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一部
第六話
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六限目の終了を告げるチャイムで、机に突っ伏していた陽は勢い良く身を起こした。
起立、と言う日直の号令に、ふらつきながら立ち上がる。カーテンの隙間からちらちらと差し込む太陽の光に目を細めて、緩やかな微睡と現実の間を彷徨っていた。古典の女教師が教室を出て行く。直後、徐々にざわめき出すクラスメイトたちの声を遠くに聞きながら、意識を覚醒させるべく頭を左右に振った。
その陽の後頭部を、背後から最上がペンで突く。
「おはよう」
「はよ……」
「爆睡だったじゃん」
未だはっきりとしない滑舌で返事をする陽を揶揄うように笑って、最上は立ち上がった。そんな彼に、陽の前の席で振り返った前川が声を掛ける。その声音はどこか不安げで、顰められた眉根がその心境を如実に表していた。
「悠、もう行くの」
「そ、前日だしね。追い込み。照明の確認とかリハとか、色々やることあるんだよ」
六月九日。
定期公演会は、もう明日に迫っている。演劇部は結局、部長と一年生、そして少数の助っ人であの脚本を上演することで決定となった。部長以外の上級生たちは部を見放して、殆ど退部同然の状態にあると言う。
前川の様子を見て察したのか、最上は微笑んだ。
「大丈夫だよ、颯紀」
「お前さあ、怖くねえの」
「ちょっとくらいはね、でももう腹括るしか無いし」
時藤が言っていた「対処法」を、最上や初が誰かに教えたと言う話は聞かない。触れてはいけないような気がして、仲間内の誰も、何も聞かなかった。
「陽、起きた?」
ドラムのスティックが飛び出した通学鞄を肩に掛けて、初が机の合間を縫ってこちらに歩いてくる。最上は初の方を見て、一枚のメモを渡しながら言った。
「初くん、明日のことなんだけど。演劇部はトリだから、軽音部の出番が終わってから暫くゆっくりしてていいよ。予定の一時間前になったら、多目的室に来て。──じゃあ、よろしくね。」
「うん、よろしく」
「頑張ってね、軽音部も」
それだけ言って、最上は教室を出て行った。
最上を見送った前川も立ち上がり、スポーツバッグを机に乗せて笑う。
「軽音部頑張れよ、見に行くから」
「おー、感動して泣くなよ」
「はは、そん時はサイン頼むよ」
彼と軽い別れの挨拶を交わした陽は、立ち上がりながら前川に手を振る初を見上げる。窓側に置いていたギターのギグバッグを背負って、行くか、と呟いた。
二人がドアの前に差し掛かった時、自分の席で荷物を纏めていた時藤が、ふと顔を上げて微笑んだ。
「じゃあな瑞樹、」
「明日ね、瑞樹くん」
「う、うん、あの、明日、頑張って」
結局あれ以降、島村からは何の連絡も無い。部室をひっくり返して探したと言う時藤にそれとなく尋ねると、その捜索はまだ終わっていないと言う。
オカルト研究部が根城としている二階の空き教室は無駄に広さがある上に、旧怪談同好会や部の卒業生が残した本や資料の類が大量に置かれている。定期的に整頓をしている訳でもない上にどんどん増える一方で、何も知らない人が部室を見ればゴミ屋敷か何かと勘違いしそうな有様なのだと言う。それらを全て検めるだけでも気が遠くなる、と時藤は困ったように笑っていた。
やはり如月と言う先代の部長が持って行ってしまったのではと彼も考えたようだが、その如月のことに触れると島村の機嫌が露骨に悪くなるために、迂闊に話題に出せないらしい。
何にせよそれが見つかるまでは、どうにも出来ない。その間に警察の捜査が何かしらの進展を見せてくれれば御の字だが、あまり期待はしない方がいいだろう。
まるで呪いだね、と言う島村の言葉が頭の中をぐるぐると回って、陽はそれを振り払うように頭を振った。
その時、職員室の前で初が立ち止まる。
「あ、これさあ」
七不思議の一個らしいね、と彼は布が被せられた姿見を指差した。明るい花柄の布は、この姿見に纏わる噂にはあまりにも不釣り合いに可愛らしい。
──死に顔が映る鏡。
職員室の前後の入り口、その間にひっそりと佇むように、見た者の最期を映すと言うその姿見は設置されている。四六時中布で覆われているから、鏡としては使えない。と言うか、誰もその布の向こうを見たことがないから、それが鏡なのかすら分からない。至極ありふれた噂話だ。
「珍しいじゃん、初がそう言うこと知ってんの」
「山野さんが話してんの聞いたんだよ」
「ふーん、知ってる奴は知ってんだな」
「女の子はそういうの好きだよねえ」
節電のために照明が消された階段を登る。内履きのサンダルが良く磨かれた廊下と擦れて、きゅ、と耳障りな音を立てた。
そして二階の踊り場に差し掛かった時、廊下に設置してあるスピーカーから突如放送のベルが響いて、次いで男性教師が話し出した。職員室から放送しているのだろうが、スピーカー越しでも分かるほど、その声には怒りと呆れが宿っている。
──三年A組、方保田織、至急職員室まで来なさい。繰り返します、三年A組──……。
陽と初はその場で立ち止まって、顔を見合わせた。陽は天井を指差しながら言う。
「今のこれ、織ちゃん先輩のこと呼んだ?」
「ていうか、先生めっちゃキレてなかった?」
「キレてた……」
一段飛ばしで階段を上りきった陽は、長い廊下を駆け足で第二視聴覚室に向かう。その後ろを歩いていた初が、廊下は走らない、と声を上げた。それに手を振って返したが、速度を緩めることはしない。
陽は第二視聴覚室の前に辿り着くと、ひんやりとしたドアノブに全体重を預けて引く。防音のためかやたらと分厚く重い扉が、歪な音を立てて軋んだ。
「さとちゃん先輩!」
「もう陽、危ないから走んないでって」
陽が室内に飛び込んでから数秒して、深い溜息を吐きながら初が入室した。惺の声が二人を出迎える。
「ああ、お疲れ二人とも。どうかした?」
織のことを尋ねようとした陽だったが、それは言葉にならず喉の奥で消えた。
初はいつもの場所に腰掛ける惺の顔を見るなり、鞄をその場に投げ捨てて彼に駆け寄る。陽もギターとリュックを下ろすことなく、そのまま惺の元に突進した。
「先輩、それ、大丈夫ですか!?」
「さとちゃん先輩どうしたのその顔!」
惺の左目は分厚いガーゼと眼帯で覆われ、右の頬には初めて会った時と同じように大きな白い絆創膏が貼られていた。唇の端の小さな絆創膏から、紫色の痣がはみ出ている。
惺は変わらず穏やかに笑いながら、顔の前で両手を振って見せた。
「いや、全然大丈夫。目も見えてるよ」
この状態のどこを見たら大丈夫なのかが分からず、陽はただ慌てふためいて、惺の手を握ることしか出来ない。初は暫く黙っていたが、震える声でもう一度、本当に大丈夫ですか、と聞いた。空手や柔道の経験がある初は、どういう強さで何をされればこういう怪我をするのか、おおよそ見当がついているらしい。
転んだではこうはならない。どう見ても暴力を受けた跡だった。それも、かなり酷い部類の。
「見た目ほど痛くないよお、楽器も弾けるし、……ごめんね、本番前に心配掛けちゃったね」
「病院には」
「行ったよ。念のためって頭も診られたけど、特に何も無いってさ。どこも折れてないし」
ね、と再び微笑んだ惺は、何があったかは言わなかった。暗に触れるなと言われているようで、後輩である二人は口を噤むしかない。
くれぐれも無理はしないでくださいねと言いながら、初は机の上に鞄を下ろした。陽はまだ同じ場所で、惺の手を握ったままでいる。
惺の手元には封を切られたチョコレートの詰め合わせが広げられて、隣の机には織のものであるボストンバッグと、ストローを刺したままの紙パックの紅茶が置かれていた。スタンドに立てられた織の水色のベースが、静かに陽たちを見ている。
「それで?すごい焦ってたみたいだけど、どうしたの?なんかあった?」
陽の頭を撫でながら惺は首を傾げる。陽は惺の怪我について聞きたい気持ちをどうにか抑えて、本来の話題を切り出した。
「今の放送、織ちゃん先輩ですか……?」
惺はチョコレートを一つ取って包み紙を剥ぎ取り、陽の口元に差し出す。素直に陽がそれを口に入れると、呆れたように彼は口を開いた。
「あの人ねえ、まだ進路希望出してないんだって」
三年生ともなれば、卒業を見据えて本格的に動き始めなければならない。進学するなら、それでも遅いくらいだ。就職だとしても、企業の選定なり面接練習なり、やることは山のようにある。
ところが織は、卒業後の進路の方向性すら決めていないと言う。急かされても何処吹く風で、授業中に殆ど寝ていることと相まって、全体的な生活態度が職員会議で問題になっているらしい。先程の放送は恐らく進路希望用紙が未提出になっていることと、成績のことを抱き合わせた呼び出しだろう、と惺は言った。
「惺先輩はどうするんですか?進路」
「おれ?おれはねえ、私立にしよっかなって。推薦取れそうだから」
「すごい、やっぱり頭いいんじゃないですか」
ギターとリュックをその場に下ろして初と惺の会話を聞いていた陽はふと、そっか、と呟く。
「さとちゃん先輩も織ちゃん先輩も、卒業しちゃうんだ」
「今更!?」
初が驚いたように陽の方を見る。卒業式は三月の頭頃で、それを抜くと後八ヶ月ほどしかない。土日祝日や長期休暇を抜くと、もっと短いだろう。頭のどこかで理解していたはずのそれが、急に現実感を帯び始めた。滲む涙で視界が歪んで、それを誤魔化すために惺に抱きつく。
「やだー!ずっと先輩と一緒にバンドやりたい!一緒に卒業するー!」
「一緒に卒業するのは無理でしょ……」
「あはは、卒業してもバンドは出来るよ陽くん」
初の冷静な突っ込みの間で、惺がけらけらと笑いながら再び陽の頭を撫でた時、入り口の扉が音を立てて開いた。
その隙間から織が項垂れながら入ってきて、閉まった扉に背中を預けてずるずるとへたり込む。あー、と言う吐息混じりの掠れた声が、織の唇から漏れていた。どうやらしっかり説教を受けてきたらしい。
少しの間そうしていた彼はやがて顔を上げて立ち上がり、陽たちの方へ歩み寄る。惺の顔を見たその一瞬に織の表情が歪んだ気がしたが、すぐに元に戻ってしまった。
「おかえりオリ先輩、絞られた?」
「そりゃあもう、ご想像の通り」
織は自分の定位置の椅子を引いて、そこに崩れ落ちる。その目が、ふと陽の方に向いた。
「ほんで?陽ちゃんはどうしたの」
「おれたちと一緒に卒業したいって」
「へえ、いいじゃん。俺も陽ちゃんたちと一緒に卒業しよっかなあ」
「その前に退学になると思うけど」
陽の頭を撫でながら惺の言葉に笑っていた織が、ふと視線を落とした気がした。その口元に、自嘲的な笑みが浮かぶ。
「大体、将来なんて、俺には」
「?、織ちゃん先輩、何か言ったっすか?」
聞き取れないほど小さく何かを呟いた織に、陽が呼び掛ける。隣にいる惺も聞き取れなかったようだ。我に返ったらしい彼ははっとしたようにコンタクトの入った目を瞬かせた後、いつものようにへらりと笑って、何でもないよ、と言った。
「さて、本番明日だし、今日は通しだけにしてゆっくりするかね。惺は無理しないで、痛かったらすぐ言ってよ」
「大丈夫ですって」
そう言いながら頷いた惺は立ち上がって、キーボードの電源を入れた。片目が塞がっているのは不便だろうが、淀みのない手付きで準備を進めている。初は軽くスネアを叩きながら横のボルトを調整し始めた。陽もリュックを机の上に置いて、ギグバッグからギターとシールドコードを取り出す。アンプとギターを繋いで電源のスイッチを押すと、ぷちぷちと小さなノイズが走った。ギターのずっしりとした重みが、肩に掛かっている。
周囲に悟られないように深呼吸して、陽はマイクスタンドの前に立った。
*
喉を通りすぎた水が、体内に浸潤していくのが分かる。時計の短針は五と六の間、閉められた黒いカーテンの隙間から眩い夕陽がちらちらと差し込んでくる。
通し練習は滞り無く終了した。惺の怪我は、本当に演奏には一切の影響を与えていない。キーボードもギターも、どちらも普段と変わらなかった。痛みが全く無いと言うわけでは無いのだろうが、見た目から与える印象ほど深刻な怪我では無いらしい。慣れすら感じるほど、惺は全てに於いて自然に動いている。
「ところでさあ、何でさっき一緒に卒業するーなんて話になってたの」
今日はもう使わないからと早々にベースを仕舞った織が、自らも水を飲みながら陽の方を見た。
「織ちゃん先輩とさとちゃん先輩、卒業するんだって気付いて」
「うん」
「そう思ったら何か」
「寂しくなっちゃった?」
「……うん」
陽がそれに小さく頷くと織は両手で口元を覆って、わざとらしく息を呑んでみせた。彼はギターを肩に掛けたままの陽に抱きつくようにして、その頭を撫で回す。いつもは抵抗する陽も、今日はされるがままだ。
緩い癖毛が、見る間に乱れていく。
「お前は本当にかわいいねー、持って帰っちゃおうかな」
冗談めかした織の言葉に誘拐ですよと初が笑いながら返して、机の上に散らばったチョコレートを一つ手に取った。見るからに苺味だろうそれを口の中に放り込むと、彼はキーボードのケーブルを纏めている惺の方を見た。
「明日って、僕らは午前中の授業免除なんですよね?」
「そうだよ。他の部のリハは今日中にやっちゃうって言ってたし、明日の午前中は全部軽音部のセッティングとリハに充てていいんだって」
まず運搬自体にそこそこの時間を要することを考えると、その判断は妥当だ。ギターやベースなどは手軽に運べるが、キーボードやドラム、アンプ類はそうはいかない。
惺の話では、篠も手を貸してくれるらしい。織と初は通し練習が終わるとすぐに、登校次第運び出せるようにと言って物置にある折り畳み式の台車へ機材を乗せられるだけ乗せてしまった。
ドラムセットは機材とは別に運ぶことにする。廊下は台車を転がしていけばいいが、階段などはひとつひとつ手持ちで運ぶしか無いと言う話だった。織に撫でられたままそれを聞いた陽は、深い溜息を吐く。
「何かライブの前に疲れそっすね……」
「だから今日はもう終わり、リハは明日飽きるほど出来るよ」
な、と首を傾げて、織はやっと陽から離れた。彼は伸びをしながら机の前に行き、紙パックの紅茶に刺さったストローを咥える。
「帰るんすか?もう」
「帰りたくない?」
小さな子供に聞くようにして、惺が陽を覗き込んだ。明日は朝から運搬で体力を使うから、今日は早めに帰宅して休もう、と言う意図なのは重々承知している。しかし陽の中に一度芽生えた名残惜しさは、中々立ち去ってくれない。それどころかその場に根を張って、いつまでも居座ろうとしている。子供じみた我儘だと分かっていても、このまま解散してしまうのは嫌だった。
ふと、織が何かを思いついたように顔を上げて、名案だとばかりに口を開く。
「今日、俺んちに泊まる?」
「ああ、良いんじゃない?」
織の言葉に同意した惺が、どうする?と再び陽を覗き込んだ。問われた陽は暫く呆然とその提案を噛み砕いていたが、やがて大きく頷いた。それを見た織は、自分の斜め向かいにいる初に視線を移す。
「はーくんは?来る?」
「僕ですか!?いや、そんな、ご迷惑ですし……」
「別に一人増えたとこで変わんないよ」
そこまで言って織は一旦言葉を切ると、初を小さく手招きする。耳を貸せと言うことらしい。初が机に手をついて前屈みになるように織に近付くと、その耳元で織は声を潜めてこう言った。
「親戚から送られてきた苺があんだけど、……タルトとロールケーキ、どっちがいい?」
「タルトで」
即答した初に声を上げて笑いながら、織は了解、と言った。冷蔵庫の中身を思い返しているらしい彼に、初は尋ねる。
「作ってくれるんですか?」
「うん、お客さんだもんね」
その答えを聞いた初の瞳が、瞬く間に輝いていく。織はそんな初の頭を撫でながら、陽と惺の方に向き直った。
「寝巻きとかは俺の貸すし、下着は、……コンビニかどっかで買えば良いか」
降って湧いた外泊に飛び跳ねて喜んでいた陽だが、家に連絡を入れなければならないことに思い至って、ポケットから携帯を取り出す。
「あ、あの、親に連絡入れて良いですか?」
「いいよ、心配しちゃうもんね」
惺の言葉に頷いて、陽はアドレス帳から母親の番号を探し出した。こういう連絡を入れるのは、いつも父親では無く母親だ。発信の文字をタップして、耳に当てる。悪いことをしているわけでは無いのに、妙に心臓が脈打った。
その様子を見ていた織が、初に聞く。
「はーくんも、家に電話しなくて良いの?」
「あ、……いや、僕は、大丈夫です」
後でメールしとくんで、と笑った初を見て何かを察したのか、織はもう一度初の頭を撫でた。手付き自体は雑だが、そこには確かに優しさが宿っていて、初は妙に泣きそうになってしまう。
そうしている間に、陽の母親が電話に出たようだった。陽が捲し立てるように事情を話している。
「だからね、今日先輩んち泊まってもいい?今日!分かってるって、だって──」
晴の一件があるせいか、中々良い返事が得られないらしい。それもそうかと織は納得するが、陽は親の許可を得ようと躍起になっている。
先輩と言えども、親からすれば赤の他人だ。その他人の家に未成年の息子が泊まるとなれば、心配するのは当たり前だろう。何か事件に巻き込まれたりはしないか、良くないことを吹き込まれたりはしないかなど、不安は尽きない筈だ。
織は電話口に叫び散らかしている陽に歩み寄って、その手からするりと携帯を抜き取った。突然のことに唖然としている陽を尻目に、それを自分の耳に当てて口を開く。
「もしもし、陽くんのお母様ですか?三年の方保田織と申します。初めまして、…はい、突然申し訳ないです──」
惺が笑いを堪えるように口元を押さえる。陽も初も、瞬きを忘れて織を見ていた。いつもより高い声としっかりとした敬語で話す姿は、まるで織の顔をした別人だ。
彼は今までの流れが嘘かのようにとんとん拍子に話を進め、織の家に着いてからと寝る前、朝に母親に連絡を入れさせることを約束しているようだった。
「ええ、はい、…いえ、こちらこそいつもお世話になっています。はい、……あはは、是非、──それじゃあ、陽くんと代わりますね。はい、ありがとうございました」
織は陽に携帯を渡すと、元の椅子に息を吐きながら腰掛けた。初が声を掛けると、いつもと変わらない声音で返事が来る。
「何かすごく良い人みたいでした」
「はーくんそれどういうこと?」
「いひゃいれふ」
初の頬を抓りながら笑う織に、電話を切った陽が顔を輝かせながら駆け寄って来る。無事宿泊許可が貰えたらしい。惺はその間ずっと笑いを堪えていたようで、隠れていない方の目尻に浮かんだ涙を拭った。
「あーほんと面白い」
そこまで言うと惺は鞄を持ち上げて、陽を見て微笑んだ。
「陽くん早くギターしまっちゃいな、帰るよ」
その言葉で、陽は自分がギターを肩に掛けたままでいることに気が付く。慌ててギグバッグにギターを入れて、ネックをベルトで固定した。シールドコードはアンプの上に置いたままにすることにする。よいしょ、と小さく呟きながらギグバッグを背負って、リュックに前から腕を通す。
初は机の上に散らばったチョコレートを袋に戻して、惺の方を見た。
「どうしますか?これ」
「あー、そのままにしとこっか。カーテン締め切ってるし、溶けないでしょ」
「はあい」
「じゃあ、行くよ」
織の言葉を合図に、四人は第二視聴覚室を出た。織が鍵穴に鍵を入れて回すと、がちゃん、と施錠された重い音がする。
長い廊下を、初と織、陽と惺に分かれて、他愛の無い話をしながら歩いた。図書室を曲がって、放送室の前を通り過ぎる。惺が歩きながらそういえば、と口を開いて、隣を歩く陽を見た。
「結局あれから何か見ることあった?陽くん」
「いやあ、放送室はあれきりっすね。それっぽい感じも無いっす」
あの女は増田について行って以降、まだ帰ってきていないらしい。放送室からは完全に離れてしまったのか、それとも何かの切っ掛けで戻って来てしまうのか、それは分からない。が、あの女の見てくれを思い出すと、もう二度と見たくないな、と思う。
階段を降りて二階の踊り場に差し掛かった時、ふと織が立ち止まって陽と初を交互に見た。
「そういえばさあ、陽ちゃんとはーくんはこっち来て良かったの」
「あ」
「あー……」
一年生と三年生では昇降口は別々で、反対の位置にある。一年生の昇降口に向かうなら、本来は図書室の手前にある階段を降りた方が良かったのだ。しかし話に夢中になって、そのことをすっかり失念してしまっていた。ここから一年の昇降口に向かうには、職員室の前を通る他無い。階段を下り切って、陽と初はそちらの方へ足を向ける。
ふと、初が足を止めた。
彼は進もうとする陽の肩を掴んで、その歩みを制止する。何だよ、と陽が抗議しながら初を見上げると、彼は陽を見ることなく、真っ直ぐ前を指差した。
「あれ、布、取れてない?」
「ええ?……あ、ほんとだ」
職員室の左右の扉に挟まれるように置かれた姿見に掛かっていた花柄の布が、床に落ちている。剥き出しになった姿見の茶色い木枠が、窓からの自然光に照らされていた。
あれの前を通らなければ、一年の昇降口には辿り着けない。普通の鏡ならまだしも、あれは死に顔が映ると言われている鏡だ。
「どしたの」
陽と初が立ち止まって動かないのを不思議に思ったのか、一度下駄箱まで行った織と惺が戻って来ていた。陽は前を指さして、あれ、と言う。床に落ちた布を見て、惺が息を呑む気配がした。
しかし織は何でもないような顔で三人の真横を通り過ぎて、姿見の前に歩いていく。惺の制止に、彼は笑ってこう返した。
「死に顔が映る「だけ」なんでしょ」
上等だよ、と言う間に、織は姿見の下に落ちている布を手に取った。立ち上がって、洗濯物を干す時のように数回それをはためかせると、彼は姿見の鏡面を真正面から見て、一瞬その動きを止めた。
やがて微笑んだような気配の後に、織がごく小さな声で何事かを呟く。そして一気に姿見に布を被せると、やれやれといった様子で手を振りながらこちらへ戻ってきた。
「別に普通の鏡だったよ」
「もう本当、先輩、心配するから」
「ごめんって、……ほら、もう大丈夫だから」
盛大な溜息を吐きながら織の制服の袖を掴む惺の頭を撫でると、彼は陽と初に微笑んだ。その表情に、強がりや恐怖といった感情は見受けられない。惺には、織の呟きは聞こえていなかったようだ。
陽と初は織に礼を言って、職員室の前を小走りで抜ける。そのままの勢いで下駄箱に辿り着いた途端、初が大きく息を吐いた。下駄箱を開けると、錆びた蝶番がぎい、と軋む。
「もう、びっくりしたね」
「なあ」
「何?」
「さっきさあ、織ちゃん先輩が何か言ったの、分かった?」
「え?そう?全然聞こえなかった……何て言ってたの?」
「いや、……俺もわかんなかった!」
初ががっくりと肩を落として、なんだあ、と呆れたように笑った。サンダルを下駄箱に入れて、スニーカーに履き替える。爪先を数回地面に打ちつけた。開いたままの昇降口から外に出ると、校門のところに織と惺が立って談笑している。陽は大声で二人を呼んで、初の手を握って駆け出した。
──もう少しだから。
自分の耳がどうにか捉えた織の言葉の意味を理解してはいけないと、数週間前にあの肩に見た二本の腕と結びつけてはいけないと、陽は思考を堰き止めて笑った。
起立、と言う日直の号令に、ふらつきながら立ち上がる。カーテンの隙間からちらちらと差し込む太陽の光に目を細めて、緩やかな微睡と現実の間を彷徨っていた。古典の女教師が教室を出て行く。直後、徐々にざわめき出すクラスメイトたちの声を遠くに聞きながら、意識を覚醒させるべく頭を左右に振った。
その陽の後頭部を、背後から最上がペンで突く。
「おはよう」
「はよ……」
「爆睡だったじゃん」
未だはっきりとしない滑舌で返事をする陽を揶揄うように笑って、最上は立ち上がった。そんな彼に、陽の前の席で振り返った前川が声を掛ける。その声音はどこか不安げで、顰められた眉根がその心境を如実に表していた。
「悠、もう行くの」
「そ、前日だしね。追い込み。照明の確認とかリハとか、色々やることあるんだよ」
六月九日。
定期公演会は、もう明日に迫っている。演劇部は結局、部長と一年生、そして少数の助っ人であの脚本を上演することで決定となった。部長以外の上級生たちは部を見放して、殆ど退部同然の状態にあると言う。
前川の様子を見て察したのか、最上は微笑んだ。
「大丈夫だよ、颯紀」
「お前さあ、怖くねえの」
「ちょっとくらいはね、でももう腹括るしか無いし」
時藤が言っていた「対処法」を、最上や初が誰かに教えたと言う話は聞かない。触れてはいけないような気がして、仲間内の誰も、何も聞かなかった。
「陽、起きた?」
ドラムのスティックが飛び出した通学鞄を肩に掛けて、初が机の合間を縫ってこちらに歩いてくる。最上は初の方を見て、一枚のメモを渡しながら言った。
「初くん、明日のことなんだけど。演劇部はトリだから、軽音部の出番が終わってから暫くゆっくりしてていいよ。予定の一時間前になったら、多目的室に来て。──じゃあ、よろしくね。」
「うん、よろしく」
「頑張ってね、軽音部も」
それだけ言って、最上は教室を出て行った。
最上を見送った前川も立ち上がり、スポーツバッグを机に乗せて笑う。
「軽音部頑張れよ、見に行くから」
「おー、感動して泣くなよ」
「はは、そん時はサイン頼むよ」
彼と軽い別れの挨拶を交わした陽は、立ち上がりながら前川に手を振る初を見上げる。窓側に置いていたギターのギグバッグを背負って、行くか、と呟いた。
二人がドアの前に差し掛かった時、自分の席で荷物を纏めていた時藤が、ふと顔を上げて微笑んだ。
「じゃあな瑞樹、」
「明日ね、瑞樹くん」
「う、うん、あの、明日、頑張って」
結局あれ以降、島村からは何の連絡も無い。部室をひっくり返して探したと言う時藤にそれとなく尋ねると、その捜索はまだ終わっていないと言う。
オカルト研究部が根城としている二階の空き教室は無駄に広さがある上に、旧怪談同好会や部の卒業生が残した本や資料の類が大量に置かれている。定期的に整頓をしている訳でもない上にどんどん増える一方で、何も知らない人が部室を見ればゴミ屋敷か何かと勘違いしそうな有様なのだと言う。それらを全て検めるだけでも気が遠くなる、と時藤は困ったように笑っていた。
やはり如月と言う先代の部長が持って行ってしまったのではと彼も考えたようだが、その如月のことに触れると島村の機嫌が露骨に悪くなるために、迂闊に話題に出せないらしい。
何にせよそれが見つかるまでは、どうにも出来ない。その間に警察の捜査が何かしらの進展を見せてくれれば御の字だが、あまり期待はしない方がいいだろう。
まるで呪いだね、と言う島村の言葉が頭の中をぐるぐると回って、陽はそれを振り払うように頭を振った。
その時、職員室の前で初が立ち止まる。
「あ、これさあ」
七不思議の一個らしいね、と彼は布が被せられた姿見を指差した。明るい花柄の布は、この姿見に纏わる噂にはあまりにも不釣り合いに可愛らしい。
──死に顔が映る鏡。
職員室の前後の入り口、その間にひっそりと佇むように、見た者の最期を映すと言うその姿見は設置されている。四六時中布で覆われているから、鏡としては使えない。と言うか、誰もその布の向こうを見たことがないから、それが鏡なのかすら分からない。至極ありふれた噂話だ。
「珍しいじゃん、初がそう言うこと知ってんの」
「山野さんが話してんの聞いたんだよ」
「ふーん、知ってる奴は知ってんだな」
「女の子はそういうの好きだよねえ」
節電のために照明が消された階段を登る。内履きのサンダルが良く磨かれた廊下と擦れて、きゅ、と耳障りな音を立てた。
そして二階の踊り場に差し掛かった時、廊下に設置してあるスピーカーから突如放送のベルが響いて、次いで男性教師が話し出した。職員室から放送しているのだろうが、スピーカー越しでも分かるほど、その声には怒りと呆れが宿っている。
──三年A組、方保田織、至急職員室まで来なさい。繰り返します、三年A組──……。
陽と初はその場で立ち止まって、顔を見合わせた。陽は天井を指差しながら言う。
「今のこれ、織ちゃん先輩のこと呼んだ?」
「ていうか、先生めっちゃキレてなかった?」
「キレてた……」
一段飛ばしで階段を上りきった陽は、長い廊下を駆け足で第二視聴覚室に向かう。その後ろを歩いていた初が、廊下は走らない、と声を上げた。それに手を振って返したが、速度を緩めることはしない。
陽は第二視聴覚室の前に辿り着くと、ひんやりとしたドアノブに全体重を預けて引く。防音のためかやたらと分厚く重い扉が、歪な音を立てて軋んだ。
「さとちゃん先輩!」
「もう陽、危ないから走んないでって」
陽が室内に飛び込んでから数秒して、深い溜息を吐きながら初が入室した。惺の声が二人を出迎える。
「ああ、お疲れ二人とも。どうかした?」
織のことを尋ねようとした陽だったが、それは言葉にならず喉の奥で消えた。
初はいつもの場所に腰掛ける惺の顔を見るなり、鞄をその場に投げ捨てて彼に駆け寄る。陽もギターとリュックを下ろすことなく、そのまま惺の元に突進した。
「先輩、それ、大丈夫ですか!?」
「さとちゃん先輩どうしたのその顔!」
惺の左目は分厚いガーゼと眼帯で覆われ、右の頬には初めて会った時と同じように大きな白い絆創膏が貼られていた。唇の端の小さな絆創膏から、紫色の痣がはみ出ている。
惺は変わらず穏やかに笑いながら、顔の前で両手を振って見せた。
「いや、全然大丈夫。目も見えてるよ」
この状態のどこを見たら大丈夫なのかが分からず、陽はただ慌てふためいて、惺の手を握ることしか出来ない。初は暫く黙っていたが、震える声でもう一度、本当に大丈夫ですか、と聞いた。空手や柔道の経験がある初は、どういう強さで何をされればこういう怪我をするのか、おおよそ見当がついているらしい。
転んだではこうはならない。どう見ても暴力を受けた跡だった。それも、かなり酷い部類の。
「見た目ほど痛くないよお、楽器も弾けるし、……ごめんね、本番前に心配掛けちゃったね」
「病院には」
「行ったよ。念のためって頭も診られたけど、特に何も無いってさ。どこも折れてないし」
ね、と再び微笑んだ惺は、何があったかは言わなかった。暗に触れるなと言われているようで、後輩である二人は口を噤むしかない。
くれぐれも無理はしないでくださいねと言いながら、初は机の上に鞄を下ろした。陽はまだ同じ場所で、惺の手を握ったままでいる。
惺の手元には封を切られたチョコレートの詰め合わせが広げられて、隣の机には織のものであるボストンバッグと、ストローを刺したままの紙パックの紅茶が置かれていた。スタンドに立てられた織の水色のベースが、静かに陽たちを見ている。
「それで?すごい焦ってたみたいだけど、どうしたの?なんかあった?」
陽の頭を撫でながら惺は首を傾げる。陽は惺の怪我について聞きたい気持ちをどうにか抑えて、本来の話題を切り出した。
「今の放送、織ちゃん先輩ですか……?」
惺はチョコレートを一つ取って包み紙を剥ぎ取り、陽の口元に差し出す。素直に陽がそれを口に入れると、呆れたように彼は口を開いた。
「あの人ねえ、まだ進路希望出してないんだって」
三年生ともなれば、卒業を見据えて本格的に動き始めなければならない。進学するなら、それでも遅いくらいだ。就職だとしても、企業の選定なり面接練習なり、やることは山のようにある。
ところが織は、卒業後の進路の方向性すら決めていないと言う。急かされても何処吹く風で、授業中に殆ど寝ていることと相まって、全体的な生活態度が職員会議で問題になっているらしい。先程の放送は恐らく進路希望用紙が未提出になっていることと、成績のことを抱き合わせた呼び出しだろう、と惺は言った。
「惺先輩はどうするんですか?進路」
「おれ?おれはねえ、私立にしよっかなって。推薦取れそうだから」
「すごい、やっぱり頭いいんじゃないですか」
ギターとリュックをその場に下ろして初と惺の会話を聞いていた陽はふと、そっか、と呟く。
「さとちゃん先輩も織ちゃん先輩も、卒業しちゃうんだ」
「今更!?」
初が驚いたように陽の方を見る。卒業式は三月の頭頃で、それを抜くと後八ヶ月ほどしかない。土日祝日や長期休暇を抜くと、もっと短いだろう。頭のどこかで理解していたはずのそれが、急に現実感を帯び始めた。滲む涙で視界が歪んで、それを誤魔化すために惺に抱きつく。
「やだー!ずっと先輩と一緒にバンドやりたい!一緒に卒業するー!」
「一緒に卒業するのは無理でしょ……」
「あはは、卒業してもバンドは出来るよ陽くん」
初の冷静な突っ込みの間で、惺がけらけらと笑いながら再び陽の頭を撫でた時、入り口の扉が音を立てて開いた。
その隙間から織が項垂れながら入ってきて、閉まった扉に背中を預けてずるずるとへたり込む。あー、と言う吐息混じりの掠れた声が、織の唇から漏れていた。どうやらしっかり説教を受けてきたらしい。
少しの間そうしていた彼はやがて顔を上げて立ち上がり、陽たちの方へ歩み寄る。惺の顔を見たその一瞬に織の表情が歪んだ気がしたが、すぐに元に戻ってしまった。
「おかえりオリ先輩、絞られた?」
「そりゃあもう、ご想像の通り」
織は自分の定位置の椅子を引いて、そこに崩れ落ちる。その目が、ふと陽の方に向いた。
「ほんで?陽ちゃんはどうしたの」
「おれたちと一緒に卒業したいって」
「へえ、いいじゃん。俺も陽ちゃんたちと一緒に卒業しよっかなあ」
「その前に退学になると思うけど」
陽の頭を撫でながら惺の言葉に笑っていた織が、ふと視線を落とした気がした。その口元に、自嘲的な笑みが浮かぶ。
「大体、将来なんて、俺には」
「?、織ちゃん先輩、何か言ったっすか?」
聞き取れないほど小さく何かを呟いた織に、陽が呼び掛ける。隣にいる惺も聞き取れなかったようだ。我に返ったらしい彼ははっとしたようにコンタクトの入った目を瞬かせた後、いつものようにへらりと笑って、何でもないよ、と言った。
「さて、本番明日だし、今日は通しだけにしてゆっくりするかね。惺は無理しないで、痛かったらすぐ言ってよ」
「大丈夫ですって」
そう言いながら頷いた惺は立ち上がって、キーボードの電源を入れた。片目が塞がっているのは不便だろうが、淀みのない手付きで準備を進めている。初は軽くスネアを叩きながら横のボルトを調整し始めた。陽もリュックを机の上に置いて、ギグバッグからギターとシールドコードを取り出す。アンプとギターを繋いで電源のスイッチを押すと、ぷちぷちと小さなノイズが走った。ギターのずっしりとした重みが、肩に掛かっている。
周囲に悟られないように深呼吸して、陽はマイクスタンドの前に立った。
*
喉を通りすぎた水が、体内に浸潤していくのが分かる。時計の短針は五と六の間、閉められた黒いカーテンの隙間から眩い夕陽がちらちらと差し込んでくる。
通し練習は滞り無く終了した。惺の怪我は、本当に演奏には一切の影響を与えていない。キーボードもギターも、どちらも普段と変わらなかった。痛みが全く無いと言うわけでは無いのだろうが、見た目から与える印象ほど深刻な怪我では無いらしい。慣れすら感じるほど、惺は全てに於いて自然に動いている。
「ところでさあ、何でさっき一緒に卒業するーなんて話になってたの」
今日はもう使わないからと早々にベースを仕舞った織が、自らも水を飲みながら陽の方を見た。
「織ちゃん先輩とさとちゃん先輩、卒業するんだって気付いて」
「うん」
「そう思ったら何か」
「寂しくなっちゃった?」
「……うん」
陽がそれに小さく頷くと織は両手で口元を覆って、わざとらしく息を呑んでみせた。彼はギターを肩に掛けたままの陽に抱きつくようにして、その頭を撫で回す。いつもは抵抗する陽も、今日はされるがままだ。
緩い癖毛が、見る間に乱れていく。
「お前は本当にかわいいねー、持って帰っちゃおうかな」
冗談めかした織の言葉に誘拐ですよと初が笑いながら返して、机の上に散らばったチョコレートを一つ手に取った。見るからに苺味だろうそれを口の中に放り込むと、彼はキーボードのケーブルを纏めている惺の方を見た。
「明日って、僕らは午前中の授業免除なんですよね?」
「そうだよ。他の部のリハは今日中にやっちゃうって言ってたし、明日の午前中は全部軽音部のセッティングとリハに充てていいんだって」
まず運搬自体にそこそこの時間を要することを考えると、その判断は妥当だ。ギターやベースなどは手軽に運べるが、キーボードやドラム、アンプ類はそうはいかない。
惺の話では、篠も手を貸してくれるらしい。織と初は通し練習が終わるとすぐに、登校次第運び出せるようにと言って物置にある折り畳み式の台車へ機材を乗せられるだけ乗せてしまった。
ドラムセットは機材とは別に運ぶことにする。廊下は台車を転がしていけばいいが、階段などはひとつひとつ手持ちで運ぶしか無いと言う話だった。織に撫でられたままそれを聞いた陽は、深い溜息を吐く。
「何かライブの前に疲れそっすね……」
「だから今日はもう終わり、リハは明日飽きるほど出来るよ」
な、と首を傾げて、織はやっと陽から離れた。彼は伸びをしながら机の前に行き、紙パックの紅茶に刺さったストローを咥える。
「帰るんすか?もう」
「帰りたくない?」
小さな子供に聞くようにして、惺が陽を覗き込んだ。明日は朝から運搬で体力を使うから、今日は早めに帰宅して休もう、と言う意図なのは重々承知している。しかし陽の中に一度芽生えた名残惜しさは、中々立ち去ってくれない。それどころかその場に根を張って、いつまでも居座ろうとしている。子供じみた我儘だと分かっていても、このまま解散してしまうのは嫌だった。
ふと、織が何かを思いついたように顔を上げて、名案だとばかりに口を開く。
「今日、俺んちに泊まる?」
「ああ、良いんじゃない?」
織の言葉に同意した惺が、どうする?と再び陽を覗き込んだ。問われた陽は暫く呆然とその提案を噛み砕いていたが、やがて大きく頷いた。それを見た織は、自分の斜め向かいにいる初に視線を移す。
「はーくんは?来る?」
「僕ですか!?いや、そんな、ご迷惑ですし……」
「別に一人増えたとこで変わんないよ」
そこまで言って織は一旦言葉を切ると、初を小さく手招きする。耳を貸せと言うことらしい。初が机に手をついて前屈みになるように織に近付くと、その耳元で織は声を潜めてこう言った。
「親戚から送られてきた苺があんだけど、……タルトとロールケーキ、どっちがいい?」
「タルトで」
即答した初に声を上げて笑いながら、織は了解、と言った。冷蔵庫の中身を思い返しているらしい彼に、初は尋ねる。
「作ってくれるんですか?」
「うん、お客さんだもんね」
その答えを聞いた初の瞳が、瞬く間に輝いていく。織はそんな初の頭を撫でながら、陽と惺の方に向き直った。
「寝巻きとかは俺の貸すし、下着は、……コンビニかどっかで買えば良いか」
降って湧いた外泊に飛び跳ねて喜んでいた陽だが、家に連絡を入れなければならないことに思い至って、ポケットから携帯を取り出す。
「あ、あの、親に連絡入れて良いですか?」
「いいよ、心配しちゃうもんね」
惺の言葉に頷いて、陽はアドレス帳から母親の番号を探し出した。こういう連絡を入れるのは、いつも父親では無く母親だ。発信の文字をタップして、耳に当てる。悪いことをしているわけでは無いのに、妙に心臓が脈打った。
その様子を見ていた織が、初に聞く。
「はーくんも、家に電話しなくて良いの?」
「あ、……いや、僕は、大丈夫です」
後でメールしとくんで、と笑った初を見て何かを察したのか、織はもう一度初の頭を撫でた。手付き自体は雑だが、そこには確かに優しさが宿っていて、初は妙に泣きそうになってしまう。
そうしている間に、陽の母親が電話に出たようだった。陽が捲し立てるように事情を話している。
「だからね、今日先輩んち泊まってもいい?今日!分かってるって、だって──」
晴の一件があるせいか、中々良い返事が得られないらしい。それもそうかと織は納得するが、陽は親の許可を得ようと躍起になっている。
先輩と言えども、親からすれば赤の他人だ。その他人の家に未成年の息子が泊まるとなれば、心配するのは当たり前だろう。何か事件に巻き込まれたりはしないか、良くないことを吹き込まれたりはしないかなど、不安は尽きない筈だ。
織は電話口に叫び散らかしている陽に歩み寄って、その手からするりと携帯を抜き取った。突然のことに唖然としている陽を尻目に、それを自分の耳に当てて口を開く。
「もしもし、陽くんのお母様ですか?三年の方保田織と申します。初めまして、…はい、突然申し訳ないです──」
惺が笑いを堪えるように口元を押さえる。陽も初も、瞬きを忘れて織を見ていた。いつもより高い声としっかりとした敬語で話す姿は、まるで織の顔をした別人だ。
彼は今までの流れが嘘かのようにとんとん拍子に話を進め、織の家に着いてからと寝る前、朝に母親に連絡を入れさせることを約束しているようだった。
「ええ、はい、…いえ、こちらこそいつもお世話になっています。はい、……あはは、是非、──それじゃあ、陽くんと代わりますね。はい、ありがとうございました」
織は陽に携帯を渡すと、元の椅子に息を吐きながら腰掛けた。初が声を掛けると、いつもと変わらない声音で返事が来る。
「何かすごく良い人みたいでした」
「はーくんそれどういうこと?」
「いひゃいれふ」
初の頬を抓りながら笑う織に、電話を切った陽が顔を輝かせながら駆け寄って来る。無事宿泊許可が貰えたらしい。惺はその間ずっと笑いを堪えていたようで、隠れていない方の目尻に浮かんだ涙を拭った。
「あーほんと面白い」
そこまで言うと惺は鞄を持ち上げて、陽を見て微笑んだ。
「陽くん早くギターしまっちゃいな、帰るよ」
その言葉で、陽は自分がギターを肩に掛けたままでいることに気が付く。慌ててギグバッグにギターを入れて、ネックをベルトで固定した。シールドコードはアンプの上に置いたままにすることにする。よいしょ、と小さく呟きながらギグバッグを背負って、リュックに前から腕を通す。
初は机の上に散らばったチョコレートを袋に戻して、惺の方を見た。
「どうしますか?これ」
「あー、そのままにしとこっか。カーテン締め切ってるし、溶けないでしょ」
「はあい」
「じゃあ、行くよ」
織の言葉を合図に、四人は第二視聴覚室を出た。織が鍵穴に鍵を入れて回すと、がちゃん、と施錠された重い音がする。
長い廊下を、初と織、陽と惺に分かれて、他愛の無い話をしながら歩いた。図書室を曲がって、放送室の前を通り過ぎる。惺が歩きながらそういえば、と口を開いて、隣を歩く陽を見た。
「結局あれから何か見ることあった?陽くん」
「いやあ、放送室はあれきりっすね。それっぽい感じも無いっす」
あの女は増田について行って以降、まだ帰ってきていないらしい。放送室からは完全に離れてしまったのか、それとも何かの切っ掛けで戻って来てしまうのか、それは分からない。が、あの女の見てくれを思い出すと、もう二度と見たくないな、と思う。
階段を降りて二階の踊り場に差し掛かった時、ふと織が立ち止まって陽と初を交互に見た。
「そういえばさあ、陽ちゃんとはーくんはこっち来て良かったの」
「あ」
「あー……」
一年生と三年生では昇降口は別々で、反対の位置にある。一年生の昇降口に向かうなら、本来は図書室の手前にある階段を降りた方が良かったのだ。しかし話に夢中になって、そのことをすっかり失念してしまっていた。ここから一年の昇降口に向かうには、職員室の前を通る他無い。階段を下り切って、陽と初はそちらの方へ足を向ける。
ふと、初が足を止めた。
彼は進もうとする陽の肩を掴んで、その歩みを制止する。何だよ、と陽が抗議しながら初を見上げると、彼は陽を見ることなく、真っ直ぐ前を指差した。
「あれ、布、取れてない?」
「ええ?……あ、ほんとだ」
職員室の左右の扉に挟まれるように置かれた姿見に掛かっていた花柄の布が、床に落ちている。剥き出しになった姿見の茶色い木枠が、窓からの自然光に照らされていた。
あれの前を通らなければ、一年の昇降口には辿り着けない。普通の鏡ならまだしも、あれは死に顔が映ると言われている鏡だ。
「どしたの」
陽と初が立ち止まって動かないのを不思議に思ったのか、一度下駄箱まで行った織と惺が戻って来ていた。陽は前を指さして、あれ、と言う。床に落ちた布を見て、惺が息を呑む気配がした。
しかし織は何でもないような顔で三人の真横を通り過ぎて、姿見の前に歩いていく。惺の制止に、彼は笑ってこう返した。
「死に顔が映る「だけ」なんでしょ」
上等だよ、と言う間に、織は姿見の下に落ちている布を手に取った。立ち上がって、洗濯物を干す時のように数回それをはためかせると、彼は姿見の鏡面を真正面から見て、一瞬その動きを止めた。
やがて微笑んだような気配の後に、織がごく小さな声で何事かを呟く。そして一気に姿見に布を被せると、やれやれといった様子で手を振りながらこちらへ戻ってきた。
「別に普通の鏡だったよ」
「もう本当、先輩、心配するから」
「ごめんって、……ほら、もう大丈夫だから」
盛大な溜息を吐きながら織の制服の袖を掴む惺の頭を撫でると、彼は陽と初に微笑んだ。その表情に、強がりや恐怖といった感情は見受けられない。惺には、織の呟きは聞こえていなかったようだ。
陽と初は織に礼を言って、職員室の前を小走りで抜ける。そのままの勢いで下駄箱に辿り着いた途端、初が大きく息を吐いた。下駄箱を開けると、錆びた蝶番がぎい、と軋む。
「もう、びっくりしたね」
「なあ」
「何?」
「さっきさあ、織ちゃん先輩が何か言ったの、分かった?」
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「いや、……俺もわかんなかった!」
初ががっくりと肩を落として、なんだあ、と呆れたように笑った。サンダルを下駄箱に入れて、スニーカーに履き替える。爪先を数回地面に打ちつけた。開いたままの昇降口から外に出ると、校門のところに織と惺が立って談笑している。陽は大声で二人を呼んで、初の手を握って駆け出した。
──もう少しだから。
自分の耳がどうにか捉えた織の言葉の意味を理解してはいけないと、数週間前にあの肩に見た二本の腕と結びつけてはいけないと、陽は思考を堰き止めて笑った。
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