を一気に抜けた。左手には一年生の教室が並び、廊下がまっすぐ伸びている。右手の窓から見える外はすっかり暗くなっていて、校内の様子が昼間よりもはっきりと窓硝子に映っていた。
出来るだけ右側を見ないように、前川は廊下を早足で進む。この廊下にも「出た」のだが、あれは人がいる間は出て来ないらしい。一度出たらもうその年度は出て来ないと、時藤が言っていたことを思い出す。しかし一人でいると、それが疑わしく思えてならない。友達を疑うなんて最低だと自分に言い聞かせた、その時。
「颯紀!」
背後から名前を呼ばれて、ぎゃっ、と言う短い悲鳴が漏れた。恐る恐る振り返って、そこに友人の存在を見とめた前川を、強烈な安堵感が柔らかく包んでいく。
「悠……」
「今帰り?」
最上は前川に近付きながら尋ねた。それに頷いた前川の脳裏に、ふと定期公演会のことが過ぎる。
あの後、舞台の上から引き摺り下ろされた野辺は、学校の連絡を受けた親によって精神科に連れて行かれたらしい。彼は病院に着く頃にはすっかり正気に戻っていたが、最上や他の生徒に対する度を超えた他害行為が問題視され、一旦休学してカウンセリングを受けることになったそうだ。野辺と一緒にあの脚本の上演を推し進めた顧問は心を病みがちになり、今は休職中だ。
演劇部そのものはと言えば普通に活動していて、代理の顧問を置いて大会にも出るらしい。脚本の一件で休部なり退部していた上級生を、一年生が呼び戻した形になる。野辺と顧問がいないのであれば戻らない理由は無いと、上級生たちは快く部に復帰して、目前に差し迫った地区大会に向けて日々稽古に励んでいるようだ。
最上は数日学校を休んだ後、すっかり元気になって登校してきた。しかしあれ以来先端恐怖症気味になってしまったようで、鋭い刃物を前にすると身体が震えるようになったと笑っていた。
「そう、俺も今まで練習だよ。先輩たちもやる気でさ」
「へー、うちも大会前なんだよ」
他愛ない話をしながら廊下を進み角を曲がろうとした時、前川の中にとある疑いが生まれた。立ち止まって、制服のポケットやスポーツバッグの中を検める。その行為は、疑念を確信に変えた。訝しげな最上の視線を感じて、冷や汗が顬のあたりから流れ落ちてくる。
「……スマホ忘れた」
「はあ?」
素っ頓狂な最上の声が、誰もいない廊下に反響する。どこに、と問われたので、前川は更に小さい声で体育館、と答える。
他のものなら明日の朝取りに戻ればいいが、携帯はそう言うわけにはいかない。貴重品の類であるし、あれが無ければ親にも連絡出来ない。どう転んでも取りに戻らなければならないことに、前川は絶望に近しい感情を抱いた。あんな話を聞いてしまった後、はいわかりましたと一人で体育館に向かえる人間がいるとしたら、尊敬に値する。
前川は最上に向き直って、顔の前で手を合わせた。
「ついてきてもらってもいいですか」
思わず敬語になってしまう。最上は心底不思議そうに口を開いた。
「何で、体育館なんでしょ?待っててあげるから」
「ねえ!あんなとこ俺が一人で戻れると思う!?真っ暗だぜ!?それに──」
そこまで言って、前川は口を噤んだ。最上は演劇部の脚本にまつわる怪異の当事者であるし、現場は正にあの体育館だった。下手なことを言ってあの時のことを想起させてしまうのは、前川も本意では無い。暗いところが怖いから、と言う理由だけにしてしまった方が都合が良いのではないか。
濁流のような思考の挙句に自分を納得させた前川だったが、それは少しばかり遅かった。
「どうせ何か変な噂でも聞いたんでしょ」
最上の言葉に出鼻を挫かれた前川の口からは、え、とかあ、とか言う間の抜けた声しか出て来ない。妙に察しの良い友人は、前川の一瞬の沈黙の意味をすぐさま理解したようだ。最上は呆れたように笑いながらひとつ短い溜息を吐いて、こう言った。
「わかったよ、ついてってあげる」
「俺たちずっと友達だぞ……」
「大袈裟でしょ、早く行くよ」
新田に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい、と心底思いながら、前川は体育館の鍵を握り締めた。
どんな話を聞いたの、と最上が問うので、前川は歩きながらたまつきさんの噂を聞いたまま伝えた。その落ちを聞いても、最上は全く怯えた様子が無い。やはりあんな体験をしてしまえば、肝が据わるのだろうか。自分が特別怖がりなのは自覚しているが、前川は何とも複雑な気持ちになってしまう。
「俺だけ格好悪いじゃんか」
「別に良いんじゃない、面白いし」
「馬鹿にして」
言いながら前川は体育館の扉の前に立って、鍵を差し込んで回す。恐る恐る扉を開けると、隙間から暗闇が溢れ出してくる。消防設備の赤いランプが、ぼんやりと不気味に光っていた。まず目を瞑りながら手だけを差し込んで、手探りで電気のスイッチを押す。ぱちん、と言う軽い音と共に、天井の電気が一斉に点いた。何かいたらどうしようと言う不安で未だ目が開けられない前川に、最上の呆れ返った声が降ってくる。
「……颯紀」
「何もいない?」
「いないから」
ゆっくりと目を開けて、体育館の内部を見た。そこには最上の言う通り誰もいない。出てきた時と同じように、がらんとした広い空間が広がっているだけだった。前川は最上の袖を掴んだまま、体育館の中に入る。サンダルのままなんだけど、と抗議されたが、ちょっとくらい平気だと返した。
先程スポーツバッグを置いていた倉庫横の辺りを見ると、そこにぽつんと寂しげに置かれた携帯を見つけた。あった、と呟いた前川がそれに駆け寄ると、扉を閉めた最上が後ろを着いてくる。
「あった?」
「あったー、良かった!」
帰ろうと言う最上に頷いて、携帯をスポーツバッグに押し込んだ。
早く出てしまおうと立ち上がって、扉に手を掛ける。
──たん、たん、
背後から、ボールをつく音が聞こえた。前川が制止する間もなく振り返った最上が、息を詰まらせる気配がする。彼は縋るように前川の制服を強く掴んだ。出来ればこのまま最上の手を引いて逃げ出してしまいたかったが、あの噂の落ちにあたる部分が、前川の頭の中で何度も反響している。
ボール代わりになっている生首は、目撃者本人か、その近しい人間。その首が笑っていなかった場合、その人物は、近いうちに、何らかの事由で首を飛ばされて、死ぬ。
最上だけがそれを見ているこの状況が、前川はどうしても許せない。まるで自分だけが逃げているようで、どうしても嫌だった。数分前に自分が発した、ずっと友達、と言う言葉を、頭の中で繰り返す。
前川は覚悟を決めて、深呼吸をした。途中までゆっくり首を動かして、後は一気に振り返る。自分だったらどうしようとか、そんなことは最早頭の中にない。たださっさと後ろを確認して、横で硬直している友人の手を掴んで逃げると言う、そのシミュレーションが脳味噌を覆い尽くしていた。
「──え?」
それまでぐちゃぐちゃと渦を巻いていた思考が、一瞬にして霧散する。前川はただ呆然と、それを見ていた。
確かに噂通りだった。菖蒲ヶ崎高校のバスケ部のユニフォームを着てドリブルをする首から上が無い男子生徒。その手と床の間を弾んでいる生首。
それは自分でも、まして最上でも無い。
「お、小野、さ」
声が震える。先程前川にたまつきさんの存在を教えた小野の頭が、ぐるりとこちらを向いて、あんぐりと口を開けた。見開かれた目からは何の感情も読み取れない。笑っているとは、お世辞にも言えない。それは暫く魚のようにはくはくと唇を動かした後、はっきりとした発音で、
前川、
と言った。
「走って!」
その瞬間、前川の腕が最上によって勢いよく引っ張られる。二人は体育館の扉を閉めることも無いまま、廊下を一直線に駆け抜けた。ばたばたと言う自分たちの足音が廊下に反響している。あれが追い掛けてきているかもしれないと思うと、とても振り返れなかった。
職員室の前に差し掛かった時引き戸が勢いよく開いて、中からバスケ部の顧問が出てくる。最上が立ち止まったので、腕を掴まれたままの前川も止まらざるを得ない。前川は一瞬、怒鳴られることを覚悟した。
しかし、それは杞憂だった。
「……何か見たのか」
「え、あ、……あの、はい」
「そうか」
前川の息も絶え絶えの肯定を受け取った顧問は言葉少なに頷くと、前川の手に握られた鍵を抜き取った。謝罪とともに鍵を閉めていないことを告げると、彼は今日は自分がやっておくからお前らは早く帰れ、とだけ言って、体育館の方へ歩いて行った。
何を見たのかは、ついぞ聞かれなかった。
「颯紀」
「……本当だったんだ、でも、あれ、…小野さんが」
「良いから!…もう帰ろう」
結局その日は、家に連絡を入れた上で最上の家に泊まった。彼の両親は快く前川を迎え入れて、夕食のみならず朝食まで用意してくれた。
*
「って言うことがさ、昨日あったんだよ……」
六限目は、教師の都合により自習となっている。あまり騒ぐと教師が飛んでくるかもしれないと言う観点から、クラスメイトは真面目に自習をする者と、友人と声を抑えて談笑する者とで二分されていた。陽たちは無論後者で、席が離れている初と時藤も窓際に集まって前川と最上の話を聞いている。
酷い目に遭った、と項垂れる前川は寝不足らしく、大きな欠伸を漏らしていた。似たような状態らしい最上がふと、こんなことを呟く。
「当たり年って、本当かもね」
前川は深々と溜息を吐いて陽の机に突っ伏した。
「俺これからどんな顔して小野さんと話せば良いんだよ……」
自分が同じ状況に陥ったらと考えて、陽はぞっとする。本人に伝えるか伝えないかを考えたら、眠れなくなってしまうのも当然だろうと思った。
顔を上げた前川が、吐き捨てるように言う。
「折角スタメンのいざこざ無くなったのに」
「何かあったの?」
その言葉を拾い上げた初が首を傾げる。スタメン、と言うと、大会絡みの話だろうか。
前川の話では、完全に実力主義の大会メンバーにおいて、小野は主力から外されたらしい。その代わりとして入ったのが前川で、一年生ではただ一人だった。それが原因で暫く二人の間にはぎこちない空気が流れていたが、ここ数日で小野が急に態度を軟化させたのだと言う。大人気なかったなと謝罪までされて、激励もされた。すっかり安心しきっていたところに、昨日の出来事が起こってしまったと言う訳だ。
前川はまた机に伏せて、駄々を捏ねる子供のように悶え始めた。
陽は彼の頭をペンで突きながら、菱田と言う上級生について聞いてみることにする。
「その菱田って人は?まだ来てねえの」
「いや?今日は来てるっぽい。昼休みに購買で見たもん。遠くて喋れなかったけど」
その菱田が何を見たのかによって、話は変わってくるように思う。と言うか、見たと言う話もただの噂にしか過ぎず、病欠である可能性の方が高い。
聞けるようなら聞いてみた方がいいんじゃないか、と言う陽の提案に、前川は机に顔を埋めたままで頷いた。その時。
「──さっちゃん」
ずっと黙り込んでいた時藤が、前川を呼ぶ。呼ばれた前川はむくりと起き上がって、時藤を見た。
「あ、あのね、それ、さっちゃんのこと呼んだのって、本当?空耳とかじゃなくて?」
「いや、ちゃんと俺のこと呼んだよ。なあ悠」
「あんなにはっきり喋るかってくらいはっきりね」
「……そっか」
思い出したのか、前川は身震いをして、自分の身体を抱き締めるようにして腕を組んだ。
時藤は暫く考えた後、不意に立ち上がって自分の席へと戻っていった。見ると、ノートのページを一枚破り取ってボールペンで何かを書き付けている。書き終えたそれにふ、と短く息を吹き掛けて折り畳むと、彼はこちらへと戻ってきた。小さく畳まれた紙を、前川に手渡す。
「あの、こ、これ、出来れば、……持ち歩いて欲しい、…今日、学校にいる間だけで良いから」
いつになく真剣な眼差しと声音の時藤から受け取ったその紙をしげしげと眺めて、前川はお守り?と尋ねた。時藤は表情を和らげて、そんな感じ、と返す。
「何も無いとは思うけど、昨日の今日だから、あの、い、一応、……」
「……瑞樹」
「あ、あの、ごめんね、余計な」
「違うよ、…ありがとうな」
前川がその紙をポケットに仕舞うと、時藤は安心したように胸を撫で下ろした。その時、六限目の終了を告げるチャイムが鳴る。教師は不在であるため、クラスメイトたちはそのまま、担任が教室に来るのを待っていた。
*
帰りのHRを終えると、前川は最上と途中まで一緒に行くと言って部活動に向かっていった。陽は前川に対して、今日くらいは休んでも良いのではとも思ったが、運動部はその辺りがシビアなのかもしれない。顧問が事情を知っていても、その他の部員は何も知らない。
それよりも、陽には一つ気になることがある。
時藤が前川に渡したお守り。昨日の今日だから、と時藤は言っていたが、初と最上にはそんなものを渡している様子はなかった。軽音部に向かう道すがら、同じ方向だからと一緒に歩いていた時藤にそれについて尋ねてみる。初もそのことについては疑問に思っていたらしく、陽の質問に同意するように首を傾げて時藤を見た。
問われた彼はまた暫く黙った後、さっちゃんには絶対言わないでね、と念を押して話を始めた。
「さっちゃん、名前を呼ばれたって言ったでしょ。あれ、噂ではそんなこと語られて無いんだ。ただ笑っているかそうじゃないかって言うだけ。勿論、話になってないだけで実際は何か喋ってることだってあるんだけどさ、名前を呼ばれたってなると、ちょっと、……嫌な予感がして」
「嫌な予感って何だよ」
「一回だけ、部長から聞いたことがあるんだ。これも噂だけどね。過去、その生首を目撃して、名前を呼ばれた人がいた。見た人と生首になってた人は、同じ部活の友達だったんだけど、……首が飛んで死んだのは、前者だった。話が違うよね?」
陽の背筋に、嫌な汗が流れる。二階に上がったところで、思わず立ち止まってしまった。初も呆然と時藤を見ている。時藤も同じように止まったが、話を切る気配は無い。
「多分だけど、その小野って言う人、さっちゃんのことまだ恨んでるんじゃないかな。だから、…擦りつけようとしたんだと思う」
そこまで深刻そうな顔をしていた時藤だったが、一転してぱっ、と表情を明るくした。
「さっきの、お守りって言ったけど、呪詛返しに近いものでもあるんだよ。俺なんかのでも、無いよりかは、マシかな、って……」
子供の頃いじめられがちだった時藤に、大伯父が教えてくれたものだと言った。職業にするだけの力は無いものの、時藤もその血筋の人間であることは間違いない。だから、微力ではあるが効果は期待出来るらしい。
一頻り話し終えると、時藤はまたおどおどとしながら両指を胸の前で合わせた。
「あ、あの、でも、俺の考えすぎかもしれないし!そ、備えあれば、的な……」
じゃあ行くね、また明日、と笑って手を振った時藤に、二人は同じように手を振り返す。時藤が見えなくなった後、これは前川には言えないなとお互いに目配せをした。
三階への階段を上りながら、陽はぼんやりと呟く。
「ああ言うのが絡んだ時の瑞樹さあ、ちょっとこえーんだよな」
「島村先輩とそっくりだよねえ」
「わかる!」
初の同意が得られたことで上機嫌になった陽は、一気に階段を駆け上がった。
定期公演会は、軽音部に限って言えば予想を遥かに超える大好評で終わった。文化祭まではライブらしいライブが無いこともあって、毎日そこそこに練習をしながら曲を作り、それぞれが持ち込んだおやつを食べる。そんな穏やかな生活を続けていた。
第二視聴覚室に入ると、織がいつもの場所に腰掛けて鼻歌を歌いながら楽譜を書いているようだった。彼は陽たちに気付くと右手を上げて、ひらひらと振ってみせる。
「お疲れっすー」
「お疲れ様です」
陽は織の正面の机にリュックを置いて、横にギターを下ろした。初は陽の隣で、きょろきょろと辺りを見渡している。
「惺先輩は?日直ですか?」
いることが当たり前だと思っていたので全く気が付きもしなかったが、惺がいない。鞄も無いことを考えると、初の言う通りに日直か何かで遅れているのだろうか。三年生であるから、進路のこともあるかもしれない。
しかし、織は首を横に振った。
「惺、今日休みなの」
「え!風邪っすか?」
「……大丈夫なんですか?」
初が心配そうに眉根を寄せる。定期公演会の前日に父親から酷い暴力を受けて家を飛び出してから、もう暫く帰らないと言っていたのでは無かったか。昨日は至って普通だったし、織の家に帰った筈だ。
不安げな初の頭を、立ち上がった織が撫でる。
「大丈夫だって、はーくんが思ってるようなことじゃないよ。風邪引いたんでもない」
な、と微笑んで再び椅子に座った織に、じゃあどうして、と初が聞く。彼は少しの間考え込むように唸った後、まあいいか、と呟いた。
「死んだんだって、惺の親父」
0
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説

ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

ママが呼んでいる
杏樹まじゅ
ホラー
鐘が鳴る。夜が来る。──ママが彼らを呼んでいる。
京都の大学に通う九条マコト(くじょうまこと)と恋人の新田ヒナ(あらたひな)は或る日、所属するオカルトサークルの仲間と、島根にあるという小さな寒村、真理弥村(まりやむら)に向かう。隠れキリシタンの末裔が暮らすというその村には百年前まで、教会に人身御供を捧げていたという伝承があるのだった。その時、教会の鐘が大きな音を立てて鳴り響く。そして二人は目撃する。彼らを待ち受ける、村の「夜」の姿を──。
すべて実話
さつきのいろどり
ホラー
タイトル通り全て実話のホラー体験です。
友人から聞いたものや著者本人の実体験を書かせていただきます。
長編として登録していますが、短編をいつくか載せていこうと思っていますので、追加配信しましたら覗きに来て下さいね^^*
セーラー服美人女子高生 ライバル同士の一騎討ち
ヒロワークス
ライト文芸
女子高の2年生まで校内一の美女でスポーツも万能だった立花美帆。しかし、3年生になってすぐ、同じ学年に、美帆と並ぶほどの美女でスポーツも万能な逢沢真凛が転校してきた。
クラスは、隣りだったが、春のスポーツ大会と夏の水泳大会でライバル関係が芽生える。
それに加えて、美帆と真凛は、隣りの男子校の俊介に恋をし、どちらが俊介と付き合えるかを競う恋敵でもあった。
そして、秋の体育祭では、美帆と真凛が走り高跳びや100メートル走、騎馬戦で対決!
その結果、放課後の体育館で一騎討ちをすることに。
黒蜜先生のヤバい秘密
月狂 紫乃/月狂 四郎
ライト文芸
高校生の須藤語(すとう かたる)がいるクラスで、新任の教師が担当に就いた。新しい担任の名前は黒蜜凛(くろみつ りん)。アイドル並みの美貌を持つ彼女は、あっという間にクラスの人気者となる。
須藤はそんな黒蜜先生に小説を書いていることがバレてしまう。リアルの世界でファン第1号となった黒蜜先生。須藤は先生でありファンでもある彼女と、小説を介して良い関係を築きつつあった。
だが、その裏側で黒蜜先生の人気をよく思わない女子たちが、陰湿な嫌がらせをやりはじめる。解決策を模索する過程で、須藤は黒蜜先生のヤバい過去を知ることになる……。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる