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1巻

1-2

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 時間外とはいえ仕事中にこのように父から呼び出しがあると、職場の人たちには余計な気を遣わせてしまうので申し訳なく思ってしまう。特に事務所には事務長である兄もいるだけに、院長の身内である私までいると色々とやりにくいだろう。

「ありがとうございます……ではすみませんが、お言葉に甘えてお先に失礼します。後はよろしくお願いします」

 私は事務所内に残っている人たちに聞こえるように声を掛けると、手早く机の上を片付けてロッカーから荷物を取り、足早に事務所を後にした。
 この病院の本館一階は、外来の診察室、二階は検査室や外来の患者さん用の喫茶スペースなどがあり、三階に院長室がある。本館に隣接する入院病棟は五階建てで、階ごとにそれぞれの症状や診察の科に応じた病室がある。
 私は事務所を出て、通路の奥にある病院関係者専用エレベーターへと向かうと、目の前にあるボタンを押した。行き先は、もちろん三階の院長室だ。
 院長室のある三階に繋がるエレベーターは、ここともう一か所、守衛室横にある。一般の患者さんが使うエレベーターからは行けないように、館内にある他のエレベーターは二階までしかボタンがない。エレベーターの中に入ると閉ボタンを押し、次いで三階行きのボタンを押すと、深呼吸をした。
 父が職場で私に声を掛けることはあるけれど、こうして呼び出すことはめったにない。それだけに、何かあったのかと不安になる。
 今朝も父と家で顔を合わせたけれど、その時は何も言われなかった。もしかしたら、今日の勤務で患者さんからクレームを受けたのかと考えたけれど、それらしき出来事は何もなかったはずだし……一体何だろう。
 エレベーターは瞬く間に三階へ到着した。
 扉が開くと私は再度深呼吸をして、廊下の一番奥にある院長室へと向かった。
 このフロアは、他のフロアと雰囲気が違う。病院というよりも、まるで高級ホテルのVIPルームに続く廊下のようだ。
 この病院には、それこそ地元の名士や有名人もお忍びで入院されるので、それなりの内装にしているのだろう。入院病棟の特別室がある最上階フロアも、ここと同じような内装である。
 私は院長室の前に立つと、意を決してドアをノックした。

「どうぞ」

 中から父の声が聞こえたので、私はそっとドアを開けた。

「お疲れ様、もう仕事は終わったのか?」

 父は執務用の机から顔を上げると、立ち上がって応接ソファーへと移動する。

「ルミさんが気を遣ってあがらせてくれたの。院長からの内線ってだけでみんなが緊張するの、お父さんもわかってるでしょう?」
「ああ、悪かったな。ドアを閉めたらこっちに座りなさい」

 父がそこへ座るように促した。
 私はその言葉に従いドアを閉めると、父の前のソファーに腰を下ろす。

「もう診療時間が終わったから、大丈夫かと思ったんだ。呼び出して悪かったな」

 言葉で謝罪の気持ちを告げていても、実際は全然悪いと思っていないのがこの父である。院長権限で、こうやって急に呼び出すことはやめてほしいものだ。

「で? 用事は何ですか? 家では話せない内容ですか?」

 少しつっけんどんなものの言い方になってしまったけれど、父は一向に気にしていないようだ。むしろすぐに話をしたくてたまらないとばかりにその表情は柔らかい。

「いや、そんなことはないけど、早く優花の耳に入れたくてな」

 そう言うと、応接テーブルの上に置かれていた封筒に手を伸ばす。そしてそれを私に手渡した。

「これは……?」

 手渡された封筒は封がされておらず、中を開くとそこには、釣書と書かれた文字とお見合い写真らしきアルバムが入っていた。

「優花、この前話していたお見合いの件だが、お相手は小さい頃うちの病院によく入院していた尚人くんだ。覚えてるかい?」

 父の言葉に、私は驚きを隠せない。
 まさか……そんなはずはない。
 だって、尚人くんは私が中学校へ進学する年に引っ越して、その後どうしているかなんて知らない。一体どのような接点で父と尚人くんが再び繋がったのだろう。
 先日行われたスチール撮影の数日後に、父から突然告げられたお見合いの話の詳細がここでようやく明かされる。あの時はまだ釣書も写真も用意できていなかったけれど、以前優花と約束した条件のお相手が見つかったから、心の準備をしておくようにと言われてそれっきりだったのだ。それだけに、私は驚きのあまり言葉が出なかった。

「小さい頃、身体が弱くてうちによく入院していただろう?」

 突如、思い出話が始まった。早く結論を聞きたいけれど、ここでさえぎれば話が逸れる可能性もある。私ははやる気持ちをグッとこらえ、父の言葉に耳を傾けた。

「優花には内緒にしてほしいと言われてたから話してなかったけど、実は当時から医者になりたいってよく相談をされていたんだよ。成長と共に喘息も治って体力もついていたし、外来通院もしなくていいくらいに回復したし」

 父の語る尚人くんの話に、私は当時を懐かしく思い出しながらも、自分の知らない彼の顔を知っている父に対して羨ましいと思うと同時に少し嫉妬した。なぜならこれまで、尚人くんに関する話を私には一度もしてくれなかったのだ。
 私は相づちを打ちながら父に話の続きを促した。

「一時期京都に引っ越して、この地を離れていたけど、その間にすっかり身体も丈夫になって。こちらに帰って来てから、一度診察したんだけど、もうすっかり健康でね。小さい頃に真面目に治療を頑張った成果が出たよ」

 小さい頃からずっと入退院を繰り返していたのを目の当たりにしていただけに、私は父の言葉に安堵した。
 尚人くん、元気になって本当によかった。

「勉強も人一倍頑張って、大学も医学部に合格して、一人前の医者になったところだよ。この前の学会で一緒になって、その後二人で食事をしたんだ。その時に尚人くんはまだ独身って言ってたし、優花とお見合いしてみないかって聞いてみたら、快諾してくれてね。尚人くんなら、優花のことも小さい頃からよく知ってるし、父さんも安心して優花のことを任せられる」

 未だ父の言葉が信じられず、私は封筒を持ったまま固まったままだ。
 私の兄は医師にはならず、現在この病院の事務長をしている。
 本当は父も、兄に医学の道に進んでもらいたかったようだけど、あいにく兄は昔から指先が絶望的なレベルで不器用だった。
 専攻する科にもよるけれど、医者になるには、大抵は手術がつきものだ。
 人の命にかかわる仕事なので、指先の不器用さが致命傷となり、兄は医学の道を諦めざるを得なかった。そして病院の将来を考えて、経営の道に進んだのだった。
 その当時は父もかなり落ち込んでいたけれど、私が医師と結婚すればその人に病院を任せられると考えたのか、私が大学に進学した途端、お見合いの話を持ち掛けるようになった。
 兄は現在三十二歳で、私は二十六歳。私が早生まれだから、六歳年の差でも学年で言えば五年の差だ。
 高校生の頃は、まだお見合いや結婚の話は直接の話題には上らなかったけれど、付き合っている人の有無は折に触れてずっと確認されていた。
 中学から女子校に通っているから男性との接点はなく、おまけに免疫すらないのだから、彼氏がいるだなんて嘘をいた日には一発で見破られる。おかげで今日まで私は誰ともお付き合いなんてしたことはない。
 これまで勧められた縁談は、どれも父のお眼鏡に適うだけあり、お相手はそれなりに素敵な方々ばかりだった。でも、必ずと言っていいくらい三十歳を過ぎた人ばかりで、私との年齢差がありすぎた。
 そんなに離れていたら話題も合わないし、絶対に上手くいくとは思えなかったので、私はお見合い話を受け入れる条件をつけた。
 そして私も、父と交換条件として約束をしていたのだ。私の条件に合う人間が見つかったら、KATOのイメージキャラクターを辞めてそのお相手と結婚すると。
 私が条件として挙げたのは、お見合い相手は兄よりも歳が下であること、浮気などせず私を一途に愛してくれる人、趣味でコスプレをして画像投稿していることを否定しない人。
 年齢に条件をつけたのは、兄からすれば義理の弟となる人間が、自分より年上というのは何となく嫌なんじゃないかと思ったからだ。
 医師になるには医学部で六年学び、医師免許を取得してから二年間、臨床研修として研修期間がある。俗にいう研修医がそれだ。現在の日本では、どんなに若くても二十六歳以上の人間しか医師になれない。
 兄よりも年下の人となれば年代が特定されるし、一途に愛してくれる人は、世間一般的な倫理観では当たり前のことだけど浮気なんてするような人はまず受け付けない。
 そして三つ目の条件であるコスプレをしていることを否定しない人、これが最も重要なことだった。
 お見合い相手の個人的な趣味に、私はとやかく言うつもりもない。だからこそ、ありのままの自分を受け入れてくれる人ならば、一生添い遂げることができると思ったのだ。
 KATOの仕事を辞めても、趣味の範囲でSNSのアカウントに可愛い服を着て投稿できるならそれでよかった。
 だからこそ、この三つはどうしても譲れなかった。
 こうして少しでも自分が好きなことができる独身の時間を稼いでいたけれど、兄が二十七歳になった途端、改めて父は私にお見合いを勧めてきた。
 条件としては申し分のないお相手でも、勝手に兄が釣書を見て気に入らなかったと邪魔したり、父を落胆させていたのも事実だ。
 それ以来、父は何も言わなかったので、しばらくはお見合いの話もないだろうと勝手に思っていた。
 けれど……ここにきて、またその話を蒸し返してくるとは思ってもみなかった。しかも相手は尚人くんだなんて。
 父はよっぽど嬉しかったのか饒舌じょうぜつになり、一人で色々と私に話をするけれど、その内容はほとんど頭の中に入ってこなかった。


 現在KATO本社には、YUKAの特大ポスターや等身大のパネルが大々的に飾られているけれど、KATOと契約当時のYUKAの知名度なんて、皆無に近い状態だった。
 芸能人でもない素人で、SNSのコスプレアカウントしか露出がなかったのだから、それは当然のことだ。
 でもKATOが新商品のイメージキャラクターとしてYUKAを大々的にメディアへお披露目すると、あれよあれよと世間から注目を受け始めると同時に、YUKAのアカウントはみるみるうちにフォロワー数が増えた。
 そしてYUKA名義のアカウントは、過去の投稿画像にまでさかのぼって日々いいねやコメントの書き込みがされ、通知欄には見たこともないくらいの通知が表示されるようになった。
 素性を明かさない謎のコスプレイヤーYUKAとは一体何者だ。KATOという老舗有名化粧品会社の戦略に、マスコミ各社から本社に取材の申し出があったと聞いて、身バレしないように情報発信には気をつけなければと改めて自分に言い聞かせた。
 それだけならまだしも、私がフォローしている兄と十和子さんのアカウントをフォローしたりと、私の周辺を嗅ぎまわる動きを見せ始めたことで、これは大変なことになるのではと震えあがった。けれど、こうなることを予想して、この頃にはすでに二人ともアカウントに鍵をかけていた。
 元々二人とは別の通話アプリでも繋がっているから、フォローをやめても特に問題はない。
 三人で話し合った末、兄と十和子さんは私をフォローしているアカウント自体を削除した。
 後日、別名義で再度アカウントを作り直してフォローしてくれたけれど、これ以上迷惑を掛けられなくて私からはフォローしなかった。
 父は、KATOの仕事は私がやると決めたことだから最後まで責任を持ちなさいと、えて何も言われなかったけれど、内心はかなり心配していたことだろう。
 このことがきっかけなのかどうかはわからないけれど、この頃から兄と十和子さんの仲は少しずつおかしくなっていった。
 それまでに小さなすれ違いもあったのかもしれない。詳しいことは私も聞いていないし口を挟むつもりもないけれど、私が大学を卒業した頃には、二人は円満に付き合いを解消したと十和子さんから報告を受けた。
 この件について兄からは何も聞かされてはいないけど、兄が私のお見合い話を何だかんだと理由をつけて片っ端から邪魔していたのは、十和子さんと別れたことで、再びシスコンモードになったからだと思う。
 それにこの頃は私も結婚なんてまだ先の話だと思っていたから、兄の行動に感謝していたけれど、それを言葉に出していない。
 両親も、兄の前でこの手の話題はまずいと察したのか、しばらくの間、恋愛やお見合いといった色恋が絡むワードは禁句となった。
 父からのお見合い攻撃が落ち着いた頃に、十和子さんからは私も恋をすれば新たな魅力が引き出されるから合コンをしようとか、いつものように弟を紹介したいと言われるようになった。
 のらりくらりとかわすこと数年、再びのお見合い話だ。

「尚人くんに優花の釣書を渡さなきゃならないから、今日帰ったら用意しなさい。写真は成人式のものでいいだろう。他の写真は特別に用意する必要はないから」

 父が言う『他の写真』というのは、YUKAの写真のことだろう。
 尚人くんは、私がYUKAだということを知っているのだろうか。もし知らなかったら、知った時にどのような反応をするだろう。そして私のコスプレのことをどう思うだろう……
 父と一緒に病院を出ると、まっすぐ自宅へと向かった。
 父が経営する病院なので、自宅は病院の敷地内にある。
 昔から緊急搬送される救急車のサイレンの音を聞いて育った私は、その音を聞いて父が家を出て病院に向かう姿を尊敬の眼差しで見ていた。
 小さい頃、父は私のヒーローだった。
 患者さんの怪我や病気を治して、その患者さんが元気な姿で退院していく姿を遠目から見ていて、とても誇らしい気持ちになったものだ。
 父は内科を専門としていたけれど、小児科も時々診察で受け持っており、尚人くんはそんな父の患者さんの一人だった。



   第二章 初恋の相手


 尚人くんこと佐々木ささき尚人は、私より二歳年上で、当時父の病院に入退院を繰り返していた。
 私が尚人くんと話をするきっかけになったあの出来事はいつのことだっただろう。
 たしか、私が小学校に上がる直前の春休みで、私の六歳の誕生日だ。
 この時、尚人くんは体調を崩して入院していた。
 季節の変わり目で喘息の発作が出たのだ。
 あの日は早咲きの河津桜がつぼみを膨らませて、春の訪れを今かと心待ちにしていた。
 私は親戚の結婚式に着ていくドレスに袖を通し、結婚式の日を指折り数えて待っていた。素敵なお洋服を着ると、気分も上がる。お洒落する心に年齢なんて関係ない。私はそのドレス姿をみんなに見てもらいたくて、こっそり家を抜け出すと、父の病院へと向かった。
 病院の敷地内に自宅があり、夜間や緊急時、医師の数が足りない時や担当医が間に合いそうにない時は父が駆けつけるのだ。
 自宅から病院へは夜間通用口が最短距離の場所にあり、父も緊急時はここから病院内に入って行く。
 夜間通用口は、二十四時間警備員さんが守衛室に勤務している。

「あれ、優花ちゃん?」

 私に声を掛けてくれた警備員さんは、顔なじみの松田まつださんという父よりも年配のおじさんだ。
 自宅の庭先や病院の敷地内で遊ぶ私に、いつも気軽に声を掛けてくれるうちに親しくなった。

「こんにちは、お父さんはいますか?」

 幼稚園児の私を、あからさまに子ども扱いしない松田さんのことが大好きだった。

「こんにちは。今日は素敵なお洋服を着てるんだね」
「うん、来週親戚のお姉ちゃんの結婚式でフラワーガールっていうのをやるんだっ。だからこれ着ていくの」

 フラワーガールとは、バージンロードに花びらを撒きながら花嫁を先導する女の子のことである。
 欧米の風習で、バージンロードを清める役割と言われている。可愛い服はもちろんのこと、初めての大役を任されたことが嬉しくて仕方なかった。

「フラワーガール? それはすごいね。そのお洋服、優花ちゃんによく似合ってるよ。院長は、多分院長室にいるんじゃないかな? ちょっと内線で確認してみるね」
「ううん、大丈夫。直接お部屋に行ってみる」

 電話の受話器を手に、内線番号をダイヤルしそうになる松田さんを私は止めた。

「え、あっ、優花ちゃん!」

 松田さんの忠告をスルーして、私はそのまま病院の中に入った。
 廊下で立ち止まる私の後ろ姿に松田さんはすぐに追いついたはいいけれど……

「院長室って……どこ?」

 私のつぶやきを聞いて思わず吹き出している。

「え、まさか優花ちゃん、方向音痴?」
「違うもんっ、ここから病院の中に入ったことないから場所がわからないの」

 本館一階の外来にはよく出入りしていたけれど、正面玄関以外から建物の中に入ったことがなかったのだ。
 それこそ体調を崩した時に父が在宅時は自宅で診察してくれたりするけれど、基本的にはみんなと同じで、お薬を処方する時や予防接種などは病院の小児科でお世話になっている。
 この夜間通用口が病院内のどこに繋がっているかすら知らないし、診察の部屋が描かれている案内図を見たところで幼稚園児の私に漢字なんて読めないのだから、迷子になる確率は非常に高い。

「わかった、ここでちょっと待っていて。院長が今、どこにいるかを確認したら、私がそこまで連れて行ってあげるよ」
「本当? ありがとう。じゃあここで待ってるね」

 松田さんが守衛室に戻り、内線で父の所在を確認してくれている間、私は廊下に設置されているベンチに座って、壁に掛けられている絵画を見つめていた。
 それは誰が描いたかはわからないけれど、満開の桜が咲き誇る春のワンシーンを切り取ったとても素敵な絵で、病院の敷地内に植樹されているソメイヨシノを思わせるものだった。

「お待たせ。院長、今、入院病棟にある特別室の患者さんのところにいるって。優花ちゃんと年の近い男の子が入院してるから、良かったら優花ちゃん、そっちに来てほしいって院長が言われてるんだけど、どうする?」

 特別室という言葉に、私は興味が湧いた。入院病棟なんてもちろん足を踏み入れたこともないけれど、両親が時々家の中でも話題にする特別室というお部屋に一度入ってみたいと思っていたのだ。

「行ってもいいの? 行ってみたい!」
「わかった。じゃあ一緒に行こうか」

 松田さんに連れられて、私はこの日初めて入院病棟の最上階、特別室があるフロアに足を踏み入れた。
 エレベーターから出ると、テレビドラマで見るような病院の清楚なイメージとはかけ離れたゴージャスな装飾が目に入った。幼稚園児でも、ここは本当に病院なのかと目を疑うくらいにきらびやかなフロアだ。

「特別室は、この突き当たりだよ。私は仕事に戻るから、じゃあね」
「松田さん、ありがとう」

 松田さんは最上階に足を踏み入れることなく、そのまま一階まで下りていく。エレベーターの扉が閉まるまで、私は松田さんに手を振っていた。
 エレベーターが動き出したことを確認すると、私はたった今松田さんに教わった通り、突き当たりの部屋に向かって歩き始めた。
 特別室の入口に、名前のプレートは差し込まれていない。
 VIP待遇の患者さんだから個人情報を外部に漏らさないための措置なのだと、ある程度の年齢になれば理解できたけれど、この時は何一つ知らなかった。そもそもこの部屋を使う人はめったにいないため、看護師たちも誰が入院しているかは申し送りで情報を共有しているから、名前を掲げる必要がない。
 ドアの前で中に入っていいのか悩んでいると、突然ドアが開いた。

「優花、待ってたよ。さあ、お入り」

 父に促されて入ったこの特別室は、テレビでよく見るような病室のイメージとはかけ離れている。
 まるでホテルの一室のような広さと、空調の管理はもちろんのこと、ベッドだけでなくなぜか応接セットまで用意されており、極めつけは大画面のテレビまで設置されていたのだ。
 当時兄と同じ部屋で過ごしていた私は、その部屋の広さに思わず声が出てしまうくらいに感動したのを覚えている。

「優花、この子は尚人くんだ。尚人くん、この子はうちの娘で優花。四月から小学校に入学するから、尚人くんの二つ年下になるかな? 優花、尚人くんとこの部屋でおとなしく遊べるかい?」

 父の言葉に、この部屋に父以外の人がいるということに初めて意識が向き、部屋をぐるっと見渡すと……窓辺に置かれたベッドの上で、吸入器を口につけて蒸気を体内に取り入れている男の子の姿が目に映った。

「尚人くんは喘息の発作があるから外に出られないんだけど、もう少ししたら吸入が終わるから、お絵かきしたりゲームをしたり、とにかく静かに遊べるかい?」

 こんな広くて綺麗なお部屋で遊べるなんて夢みたいだ。父の言葉にワクワクした私は二つ返事で答える。

「うん、いいよ。優花も今日の格好でお転婆したら、お母さんに叱られちゃう」
「はは、そうだな。せっかく可愛い格好してるのに、汚したら大目玉食らうぞ」

 父はそう言うと、私たちのお目付け役にと看護師で手の空いている人を呼び、仕事に戻ると言って部屋を後にした。

「尚人くん、何して遊ぶ?」

 私は吸入中の尚人くんに声を掛けると、尚人は嬉しそうに微笑んだ。

「優花ちゃんは何がしたい? お洋服、よく似合ってるね。まるでお姫様みたいで可愛いよ。せっかくのお洋服を汚すといけないから、吸入が終わったら一緒にパズルやらない?」

 吸入マスクから、蒸気がシューシューと音を立てながら尚人くんの口元に吸い込まれている。
 その笑顔がとても優しくて、私はひと目でその笑顔が好きになった。

「うん、やりたい! パズルやろう」
「うん、いいよ。吸入終わるまでちょっと待ってね。それまでこのお部屋の中、自由に探検していていいよ」
「わあ、ありがとう!」

 私は尚人くんの言葉に甘えて、特別室の中を色々と物色し始めた。クローゼットはもちろんのこと、併設されているシャワールームや化粧室、なんとバルコニーまであるのだから、ここが病室であることを忘れてしまいそうだ。

「わあ、このお部屋から、優花のおうちが見える‼」

 ちょうど尚人くんが横になっているベッド付近に設置されている窓から、階下に見える我が家を見つけて私は思わず声をあげると、ちょうど吸入が終わり、吸入マスクを外した尚人くんが私の隣に並ぶ。

「優花ちゃんち、あれ?」
「そう! あの大きな木の隣に建ってる白いのが優花のおうちなの」
「そうなんだ……優花ちゃんはお父さんがお医者さんだし、病院は近いし、羨ましいな……」

 ポツリとつぶやく尚人くんは、年齢の割に小柄だった。
 私は早生まれなのに、幼稚園の中でも身長は後ろから数えたほうが早く、月齢から見れば大きい部類に入る。見た目だけなら、二人は同い年くらいといっても違和感はない。

「吸入器、ここに置くから優花ちゃん、コードに引っかからないよう足元に気をつけてね。えっと、パズル出すからちょっと待って」

 尚人くんはそう言ってベッドから下りた。ずっと室内で安静にと言われていたのだろう、尚人くんはパジャマ姿だ。このホテル張りの素敵な部屋でこの格好はさすがに浮いて見えるけれど、その姿と吸入器の存在で、ここが病室だという現実を思い知らされる。
 尚人くんは喘息で入院中とのことなので、医療器具はこれだけしか置かれていない。
 この頃は私も幼くて何も思わなかったけれど、重篤じゅうとくな患者さんがこの部屋に入院した時のことを考えると、えて広い部屋で医療器具を搬入、設置しやすいように設計されていると思えば納得がいく。
 私は邪魔にならないように応接セットのソファーに移動すると、置かれていたソファーに腰を下ろした。


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