婚約者に逃げられました。

砂臥 環

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侯爵家での生活

最も能動的三ヶ月の中で、最も能動的三分間

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「向かって右が水!」
「──……」

 私はゆっくりと蓋を上げる。
 向かって右は、酒だ。

「ふふ……私の勝ちですね」
「えっ? 水だろう??」

「「…………」」

 確かには水である。

「──主語を付けなかった俺が悪い」
「あっ」

 そう言ってフェル様はグラスを空にする。

「だが、仕切り直しだ。 いいね?」

 ただし、負けとは認めないらしく、仕切り直すこととなった。
 結果は私の負け──なのに

「あっ?!」 

 フェル様は素早くグラスを取り、再び酒を飲み干す。
 意味がわからない。

 負けたら負けたで構わず『フェル様が悩みを打ち明けてくれないのが悩みだ』と誤解も覚悟の上で迫るつもりでいた。
 しかしそれには素面では無理だ。
 私には無理だ。せめて勢いとして、酒が欲しい。

「なんで飲んでしまうんですかッ?!」
「酒を用意したのは話しやすくするためだが、酔わせるつもりではない。 一気に飲んだら良くない」 
「──それは…………ッ」

 どこまでも紳士なフェル様に、多少なりとも覚悟を決めていたことへの羞恥から苛立ちが増す。
 私は唇を噛み締め、恥ずかしさと自尊心から最も聞きたくないことを口にしてしまった。

「……私のようなツルペタストーンに酔われても、困るということですか?!」
「えっ!? ……?? ごめん、ティア……」
「謝られたァァァ!!!!」
「えっいや」

 謝られた!
 謝られた!!
 謝られた!!!

 感情が先に立ち、聞くべきでないことを聞いてしまう──それはもう理屈ではなく、当然話し合いではない。
 望んだ答え以外が返ってくるとなんであれ許せないという、理不尽さを伴う。

 望んだ答えは否定一択……なのに謝られた。
 こうなると最早相手の都合など関係ない。仮に言い分があったとしても、今は全て言い訳に聞こえてしまうので、私は耳を塞いだ。




「──でぇい!!」
「あっ?! なにを?!」

 ショックと怒りに任せ、ワゴンに載った酒瓶を手に取るとボトルで一気飲みする。淑女どころか下町の女性ですらしない行動だが、私は感情を抑えられずヤケになっていた。

「やめないか!」

 そう言って止めようとするフェル様をひらりと躱し、酒を飲み続ける。
 紳士なだけに乱暴に制することに躊躇いがあるのか、フェル様が狙うのは酒瓶のみ。しかも強引に奪うには、転ばせないよう私の身体に触れなければならない。

 今日は特に距離を気にしているフェル様の弱点を突いた、実にフレキシブルな作戦といえる。(※自画自賛)

「ティア! コラッそれを寄越しなさい!」
「うふふ、嫌ですよ~♪」

 子供のように私を叱るフェル様に、悲しいのになんだか笑ってしまう。私は酒に強くないから、早々に酔いが回ってきたのかもしれない。




 早々に婚約が決まった私には、必要な勉強以外は特に求められなかった。

 貴族の矜恃なども、教育の範囲内。
 政略結婚の相手であるルルーシュ様になんら不満はなく、安心感を甘受し続けられるレベルで一通りのことは履修していた。
 時折訪れる社交の機会は苦痛だったものの、毎日の勉強を苦痛に感じたことはない。

 今思うと、それは努力ではなく怠惰だったからかもしれない。

 慣れ親しんだ場所で与えられたものをこなすことは、特に苦にならないのだ。私はそんな自分に疑問を抱くことなく育ったが、それは非常に受動的である。

 ルルーシュ様に追い縋った時、『愛人様を受け入れればいい』などと宣った私だが、その実ルルーシュ様に投げていたのだろう。追い縋る以外にもできることは多分あった。振り返ると、そこに行き着く為の努力すらしていなかったことになる。

 培ってきた17年が消える訳でもないので、母に乗せられなければ侯爵領には来なかった。
 こうしてユミルに放り込まれなければ、悩むだけでまた先送りにしていたと思う。

 だが、決断をしたのは自分。
 そもそも以前は悩むこともなかった……少しずつだが確実に私は変わってきていて、そう変えたのはフェル様。

 向けられる謎の好意。
 忙しい筈の彼が時間を割いてくれること。
 モテそうな割に慣れていないこと。
 おそらく『病弱』と誤解していること。

 挙げればキリがないそれらは、過去の自分が招いたのであろう誤解への罪悪感や『ガッカリされたくない』という見栄や自尊心と共に、私の行動を是正していた。

 流されながらだが、私はここに来てからというもの……自分史上かつてない程、能動的に動いている。
 だから……


 多分、私はこの人が好きなのだ。
 多分、最初からちょっとだけ期待していたし、
 多分、最初からちょっとだけ覚悟もしていたのだ。




「あら……」

 酒瓶は空になっていた。
 私は今、ベッドの上にいる。

 紳士的なフェル様が入ってこれない、安全地帯だからである。実際、オロオロしたままベッドの前にいる。
 私はそんなフェル様の足元に、空の酒瓶を転がした。

「全部飲んだのか……」
「ふふふ、フェル様……私の方が多く飲んだから、私の勝ちですね!」
「いつの間にそんな勝負になったんだ?!」
「小さいことにこだわってはいけませんよ! 小さいことに……ふふ」

 自嘲が漏れる。

「そうでしたね。 フェル様は小さいことがお嫌なのでしたね……」

 同時に涙も零れた。

 ──悲しい。
 能動的であることが、自分で動いて報われないことが、こんなに悲しいことだとは思わなかった。

 私はフェル様が好き。

 なんなら今までは病弱で幼く見えることも、必要以上に期待が掛からないことも『自らにかかる負荷が軽減され幸運ラッキー』ぐらいにしか思わずに乗っかっていた私にとって、それは新鮮な胸の痛みだった。
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