ライト文芸短編集

砂臥 環

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春の陽には少し遠く

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 ──プシュー……


 電車の扉が開き、老人はゆっくりと車内に入る。
 車内には誰もいない。
 暖かな陽射しが小豆色を柔らかくぼやかす中央の座席に、呼ばれるように腰を落とした。

「にゃあ」
「……おや、君も来たのかい」

 彼の妻が可愛がっていた猫が、隣にピョイ、と座る。戯れに撫でてやると、ゴロゴロと喉を鳴らした。

「君、名はなんといったかね?」

 それに答えるように猫はにゃあ、と一言。老人はそれ以上何も言わず、静かに口角を上げると満足そうに目を細めた。


 ──ジリリリリ

 発車のベルが鳴り扉が閉まると、老人の歩みの様にゆっくりとしたリズムで電車は発進する。
 静かな車内に小気味良い電車の音と揺らぎ……揺蕩うような微睡みに身を任せていると、知らぬ間に向かいの席には子連れの婦人が座っていた。

「これ、お行儀よくなさい」
「ごめんなさい」

 足をぷらぷらさせていた坊やが母に注意をされる。坊やは申し訳無さそうに首を竦めるも、直ぐに明るい声と笑顔を母に向けた。

「お母さんとお出掛けなんて、久し振りだ」
「……そうね」

 婦人はどこか悲し気な笑顔で応じると、坊やの頭を撫でる。
 一張羅とおぼしき紺色のクラシカルなワンピースは少し色褪せており、綺麗に磨かれたパンプスの底は磨り減っていた。


 行き先は百貨店。
 屋上には小さな遊園地。
 食事は旗の立ったチキンライスが新幹線のプレートに乗った、お子様ランチ。

 坊やはそれらが楽しみなのもあるが、なにより忙しい母と出掛けられるのが嬉しくて仕方ない。



 次の停車駅で二人は降りた。
 少年と、入れ違いに。



 学生服に学生帽の少年は無表情で、やはり先程の席に座る。
 新品さながらに光沢のある学生鞄から、一冊、古びた文庫本を取り出すと少しだけはにかんだ。

 図書室で借りた、歴史小説。
 テープで貼られた貸し出し表の名前の一番下には自分の名前。
 ひとつ上に、彼女の名前。

 背表紙を見せ付ける様に隠した目線の先には、おかっぱの少女が吊革を掴んでいる。



 次の停車駅で少年は降りた。
 いつ降りたのか、少女も知らぬ間に消えていた。

 どこから舞ったか桜の花弁はなびらが老人の前に一片ひとひら
 老人は少々くすぐったそうにはにかむと、また目を瞑った。



 それからもひとり、ふたり、入れ替わりに乗客がやってきては老人を優しく、そして少し切ない気持ちにさせる。

 特に、彼の妻や子がちらほらと現れる様になってからは。


 ──そう、乗客は全てかつての彼と、周囲の人々。


 穏やかな気持ちで老人は、終着駅を待つ。柔らかに揺蕩う、微睡みの中で。



 ……妻が泣いている。

 終着駅の手前で、老人は瞼を開けた。



 見慣れた煤けた天井と、薄闇──

 春の木漏れ日のような、儚くも暖かい白さに包まれた車内ではなく……寝室のベッドの上。
 隣に目を向けると、捲れた布団がそこにあるだけで、寝ているはずの妻はいなかった。

 裸足のまま部屋を出ると、縁側に妻はいた。小さな背中がさらに小さく見えるほど、肩を落として。

「どうした、風邪をひくだろう」
「あなた……」

 妻は泣いていた。
 皺だらけの顔に、涙が音もなく流れる。
 その膝には猫が、眠ったように息を引き取っていた。

「……死んだのか」
「ええ」

 目を伏せる妻に、電車で目にした少女の面影が重なり、ふ、と彼は笑う。


 座席の隣で丸まっていた猫は、時折思い出したように欠伸をしては、寝息を立てていた。
 今と同じ様に、安らかな顔で。

「──自分だけ逝きおって」

 小さくそうごちる。

「え?」
「いや、明日埋めてやろう」

 労るようにそう言うと、老人は妻の肩を抱いた。



 夜は徐々に明け、いつの間にか空が白んでいる。まだ冷たい空気の中、フト感じる……春の温もり。

『だけど私の逝くときは、もっと暖かい陽射しが溢れるときに──』

 最期に願いをひとつきいてもらえるなら……妻の身体が冷えないように。



 終着駅で降りそびれた老人の隣には、少女のように泣き疲れ、柔らかな寝息を立てる妻。

 ──次の旅路は、もう少しだけ先で。



✼••┈┈┈••✼••┈┈┈••✼••┈┈┈••✼••┈┈┈••✼
※原案:しいたけ先生
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感想 2

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みんなの感想(2件)

砂礫零
2024.04.28 砂礫零

「ご飯ですよ」久々に拝読!
この話好きだなあ

砂臥 環
2024.04.28 砂臥 環

砂礫さん、こんにちは!
なんかもうファンタジーに疲れている私がいたりするよ……
残念ご飯シリーズもまた書きたいけど、思い浮かばないんですよね~。

また読んで貰えて嬉しいです!

感想ありがとうございました!

解除
みこと。
2024.04.17 みこと。

とても興味深く拝読しました。存在しない弾丸の痕、どうなるんだろう。

砂臥 環
2024.04.17 砂臥 環

みこさん、こんばんは!
こういうの(二段オチ)が好きなんですが、最近めっきり書いてなくて。
投稿時がそれなりに昔なのもあってもう滅多に読まれないので、こっちに移してしまいました。反応頂けて凄く嬉しい!

感想ありがとうございました!

解除

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