オーバードライブ・ユア・ソング

津田ぴぴ子

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一部

第三話

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僅かな反響を残して、それまで広い室内を埋め尽くしていた音が消える。
名残惜しげに頭の奥で響く、きん、と言う耳鳴りが心地良い。陽は数瞬、瞬きも、呼吸をすることすらも忘れていた。全身が浮遊しているような高揚感が、まるで夢を見ているかのような錯覚を起こす。
「うん、良いじゃん」
暫く降りていた沈黙を破ったのは織で、その声でもって陽は我に返った。未だ夢か現実かの判断が覚束ず、思わず右の頬を思い切り抓る。しっかりとした痛みであることを確認して、抓ったところを撫でながら、夢じゃない、と呟いた。振り返ると、織が初と何事か話している。初とは幼稚園以来の付き合いだが、あんなに明るい顔の彼を見たのは初めてだった。
「楽しかった?」
いつの間にか側に来ていたらしい惺に覗き込まれて、陽は何度も頷く。遅れて来た現実感に押されるようにして、徐々に口角が上がっていった。ギターのネックを握り締めると、弦と木が触れる音がアンプから漏れる。その音が思いの外大きく、陽は慌ててギターのボリュームノブを捻った。

少し休憩しようか、と惺が言うので、それに甘えることにする。スタンドに立てられた深い赤のレスポールを横目に、陽は窓際の椅子の、昨日と同じ位置に腰掛けた。惺は奥の部屋に入って行って、初がそれを追い掛けるように着いていく。その足取りは心なしか軽い。
髪を纏め直しながら陽の正面に座った織が、悪戯っ子のような笑みを浮かべて陽の左頬を摘んだ。そのまま話し掛けるものだから、返答が舌足らずになってしまう。
「陽くん」
「ひゃい」
「バンドは初めて?」
「ひゃい、」
「ふうん、めちゃくちゃ声量あるよね。…ギターは晴くんに教わったんだっけ?」
「ひゃい!ひーひゃんひゃひょ」
「はは、何て?」
心底可笑しそうに笑いながら、織は陽の頬から手を離した。昨日と同じく犬を相手にするように、わしわしと頭を撫でられる。その時、丁度戻って来た惺が机の中央にスナック菓子の袋を置いて織と陽を交互に見た。
「いじめてるんですか?」
「ねーよ」
笑いながら惺の肩を小突く織を横目に、陽は水を四本手に戻って来た初から一本を受け取って、軽く礼を言う。隣に腰掛けた初を見ると、上機嫌そうに先程演奏した曲を口ずさんでいる。楽しかったねと笑いかけられて、陽は大きく頷いた。
スナック菓子を開けるのに難儀しているらしい惺の手からそれを取り上げた織が、半ば破裂させるようにして袋を開けた。中身が飛び出さなかったことに密かに安堵した陽は、遠慮がちに口を開く。
「先輩、ぶっちゃけどうでした?今の」
自分から聞いたことであるのに、陽の心臓はどくどくと脈打っていた。軽音部としての活動が出来るかどうかは、結局のところ織と惺にかかっているのだ。たかが部活、と言われてしまえばそれまでだけれども、自分だけが楽しいのでは頂けない。初も同じようなことを思ったのか、若干緊張した様子で、正面の二人を見た。
織と惺は顔を見合わせる。
「久し振りに楽しかったですね、先輩」
「うん、……初くんのリズムキープは正確だし、あとは手数を増やして、強弱つけたらもっと良くなるよ。要領は良いみたいだからすぐ覚えそうだね」
頑張ろうな、と言って笑った織に、初は大きく頷いた。その様子を見て、陽は微笑む。
初は家庭で褒められた経験が殆ど無いらしい。小さな頃から出来て当然と言われ続けてここまで来たのだ。医者を継ぐのだから勉強は出来て当然、香西かさい家の長男なのだから習い事の大会で優勝して当然、万が一失敗すれば失望の視線を注がれて、無視される。それが原因で家に帰りたくないと泣いた初と、親が探しに来るまで公園にいた日もあった。
そう言った環境で育てば、歪んでしまうのも頷ける。寧ろ初は素直な方で、非行に走っていても不思議では無いのだ。
だから初が褒められると、陽はまるで我がことのように嬉しくなってしまう。
「陽くんは」
「はいっ!?」
不意に話の矛先が自分に向いて、陽はびくりと肩を震わせた。
「さっきも言ったけど、声量があるよね。ちょっと音程危ういとこもあったけど許容範囲だし、勢いでどうとでもなるでしょ。ギターソロも問題ないし、……コードはどのくらい分かる?ギターの」
「基本的なやつだけで、あとはあんまり」
ギターを練習するのに、陽は主に晴の手元か、ネットの動画を参考にしていた。必要に迫られてコードを覚えはしたが、初心者向けの教則本に載っていないものはその範疇では無い。
陽の返答に織は頷いて、惺を指差した。
「まあ分かんないとこは教えればいっか。こいつギターもやれるから、あれだったら聞いてみて。俺でも良いし」
「和泉先輩、どっちも出来るんですか!?」
惺は照れ臭そうに肩を竦めて、ピアノが本職なんだけど、と前置きした。
彼が一年生の頃、キーボードがいない曲をやる時は、どうしても惺はあぶれてしまっていた。アレンジで入れることも出来なくはないが、折角ならギターも覚えたらどうか、と晴が提案したのだそうだ。見学でも良いからと言う惺を織と晴、それからドラムの高山光と言う三年生で引き摺って中古楽器の店に行き、ギターを買って、それからずっと二足の草鞋なのだと言う。
高山は晴が失踪後に菖蒲ヶ崎高校を卒業し、晴が見つかったら絶対に連絡をしろと言い残して就職のため県外へ引っ越して行った。
そのギターは織の家に置いてあるらしく、明日あたり持ってくるよ、と言って惺は笑った。
「最強だあ……」
「大袈裟じゃない?」
呆けたように呟いて椅子に体重を預けた陽にそう返しながら、惺はスナック菓子を口に放り込んだ。陽は身を起こして、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「ライブとかって、やっぱ文化祭ですか?」
「ああ、そうだね。文化祭は秋くらいなんだけど、それ以外にもやろうと思えばやれるよ。例えば──」
惺は一度言葉を切り、じゃん、と言いながら机の中から一枚の紙を取り出す。どうやらその机の中には、書類を詰めているらしい。惺は机の中央を占領していたスナック菓子の袋を端に除けて、紙を机の上に置く。陽と初はその紙を見て、一番上に書かれていた文字を同時に読み上げた。
「定期公演会出演申請書?」
菖蒲ヶ崎高校では、一学期に一回と三学期に一回、文化部の定期公演会が行われる。参加は任意。事前の申請が必要だが、基本的にはどの文化部も参加することが出来る。公序良俗に違反しなければ、内容は何でもいいらしい。会場は体育館で、その日は午前授業になる。運動部の生徒は観に行っても良いし、そのまま帰っても良い。友人の部活を観に行く生徒が多く、また吹奏楽部などは強豪であるため、意外と賑わうのだと言う。
申請書に記された一学期の開催日は、六月十日となっていた。しげしげとそれを眺めていた初が、あ、と声を上げる。
「でもこれ、締め切り日過ぎてませんか?」
その言葉とともに、初が紙面を指差す。確かにそこには、締切は四月十日を厳守、と書かれていた。落胆する暇もなく、それは心配しなくていいよ、と惺が笑った。
「それ生徒会の管轄なんだけど、オリ先輩が会長を脅し、──……じゃない、説得してくれて、今週いっぱいは待ってくれるってさ」
「今脅したって言いました?」
「脅したんですか?」
「ん?言ってない言ってない、ねえ先輩」
「そうそう、話し合いだよ、話し合い」
嘘を吐く気も無いようなわざとらしい誤魔化しだったが、直近の予定が決まったことに変わりは無かった。今週と言えば、今日と明日しかない。しかし織と惺の中では、もう結論は出ているようだった。
「出るでしょ?」
「出るよね?」
ほぼ同時に訊かれて、陽と初は頷くほか無い。一ヶ月と少しでどうにか出来るのかは分からないけれど、やるだけやろうと陽は心の中で自分の背中を叩いた。不安げな初と目が合ったが、やるしかないと目線だけで訴えて頷く。
昨日知り合ったばかりだが、失敗が目に見えて明らかな状態であれば、この先輩達──特に織は、人前に出ようなどとは言わないだろうと言う妙な確信があった。

書類を書くのは、部長である惺の役目だ。彼は鞄からボールペンを取り出すと、淀みない手つきで申請書に記入していく。だが、少しの時間も経たないうちに手を止めた。その手元を織が覗き込む。
「このグループ名ってとこさ、一昨年はこんなの無かったのに。増えたのかな」
「軽音部じゃ駄目なの」
「バンド名とかってことだと思ったんですけど、軽音部で良いんですかね」
その二人の会話を聞いていた陽が、すかさず手を挙げた。
「あの!バンドの名前とか、決めないですか?」
そう言った陽に続くように、初が同意した。惺と織はまた顔を見合わせて、やがて頷く。バンド名を決めてしまった方が、今後の活動にも有利だろうと織は言った。昨年以前の軽音部ではそういったものを決めることはなかったらしく、新鮮だね、と惺が笑う。
それからは、四人で携帯を弄りつつ、学校から支給された辞書などを捲る作業に終始した。そう簡単に出て来るものでは無いと知っているが、やはり難しい。
陽は一際大きく唸って、がっくりと項垂れる。
「バンド名ってどうやって決めてるんですかね?」
「王道だと、メンバーの名前を並び替えるとか?あとは何か共通点があればそれで」
陽の頭をペンで数回突く織の言葉に、再び皆は首を捻った。
便利なもので、最近は任意の文字列を入れると勝手にアナグラムを生成してくれるサイトがある。それも試したが、満足のいく結果は得られない。
腕を組んで考え込んでいた初が、ふと顔を上げる。それにつられるように、陽も彼の方を見た。
「共通点ってほどでも無いですけど、みんな甘いもの好きですよね……?」
「初ほどじゃねえけど」
「陽だって毎日ジュースガブ飲みしてるでしょ。ラムネとかグミとか、引くくらい食べてるじゃん」
「グミうまいだろ」
その応酬を止めるでも無く織はペンで初を指して、それ、採用。と言った。織も惺も、甘党なのは間違いないらしい。
甘いものにまつわる単語を思いつく限り並べていく。その殆どは英語で、中にはフランス語やドイツ語などが散見された。馴染みの無い西洋菓子は、覚えにくいからと言う理由で除外する。
「やっぱり直球の方が良いかな?」
「スイートとかですか?」
「ねえ、砂糖って何だっけ」
「シュガーですよ」
「シュガーでしょ、オリ先輩大丈夫ですか?次のテスト」
三人の会話を聞いていた陽の中に、ふっと何かが生まれた気がした。それはごくごく小さな産声を上げて、拾われるのを待っている。
陽は目を閉じて俯き、必死になってそれを探した。
未だそれは暗闇の中だが、すぐ近くにあることは分かる。
「しゅがー、……」
もう少し、もう少しと念じながら引っ掛かりのある言葉を小声で繰り返していると、何かが頭の中で急浮上してきた。どういう意味なのかは理解出来なかったけれど、その言葉は瞬く間に頭全体を伝わって、気がつけば陽はそれを口にしていた。

「──シュガーゲイザー?」
陽の小さな呟きを三人は聞き逃さなかったらしく、しん、と一瞬沈黙が流れる。
惺が目を輝かせて、良いじゃん、と言った。織は陽の方を見て肘をつく。
「ふうん、いいね。シューゲイザーのもじり?」
「いや全然、降ってきたって言うか」
シューゲイザーと言う音楽ジャンルがあるのは陽自身知ってはいたが、積極的に聴くことは無い。陽の頭の中で偶然組み合わさった文字列と言うだけだ。ほぼほぼ直感で口に出してしまったために、陽は今になってその理由付けに苦慮している。
初が陽の肩を叩いて、スマートフォンを見せてきた。液晶には英和辞書が表示されている。ゲイザーとは、日本語訳すると見つめる人、監視する人、などの意味を持つらしい。それを踏まえて陽の案を直訳すると、砂糖を見つめる人、と言うことになる。
「ずっとお腹空いてるみたいな名前だね、おやつ待ちみたいな」
そう言って初は笑ったが、満更でも無いようだ。織がまた陽の頭をペンで突く。
「ポップでいいんじゃん、覚え易そうだし」
「じゃあそれにしようか、英語で良い?」
惺がさらさらとペンを走らせる。「Sugar gazer」と書かれたそれを見た陽は考え込んで、左右の人差し指でバツ印を作った。
「これ!間にバッテン入れた方がかっこよくないですか?」
「こういうこと?」
惺がSugarとgazerの間に×を書き入れて、三人に見せるように紙を持ち上げる。陽の中に、すとん、とその名前が落ちてきた。大きく頷いた陽は、書き上がった申請書を眺める。
Sugar×gazerと言う名前が、きらきらと輝いているように見えた。

申請書は、明日にでも織が生徒会長に提出すると言う。鞄に紙を仕舞い込む織を見ていた陽の脳裏に、ふと端に追いやっていた五限目の出来事が浮かんだ。惺には話しておいても良いかもしれない。
「和泉先輩」
「ん?なあに」
「実は、今日──」



「あれが出たの!?」
惺が机に手をついて立ち上がる。あれ、と称されたのは一年生の教室の廊下を物凄い速さで駆け抜けて行ったあの声と足音のことだ。陽と初は、五限目に起こったことを代わる代わる説明した。織はと言えば、陽の向かいで興味なさげにベースを弄っている。
「廊下に足跡までついてたんですよ」
「──足跡?」
陽の言葉に、惺が椅子に座り直しながら聞き返した。隣の初も、初めて聞いたとばかりにこちらを見る。
惺が言うには、その怪異は絶叫と足音が廊下を走っていくと言うだけで、足跡がつく、と言う話は聞いたことが無いらしい。その足跡は戸が開いた一瞬に隙間から見えただけで、次に見た時には綺麗さっぱり消えていた旨を話すと、惺は再び首を傾げていた。
やがて納得したように、御子柴くんにしか見えなかったのかもね、と言った。
確かに、クラスメイトたちは皆、陽と同じく教室を出て行く篠を見ていたのに、足跡に対して何の反応も示さなかった。考えてみれば不自然だが、最初から陽にしか見えていなかったのだとすると説明がつく。
「和泉先輩が一年の時は出なかったんですか?」
「一昨年ねえ、出るには出たんだけどさあ。おれその時保健室にいて、教室にいなかったんだよね」
椅子にもたれ掛かりながら、惺は深々と溜息を吐いた。当時、前の授業で足に怪我をした惺は、応急処置も兼ねてその後の授業一回分を保健室で過ごした。その時間に怪異が出現したらしく、足を引き摺って戻ると一年生のフロア全体が大騒ぎになっていたらしい。
「いいなあ。おれも見たかった、それ」
そこまで言った惺の頭を織が軽く指で突いて、呆れたように言った。
「物好き、」
「何とでも」
惺が擽ったそうに笑いながら答えた時、スピーカーからチャイムの音が流れる。完全下校時刻まではまだ少し時間があったが、本格的なバンド練習は明日以降に持ち越されることとなった。定期公演会まであとひと月と少しだが、それ位の練習期間があれば余裕だろうと織は言った。もし不安があれば、土日に集まって豊永にあるスタジオで練習しても良いと言う。
「俺の家でも良いけど、流石にでかいアンプは無いしね」
織は金井沢三丁目駅を最寄りとする一軒家で一人暮らしをしているらしい。色々あって親はいないから、好き放題出来て良いよと彼は笑った。
仕事か何かかと陽が問うと、織は曖昧に頷いていた。

すっかり食べ尽くされてしまったスナック菓子の袋を細長く畳んで結んだ惺が、それをゴミ箱に投げ入れる。
ふと思い立った陽はホワイトボードに駆け寄ると、中央に大きくSugar×gazerと書いた。ペン先がボードの上を滑るきゅ、きゅ、と言う音が、室内に小気味よく響く。
隣に来た織が悪戯っぽく笑って、陽が書いた文字の横にデフォルメされた動物を描いた。それを一瞥した陽が、織を見上げる。
「……タヌキっすか?これ」
「どう見ても猫じゃん」
「うっそだあ!猫こんなに尻尾太くないもん!」
「ふうん、生意気だねえ陽ちゃん」
「ちゃん!?」
そんな会話をする二人を見た初が、申し訳なさそうに肩を竦める。
「すいません、陽、ちょっと敬語が苦手で」
「ああ、全然大丈夫でしょ。先輩も楽しそうだし」
──本当に、良かったよ。
心底安堵した様子で呟く惺を不思議に思ったが、ふと時藤が言っていたことを思い出した。「あれ」が出た年は怪異の当たり年になる、と言う話だ。
「和泉先輩、そういえば、同じクラスのオカルト研究部の友達が言ってたんですけど」
「うん?」
「廊下のあれが出た年は、怪異の当たり年だ、って」
「ああ、そうだよ」
惺はすんなりとそれを肯定した。どういうわけか知らないが、廊下を走る怪異が出た年は、そうでない年に比べて怪奇現象が多発する傾向にあるのだと言う。
オカルト研究部が過去の卒業生や他所に異動した教師などに聞いて回ったらしく、その調査結果を纏めた冊子が、そのオカルト研究部の部室にあるのだそうだ。
部長で二年生の島村は筋金入りの記録魔で、何でも記録に残したがるらしい。パソコン内のデータとバックアップだけでは不安だと言って、ノートに書いたものと、そのコピーも保存している。あそこまで行くと、もう偏執狂だよね、と惺は笑った。
「そうかあ、オカ研にも新入部員が入ったかあ」
感慨深げに惺が言うと、陽と戯れていた織が何かを思い出したように口を開いた。
「そういえばさあ、晴くんも七不思議追っかけてなかった?オカ研の奴と」
「え」
「でもあれって、途中で頓挫したんじゃなかったでしたっけ?」
惺の言葉にふうん、と鼻を鳴らした織が、陽を見下ろした。彼は陽の頭を撫でると、再び惺の方を見る。
「あれさあ、島村とかに聞いてやんなよ。晴くんのこと」
惺はそれに頷いて、何か分かるといいね、と悲しげに微笑んだ。
晴がいなくなって心配しているのは、家族だけでは無いのだ。織も惺も、卒業した高山と言う人も、同じように悲しんでいる。
七不思議を追い掛けていれば、晴の行方に関する情報を少しでも掴めるだろうか。

陽がそこまで思い至った時、突然にスピーカーが歪な音を立てた。向こう側で何かが動くような、ががっ、と言う音。
全員が一斉にそちらを向く。チャイムでは無い。呼び出しか何かの放送だろうか?だが、一向に向こう側の誰かが喋る気配は無かった。
「何だろう?」
「さあ、……」
初の独り言のような言葉に、陽が返事をする。
校内放送を流すことが出来るのは、この学校内では職員室と放送室だけだ。放送室が使われるのは、放送委員会が昼食時に自作のラジオ番組を流す時だけだと、陽は聞いていた。その放送委員会が打ち合わせでもしているのかと思ったが、テスト放送などにしてもここまで沈黙が続くことはありえないだろう。

暫くスピーカーを見上げていた。
誰か生徒が忍び込んで悪戯でもしてるんじゃないの、と織が言った。だとしたら、教師が注意しに行くに違いない。そう納得して、陽と初が帰り支度を再開しようとした時だった。

──…は、……だ、ね、………──な、あ、ぼ、……

何を言っているのかも聞き取れない、雑音に塗れた女の声がスピーカーから流れた瞬間、惺が持っていたペットボトルを取り落とした。彼は呆然とスピーカーを見上げて、放送室の女、と呟く。
惺は織の隣に移動して、その制服を軽く掴んだ。怖がりである、と言うのは、本当であるらしい。
「これ、子守唄じゃないですか?」
初の言葉に、三人は改めてスピーカーからの声に耳を傾けた。がさがさと雑音が多いが、僅かに音程がついている。子守唄、と言われてみると、確かにそれは歌っていた。

坊やは良い子だねんねしな、と。
「どうする?行ってみる?放送室、」
第二視聴覚室の扉を指差して、惺が皆を見た。その手は変わらず織の腕を掴んだままで、織は呆れ顔で自分より僅かに身長の高い惺を見ている。動揺している気配は感じられない。肝が座っているのか、そもそもこの類のものを信じていないのかもしれない。
放送室は三階で、第二視聴覚室を出て突き当たりの図書室を左に曲がればすぐだ。
好奇心と恐怖がせめぎ合っているのは、陽も同じだった。どうする?どうする?と自問自答する。
「……見に行きましょう!」
今日は、僅かに好奇心が勝った。

荷物を第二視聴覚室に置いたまま四人で放送室前に行くと、そこには既に十数人の人集りが出来ていた。放送室の扉を左右から挟み込むように生徒が集まっている。全校放送であるから、校内にいる殆どの人間があの放送を聞いたのだろう。
「御子柴くん、」
人集りの端に時藤が立っている。彼はこちらを見つけると控えめに手を振った。あの放送が流れた瞬間に部長が部室を飛び出して行ってしまったため、それを追い掛けて来たらしい。
「島村あ!」
放送室の中から聞こえた怒号に、一瞬辺りが静かになる。その声を聞いた時、陽の後ろにいた織が、げ、と顔を顰めた。
「増田だ」
織が忌々しげに言ってから暫くして、ジャージ姿の増田が心底不機嫌そうに出て来た。その後ろから、惺と同じくらい華奢な猫背の男子生徒が顔を出す。顎ほどまで伸びた左側の髪が緩い三つ編みになっているのを見て、なるほど時藤はあれを真似ているのだな、と合点がいった。
時藤よりもずっと重い、陰鬱な空気を纏った島村と呼ばれた生徒は短く舌打ちをして、興醒めだよ、邪魔されちゃかなわないな、と言った。長い前髪の向こうで、失望に細められた目が増田を見ている。
どうやらあれが、オカルト研究部の部長であるらしい。
増田が島村に掴み掛かろうとする寸前に、時藤が飛び出して行く。
「部長!」
「ああ、どうしたの時藤」
「どうしたのじゃないですよ!すいません先生……!」
今にも泣き出してしまいそうな時藤の謝罪に勢いを削がれた増田は、その代わりと言わんばかりに周囲の生徒たちにその矛先を向ける。帰れ、と繰り返し怒鳴る増田に押されるように、集まっていた生徒たちは散り散りになり始めた。しかし陽は、まるで金縛りにあったようにそこから動くことが出来ない。

放送室の扉の前に仁王立ちになって怒鳴り散らしている増田の背後に、全身がぼこぼこと不器用なバルーンアートのように膨らんだ、目の部分にぽっかりと穴が空いたずぶ濡れの女が、何かを抱いて立っている。それはぎゃあぎゃあと鴉のような泣き声を上げているが、恐らくは赤ん坊だろう。その女は暫く腕の中の赤ん坊をあやすように揺らしていたが、やがてぐぐ、と体を捩らせて、増田の顔を至近距離で覗き込んだ。その女はビデオの早回しのように口をあんぐりと開ける。

──あかちゃん、おきちゃったでしょおおおおおおおおおおおおおおおおお?

痰が絡んだような、溺れているような声だ。早くここから、あの女から離れなければいけないと分かっているのに、足が動かない。初や先輩二人に助けを求めようにも、身体が動かないのではどうしようもない。あの女がこちらを向く前に、早く、早くと気ばかりが早る。
その時だった。

ぱん、と陽の目の前で島村が両手を鳴らして、その音に弾かれるように身体が軽くなる。その場にへたり込みそうになる陽を、初が支えた。
「陽!」
「あ、……大丈夫、」
生徒たちが大方いなくなったのを確認して、増田が立ち去っていく。帰り際に、織の方を睨んだ気がした。女はその後ろを、ずるずると音を立てながら着いて行って、見えなくなった。
陽が顔を上げると、酷く心配そうな織と惺に覗き込まれる。具合が悪いのかと聞かれたので、勢いよく首を振った。初の腕を抜けて、ごめんな、と笑ってみせる。
「大丈夫?」
ふと聞こえた凪いだ声の方には、島村が立っていた。その横では、時藤が心配そうにこちらを見ている。陽は島村に向かって、軽く頭を下げた。
「あ、ありがとうございました、島村先輩」
「おや、ぼくを知っているんだ。…時藤か、和泉先輩の入れ知恵かな」
にい、と口角を上げて、島村は首を傾げた。
「御子柴くん!大丈夫?」
「──御子柴?」
意を決して声を上げたらしい時藤の言葉に反応した島村が、陽をじっと見下ろす。蛇のような目だな、と思った。ずっと見ていると吸い込まれそうで、先程とは違う意味で足が竦んでしまう。
「御子柴って、あの御子柴……?」
「え?」
小さな島村の呟きを陽が完全に聞き取る前に、織が陽と島村との間に、陽を庇うようにして立っていた。
「何?何か用なの」
「──やだなあ、喧嘩っ早くて」
幾分低い織の声に怯むことのない島村は深く息を吐いて、惺の方を見る。
「ねえ和泉先輩、この人、ちゃんと繋いどいてくれないと」
困るよ、と言って、島村はまたにやりと笑う。明らかに喧嘩を売っている島村のそれを完全に無視した織は、惺を振り返る。察したらしい彼は織の隣に立って、島村に言った。
「島村くんさ、オカ研に一昨年の活動記録ってある?この子のお兄さんが行方不明になっててさ、オカ研の人と七不思議を検証してたみたいなんだよね。それが原因だとは思ってないけど、もし何か手掛かりみたいなのがあれば、教えて欲しいんだよ」
お願い、と手を合わせた惺に、島村はふうん、と視線を落とした。何かを考えているようだったが、やがて目線を戻して、分かったよ、と頷く。彼は音もなく織の後ろの陽を覗き込んで、微笑んだ。
「初めまして、御子柴くん。ぼくは島村しまむらりつ。知ってると思うけど、オカルト研究部の部長だよ。──よろしくね」
「は、はい」
よろしくお願いします、と言う陽の返事を聞くと、島村は満足げに部室へと戻っていった。駆け足で島村の後を追いかける時藤が、こちらに何度も頭を下げている。それに手を振っていた初が、緊張から解放されたように大きな溜息を吐いた。
「何か、すごい人ですね……」
「キャラが濃いよねえ」
惺が笑いながら言うと、初は何度も頷く。その時、完全下校時刻を知らせる童謡が校内に鳴り響いた。これが鳴った三十分後、校門は完全に閉じてしまう。運動部や一部の文化部は残って練習をするのだろうが、顧問がいない軽音部はそれも難しい。
「荷物纏めてて良かったね」
「ですねえ」
そんな会話をしながら歩き出す惺と初の後ろを、陽は着いていく。隣の織が、歩きながら陽にそっと耳打ちしてきた。
「何か見えた?」
「バッチリですよ、苦手なタイプのやつでした……」
「グロかった?」
「何かもう、水死体みたいな」
「うわあ……」
「これ和泉先輩に言ったら、怖──」
ふと織の方を向いた陽は、一瞬言葉に詰まってしまった。
織の肩を、焼け爛れた二本の腕が掴んでいる。片方は細くしなやかで、片方は筋肉がついてがっしりとしていた。
二人分の腕だと、陽は直感する。
しかし瞬きをすると、それは綺麗に消えていた。
「どうしたの?やっぱり具合悪い?」
「あ!いや!全然!」
覗き込んだ織に笑いながら、気のせいだと必死に自分に言い聞かせる。あんなものを見たから、神経が過敏になっているだけだ。影か何かを見間違えたに違いないと、ずっと心の中で繰り返していた。

落ちかけた夕陽が、校舎の白い壁を真っ赤に照らしている。
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